「ふぅ」
割り当てられた書類が一区切りつき、テーブルから、何とはなしに窓を見る。
どんよりと曇った空。どこの運動部かわからないがかけ声が小さく聞こえる。
そんな風景を見ながら小さくため息をつく。
バレンタインイベントも終わり、薔薇の館は静けさを取り戻している。今は祥子さまと二人きり。3年生はすでにほとんど顔を見せないし、黄薔薇姉妹は家の用事でとかですでに帰宅していて、祐巳さんは祥子さまの指示で新聞部までお使いに出ている。
祥子さまがかりかりとペンを走らせる音、パラリと紙をめくる音、そして時計の秒を刻む音だけが、館のサロンの中に響く。
そんな音を聞きながら、私はお姉さまのことに想いをはせる。
もうそこに三月が迫っている。時間というのは止めることができない。それはどうにもならない事実で。
三月になればお姉さまが卒業してしまう。そう考えただけで、涙がこぼれそうになってしまう。バレンタインイベントが終わって余裕が出てきて考える時間が増えてしまったのも理由なのかもしれない。
こんな事じゃいけない。そんなことは自分でもわかっている。でも、お姉さまがいなくなったリリアンで私はやっていけるのだろうか。
生徒会選挙に立候補して、当選したのだからそんな弱音を吐いていてはいけない。そんなことは自分でもわかっている。でも、不安で押しつぶされそうになっている。
こんな事で大丈夫だろうかと、何時ものように思考の迷路に入り込む。それを寸前で、祥子さまが止めた。
「志摩子、立って」
「え!?」
目を開くと、祥子さまが私の横に来て立っていた。
「どうしたんですか?」
「いいから、立って。そして後ろを向いて」
「……はぁ」
よくわからない指示。祥子さまのことだから何かの意図があるのだとは思うのだけど、その意図が全く見えなかった。
私は言われるままに椅子から立ち上がり、祥子さまに背を向けた。
「これで良いですか?」
その言葉に返事は帰ってこなかった。その代わり、後からそっと抱きしめられた。
背中から伝わってくるクチナシのような甘い香り。とくんとくんと伝わってくる鼓動。
私はそれを温かく心地よいと感じた。
ただ、祥子さまがどうしてそういう事をするのかわからず、困惑はしていたが。
「……祥子さま?」
「志摩子は暴れないのね」
「え?」
最初言ってることがわからなかったが、すぐにその意味に思い当たった。
比較対象は祐巳さんだ。祐巳さんはお姉さまによく遊ばれているから。
「ご不満ですか?」
「ええ、ご不満よ。暴れてくれないと、白薔薇さまの気持ちがわからないじゃない」
「ご期待に添えませんですみません。でも、心地よいと感じているのに、それを無理に振り払う必要もないですから」
「なによ、私は別に志摩子に心地良いと思ってもらうために、こんなことしてるんじゃないんですからね」
そう言いながらも、祥子さまは私を抱きしめるのをやめなかった。裏腹なことを言いつつも、不安定な私のことを気遣ってくれているからなのかもしれない。
「そうですね」
そう言いながら、私は抱きしめられている手にそっと自分の手を添えた。
二人きりの薔薇の館に沈黙が訪れる。その沈黙は堅く気まずいものではなく、心地の良い沈黙だった。
しばらく間二人はそのままその沈黙を楽しんでいた。
「志摩子と姉妹になってる。そんな未来もあったのかもしれないわね」
沈黙を破ったのは祥子さまがぽつりと漏らしたその言葉だった。
「……そうですね」
私はその言葉に、しばらく迷ってそう答えた。
「嘘おっしゃい。私を振ったとき即答だったくせに」
「……そうですね」
私はやっぱり迷って、同じ言葉を繰り返した。
「即答で断られて、かなり傷ついたんだから」
「嘘ですね」
「そこだけ即答するなのはどうなのよ。まあ、正しいけど。あそこで志摩子が『はい』と言っていたら、それこそ動揺したわ」
「そうですね」
その言葉に思わず微笑みを浮かべる。
