【3597】 魂切り  (海風 2011-12-05 16:49:59)


【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】
【No:3171】【No:3174】【No:3177】【No:3183】【No:3187】
【No:3196】【No:3205】【No:3233】【No:3249】【No:3288】
【No:3327】【No:3380】【No:3397】【No:3443】【No:3464】【No:3498】【No:3501】 解説書【No:3505】
【No:3509】【No:3515】 【No:3538】【No:3541】【No:3589】【No:3593】から続いています。









 目覚めたばかりなのに、異様に強い者がいる。
 力量が多かったり、基礎能力が高かったり、単純に力が強いというタイプ――ではなく。
 目覚めたばかりなのに、自分の力の使い方を知っているタイプ、だ。
“創世(クリエイター)”使いは、感覚的に何をどうすればどうなるのか自然と理解できるようになる。
 勘が鋭いというか、感覚が優れているというか。
 もちろん才能に寄るところも多分にあるが、能力者は感覚というものを大事にする。それは自分の力の使い方を導くための灯火のようなものだからだ。

 目覚めたばかりなのに、異様に強い者がいる。
 それは、己の力を知り、己の力の使い方を知っている者、だ。

 圧倒的だった。
 時間にして1分経っていない。
 にも関わらず、

「――がはっ」

 紅薔薇の蕾・小笠原祥子は地に伏していた。
 血を吐き、ぼたぼたと床板を赤く染めていく。

 ――“鴉”はただ祥子を見下ろしていた。




 新聞部部長・築山三奈子は、いつものように部室に詰めていた。
 三奈子はリリアン最高の情報機関のトップにして、リリアンで知らぬ者はいないほどの諜報員である。ただし顔が割れているので、自らが動くことはほとんどない。
 この司令塔は動かない。
 いや、どっちかというと「動けない」と表現した方が正確かもしれないが。しかし、それで何の問題もなかった。
 必要なパーツは、全て優秀な部員達が拾い上げてくれる。
 三奈子は持ち込まれたパーツを組み立てて、リリアンの事象を作り上げることができる。そしてそこから導き出される先読みは、根拠がなくても信じるに値するほどの正確性を持する。
 考察力と推理力は非凡なものがあり、それこそが新聞部部長たる所以かもしれない。

 そんな三奈子は、歴代新聞部部長が座る席に落ち着き、遠くから聴こえる爆発音など気にも留めず、のんびり雑誌をめくっていた。
 ――「紅薔薇勢力が“契約書”を揃えた」という情報を聴いても眉一つ動かさず、このままである。

 雑誌のページをめくり、ポツリと呟く。

「ヒロイン全員ツンデレ、か……」

 天才となんとかは紙一重とはよく言ったものである。
 いろんな意味で。
 ふと、三奈子は顔を上げ、雑誌を閉じ、姿勢を正した。
 ――予想通り、客が来たからだ。
 程なくノックの音が訪れる。三奈子は用意しておいた「どうぞ」を口にし、来客の入室を許可した。
 だが、現れた人物には、さすがに驚いた。

「ごきげんよう、三奈子さん」
「おひさしぶり」
「……これはこれは、珍しい組み合わせで」

 やってきたのは紅薔薇・水野蓉子と、元白薔薇勢力隠密部隊隊長“宵闇の雨(レイン)”だった。

「偶然そこで会ったのよ」
「でも、用件は同じみたい」

 身振りで椅子を勧めた三奈子は、

「ではお二人とも、久保栞さんの一件で?」

 「なぜ」だの「どうして」だの問うまでもなく、いきなり核心に触れた。
 そう、三奈子は予想できていた。
 今朝の久保栞の報告をまとめると、どうしても、どう考えても、危険信号が鳴りやまない。いきなり現れた異能使いとして、全てが規格外すぎる。新聞部に代々伝わるブラックリスト内にも、類似、あるいは今朝の現象を可能とする異能はなかった。

「話が早いわね」
「さすが」

 有名な三年生、とりわけ蓉子に褒められて、三奈子は少しだけ照れた。――秘密だが、三奈子は山百合会のファンである。特に現三薔薇の。

「偶然会ったということは、お二人は違うアプローチから久保栞さんに迫り、その上で私を訪ねようと判断したんですね?」
「そう。特に紅薔薇の情報はすごいわよ」

 なるほど、三奈子は机の上で手を組んだ――鋭い瞳が上級生を射抜く。

「それでは一応形式なので。
 新聞部は公平な組織です。なので個人的な取引を禁じています。何があろうとそれが破られることはありません。以上のことから、わたくし新聞部部長の一存で、お二人の情報と取引の内容を公開する可能性があります。
 了承の上で私と取引をしますか?」

