『ロサ・カニーナ・アン・ブゥトン』シリーズ
【No:3318】【No:3330】【No:3362】【No:3385】【No:3405】【No:3425】【No:3442】【これ】【No:3494】
週明け、クラスの学園祭実行委員が壇上で呼びかけた。
「皆さま、現在興味のあるものを一つあげてください」
小さく切った紙が配られ、無記名でいいのでとにかく書けという。
何が目的かは知らないが、こういう場合乃梨子が真っ先に何を書くのかといえば『仏像』に決まっている。
提出すると、実行委員はそれを分別する。
「今皆さまに書いていただいたのは学園祭の展示の希望です」
そうならそうと早く言ってよ。
「ただ展示の希望を募ってもありきたりなものしか出ないだろうと思い、奇抜な方法をとらせていただいたのですが……山百合会や一部の生徒のプライバシーに関わることばかりでしたので、これは除外させていただきます」
クラスメイトの多くが乃梨子を一瞬見た後視線をそらす。
皆、山百合会関連を書いたのね。白薔薇のつぼみだけど、私は山百合会の窓口じゃないから。と心の中で突っ込んだ。
「それ以外で使えそうなものは……『仏像』ぐらいですかね。あと、こういう時にどうでもいいって書くのはやめてください」
皆、どれだけ山百合会のことを書いたんだ。結局残ったのは私のだけかっ、と乃梨子は心の中で重ねて突っ込みを入れた。
「ですが、リリアンで『仏像展』というのはいかがなものかしら?」
聖書朗読部の敦子さん(もしくは美幸さん、だっけ?)がやんわりと突っ込みを入れる。
「『仏像』ってよくわからないわ」
「『仏像』は駄目でしょう」
そういう言い方をされると仏像マニアとして黙ってはいられない。
「皆さんそう言いますが、仏像の何がわかってそう言うんですか。確かにリリアンはキリスト教で宗教の壁があるかもしれませんが、仏像の造形美は日本の伝統文化を代表するものです。伝統文化を学ぶことに宗教の制限はないでしょう。江戸時代の禁教令のころにはマリア観音も作られたんですから、仏像を否定しないでください」
しーん。
しまった、頭に血が上ってやっちゃった。
どうしてこう仏像が関わると見境なくなってしまうのか。
「乃梨子さんがそこまで言うのなら、なんとかやりましょう、仏像展」
え?
実行委員の言葉にクラス中から拍手が起こった。
瞳子が乃梨子の方を見て、口だけ動かして「馬鹿ね」と言った。
「では、仏像に並々ならぬ熱意を持つ乃梨子さんに具体案の企画をお願いします」
ああ、そう来たか。
それでもやめられない止まらない仏像マニアの己がいる。
成り行きで引き受け、ホームルーム終了と思ったら、闖入者があった。
「一年椿組の皆さんごきげんよう」
体育祭の赤チームのチーム団長と名乗る上級生が数名の上級生を引きつれてクラスを訪ねてきたのだ。
今一度整理しておくと、リリアンのクラスは松、菊、藤、椿、桃、李とあり、二年生だけ李の代わりに桜になっているが、体育祭でのチームは、松が緑チーム、以下、菊が黄、藤が紫、椿が赤、桃がピンク、李と桜が白と三学年合同の縦割りで編成される。
上下関係がうるさい学校なので皆真剣に話を聞く。
「今日は色別対抗リレーの選手についての話です」
団長さんの説明によると色別対抗リレーは各チームの各学年から二名ずつ、計六名が走る花形の種目で、得点も高く状況によっては一発逆転もあるという。
「我々赤チームは勝利のために万全を期して、体育の授業で行われた短距離走のタイムの上位二名を選手とすることに決定しました」
つまり、選手のご指名に来ましたってことらしい。
勝つためには当然の選択だが、このクラスは運動神経に自信のある人はほとんどいない体育祭では悲しい思いをしなくちゃいけないクラスなのだ……いや、乃梨子もそのドングリの背比べの一人なのだけど。
ところが乃梨子が忘れていただけで、一人だけ運動神経に優れていた生徒がいたのだ。気づいている生徒は頭を抱えだす。
「リストによるとこのクラスのトップは……細川可南子さんですね」
この瞬間クラスメイトは「よりによって可南子さん」という意味のため息を漏らした。
当の本人は憮然としていたが、面と向かって嫌とは言わなかった。そこまで我儘を通すつもりはないようだ。
もう一人をドングリの中から選んで団長さんが去っていったので皆掃除のために移動したり、教室担当の者は掃除を始める。
あらかた終わって日誌を書いていると瞳子がわめきだした。
「今日の放課後リレーの練習をするって言われていたのに、帰るですって!?」
見るまでもなく糾弾されているのは可南子さん。
最近の体育の授業は種目の説明を兼ねたリハーサルになっており、一年生の場合マスゲームの組体操は体育祭後に実技テストが行われることになっている。
さすがの可南子さんも授業で行われているものは練習に参加するが、任意練習には出たことがない。
お約束の瞳子の抗議、可南子さんのスルーが展開され、また逃げられた。
