これは以前掲載したお話を別視点から描いたものです。
先にこちら↓をお読みいただかないと、理解しづらい迷惑な代物です。
『祐巳side』
【No:2557】→【No:2605】→【No:2616】→【No:2818】→【No:2947】→【No:2966】→【No:3130】→【No:3138】→【No:3149】→【No:3172】(了)
『祥子side』別名:濃い口Ver.
【No:3475】→【No:3483】→【No:3486】→これ。
「昨夜、令さんから電話があったの」
「……」
「祥子さんのこと、ずいぶん心配してくれていたわ」
「……」
車内での重苦しい空気に耐えられないのか、さっきから母が私に話しかけてきている。
けれど母の言葉を私は意味のあるものとして認識していない。
私の気持ちはどこにも向いていなかった。
車窓から空が見える。
以前は空なんてあまり見なかった。けれど今はよく見る。
いや、空が勝手に私の視界に入ってくるのだ。
窓の外を見ようとする時も、誰かの顔を見ようとする時も、いつもいつも空がある……。
見たくて見ているわけではなかった。
病院に着いた。
伏し目がちな松井の手によってドアが開けられる。
彼に視線を向けることなく、私は病院の入り口へと歩きだした。
自動ドアのところに子どもが立っている。
幼稚舎か、初等部に通っているくらいの子どもだ。
険のある顔で私の行く手をさえぎっている。……愛らしさの欠片もない。
私は構わず歩みを進めた。
やがてその子どもは私の目の前で真っ二つになった。
自動ドアが開いたのだ。
目障りな子どもは、自動ドアに映った私自身の姿だった。
家に戻ると、いつものように自室にこもった。
部屋の中は綺麗に片付いている。出かける前の惨状が嘘のようだ。
まったくご苦労なことだ。毎日毎日うんざりしているだろうに。癇癪持ちのお嬢さまの尻拭いなんて。
苛立った私は手近にあったティッシュボックスを掴み、放り投げた。
けれど木製のティッシュボックスは今の私には重く、すぐ傍にごろんと転がっただけだった。
頭にきた私はもっと軽くて投げやすそうな物を探した。
室内を見回す私の目に、写真立てが飛び込んできた。
途端に、暴力的な怒りがしぼんでいく。
その写真立ては、本来の用途を無視した置き方をされていた。
机の上にそっと伏せられている。飾った写真が見えないように。
そうしたのは私だ。
見えないように。見られないように。
あの写真は、今のこんな私が見てはいけないものだ。
あの写真に、今のこんな私を見られるわけにはいかないのだ。
けれど私はその写真立てに触れてしまう。
中に飾られた写真を見てしまう。
そこには祐巳がいた。
祐巳と、在りし日の私がいた。
今となっては考えられないくらい穏やかな顔をした私が、恥ずかしそうにしている祐巳のタイを直してあげている。
……私は何をしているのだろう。
やけになって。物にあたって。
こんな人間が祐巳の姉に相応しいわけがないじゃないか。
――逢いたい。
強烈な衝動に駆られた。
祐巳の姿を見てしまったから、祐巳のことを考えてしまったから。
写真の上に雫が落ちる。私はそれを拭い、写真立てを元のように伏せた。
「逢えるわけないじゃない……こんな姿で……っ!」
私はベッドに顔を押し付けて泣いた。
どれくらいの時間が経っただろう。
私は泣き疲れて、ベッドに寄りかかったままぼんやりしていた。
扉をノックする音が聞こえる。
私がいる間、ここには誰も近づかないよう、きつく言ってある。
だからたぶんノックの主は母だろう。
「祥子さん、私よ。入るわね」
やはり母だった。
まだ返事もしていないのに扉を開けようとしている。
「入ってこないでください」
心配してくれているのは分かっているが、もう私のことは放っておいてほしかった。
開きかけた扉から戸惑う気配が伝わってくる。
早く扉を閉めてほしい。
もう私は誰にも会いたくないんです。
もう私はここから出たくないんです。
あの子に逢えないのなら、もう私は――
「お姉さま……」
……祐巳? いや、そんなまさか。
とうとう幻聴まで聞こえるようになってしまったのだろうか私は。
「あのね、祥子さん。祐巳ちゃんが来てくれたの。ここ、開けてもいいでしょう?」
祐巳がいる……そこに……?