 蓉子と“宵闇の雨(レイン)”は同時に頷いた。

「では取引成立です。――まずは、お二人がどのような経緯から久保栞さんを危険視するに至ったのか、その根拠と推測をお聞かせください」

 最初は“宵闇の雨(レイン)”が口を開いた。
 前例のない、それも“冥界の歌姫”を越えるような精巧・精密な思念体を駆使する異能使いの存在そのものが、“宵闇の雨(レイン)”が三奈子に接触した理由である。

「勘の域は出ていないけれど、私は“冥界の歌姫”以上の思念体使いがいるということが信じられない。それだけで力量も素質も並外れて……いえ、もはや人間には不可能なのではないかと」

 新聞部総出でも“宵闇の雨(レイン)”一人に出し抜かれることがある、情報収拾の得意なリリアントップクラスの隠密の言葉である。膨大な情報から導き出された答えがそれであるのなら、たとえ信じがたいような仮説が付随しようと切り捨てる気にはなれない。

「最後はこれから検証するとして、私の推測も似たようなものです。――“レイン”さまもたぶん知っているとは思いますが、今朝の現象に近い異能と前例がまったくないんです。それに“冥界の歌姫”を越える思念体使いという点も引っかかる。あれは努力ではなく才能ですからね。力そのもの、強さそのものが越えているならともかく、能力として上回るなんて、それこそ万が一以上にありえないでしょう」

 三奈子の言葉が“宵闇の雨(レイン)”の勘を裏付けた。どうやら的外れな勘ではなかったようだ。彼女が言うならそれだけで根拠としてもいい。三奈子はそれくらいの凄腕である。

「紅薔薇は? どういった経緯で?」
「ついさっき直接会ったのよ。思念体の方だけれど」
「えっ」

 こちらの情報は、全てが衝撃的な内容だった。

「……それ、本当に人間業じゃないですね」

 何が衝撃的か、って、全てが信じがたい内容だった。情報をもたらしたのが紅薔薇じゃなければ幾分か疑ってしまったかもしれない。それぐらいありえない内容だった。

「その“49の思念体”というのも驚きましたが」

 三奈子は、蓉子が失念していたことを言った。

「紅薔薇を閉じ込めたという“結界使い”もいるということですね。つまり久保栞……いえ、“桜草”という人には仲間がいる、ということになるんでしょうか」
「あ」

 蓉子は言われて気付いた。
 そして、決断も早かった。

「“レイン”さん、白薔薇勢力が解散したって本当?」
「え? ええ。今朝、聖さんに思いっきりやられたけれど。で、そのまま解散」
「これからのことは?」
「まだ考えてないけれど……何? 組織関係にあると言いづらいことでもあるの?」

 その通りだ。――まあ、“宵闇の雨(レイン)”なら大丈夫だろう。情報を重要視するということは、情報の恐ろしさをも知っているということだ。軽はずみなことは言わないし、しない。三奈子にいたってはそれのスペシャリストで、何より公平という縛りを負う位置にある。

「――今リリアンで行われている争奪戦、つまり“契約書”絡みの話だけれど」

 恐らく、このピースがないと、パズルは完成しない。
 蓉子は語る。
 出来すぎだった華の名を語る者達の台頭の根拠と、その裏で何があったのかを。
“契約者”の存在を。

「道理で……」

 あの“竜胆”や“雪の下”や“鳴子百合”といった、不自然に強い力を持つ者が、次々現れるという現象に首を傾げまくっていた“宵闇の雨(レイン)”が、ようやく答えを得た。同時に今まで隠匿され、また今それを話したことにも納得した。

「ははあ……薄々そうなんじゃないかとは思っていましたが」
「気付いていたの?」
「いえ、そう考えるとしっくり来るな、と思っていたもので。第一その“瑠璃蝶草”さんって、私と同じクラスですし。実際それくらいできそうな力を持っていますし」

 ――実は、ただの推測ではなく、三奈子はわりと確信を持っていた。三奈子の“嘱託調査書(アンケート)”は、質疑応答で相手の情報を引き抜く。あるいは盗むと言ってもいい。そして相手はそのことに気付かない。
 新聞部でさえ知っている者は限られる三奈子の能力は、当然蓉子も“宵闇の雨(レイン)”も知らない。だからここで話すつもりはないが。

「その“契約書”とやらの力があれば、一人で何でもできるという可能性も考えられるわけですね」

 つまり“49の思念体”も“結界”も、それぞれの使い手がいるという従来の形ではなく、たった一人で行うことも考えられる、と。
 なるほど紅薔薇ほどの人が危機感を持つはずだ、と三奈子は思った。