この分じゃ真面目に出たもう一人が来ない可南子さんの分も叱られてしまうかもしれない。真面目に出て叱られるだなんてお気の毒な話だ。
薔薇の館に着くと祐巳さま以外の皆さまがお揃いだったのだが、由乃さまがしかめっ面をしていた。
「今日は随分とご機嫌斜めですね」
小声で静先輩に尋ねる。
「色別対抗リレーの選手に選ばれたんですって」
乃梨子はピンとこないが、選ばれた由乃さまといえば心臓に持病を抱えていたため体育の授業に参加するようになったのは今年に入ってからで、運動に関することは何をやらせても推して知るべしというお方である。
こちらの話を聞こえないふりをして荒っぽくカップを置く様子からいって進んで立候補というより、何か止むに止まれぬ、というか引けずに引き受けたようだ。
「あら、色別対抗リレーなら私も出るわよ」
クスリ、と笑って黄薔薇さまはお茶を飲んでいるが、ピクリと由乃さまが肩を震わせる。
「黄薔薇さまも色別対抗リレーですか」
「いいじゃない、日頃クラスに貢献できない私たちはこういう時に積極的に貢献しないと」
乃梨子はこっそり聞いたつもりだったのに、黄薔薇さまったら大きな声で答えてくれちゃうから、由乃さまはピクピクと顔を引きつらせる。いつもの「令ちゃんのばか」が来るか。
「あら、黄薔薇さまも出るのね、色別対抗リレー」
静先輩が話に入ってきた。
「白薔薇さまも?」
「ええ。薔薇さまは多忙だなんて思われてるけど、リレーくらいお安い御用よ。部活も委員会も習い事もなければもっと貢献できるんでしょうけど」
今度は紅薔薇さまがピクリと反応した。
そういえば紅薔薇さまは山百合会に専念するため習い事をやめ、部活と委員会に入らなかったというお方でした。
「あら、出るだけ出ても足を引っ張るようじゃ貢献してるだなんて言えないのではなくって?」
予想通り紅薔薇さまが参戦してくる。
「貢献できたかどうかは終わってから言ってほしいわね。そういう紅薔薇さまは何に出るおつもり?」
「クラスの決定は明日の予定よ。そうね、色別対抗リレーは去年出たから今年もそのつもりでいるわ。緑チームは残念だけど選手層が薄いから何種目かに出ることになるでしょうけど。応援の方はもう練習しているわね」
じゃれ合いの延長で自分たちで勝手に競争して体育祭を盛り上げちゃってるだけなのだろうけど静先輩と紅薔薇さまは張合い続ける。
祐巳さまが現れたのでようやく仕事が始まった。
静先輩と紅薔薇さまは山百合会の仕事まで競いだしてしまい今日は早く終わる。本当に仲がいい二人だ。
その翌日、体操着を持って移動しようと思った時に見知った顔が尋ねてきた。
「たのもう」
「どうれ。……って、どうなさったんですか、祐巳さま」
一応のり突っ込みなどしてみたが、いつもの気さくな雰囲気とは違う紅薔薇のつぼみモードの締まった雰囲気をまとっている。
「細川可南子さんに用があって参りました。取り次いでくださらない」
「はい。少しお待ちを」
命じられた乃梨子はロッカーの前にいた可南子さんを捕まえた。
「紅薔薇のつぼみが可南子さんに用があるってお見えなの。お待たせしちゃ悪いでしょう」
こちらも白薔薇のつぼみモードで背の高い相手の腕を捕まえた。
ちょくちょく薔薇の館に出入りしてるからすんなりいくかと思ったのに、なぜか可南子さんは逃げようとする。
幸い味方してくれるようにクラスメイトたちが逃げ道を塞いでくれたので目的を果たす事が出来た。
あんなに祐巳さまにべったりだった人が逃げるとは思わなかった乃梨子は体育館に移動せず二人の様子を観察する。
祐巳さまは可南子さんが断っても強い口調で話を進め、放課後に二人きりで会うという約束を取り付けた。
「ここにいるみんなが証人だっていうこと、忘れないでね」
更衣室に移動せず推移を見守っていた全員がうんうんとうなずいてしまった。聞いていたのがバレバレだとしてもがうなずいちゃあマズイでしょう。
気にしない様子の祐巳さまが体育、がんばってね。と言い残して去っていくのを見送ってから、教室に残っていた全員がダッシュで更衣室に向かった。体育の授業前にバテ気味である。
放課後、祐巳さまは中抜けして可南子さんとの約束を果たしに向かう。
戻ってきてからの表情からはどんな話をしたのかはよくわからなかったが、可南子さんのことを切り出すような空気ではなかったので聞くのをやめた。
翌朝、乃梨子が早めに登校したのは可南子さんの事が気になったからではなく三人四脚という競技の練習のためである。
「ごきげんよう」
着替えて中庭の隅っこで固まって練習していると体操着姿の可南子さんが真っすぐこちらにやってきた。
何事かと皆首をかしげると可南子さんが呼び止めたのは練習に付き合ってくれていたリレーに出場するもう一人の選手だった。
「今日からリレーの練習にちゃんと参加するから、あっちで」
言われた本人はもちろん、周りで見ていた全員がポカンとした表情で可南子さんを見る。
「今から?」
聞き間違いじゃないかって顔で彼女が聞き返すと可南子さんは肯定する。