……嫌だ。見られたくない。
こんな姿を祐巳に曝すわけにはいかない。
早く扉を閉めなければ。
そう思うのに、私の身体は動かない。
扉を閉ざす為に走ることも、身を隠す為に這いつくばることもしなかった。できなかった。
だって、祐巳がいるのだもの。
あの扉の向こうに祐巳が、あの子がいるのだから。
無力な私はただ、虚勢を張るしかなかった。
「お母さま。どうして祐巳を呼んだのですかっ。私は一人でも平気なのにっ」
平気なわけがない。
もう限界だということは私自身が一番よく分かっている。
「祥子さん、そんな……せっかく祐巳ちゃんが来てくれたのに……」
ごめんなさい。ごめんなさい。
でも、今ここで祐巳に縋ってしまったら、もう私は自力では立ち上がることができないのです。
それは祐巳にとってどれだけの負担になるだろう。
それは私がこの世から消えた後、どれだけの傷へと変じるだろう。
世界で一番大切な人の心を抉って逝く――。
私はそれが恐ろしいのです。
「私がいったいいつ、そんな事を頼んだというんです! 勝手なまねしないでいただきたいわ!」
――気付けば私は抱きしめられていた。
祐巳が私を抱きしめていた。
やめて。
お願いだからやめてちょうだい。
けれどその思いが私の口から出ることはない。
私はただ、柔らかく温かな祐巳に抱かれていた。
「私は清子小母さまに呼ばれたから来たのではありません。私が祥子さまに会いたかったから、だから来たんです」
「……祐巳」
お願いやめて。
そんなことを言われたら私は自分を抑えられなくなる。
求めて、縋って、寄りかかって、そして最後にはあなたに大きな傷を残して私は消えるだろう。
誰よりも笑っていてほしいのに。
顔を合わそうとする祐巳から私は目を逸らした。
そんなふうに見ないでほしい。
本気でそう思った私はワガママだろうか。
「祥子さま。私、最近とても怖い夢を見るんです」
いったい何の話をしているのだろう?
つい逸らしていた視線を戻すと、ひどく真面目な顔をした祐巳と目が合った。
祐巳は両手で私の手を包み込むと言った。
怖い夢を見るから一人で眠りたくないと。
私と一緒なら安心して眠れるだろうからそうしてほしいと。
それだけ言うと祐巳は黙ってしまった。
まるで告白の返事を待つ少年のような真摯な表情で、ただ私を見つめている。
まったく理解できない。
たとえば私が生き長らえたとして――、
この先ずっとずっと祐巳を見ていたとしても、きっと飽きるなんてことはないだろう。
なんだか恐怖を感じているのがバカらしくなってきた。
私には祐巳が必要で、祐巳も私を必要としてくれている。
なら、一緒にいればいい。
そう素直に思えた。
「仕方がないわね。じゃあ、私が一緒に寝てあげるわ」
頭を撫でてあげると祐巳は嬉しそうに笑ってくれた。
なんて可愛いんだろう。
大丈夫。この笑顔をなくさせはしない。……きっと。
――また夜がきた。
子どもの頃、夜が怖かった。
闇に何か得体の知れないモノが潜んでいるような気がして怖かった。
今は夜が恐ろしい。
夜ごと得体の知れないモノが私の命を削っていく。
明日の朝、私はこの足で立ち上がることができるだろうか。
……この目を開けることができるだろうか。
子どもの頃、夜が怖かった。
『大丈夫だよ。良い子に眠っていれば、すぐに朝がくるからね』
そう言ってくれたのは父だっただろうか。もうよく憶えていない。
あの頃は明日がくることに疑いなんてなくて、いつだって眠りは優しかった。
今だって朝はすぐにやってくる。
ただ、あの頃のように恐怖を取り除いてはくれない。
代わりに絶望を運んでくるようになった。
私はあと何度、怯えながら夜を過ごさなければならないのだろう。
いや、あと何度、怯えながら夜を過ごすことができるのだろう。
けれど今日はいつもと違う。
ひとりぼっちじゃない。隣に祐巳がいる。
手を伸ばせば届く距離に祐巳がいてくれる。
祐巳の気配が、祐巳の寝息が、私の疲弊しきった心を癒やしてくれた。
……祐巳には可哀想なことをしてしまった。
本当は部屋を真っ暗にするのは嫌だったろうに。
祐巳は聡い子だから。私が暗くしたがっているのに気付いてそうしてくれたのだろう。
恐怖に引きつる顔を祐巳に見られたくない。
そんなワガママな理由で私は部屋を暗くした。
酷い姉だ。
もしも祐巳がうなされるようなことがあれば、すぐに起こしてあげようと思っていたのだけれど……、
暗くしてからすぐに聞こえ始めた可愛らしい寝息は、ずっと穏やかなままだった。
――良かった。
微笑んでいる自分に気が付いた。
あれだけ不機嫌にしていたのに現金なものだと、自分でも呆れる。
同時に、私にとって祐巳がどれだけ特別なのかも思い知った。
こんなふうに想われていると知ったら、祐巳はどう感じるだろう。
喜んでくれるだろうか……それとも、戸惑うだろうか……?