「どう、三奈子さん? 何か推測は立たない? 特に正体に」
「……」

 三奈子は考えるが、すぐに結論を出した。

「放課後まで待ってください」
「時間が欲しいの? できればすぐにでも発見したいのだけれど。相手が動く前に」
「いや、情報が足りないんです。それに」
「それに?」
「――“桜草”を探せそうな能力を持つ部員がいるので、もしかしたら情報が上がってくるかも」

 部員というか、己の妹のことだが。

「その子は、自分の能力なら正体に辿り付けるかもしれないと考えるでしょうから。今頃探りに入っているかもしれません」
「放っておいていいの? 危険じゃない?」

 危険だ。三薔薇に張り付くくらい、いや、それ以上に危険かもしれない。
 相手はこれまでにないタイプの異能使いである。自分が捜索対象になることを予想し、罠を仕掛けて待っている可能性も充分ありえる。そして今後どう動くのかも気になる。

「お二人がここに来た理由に同意します」

 しかし、慎重な三奈子はGOサインを出した。

「早めに手を打たないと大変なことになると思います」

“思念体”とは、物理法則にない力の塊である。物理法則に従って動く大半以上のリリアンの子羊には、“49の思念体”を倒すことができないということになる。正体がわからない、使い手が判明していないのであれば、“思念体”は無敵だ。

「紅薔薇との接触の理由と敗北から考えると、この昼休み中に“桜草”が再び動くとは思えない。次の行動を考える時間が必要なはず。
 こちらが昼休み中に見つけられれば上出来ですが、時間的にも現状的にもさすがに厳しいものがある。
 だから、タイムリミットは今日の放課後一杯と見積もります。早ければ放課後からでしょうが、きっと明日から“桜草”は女帝目指して派手に動き出す。その一手目を確実に潰すために」

 ――危機感を持って当然である。
 要するに、今現在、一方的な殺戮が始まりかねない状況なのだから。

「もし放課後中に見つけられなかったら、明日から地獄が始まるかもしれません」

 だが、望みがないわけでもないのが救いだ。
 三奈子の妹――山口真美の“司るモノ(ビスケット)”は、きっと“桜草”を追跡できる。不安要素や不可解要素はかなり沢山あるが、とにかく正体を探さないと話が進まない。イニシアチブを独占させるわけにはいかない。

「とりあえず放課後まで時間ができたわけね。紅薔薇、これからどうするの?」
「“アレ”に対抗できる能力者に協力を仰いでみる」
「そうね。私も同じことを考えていたわ。――それで、三奈子さん」
「わかっている範囲の“桜草”の情報を公開して注意を呼びかけるべき、でしょうね。下手に手出しすれば怪我人が増えるだけですから」

 これで、今話せることは全てである。追加情報を待ちつつ、それぞれ“桜草”に対抗する手を考えねばならない。

「紅薔薇、“十架(クロス)”さまはまだ……?」
「無理そう。登校するだけで精一杯よ」
「そうですか……あの人が動ければ、今後の行動の幅が広がるんですけれど」
「――ねえ」

 それは、“宵闇の雨(レイン)”だからこそ考えられたことだったのかもしれない。
 場合と必要と状況によっては、敵とさえ取引して手を組んで動いてきた、裏でも動いてきた隠密だからこそ。

「さっき話に出た“瑠璃蝶草”さんなら、“十架(クロス)”の治療ができるんじゃない?」
「「あっ」」

 全ての法則を越える“契約”の力なら、きっとできる。できなくてもダメで元々、損はない。

「……“レイン”さん、悪いけれど」
「いいわよ。さすがに華の名を語る人には頼めないわよね、立場上」

 そう、だから蓉子には考えもつかなかった。山百合会にとって華の名を語る者は基本的に敵なのだ。
 今“瑠璃蝶草”の護衛には、“宵闇の雨(レイン)”の友人である“氷女”がついている。事情を知らない、しかも顔見知りでもなければ接触さえ許さないだろう――だから“宵闇の雨(レイン)”は自分が適任だと判断しただけだ。
 今となっては勢力間の垣根もない。やはり隠密は身軽が一番だ、と“宵闇の雨(レイン)”は思った。幹部になんてなるものじゃない。

「それと、もう一つ情報があるのだけれど」

 と、蓉子は左手を上げ、“女王を襲う左手(クイーン・レフト)”を発動した。不意の行動に三奈子と“宵闇の雨(レイン)”は警戒するも、左手の“茨”が徐々に変形していくのをじっと見詰めていた。
 瞬く間に“茨”に“蕾”が生まれ、一輪の“紅い薔薇”が花開いた。
 ――わかる。
 その“紅い薔薇”は、使用者である蓉子以上の力を帯びていることが、わかる。