「上級生のお姉さま方がお待ちかねよ。サボるなんてことはさせないから」
練習サボったあなたがそれを言いますか。
何もできないまま彼女は連れていかれて中庭の向こうにいた集団と合流し、バトンの受け渡しの練習を始める。
「可南子さん、どういう風の吹きまわしなのかしら?」
一緒に練習しているクラスメイトがつぶやく。
「ほら、あれじゃない? 昨日の放課後祐巳さまに呼び出されてたじゃない」
「祐巳さまが注意してくださったのかしら」
「でも、祐巳さまは緑チームよ」
話しながら、クラスメイトたちのトーンが深刻なものに変わっていく。
「……まさかとは思うけど……ねえ」
「そ、それはないような気もするけれど……」
「あの、乃梨子さん」
「な、何?」
乃梨子は身構える。
「祐巳さまからどんなお話があったか聞いてない?」
「何も聞いてない」
「可南子さん、あれから薔薇の館に行ったりとかしてないの?」
「そんな事無かったけど」
「じゃあ、可南子さんが誰かの妹になったって話は聞いてない?」
誰かとしかクラスメイトは言っていないのに乃梨子の脳内でその誰かはしっかりと祐巳さまに自動変換されていた。
可南子さんに興味を持っていたし、昨日のことがあったし。可南子さんだって断るといっていたけどそんなこといざってなるとわからないわけだし。
そうなると辻褄が合ってくる。体育祭の練習にきちんと出るようにとお姉さまから命令されたなら従うしかない。
「後で聞いてみるから。今は練習に集中しよう」
クラスメイトにはそう言ったが乃梨子は気になって仕方なくなり、午前の授業が終わると同時に薔薇の館へ向かって祐巳さまを待った。
「祐巳さま、いったい何をなさったんですか?」
「祐巳さんが何をしたか、って。それこそ、いったい何なのよ?」
本人が来るなりいきなりいろいろ省いて詰問する口調で切り出したので由乃さまに厳しく突っ込まれてしまった。
「あの……祐巳さまは昨日の放課後、可南子さんと話をなさったんですよね?」
様子をうかがいながら乃梨子は質問する。
「したけど」
それがどうかした? なんて首をかしげるので、可南子さんが合同練習をさぼっていたことを伝えたうえで、中庭での赤チームのリレーの練習風景を見せた。
「あれは、どういうことなんですか?」
それをどう勘違いしたのか祐巳さまはどんどん話を脱線させていく。本当にわかってないのか、とぼけて煙に巻こうというのか。
根気よく相手をしていた由乃さまだったが、祐巳さまの脱線が止まらないのに痺れを切らした。
「そんなことより、可南子ちゃんと何があったの」
ズバッと本題を切り出すとすぐに答えが返ってきた。
「私はただ、体育祭で競争しようって言っただけよ」
「それだけ、ですか」
「そうよ」
個人で微々たる得点をゲットし、お互いの所属するチームの勝利に貢献するために頑張ろうという趣旨だという。
「なんだ、そうだったんですか。あの可南子さんが緑チームに勝ちたいというだけであんなに張り切るとは思わなかったので……祐巳さまは昨日とても目立つ行動をなさってましたし。てっきり……」
ほっとした。
そして、自分らしくないことを言うな、と思った。
他人の姉妹になるならないだなんてこと、いつからこんなに気にするようになったんだか。
「……つまり、可南子さんは祐巳さまの所属する緑チームに対抗心を燃やしているだけで、姉妹の話ではなかったと」
教室に戻るなりクラスメイト達に囲まれ、乃梨子は淡々と説明する。
なあんだ、という空気になって多くのクラスメイトが席に戻る中、じっと乃梨子を見つめる目があった。瞳子だった。
「何?」
「本当にそれだけなの?」
「祐巳さまはそう言ってたけど」
「……そう」
可南子さんが教室に戻ってきた。
リレーの練習に出るようになったので瞳子と衝突することはなかったけど、瞳子は瞳子で面白くないらしい。体育祭が始まるまで顔は笑顔なのに目がそう言っていた。
体育祭の当日。
朝から祐巳さまが可南子さんの様子をうかがいに来ていたが、可南子さんは朝練で不在。祐巳さまは戻ろうとしたところを瞳子に捕まえられる。
「お話が」
二人の間に何があったのかは知らないが、瞳子はブツブツ言いながら戻ってくる。
「何かあったの?」
「言いたいことを言わせてもらっただけよ」
ツン、とすまして瞳子は乃梨子に答えた。
「上級生相手によく言うね」
「誰が相手でも、言いたいことは言うわよ」
実に瞳子らしい。
本人はすまして演技をしているつもりなんだろうけど、体育館で祐巳さまの顔を見ると落ち着きがなくなって、動かさなくてもいい荷物をあっちに動かしたり、こっちに移動させたりしている。
「一年生、そろそろ行くわよ!」
「はいっ」
赤チームの団長さんに率いられ、入場、本番となった。
開会式の一通りの行事を終えると一年生の玉蹴り、二年生の玉逃げ、三年生の玉入れと続き、また一年生の出番でマスゲーム、そして応援合戦と個人種目は少ないが出番が続く。