祥子さまも見えないけれど微笑みを浮かべているのが何となくわかった。
祥子さまが私に姉妹の申し込みをしたとき、祥子さまは私を姉妹にするつもりはこれっぽっちも無いのだと感じられたのだ。
祥子さまは私を特に求めているわけではないし、私も祥子さまを特に求めているわけでもない。私が求めいているのは佐藤聖ただ一人だけだと。
二人ともあの時、目を合わせた瞬間、お互いにそれを理解していた。だからこそ、どうして祥子さまがそんなことを言うのかわからなかった。
何となくわかったのは、これが儀式であることだけ。
それが何のための儀式なのかは、その最中にはさっぱりわからなかった。
その儀式の理由。それは、祥子さまが教室に戻られた後、お姉さまがやってきたことで理解した。
あの儀式は、佐藤聖の背中を押すための儀式だったのだと。
「祥子さまは優しいですね」
気がつくと私の口からそんな言葉がこぼれていた。
「別に志摩子に優しくしているつもりはないんだけど」
その言葉を聞いて、以前令さま何祥子さまのことについて話していたときのことを思い出した。
令さまは言っていた。
「祥子はすごく優しいんだ。ただ、祥子はその手の表現が苦手で、だから、つきあいが浅い人は祥子の優しさがわからないんだ」と。
今まで気がつけなかったけれど、今も、あの時もただの下級生である私を気遣ってくれている。
それが嬉しかった。そして何より、この空間を捨ててしまうのはもったいない。そう考えている自分がいた。
だからこそ、祥子さまに対してささやかなお礼をしたいとも。
「祥子さま」
「なに?」
「祥子さまは、私が暴れないからお姉さまの気持ちがわからないと言いましたが、私は抱きしめられている祐巳さんの気持ちがわかる気がします」
「そう? 参考までに教えてくれると嬉しいわ」
「誰かに抱きしめられるのは心地よいです。ここが自分の居場所ではないかと錯覚してしまうくらい」
「……そ、そう?」
たぶん想定していかなかった言葉なのだろう。少しびっくりしたような祥子さまの返答。
「でも、その一方で、やっぱり思うんです。お姉さまに抱きしめられた方が、もっと、もっと心地良いだろうなと。だから、私ではなくて祐巳さんを抱きしめてあげてください。祐巳さんもそう思うでしょう?」
最後の言葉を私はビスケット扉の向こうに投げかけた。
「え? 祐巳?」
祥子さまはびっくりしながら私を解放し、ビスケット扉を見つめる。
しばらく、薔薇の館のサロンに静寂が満ちた後、キィーという小さい音を立てて、ビスケット扉が開いた。
そこには申し訳なさそうな顔で立っている祐巳さん。
「えっと、あの、戻ってきたら、なんか、お姉さまと志摩子さんが、なんかいい雰囲気で……。で、お姉さまと志摩子さんが二人で話しているのが気になって、その……あの、でも、別に盗みぎきするつもりはなくてですね」
「……祐巳」
ばつの悪そうな顔を浮かべる紅薔薇姉妹を横目に、私は速やかに帰る支度を調え、扉のほうへ歩き出す。
「申し訳ないですけど、急な用事ができましたので、今日はこれで失礼しますね」
そう言って、ビスケット扉の前で突っ立ったままの祐巳さんをサロンに押し込めると、ビスケット扉を閉めた。
その帰り際、祐巳さんに一言呟いて。
翌日の朝。祐巳さんはある意味気味が悪いくらいとろけていた。どういう意味かというと、数分おきにでれでれとした笑みを浮かべていたのだ。きっと昨日のことを思い出しているに違いない。
祐巳さんがとろけていると言うことは、私が祐巳さんに呟いた言葉を祥子さまにきちんと言ってくれたという事だ。
私の言葉が祥子さまと祐巳さんのスキンシップの切っ掛けになったのならば、それは嬉しいことだ。そのことはきっと、祥子さまへのお礼に繋がるから。
そんな幸せそうな祐巳さんを見て、私は次の休み時間にお姉さまに会いに行くこと決意した。
そして、祐巳さんに言った言葉を私も言うのだ。お姉さまに。
「背中から抱きしめてくださいって」