「これが“桜草”さんの“思念体”から“削り”取った力の一部よ。あまり期待できないけれど、一応解析してみる?」
「それで一部?」
「ええ。私の許容範囲を大きく越えていたから、これだけ確保するのが精一杯だったわ」
「――お預かりします」

 蓉子自ら手折った“紅い薔薇”を、三奈子は受け取る――と、“薔薇”がほのかに光り輝いた。
 発光――久保栞の手足が光る強化能力が、そのまま投影されているのかもしれない。

「ちょっと失礼」

 三奈子は机の上にある手のひら大の黒い箱――“禁断の死角(パンドラボックス)”を開け、「帰還よろしく」と通達を出した。これが新聞部の通信機なのだ。もちろんそれだけのものではないが。

「ついでに現状報告よろしく。“契約書”周りに変化は?」

 ザザ、とアナログテレビで観たノイズ音が聴こえ、クリアな声が返ってきた。

「――紅薔薇の蕾の持っていた“契約書”を、“鴉”が奪いました」
「うそ!?」

“桜草”とは違う意味の衝撃的な情報だった。三奈子は思わず立ち上がる。

「“鴉”が動いたの!?」

 ただでさえ“桜草”問題が浮上している今、更に頭の痛くなる情報である。
 三勢力――今は白薔薇勢力がなくなったが、無所属最強“鴉”が参戦するということは、完全に三すくみの関係が崩れることを意味する。
 三すくみの方は、三奈子はあまり心配していなかった。というのも元白薔薇勢力総統“九頭竜”が、責任全てを丸投げするとは思えなかったからだ。近い内に三勢力に変わる何かを用立てるだろう、と予想していた――実際彼女は、総統職にあった頃とは打って変わって精力的に今動き回っている。何かしら始める予兆である。
 しかし、“鴉”が前線に立つのなら、話は別だ。

「――いえ、誰かの助っ人に過ぎないようです」
「……まあ、でしょうね」

 そうじゃないと困る。だがそれでも“鴉”が動いたことは問題だ。絶対に動かないだろうと皆が思っていたのに、まさか争奪戦に顔を出すだなんて予想外すぎる。
 果たして、次がないと誰が言えるのか。
 誰かの助っ人としてまた参戦するのではないか。
 ――そんな疑惑が浮かぶ。前例を作るとはそういうものである。
 無所属としては強すぎる“鴉”である。これで誰しもの頭の中にそれなりの警戒心と、交渉次第という期待の種を植えたに違いない。それこそ本気で争奪戦を勝ち抜きたいのであれば、手段を選ばず“鴉”を味方につけようという者も現れるだろう。

「行ったら?」

 考え込む三奈子から視線を移した“宵闇の雨(レイン)”は、今の報告を聞いて無表情になっている蓉子に言った。

「祥子さんが心配なんでしょ?」

 「奪われた」のであれば、きっと祥子は無傷ではない。姉として蓉子が心配しないわけがない。

「……いえ、そろそろあの子にも実績が必要だから」

 たとえ祥子が恥ずべきような敗北を喫したのでもいいし、盗られて逃げられたのでもいい。問題はそのあとの祥子の行動だ。後に汚名を雪ぐ気があるのなら、敗北にこそ価値は重い。
 半年しない間に自分は卒業するのだ――そんな現実を見るなら、そろそろ周囲に祥子の実力を見せ付けるのもいいだろう。なのに姉がでしゃばっては台無しだ。
 何より、祥子は強い。誰が相手でもそう簡単に負けはしない。それは蓉子が一番よく知っている。

「それより“レイン”さん、“十架(クロス)”さんの件をお願い。新しい温室の方に呼び出しておくから」
「了解。昼休み中になんとか復帰させておきたいものね」
「もしくは復帰できないことを確認はしておきたい。できないなら“十架(クロス)”さん抜きで対応するしかないわ」
「こういう特殊なケースでは大きいものね、彼女の存在」

 三人は動き出した。
“宵闇の雨(レイン)”は“瑠璃蝶草”を探しに。
 三奈子は妹からの報告を待ちつつ、“桜草”の喚起を呼びかける記事を作成し。
 蓉子は、戦線から離れている紅薔薇勢力突撃隊隊長“十架(クロス)”を訪ねて。

 近い内にリリアンを混沌に陥れるだろう事件を予期して。




 その頃から10分以上さかのぼった、一階のトイレにて。
 元白薔薇勢力総統“九頭竜”は、華の名を語る者“鳴子百合”と一緒にいた。

「で? なんか用?」

 ここまで“鳴子百合”を引っ張ってきたのは、“九頭竜”である。
 別に用足し目的で来たわけではないのは目覚めたばかりの“鳴子百合”にもわかっていたし、戦闘目的じゃないこともわかっていた。
 ――まあ、実力不相応は身に染みているものの、かつての三薔薇勢力総統“九頭竜”の実力を体感したいと思わなくはないが。
 ちなみにこの二人、顔見知り程度の仲である。小学部で何度か同じクラスになったが、その程度の縁しかない。