椿の造花が配られてまずは赤チームから。
リズムに合わせて手拍子、掛け声に合わせて最後に造花を投げる。
緑チームは紅薔薇さまが応援団員として登場し凛々しい学ラン姿を披露する。クラスメイトの紅薔薇さまファンが熱い視線を送るが、今日は敵同士。じろりと赤チームの上級生に睨まれて縮こまる。
ピンク、白と続いて紫チームの番になると、静先輩が紫の衣装を着て中央に進み出るとチームで合唱。敵だとわかっていても別のチームから拍手が起こる。
ラストの黄色チームで登場した黄薔薇さまはド派手な衣装でサンバを踊っていた。宝塚の男役のような容姿で派手に踊りまわる姿に黄色い声が上がる。
お目当ての薔薇さまと同じチームになれれば堂々と声援を送れるが、そうではないとこっそりと横目で見るしかないのは上級生でも同じようだ。色別のチームというのも一日だけなのになかなか厄介である。
二年生の綱引きの後は一年生全員参加の棒引きが始まる。
三十本ほどの棒を自分のチームの陣地に運ぶ競技で、いざスタートするとバーゲンに突進する人みたいな迫力で同じ棒をつかみ合って引っ張り合いになっている。
乃梨子はさゆりさんたちと置いてきぼりの棒を発見し陣地に運んでゲットした。
『ややっ、これはどうしたことでしょう』
場内アナウンスに何事かと思って振り向くともの凄い気迫で棒をつかみ合っている二人の生徒がいる。
向かって右側にいるのが瞳子、向かって左側にいるのが可南子さん。同じチームなのだからどちらかに譲るか一緒に運べばいいのにバチバチと火花を散らして棒を握ったまま睨み合いを続ける。
こんなところでもめてる場合じゃないでしょうが。
ダッシュしてどっちでもいいから加勢して赤の陣地に――と思ったら乃梨子がつかんでしまったのは真ん中だった。
(ありゃりゃ)
ところがこれが走ってきた勢いがあったのと、両端の力の入れ具合がうまく作用したのとで乃梨子を中心に動いたのだ。
このまま止まったらもう動かないんじゃなかろうかと思ったのでそのまま一気に陣地に向かって突き進む。表面上は赤チームが三人なので敵は来ない。
陣地に入った瞬間に終了のピストルの音がして、セーフ。
「ふん!」
瞳子と可南子さんは同時にそっぽを向いて棒から手を離す。クラスメイトたちが乃梨子を囲んで健闘を讃えてくれた。
席に戻って、二年生のダンスや三年生のムカデ競走を応援する。
頑張ってはいるが、赤チームは緑チームと五位争いを繰り広げ現在最下位。祐巳さまはこうなることを見越して可南子さんと競争することにしたのだろうか。トップの黄色チームと大差がついてなんとなくチームの空気がゆるくなってきた。
「乃梨子さん、白薔薇さまが出るわよ」
赤チームの上級生が乃梨子に声をかけてくる。
次は前半戦のラストのクラブ対抗リレーで、予選を突破した合唱部のアンカーは静先輩である。
「お姉さまは紫チームですよ。応援していいんですか?」
「当たり前でしょう、これはチームに関係ないし。私は合唱部ではないけど、図書委員のご縁で応援させていただくわ」
微笑んでその上級生は乃梨子の隣に座る。
「あら、私は合唱部なんだから当然白薔薇さまを応援するわよ」
と他の上級生も加わったのをきっかけに、我も我もと白薔薇さま応援団ができあがる。
乃梨子も遠慮なく静先輩を応援することにした。
各チーム一斉にスタート。合唱部が有利のまま静先輩に楽譜で出来たバトンが渡った。
「白薔薇さまーっ!」
静先輩は色別対抗リレーに出場するくらいなので遅くはないのだが、隣のレーンの生徒も速くてぐんぐん迫ってくる。あの生徒は誰かと思ったら新聞部の三奈子さまだった。
「お姉さまーっ!」
向こうで三奈子さまの妹の真美さまが叫ぶ。こっちだって。
「お姉さまーっ!」
ほぼ同時に二人はゴールした。
どっちが勝ったんだと注目していると。
『ただいまの審議の結果、合唱部の方が先着となりました!』
三奈子さまは猛抗議をしているが、静先輩は合唱部員とともに引き揚げていく。
乃梨子と周りで応援していた白薔薇さま応援団は全員でハイタッチして喜びあった。
「乃梨子」
前半戦を終わってお弁当の時間になり、教室にお弁当を取りに行く途中で静先輩に呼び止められた。
「お姉さま。クラブ対抗リレー、おめでとうございます」
「ふふ、今年は絶対に雪辱してやろうと思ってたのよ」
勝ち誇った顔で静先輩はそう答える。
「新聞部ってそんなにすごいんですか?」
「三奈子さん、足を怪我するまで陸上部だったから彼女の力で二年連続新聞部が優勝してたわけ。今年はウチの方に足の速い子が入ったから狙ってたの」
勝ったせいか静先輩は大変ご機嫌だった。
「じゃあ、行きましょうか」
「あ、私はお弁当を教室に置いてきているので」
乃梨子が校舎に向かおうとすると、静先輩に手をつかんで止められた。
「こっちよ」
静先輩は乃梨子の手をつないだまま家族の応援席に向かう。
「あの」
「鈍い子ね。両親に紹介するに決まってるでしょう」
そうですか……へっ?
