放課後の薔薇の館で、私は紅茶を飲みながら内心困っていた。
今日の最後の授業が終わってから30分はたっているというのに、部屋の中には私と志摩子さまの二人だけしかいなかった。
別に志摩子さまと二人きりなのが気まずいとかそういうことはない。
ただ問題なのは……なぜかこの広いテーブルに志摩子さまと二人隣り合って座っているということだった。
「あの……ちょっと近すぎなのではないでしょうか?」
「あら、瞳子ちゃんは私に隣に座られるのはイヤ?」
志摩子さまがこちらを見て微笑む。
志摩子さまは意外と意地悪だ。
私が隣に座っていることを問題にしているのではないことをわかっているのにそんなことを言う。
志摩子さまが隣に座っているのが嫌なんじゃない。その距離が問題なのに。
すでに二人の間には手が入るくらいの隙間しかなく、ただ隣に座っているというよりも寄り添うようにという方が今の状況を正確に言い表していた。
これは流石にまずいのではないのかなと思うのだけれど、志摩子さまの微笑んだ顔を見ると嫌とは言えなかった。
「いえ、嫌ではないですけど……」
「なら構わないわね」
そう言って志摩子さまは、ティーカップを口元に持って行き、紅茶を一口飲んだ。
こころなしか志摩子さまとの距離がさらに近づいた気がした。
志摩子さまがティーカップをテーブルの上に置く。
二人の間の隙間はもうあるのかないのかわからないくらいに狭くなっていた。
それにしても、お姉さまと乃梨子はどうしたのだろうか。
黄薔薇姉妹が来ないのは部活動だからわかるけれど、部活や委員会に入っていない二人がまだ来ていないというのはおかしいと思う。
「お姉さまと乃梨子、遅いですね」
「せっかく今は二人きりなのに、他の人が来ないのを心配するなんて。意外と無粋なのね瞳子ちゃんは」
志摩子さまの言葉に驚いて、今の二人の距離も忘れて思わず志摩子さまのほうを向いてしまう。
視界いっぱいに志摩子さまの横顔が映った。
志摩子さまは驚くようなことを言ったにも関わらず、クスクスと笑っていた。
「じょ、冗談でもそんなことは言わないでください! 誰かに聞かれでもしたら――」
「冗談じゃなくて、本当のことだからいいのよ。私は瞳子ちゃんと二人きりがいいの」
「なっ!?」
志摩子さまの言葉に顔が赤くなる。
あまりの恥ずかしさに志摩子さまの顔を見ていられず、顔を反対側に向けた。
志摩子さまはふふっと笑いながら、体を少し私の方に倒した。
志摩子さまが私に寄りかかるかたちになり、その重みを少し感じた。
触れ合っている腕や肩から志摩子さまのぬくもりが伝わってくる。
心臓の鼓動がどんどん大きくなり、その音が志摩子さまにも聞こえている気がした。
二人とも一言も話さず、そのままの姿勢でただ時間だけが過ぎていく。
それをなんとなく心地よく感じていると、突然志摩子さまは姿勢を正して私に寄りかかるのをやめた。
志摩子さまが離れた瞬間、私は少し寂しいと感じた。
「どうかしましたか?」
不思議に思い志摩子さまの方に顔を向けると、志摩子さまは少し考えるような顔をした後、こちらを向いて言った。
「……いえ、なんでもないわ。ねえ、瞳子ちゃん。明日一緒に映画を観に行かない?」
「え?」
いきなりの話に、思わず聞き返してしまった。
「この前祐巳さんと話していた瞳子ちゃんの気になる映画、確か今週から公開でしょう。それを明日二人で観に行きましょう」
「……いいですよ」
顔には出さなかったけれど、内心驚いた。
確かにお姉さまと映画の話をしたときには、志摩子さまも同じ部屋にいた。
志摩子さまがその時何をしていたのかは覚えていないけれど、私たちの会話に参加していなかったのは確かだ。
それなのにお姉さまとの会話の中で私が映画を観に行きたいと言ったことを聞いて覚えているとは思いもしなかった。
映画に誘われたこと自体嬉しいと思ったが、志摩子さまが私の観たい映画を覚えていたということも私は嬉しかった。
「よかった。それじゃあ、明日の10時に映画館で待ち合わせましょう。映画が始まるのが10時半だから、それで十分間に合うと思うし」
「はい、わかりました」
映画の開始時刻を知っているということは、志摩子さまは前から私と映画を観に行こうと思っていたのだろうか。
そう思うと、胸の内からあたたかいなにかが溢れてくるみたいだった。
「さてと……、まだ二人きりで過ごせそうね」
そう言って志摩子さまは、ゆっくりとした動作でまた私に寄りかかってきた。
「今日はずっとこうしていましょうか」
「……仕事はやらなくてもよろしいんですか?」
「特に急いでやらなければいけない仕事はないわ。大丈夫。私はもちろん、乃梨子も祐巳さんも来週はきっと張り切って仕事をすると思うから」
「はぁ」
志摩子さまの言葉がよく理解できず、気のない返事をしてしまった。
なぜだかわからないけど、志摩子さまはお姉さまと乃梨子が今日はもう来ないと思っているみたいだった。
志摩子さまがそう思うのならそうなのかもしれないと、私もなんとなく今日は二人は来ないのだと思い始める。
それならこのままでもいいかなと思い、寄りかかってきている志摩子さまの方に頭を少し傾けた。
ビスケット型の扉の外側で、祐巳と乃梨子は少し開いたドアの隙間から部屋の中を覗き込んでいた。
「……なんだか、邪魔しちゃ悪いみたいだね」
「そうみたいですね。一応お姉さまには30分くらい祐巳さまとミルクホールにでも行っていてと言われたのですけれど」
「あ〜、きっと時が過ぎるのも忘れて、というところなんだろうね。しょうがない。急いでやらなきゃいけない仕事もないし、今日のところは帰ろうか」
「そうですね」
そうして祐巳と乃梨子の二人は静かに扉を閉め、部屋の中の二人に気付かれないように薔薇の館を後にした。
その後マリア様にお祈りをして、校門までの並木道を二人は歩いていた。
(志摩子さんは瞳子と上手くやっていたみたいだし、私も祐巳さまと――)
そんなことを乃梨子が思っていると、祐巳が突然思い出したように、そういえば、と前置きをして言った。
「明日は瞳子を誘って駅前でウィンドウショッピングでもしようかなと思ってたんだけど……ねえ、乃梨子ちゃん、余った者どうしで明日デートしない?」
「いいですよ! あ、駅前ならこの前おいしいパエリアのお店を見つけたので、お昼はそこに食べにいきませんか?」
祐巳の思わぬ提案に喜びを隠し切れず、少しテンションの上がった声で乃梨子は言った。
(今日は祐巳さまと一緒にミルクホールで過ごせたし、明日は祐巳さまとデートだなんて。これは志摩子さんにお礼を言わないと)
心の中で姉に感謝しながら、明日の予定を祐巳と相談する乃梨子だった。
祐巳と乃梨子が校門を出てからだいぶ経ち、志摩子と瞳子が校門を出てから少し経った頃、部活動が終わった由乃と菜々が二人並んで校門までの並木道を歩いていた。
「お姉さま、明日のデート忘れてないですよね?」
「もちろん忘れてないわよ。今週公開の映画を観に行くんでしょ?」
「はい。それでお昼なんですけど乃梨子さまに美味しいパエリアのお店を教えて貰ったので、そこにいきませんか?」
「いいわよ。それじゃあ、10時に映画館でね」