「時間も惜しいし、ストレートに言うわ」
「うん」
「――私はこれから新しい白薔薇勢力を立ち上げる。そのメンバーにあなたが欲しい」
「お……お?」

 予想もしていない突然の申し出だった。“鳴子百合”は露骨に戸惑いを顔に出し、意味不明なうめき声を漏らす。
 戸惑うのも当然である。
 つい先日まで未覚醒で、日影を選んでリリアンを過ごしてきた“鳴子百合”にとって、三勢力総統なんて山百合会同様に雲の上の存在に等しい。――今ならそれだけじゃないとわかるが、当時の“鳴子百合”にとって彼女らは完全な勝ち組で、羨ましくて妬ましくもある存在でしかなかった。
 なのにどうだ。
 今は「あなたが欲しい」とまで言われる。
 戸惑わずにはいられなかった。
 だが、同時に、腹の底に熱いものがたぎった――一度は捨てたが、しかしここ数日でまた憶えた怒りという感情だ。特に、今朝の久保栞の一件で、憤怒というものは完全に取り戻したと思っている。

「それは私が目覚めたからよね?」
「…? そうだけど」
「つまり逆に言うなら、目覚めていなければ絶対誘わないわよね?」
「……」

“九頭竜”にわかったのは、“鳴子百合”の言葉ではなく、彼女が怒っていることだけだ。何が言いたいのかなんてさっぱりわからない。

「本当にあなた達は勝手よね。いつも勝手に巻き込んで、役に立つとわかれば力を貸してほしいと言う。あなた達にとっては未覚醒者なんてただ邪魔なだけ。もしもの時は巻き込んでもしょうがないと言って自分の都合を優先する。――私はそういうのが許せなかった。ずっと」
「答えはNOね?」
「それが私の不満への回答?」
「私はその話をしたいとは思わない。第一――」

 思わず、といった感じで殴りかかってきた“鳴子百合”の拳を、“九頭竜”は簡単に止めた。

  バチッ

 途端、激しい雷撃が身体を貫く。

「――第一、目覚めている者は相応に痛い想いをしているわ」
「な、なんで…?」

 一撃必殺の“雷”をまともに食らって、なお“九頭竜”は平然としていた。まるで何もなかったかのように。変化といえば長い髪が静電気で少し逆立っているくらいだ。

「目覚めているというだけで反感を買い、強者に目を付けられ、下に付けと命じられる。ケースバイケースでしょう? こっちにもこっちの苦労がある。それに、私は一度も未覚醒者を巻き込んだことはない」
「…………」
「時間を取らせてごめんなさい。もういいわ」
「――待って」

 横を通りトイレを出ようとする“九頭竜”を、“鳴子百合”は袖を掴んで呼びかけた。
“九頭竜”の言葉は、“鳴子百合”が望むような答えではなかった。
 だが、今なら、“九頭竜”の言っていることが理解できた――そう、自分はすでに未覚醒者ではないから。
 今更謝られたって、きっとその価値はわからない。自分はもうそっちの立場になく、こっちの立場にいるのだから。

「……詳しい話を聞きたい。でもその前に一つ」
「何?」
「私、もう三年生なんだけど。もうすぐ卒業するのにいいの?」
「噂の“雷使い”が所属している。はっきり言って欲しいのはあなたの肩書きよ。――だってあなた、まだ弱いもの」

“九頭竜”は笑った。

「私に火傷一つ負わせられないなんて期待外。もっとできると思ったけれど」
「それは挑発してるってことね?」
「ただの事実。フルパワーでも結果は一緒よ。でも試さないでね」
「なんで? 別に平気ならいいじゃない」
「やるまでもないからよ。あなた、まだ“雷”を制御できていないもの。簡単に放出する方向を決めたり、身にまとって触れるという単純な使い方しかできないでしょう? まさかフルパワーで暴走でもして未覚醒者を巻き込むつもり?」

“鳴子百合”は「ぐぅ」と唸って袖を離した。――全て当たっている。フルパワーなんて特に制御できない。思い通りに放出できない。

「……それがわかっていても、それでも私が欲しいの?」
「それだけの素質があれば、私の元で一週間も鍛えればそこそこ強くなれると思う。それこそ三勢力幹部の足元くらいには行けるはずよ。みっちり一ヶ月やれば私を越える可能性さえある。それだけのポテンシャルがあることは認めるわ」
「……一ヶ月で?」
「試してみる? 交換条件で所属してもらうけれど」
「…………」
「…………」
「…………や、やめろっ! 言葉巧みに私を誘惑するな!」
「いや誘惑って」