学校の先輩の両親に会うだけなのに何だか急にドキドキしてきた。
「静、頑張ってるわね」
優しそうに微笑んでいらっしゃるのは静先輩のお母さま、隣で早くも稲荷寿司を食べていたのがお父さまらしい。
「紹介するわ。この子が妹にした二条乃梨子よ」
静先輩は乃梨子の肩に手を置いて、ご両親の前へと出した。
「初めまして、ごきげんよう。先輩にはいつもお世話になっております」
丁寧にお辞儀をする。
「あら、夏の発表会の時にお花をくれた子じゃない」
小母さまがそう言うということはあの発表会の時に会場にいたということか。
「あの時はバタバタしていたから紹介できなくて。学園祭でもそうなりそうだから今がいいと思ったのよ」
なるほど。でも、それならそうともっと早く言ってくれても……いや、イタズラ好きだからビックリさせようと思っていたのかもしれない。
「おっ、さっきの棒引きの。静の妹だったのか」
小父さまがよろしくって手を差し出してきたが、稲荷寿司のせいで手が汚れていることに気づいて慌てておしぼりで手を拭く。
その後、歓談しながら稲荷寿司を一ついただく。とても美味しかった。
静先輩のご両親と別れ、お弁当は静先輩と一緒に中庭で食べて、お弁当箱を戻してグラウンドに向かうとフォークダンスの輪が出来ている。
「乃梨子は中学までは共学だったのよね。踊れる?」
「共学でしたけど、微妙なお年頃ですから恥ずかしがって手をつないでくれない男子も多いんですよ」
「そうではなくて」
踊りましょう、って誘ってくれていたのだった。
「あ、そういう意味ですか」
「どういう意味だと思ったのよ?」
ツン、と額を指でつつかれる。
その時祐巳さまが紅薔薇さまの手を引いて輪の中にかけていくのが見えた。
「乃梨子、あなたは祐巳ちゃんの次に祥子と踊ってらっしゃい。私は輪の反対側からスタートするわ」
そう言うと静先輩は輪の反対側に向かう。
急いで乃梨子は輪の中に飛び込み、言われた通り紅薔薇さまの手を取った。
「あら、乃梨子ちゃんも? 白薔薇さまは?」
前後に静先輩の姿がなかったので紅薔薇さまに聞かれた。
「輪の反対側からスタートするとおっしゃって」
輪の一番遠い向こう側で踊っている静先輩が見える。
「静らしいわね」
クスリと笑う紅薔薇さまとお別れし、次々とパートナーが変わっていく。
何人かと踊って予想外の相手が現れた。
「可南子さん」
何か問題でも? というように視線を送ってくる。
リレーの練習は積極的にやっているが、こういうところで皆と一緒に踊るとは思わなかった。でも、祐巳さまが踊っているから一緒に踊るのが目当てなのかもしれない。
ステップの感じからいって嫌々って感じはしないから、案外満喫しているのだろう。
次のパートナーは瞳子だった。
「乃梨子さんったら、さっきはオイシイ所取りするものだからパパとママにいろいろと言われちゃったじゃないのよ」
ため息までついちゃって、何を言う。
「瞳子が素直に手を離すか、一緒に運べばよかっただけでしょう」
「あれは……いいわ、もう」
「何が?」
瞳子には瞳子の事情があるという口ぶりだったが、踊っている間の短い時間では聞きだす事は出来なかった。
そうしている間に曲が終わってしまった。
静先輩と踊れなかったな、と思ったら次の曲が流れてきたので当然残って踊り続ける。
「やあ、乃梨子ちゃん」
微笑んで次のパートナーの黄薔薇さまが乃梨子の手を取る。
「面白そうなことしてるじゃない」
ちらりと黄薔薇さまが送った視線の先には静先輩がいた。もうちょっとで一緒に踊れそうだ。
「もうちょっとだね」
心の中を読まれたようにいいタイミングで黄薔薇さまに囁かれて乃梨子の顔がちょっと熱くなった。
続いてのパートナーは由乃さまだった。
「紅は一緒に踊ってスタート、白は反対側からスタート、私たちは並んでスタート。それぞれ性格が出たわね」
クスリと笑いながら由乃さまはそう言う。
「じゃあ、頑張って」
少しずつ静先輩との距離が縮まってくる。
気がつくとあと何人って数えていて、くるりと回る度に視界に入ってくる頃には曲が終わるんじゃないかって不安も感じるようになってくる。
そしてついに、静先輩がパートナーとして現れた。
さっきだって手をつないでいたのにドキドキする。ずっと同じ振り付けなのに身体がスムーズに動く。
フォークダンスってこんなに楽しいものだったっけ。
あっという間に終わってしまってパートナーチェンジと思ったら曲が終わってしまった。
「ギリギリでしたね」
「ええ。今日はギリギリが多いわ」
静先輩はゆっくりと手を離す。
別のチームなのだからそれぞれの控えスペースに戻るだけなんだけど、なぜだか無性に寂しく感じた。
午後の部が始まって、教職員リレーの後は袴競争となる。
この競技の出場資格は姉妹であること。二人で一つの袴に収まって競争するという。
『お呼び出しをいたします。三年松組小笠原祥子さん、二年松組福沢祐巳さん、三年菊組支倉令さん、二年松組島津由乃さん』
あれ、皆さま袴競争に出るって聞いていなかったけど、なんて思いながら放送を聞いていたら続いて呼ばれた。
『三年藤組蟹名静さん、一年椿組二条乃梨子さん。至急、トラックの内側までお越しください』
「ほら、乃梨子」
瞳子に立たされるようにして送り出され、それぞれの控えから出てきた皆さまと一緒に指定の場所に向かう。
『お呼び立てしてすみません。今年の袴競争にはぜひとも山百合会の幹部を、というリクエストが体育祭実行委員会にたくさん寄せられまして』
マイク片手に体育祭実行委員長が説明する。
「そういう話、私の耳には全然届いてなかったけど」
こう返す由乃さまは体育祭実行委員の一人である。
『皆さん奥ゆかしくて、参加されるご様子がないので、こういう形を取らせていただきました』
「こういう強引なやり方、不快だわ」
ムッとして紅薔薇さまが言う。
しかし、全校生徒は参加するものだと思って応援用の鳴り物を片手にはやし立てる。
「何もしないわけにはいきませんよ」
「このまま席に戻るのは無理だと思う」
祐巳さまと黄薔薇さまは仕方ないなって顔をしている。
「リクエストでもアンコールでも私は応えるわよ。自信がないならごめんなさいして戻ったら?」
「誰が、なんですって?」
静先輩はやる気満々だったらしく、紅薔薇さまを乗せて結局三組とも参加することになった。
適当な組に押し込まれ、スタンバイする。
「乃梨子、この瞬間だけは誰よりも早く走れると思って走りなさい。いいわね?」
「はいっ」
ドングリの背比べだけど、運動の方は大して自信はないけど、この瞬間だけは静先輩と同じぐらい早く走れるんだって何度も暗示をかけた。
飛び入り参加で練習してないから何度も突っかかりそうになったけど、花寺で白い櫓を目指して走っている時よりもずっと早く走っているはずだって思いながらゴールを目指す。直前で別の姉妹に抜かれて二位になった。
負けず嫌いなところがあるから、足を引っ張っちゃって機嫌を損ねちゃったかな、と思って静先輩の顔を見ると、さっき一緒に踊っていた時よりも嬉しそうな顔をして笑っていた。
午後の競技は個人種目や選抜メンバーの競技が多い。
乃梨子は練習してきた三人四脚でなんとか三位に食い込むものの、他の種目がパッとしないので赤チームは相変わらずの五位争いである。
これで一年生がなんとかできるのは瞳子の出る障害物競走と、可南子さんの出る色別対抗リレーだけになってしまった。
グラウンドでは三年生の扇の舞が始まる。
――パシャッ!