ふと、祐巳が小さな声で何か言った。
といっても言葉にもなっていないただの寝言だったのだけれど。
まるで赤ちゃんのようで、つい笑ってしまった。
……あぁ。いけない。
この感情は表に出すべきではない。
『太陽を抱きしめる愚か者は、跡形もなく燃え尽きる』
気持ちを落ち着かせる為に、いつもの言葉を反芻する。
私が灰になるのはいい。
ただ、その灰が太陽の光を遮るようなことがあってはならないのだ。
あってはならない……?
本当にそうだろうか……?
私は近いうちに消える。
太陽の照らす大地に私は存在しない。
ならばいっそ私が太陽の輝きを――
伸びていく手を、私は止めることができなかった。
こちらに向いて眠っている祐巳の胸もとにしがみつく。
祐巳の穏やかな寝息に変わりはない。
祐巳が呼吸する度に、触れている温かな身体から生命を感じられて、どうしようもなく愛おしかった。
今が永遠に続けばいい。
そう思った。
早く起きて邪な私を突き飛ばしてほしい。
そうも思った。
私は太陽が欲しい。ひとりじめにしたい。
大勢の中のひとりじゃ嫌だ。
私だけを照らしてほしい。抱きしめてほしい。
そして私を燃やし尽くして、その身に私がいた痕を残しつづけてほしかった。
……どうかしている。
今の私は普通ではない。
私は自分のことばかり考えている。
大切な人の都合も考えず、自分の欲望ばかりを押し付けようとしている。
迫り来る死に、本性が現れだしたのだろうか。
けれど私は、常軌を逸しつつある己を抑えるすべを知らない。
だから、早く起きて私を拒絶してほしい。
その愛らしい顔で、愛しい声で、私を遠ざけてほしかった。
もう二度と私が太陽に手を伸ばさないように。
――不意に、祐巳が私の頭に触れた。
優しい手が私の頭を撫でている。
もしかして寝ぼけているのだろうか。
祐巳は何も言わず、ただ私の頭を撫でつづけている。
泣けてきた。
べつに祐巳が私を受け入れてくれたというわけではないのに。
その手が優しくて、温かくて、私は涙を止められなかった。
夜が終わることへの恐怖を告白した私に、祐巳はずっと傍にいると約束してくれた。
もちろん祐巳への邪な気持ちについては黙っていた。
そんな狡猾で矮小な私に祐巳は、
「お姉さまからいただけるすべてが私の幸せなんです。喜びも哀しみも、苦しみや痛みだって、それがお姉さまのくれたものなら、私は幸せなんですよ?」
そんな言葉をくれた。
「……ねぇ、祐巳」
「なんですかお姉さま?」
「私が眠るまで、抱きしめていてくれる?」
「眠っている間もずっと抱きしめていますよ」
祐巳の温かな胸に頬を寄せると、そっと抱きしめてくれた。
「祐巳は温かいわね」
「お姉さまだって温かいですよ」
「そう。じゃあ、きっとよく眠れるわね」
「はい」
「おやすみなさい祐巳」
「おやすみなさいお姉さま」
――私は太陽を手に入れた。