 誰が誘惑なんて色気のある話をしている。魅力ある交換条件の提示こそ交渉、取引の基本ではないか。

「そもそも新しい白薔薇勢力って何? 今朝から白薔薇勢力が解散したって噂が飛び交っているけれど、それが原因なの?」
「まあね――」

“九頭竜”は、本当に何も知らないらしい“鳴子百合”に、一から丁寧に説明した。
 現状、白薔薇勢力の解散、白薔薇・佐藤聖の孤立と藤堂志摩子の安否、これからの自分達の意向、何より三勢力の三すくみの関係は必ず話しておくべきことである。

「早めに頭数だけでも揃えないと厄介なことになるのよ」
「そっか……なんか大変なことになってるんだね」
「間の抜けた台詞ね」
「しょうがないでしょ! 今までこっち方面に全然縁がなかったんだから!」

“鳴子百合”は相変わらず、何がわからないのかさえわからないのだ。何をすればいいのかは決められるが、それが失策である可能性は否めない。

「正直に言えば、指示を出してくれる人がいた方が、私はありがたいのよね。経験不足に知識不足を痛感してるから。自覚があってもすぐに埋められるわけじゃないし。闘うことに集中したってまだまだ弱いんだから、それ以外のことも考えるとか無理」
「知識と経験が足りない、か。そうね、特に経験はどうにもならない」
「――長々ごめんなさい。今あなたの時間が貴重なのはわかった。でもそれでもやっぱり所属はできない」

 心は傾いている。右も左もわからないようなルーキーに、わざわざ時間を割いて一から丁寧に説明してくれた“九頭竜”の誠意も理解できている。
 でも、やはりダメだった。
 自分の仕える者は、もうすでに決めている。
 たとえ心は揺れようと、芯の部分は動いていない。
 とてもじゃないが彼女以外に従う気にはなれなかった。

「そう。なら仕方ないわね」

 多少は怒るか一言二言文句でもあるかと思ったが、“九頭竜”はさっさと諦めた。「おいきみもうちょっと粘ろうよ」と言いたくなるくらいあっさりと。そんな簡単に勧誘するのやめるのかと。自分を欲しい気持ちはその程度かと。
 表情から読み取れたのか、“九頭竜”は少しだけ首を傾げた。

「あなたは断るかもしれない。最初からそう考えていたから。――だいたい華の名を語る者を三勢力に勧誘なんて、本当はそれこそ筋違いだから」

 山百合会に反感があるから、華の名を語る者が現れるのだ。三勢力のいずれかに所属するということは、その薔薇の下に入るということである。普通に考えて答えはNO以外ありえないのだ。
 ただ、“鳴子百合”ら華の名を語る者達は、頭が消えて手足だけが残っているような半端な状態である。だから交渉で揺さぶることはできる――“九頭竜”はそのことは知らないが、今朝の“竜胆”の勧誘の時に、話が通じることは確信した。だから今注目の者達に率先して声を掛けている。
 本命は“雪の下”だ。だが“竜胆”もこの“鳴子百合”も、できることなら確保したかった。まあ、あまり期待はしていなかったが。

「それにしてもうるさいわね」
「そうね。できる限り無視してたけど、そろそろ限界ね」

 ほぼ真上で爆発音が聴こえている。時折パラパラと天井のかけらが降ってくるくらい近くだ。

「じゃあ――」

 行くわ、と言いたかったが、“九頭竜”の言葉は最後まで続かなかった。

「おうっ!?」

 強引に“鳴子百合”を奥の方へ押し込み、更に自分も下がる。
 ――と、ついに天井が崩れた。

「…っ!」

 まるで流星のような速さで降りてきたのは“鍔鳴”だった。――さっき掲示板の前では「落とされた」が、今度は違う。自ら降りたのだ。
“九頭竜”に背を向けて音もなく着地し、まるで気付いていないかのように上を見る。

「うわっ!」

 声を上げたのは“鳴子百合”だ。
 そう、それは声も上げたくなるだろう。

 ――350ミリ缶ほどの数十を越えるミサイル群が、狂ったように火花を散らしながら降ってきたからだ。

“九頭竜”は舌打ちした。

「限度を弁えなさい」

 迎撃体制に入っている“鍔鳴”の背中を派手に蹴り飛ばす。彼女は廊下までノーバウンドで飛んでいき、窓ガラスまで割って外に飛んでいった。――見事な不意打ちである。
 そして、構える。
 右手で上顎、左手で下顎を模したその型は、“九頭竜”と闘ったことがあるものには見たことがあるものだ。