目の前で蔦子さまが写真を撮った。
行事の時に写真を撮るのは写真部の正当な活動だが、蔦子さまより精力的に撮影に励んでいる生徒はいない。
「あの、今こっちの方を撮りませんでしたか?」
乃梨子は突っ込みを入れる。
「撮ったけど」
ニコニコ笑いながら蔦子さまは答える。
「競技してるのは三年生なのに、どうしてこちらを撮るんですか?」
「白薔薇さまの写真がほしいの?」
「そうではなくて――」
「心配しなくても、さっきのフォークダンスは結構いいのが撮れたはずだから。後で学園祭の展示依頼も兼ねてあげるよ」
「ありがとうございます……って、ですから――」
――パシャッ!
今度はグラウンドにレンズを向けて撮影した。
あの方向って――
「白薔薇さまのショット、本人の許可があったらいくらでもあげる。まあ、乃梨子ちゃんなら白薔薇さまも断らないと思うけど」
「からかわないでくださいよ」
「からかってなんかいないけど。だって、静さまはイタリアに行くんでしょう?」
はっと乃梨子は息を飲んだ。
さっき感じた寂しさの正体はこれだ。
静先輩はあと半年で卒業してイタリアに行ってしまう。
今は手をつなぐのも抱きしめてもらう事もその気になって頼めばいつだってできると思う。
でも、半年たったら否応なしに二人は別れてしまう。
始めっからわかっていたはずのことなのに。イタリアに行くってことも夏休みには聞いていた事なのに。現実の事として受け止められなかった。
気がついたら静先輩のことを目で追うようになっていて、今だってあんなに離れていても見間違う事無く見つけられるぐらいなのに。あと半年たったら、こんなにいろいろあったことを写真で思い出すぐらいしかできなくなっちゃうんだ。
かといって乃梨子は静先輩のイタリア行きに不満があるわけではない。むしろ、イタリアに行ってプロの声楽家になるという静先輩の夢を応援したいと思っている。そしてプロになった静先輩の歌をできるだけ多くの人に聞いてもらいたいと思っている。
どうしようもないことだってわかっている、頭ではわかっているのに乃梨子の心は寂しくて仕方かなかった。
祐巳さまの借り物競争が終わり、次は瞳子の障害物競走である。
瞳子が障害物競走に出ることになったのは大縄跳びのメンバー入りを希望しながらジャンケンの壁を破れなかったからである。
ピストルの合図で猛ダッシュ、梯子くぐりもバットをおでこにあてて回って平均台も無難にクリアしたが、ゴール前のネットにご自慢の縦ロールが引っ掛かった。
必死で縦ロールを外そうともがけばもがくほど絡まってしまい、本人は半狂乱になってネットと格闘するが、傍から見るとこれがおかしくてたまらない。
クラスメイトたちも笑っちゃいけないと始めは我慢していたが、上級生のお姉さま方が笑うものだから、クスクスと笑みがこぼれ、ついに大爆笑になってしまった。
ビリでゴールした時には縦ロールは無残に伸び、本人は屈辱感たっぷりの顔を真っ赤にしていた。
棒引きに続いてとは今日の笑いの神はよほど瞳子を気に入ったと見える。
「陰謀よ! あのネットを抑えていた委員は瞳子が一位になるのを恐れていたのよっ!」
陰謀ってだいたい気のせいだから。
一通り悪態をつき、瞳子は髪を直すために校舎の方へと戻っていった。
三年生の着せ替えリレーが始まるが、次の色別対抗リレーに出る山百合会の面々は出場しない。
可南子さんが控えの後ろの方で念入りにウォーミングアップをしている。かなり本格的、というか過去に何らかのスポーツをやっていたようだ。集団に関わるのは得意ではなさそうだから陸上でもやっていたのだろうか。あれだけの高さがあるならバレーかバスケに向いていそうだけど、部活に入っているとは聞いていない。
そうしているうちに着せ替えリレーが終わり、瞳子も戻ってきた。
「オーラスの色別対抗リレー応援、よろしくお願いしますっ!」
赤チームの団長さんが前に出て声を張り上げる。
この競技は山百合会の幹部が多く参加する。
第一走者に黄薔薇さま、第二走者に静先輩と由乃さま、第五走者に紅薔薇さま……。
「あれ?」
何と赤チームの第六走者可南子さんの横に祐巳さまの姿があった。あの場所にいるって事はアンカーのはずだが、祐巳さまがリレーに出るという話は聞いてはいない。
「緑チーム、さっきアンカー予定の選手が怪我して運ばれたそうよ」
髪を直しに往復している間に仕入れたのだろう、ボソッと瞳子が教えてくれた。
――パアーン!
ピストルが鳴り一斉にスタート。
トップ黄薔薇さまへの声援が大きい。
第二走者にバトンタッチ。静先輩は運動部の選手に交じって好位置をキープ、一方由乃さまは……武士の情け。見えてない、見えてませんよ。
我らが赤チームは練習の成果が出てじわりじわりと四位に上昇。そのまま第五走者へバトンパスと思ったら。
「きゃあっ!」
なんとバトンを落とすというミス!
ビリの緑チームの紅薔薇さまが華麗に抜き去り赤チームがビリに落ちる。
緑チームの紅薔薇姉妹のバトン受け渡しに歓声が上がる。
「可南子さーん!」
こうなると赤チームはアンカー頼み。
日頃のいろいろなんて忘れて全員で可南子さんに悲鳴のような声援を送る。
可南子さんはアンカーになるだけあって速かった。祐巳さまはバトンの受け渡しこそ息のあったところを見せたが所詮代役。あっという間に可南子さんが抜き去ってゴール。
わーっと声援をあげて大はしゃぎして、赤チームは勝ったような騒ぎになった。
ゴール地点に色別対抗リレーに出場した山百合会の皆さまが集まっていくのが見えた。
静先輩と紅薔薇さまが笑顔で何か言い合っている。
その横で祐巳さまと由乃さまがじゃれ合っている。
勝ち誇る黄薔薇さまに静先輩や紅薔薇さまが何か言って、そこに祐巳さまと由乃さまが加わっていき、五人で笑っている。
寂しい。
リレーに出られる乃梨子ではなかったが、外から山百合会のことを見て、また寂しくなってしまった。
三年生の薔薇さま方が卒業し、祐巳さまと由乃さまとその妹たちがいる薔薇の館。
乃梨子が山百合会との関わりを断ってしまった世界の一端を見た気がした。
でも、それが嫌だってだけで生徒会長に立候補するなんてことは考えられない。
仮に立候補しても、一年生の乃梨子が選ばれるのかどうなのか。
二年生にもっと相応しい人がいて、その人が立候補したらどうなるのか。
「どうかしたの?」
考え事をしていたら瞳子が乃梨子の顔を覗き込んでいた。
「なんでもない」
なんでもないことはないが、うまく説明できないことなのでとりあえずそう答えた。
体育祭の得点というのは微々たるものの積み重ねで、一発逆転の色別対抗リレーでビリにならなかったらといって総合得点に影響しない場合もある。
リレーのミスが響いて赤チームは最下位になってしまったが、最後のリレーで盛り上がったので誰も負けたなんて思ってはいなかった。
翌週の始め。
「あの、お話が」
祐巳さまは可南子さんを正式に学園祭の助っ人とすることを申し出た。
人手不足だったこともあり、薔薇さま方は了承、水曜日から来てもらうことになったのだが。
「まあ、祐巳さま。人手が足りないならまず瞳子に声をかけてくださればよろしいのにぃ」
なぜかそこに瞳子がいた。
ちらりと祐巳さまがこちらを見るが、私じゃありませんよ、と乃梨子は首を振っておく。
演劇部は大丈夫なのかって何度も念を押されて、瞳子も助っ人として参加することになった。
体育祭の棒引きの時に睨み合っていた二人。あの時はたまたまうまく収まったけど大丈夫なんだろうかと不安を覚えた。
「じゃあ、可南子ちゃん、これをお願いね。瞳子ちゃん、それから――」
杞憂に終わった。
祐巳さまは瞳子を梅雨の頃に連れてきた要領で二人に上手く指示を出し、もめるような余地を与えない。
二人もここで争ってもリリアンの頂点の薔薇さまを敵に回すだけと心得ていて大人しく仕事に集中している。
可南子さんは何をやらせても手早く、瞳子は細かいところに気を配るのがうまい。助っ人の一年生とは思えないほどの仕事ぶりで薔薇さま方からの評判もよかった。
「来週は二年生が修学旅行だから薔薇の館の仕事は休みにするわ」
「それぞれやることもあるでしょう。気を使わなくていいから」
祐巳さまと由乃さまだけではなく、各部の部長や主力も修学旅行に行ってしまうのだから仕事にならないという理由で一年生は休みをもらった。
休みといっても授業はあるし、クラスの展示の準備もある。
あの後、乃梨子は普通に仏像展をやるのは厳しかろうと仏教とキリスト教の比較展示の一環として仏像を取り上げるという企画を出し、ホームルームで議論した結果『他教のそら似』というタイトルで採用が決まった。
体育祭の後のちょっと盛り上がっていた時期に決めたから、来てくれたお客さんに数珠とロザリオを合体させたようなブレスレット数珠リオをプレゼントするということになって、そういうことは各種活動がお休みの二年生の修学旅行中にやってしまいましょうということになった。
可南子さんはまたサボるのかと思っていたら今回はちゃんと教室の片隅で数珠リオを作っている。山百合会のお手伝いという立場がそうさせるのか、それとも何か心境の変化があったのかはわからない。
トイレに行って、戻ってくるところでクラスメイトの百さんが乃梨子を呼び止めた。
「あの」
「何?」