「――“風鱗”」

 風が鳴った。
 大気が渦巻き、“九頭竜”の長い髪を踊らせる。

 ストップモーションでも掛かったかのように、ミサイル群が止まった。
 風がうねるのがわかる。
 まるで生き物のようにうねっているのがわかる。
“鳴子百合”には、ミサイルを飲み込む姿無き“風竜”が見えたような気がした。

「“雷”! 早く!」
「あ、うん!」

 狙いがわかった。“風”の中で処理するつもりだ。
 飛ばした電撃で信管に誤作動を促し、ミサイルは空気を食んで弾けた。誘爆して次々とミサイルが処理されていく。
“風竜”は、音と爆風、爆熱さえも閉じ込めていた。
“鳴子百合”は「すごい」としか言えなかった、が――

「なんで邪魔するわけ?」

 穏やかにも聞こえる声に視線を上げた瞬間、これまでに感じたことのなかった衝撃に襲われた。

 ――怖い、と思った。強烈にそう思った。

 臨戦態勢に入って集中力も乗ってきた黄薔薇勢力総統“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”は、ざらつくような殺意を込めて“九頭竜”を見下ろしている――幸い“鳴子百合”は眼中にないようだ。
 しかし、それでも怖かった。
 絶対的な強者の貫禄というやつか、それともこれこそが子羊達が辿りつくという戦闘狂の姿なのか。ついさっき話していた相手と同一人物だなんて、とてもじゃないが思えなかった。

「外でやりなさいよ。“鍔鳴”さんも先に行って――」
「ちょっ、前!」

 その“鍔鳴”が、ものすごい速さで“九頭竜”に肉薄していた。先の一撃で“九頭竜”を敵と認識してしまったらしい。
 しかし“九頭竜”は見上げたままだ。
 まさか“鍔鳴”の接近に気付いていないのか――“鳴子百合”はそう思ったが、そんなことはない。今は無職だが、先日まで白薔薇勢力総統を務めていた者だ。

 斬られる。
 柄を締める右手が動――

  ゴッ

「いっ!?」

 攻撃体勢に入ると同時に、跳んできたドアノブが“鍔鳴”のこめかみを直撃した――その辺に転がっていた上の階の個室のものだ。

「だから」

 見向きもしないまま、“九頭竜”は今一度、よろめく“鍔鳴”を外へ蹴り飛ばした。

「場所を弁えなさいと言っているのよ」

 ドアノブは“九頭竜”が飛ばしたものだ。あとコンマ1秒も遅れていたら確実に斬られていただろう。
 カウンターである。
 それも極めて危険で困難な。
 ――総統レベルなら、これくらいできて当然だが。だから“九頭竜”は“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”から目を離さなかったし、“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”も仕掛けなかった。
 これがトップレベルである。
 間近で垣間見た三勢力総統の実力に、“鳴子百合”は目が離せない。

「やるの? 私達と」

“九頭竜”はどこまでも平常心そのものだ。上の最凶と向き合うには弱々しいとさえ思えるのに、どうしてこんなにも頼もしいのか――あれ?

「……え? 『わたしたち』?」

 まさかの展開である。言葉の意味を察した“鳴子百合”はひどく動揺した。

「もしかして私が頭数に入ってる!?」
「あなたアレのやり方に反感あるんでしょう?」

 今の“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”は、誰も彼をも無差別に巻き込む破壊の使者そのものである。

「い、いや、確かにあるけど、でもアレはちょっと……!」

 アレは三薔薇より弱いかもしれないが、三薔薇より確実に怖い。
 三薔薇は余裕があって、なんやかんや言ってもわりと手加減とかしてくれる。黄薔薇・鳥居江利子の時にちゃんと実感した。山百合会は無法集団などではない――だから敵対心が薄くやる気が起きないのだが、それは今はいい。
 でもアレはダメだ。アレは違う。アレはもう子羊じゃない。
 アレはただの凶暴にして獰猛な生物だ。察しの通り加減も知らない。加減を知っていれば校舎内で暴れたりなんかしない。

「気持ちはわかる。でも闘うことは力を持つ者の責任でもあるのよ。――あなたは未覚醒のリリアン生のために闘おうとは思わないの?」
「そんな言い方ずるい! 言葉巧みに退路を断って!」
「いやずるいって」

 力量も基礎能力も“九頭竜”を上回っている“鳴子百合”が言うセリフではないだろう。

「ねえ――」

“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”が動く。己の身体くらい巨大なガトリング砲を具現化し、回転式の十を越える銃口をまっすぐ“九頭竜”に向ける。