「瞳子さんと可南子さん、一緒に山百合会のお手伝いしてるって本当?」
「うん」
「仲が悪そうだけど、大丈夫なの?」
「大丈夫。ああ見えてやるべきことはきっちりやるし」
「そっか」
納得して歩きだした百さんを乃梨子は見送った。
百さんは可南子さんとは違って愛想はいいのだが群れないタイプで、また、山百合会の噂を根掘り葉掘り聞いてくる知りたがり屋さんでもない。珍しいな、なんて思っていたら乃梨子の視線に気づいたらしく百さんが振り向いた。
「何?」
「いや、なんていうか……百さんって、そういうことに無関心だと思ってたから」
「それを言うなら、乃梨子さんだって」
そう言われるとその通り。
教室に戻って数珠リオを作っていると百さんが乃梨子のところにやってきた。
「ここ、空いてる?」
「うん」
隣の席で百さんは数珠リオを作り始めた。
百さんは先程噂好きのクラスメイトたちにお姉さまができたかできないかって話で随分追求されていたのだ。
先程まで百さんを追及していた生徒たちは相変わらず手より口の方が動いている。
黙々と百さんは作業しているのだが、時折手を止めてぼんやりと何かを考えている。そして、はっと気づいたように作業を再開する。
「何か悩んでるの?」
「ううん、悩んでるってわけじゃなくって。何だか調子が出なくって」
ポツリポツリと百さんは話し始めた。
小さい頃にお父さんがなくなって母子家庭だったこと、今年の夏にお母さんが再婚して一気に大家族になったこと、よく一緒に見かける上級生が身内になったこと。など。
「ええと、その方は大叔母さまになるんだ」
「だ、駄目だって。それはNGなの」
乃梨子の言葉に百さんは慌てた。
「でも、その方は若いんでしょう。うちの大叔母は本当に祖父の妹だから、結構な年だもん」
お返しに乃梨子は菫子さんの話をしてやった。
「……で、どうして調子が出ないの?」
脱線から戻って、百さんに話を促す。
「あ、うん。その環さまが今修学旅行でイタリアに行ってて。短い間だけどいつもいる人がいないと調子が狂っちゃって」
「イタリア……」
今、乃梨子はイタリアという言葉に敏感になっていて、つい反応してしまった。
「どうしたの?」
今度は百さんが聞いてくる。
「あ、うん……私のお姉さま、リリアンを卒業したらイタリアに留学する予定になってるんだ」
「すごい、さすが白薔薇さまだね」
感心したように百さんが相槌を打つ。
「うん。あれだけの才能があって、本人もそれが夢で、チャンスがあるなら行って当然だと思うし、私だって応援してるんだけど、なんていうか……」
「寂しい?」
言い当てられて、どきんとした。
静かに百さんが話しだす。
「乃梨子さんとは違うかもしれないけど。私ね、母が再婚を決めた直後、よく変な発作が起こって倒れたの」
そういえば、夏に百さんが倒れたことがあったっけ。
「その頃、言われたことがあって。いろんなため込んでることを表に出すのはいけない事じゃないって」
「ため込んでる?」
乃梨子は聞き返す。
「寂しい、とか、ずっと側にいて、とか、大好き、とか」
大好き。
一見クールで嫌味で、根に持つタイプだけど、お茶目でイタズラ好きで、本当は優しくて、心に響く歌を歌う静先輩の事がいつの間にか大好きになっていた。
「それで私、母に甘えてみたんだ。そしたら発作がなくなって……あ、参考にならなかったかな?」
乃梨子の様子を見て百さんはトーンダウンする。
「ううん。ありがとう。とても参考になった」
「乃梨子さん!?」
思わず手を握ると百さんが照れてしまう。
「あ、ごめん」
「ううん」
お近づきになれて嬉しい、なんて百さんは言っていたがそれは乃梨子の台詞だ。
大好きな静先輩と一緒にいられるのはあと半年で、その残された時間をただ過ごすだけじゃなく、いろんなことに使わないと。
かけてあるロザリオを制服越しにギュッと握った。
数珠リオ作りを終え、図書館に向かった。
不在の二年生に代わって静先輩がカウンターにいる。
「どうしたの、乃梨子」
「あの……今日は一緒に帰ることはできませんか?」
「イタリア語を教わっているシスターは修学旅行のスタッフとして同行されてるから、今日はいいわよ」
「ありがとうございます」
「普段はそんなこと言わないのに、何かあったの?」
心配そうに静先輩は聞く。
「妹がお姉さまに甘えちゃいけませんか?」
「え」
驚く静先輩に見つめ返されて、顔が赤くなってくる。
百さんの話を参考に甘えてみようと思ったのだが、普段そんなキャラじゃないので気味悪がられてしまったようだ。
「あ、いえ。その。我儘言ってすみません」
「何言ってるの」
いいに決まってるでしょ、って言いながら、静先輩は乃梨子の額をツンとついた。
そんなことで心が少し満たされるのは単純なんだなって、思ったが今日は甘えることにした。
【No:3494】へ続く