「やる気なのよね?」
「もう一度言うわよ――外でやりなさい」
「どこでやろうと私の勝手」
「――へえ?」

 その声は、“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”の耳元である。そして“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”が振り返る前に、ガトリング砲の引き金を握る手に触れていた。

「それは二年前の決着をつけたい、という意味かしら?」

 ――乱入してきたのは、元白薔薇勢力特務処理班長“神憑”だった。
 いいタイミングである。そろそろ来るだろうと“九頭竜”は思っていた。
 二年前、当時一年生同士だった“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”と“神憑”は、一戦交えている。そして決着がついていない。
“神憑”の意向もあるが、何より、“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”が二度と闘いたくないと思っているからだ。
 あの一戦のことを知る者は少ない。上級生はもういないし、同級生も見ていた者自体が少なかった。それに、知っている者はだいたい微妙な顔で多くを語らないのも特徴的である。

「……外でやる。触らないで」

“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”はものすごく嫌そうな顔をして、“神憑”から離れた。
 だが、嫌がらせのように“神憑”は一歩迫り、微笑みながら顔を近づける。

「別に遠慮しなくていいのよ? 決着がつかないなんてあなたも不本意でしょう?」
「だからいいって! 近くに寄るな!」

 ――“神憑”は強い。“神憑”と闘う場合は、巨大生物の体内にいるような不利で不安定で不可解で生物としての生理的嫌悪感を覚悟する必要がある。
 が、更にもう一つ問題がある。
“神憑”は物質に“仮初の生命”を与え、生物に変える。
 諸々端折るが、結果として、“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”は際どいどころかチラチラ見えているという、少々の露出では動じないリリアンの子羊でさえ、当人も見ている方も羞恥心を煽られるような格好にまでさせられた。
 平気だったのは、嬉々として衣類を剥ぎ取っていく“神憑”だけだった。
 別に衣類が破損して肌が露になるのはいい。結果的に素っ裸になろうとも“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”は一向に構わない。同じ女同士である、別に見られてもいい。そんなことより勝敗の方が大事だ――それはある意味総統としてのプライドと言える。
 だが、それは結果的にそうなるのは平気なのであって、「脱がされる」という過程が入ると屈辱なのだ。自分でも不思議なくらいに屈辱なのだ。
 だからもう二度と闘いたくない。
 戦術的に身に着けている物を攻撃手段に使うのが有効なのはわかるが、人としても女としても躊躇する一線を越えるような奴とは闘いたくない。強い弱い以前の問題だとさえ思う。“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”が言えることではがモラルの問題だと思う。

「あれから二年。成長期の少女はすっかり大人の女に……確かめたいじゃない?」
「さ、触るなヘンタイ! 痴女!」

“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”は逃げた。総統にあるまじき醜態を晒して逃げた。――だが女性としてそれは正しい行動だと言わざるを得ないだろう。誰にも彼女を責めることなんてできない。もし責めるのであれば「一度“神憑”と闘ってみろ」と言ってやるべきだ。
 大して本気でもなかったようで悪趣味な冗談を飛ばした“神憑”は、階下の“九頭竜”を見た。

「ここは任せて」
「ご苦労様」

“九頭竜”は、今度こそ本命に会いに行くことにした。

「一緒に行っていい?」
「え?」
「暇だから」
「……まあいいけれど。邪魔はしないでね」

 なぜか“鳴子百合”も付いてきたが。




「おーす」
「……先輩にその挨拶ってどうなの?」

 白薔薇の蕾・藤堂志摩子と元白薔薇勢力隠密部隊副隊長“鼬”は、やや遠回りして保健室に到着した。
 遠回りした理由は、“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”と思われる無茶な人が派手に暴れている真下を通らなければいけなかったから。さすがにそこを通るのは志摩子としても、護衛として付いている“鼬”も遠慮したかった。
 だが、その遠回りした分だけタイムラグが発生していた。
 もし遠回りしていなれば、“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃を担ぎ込んだ黄薔薇の蕾・支倉令と会っていたかもしれない。もし会わないまでも「紅薔薇勢力が“契約書”を三枚そろえた」という情報には触れていたはず――それがあったから、由乃の付き添いで一緒に来た由乃のケンカ友達も、保健室から飛び出してしまった。
 しかし、残った者もいた。

「しっかりやっとるかねキミー。あははー」
「だからそれ先輩に対してどうなの?」

 保健室前にいたのは、由乃のケンカ友達にして今は志摩子側に付いている“鋼鉄少女”である。――必要ないだろうが一応封鎖していたのだ。何かあってからでは遅い。
“鼬”の馴れ馴れしくも偉ぶった態度にイラっとしつつも、志摩子の到来にほっとした。

「志摩子さん、怪我人がいるからお願い」
「わかりました」

 というか、志摩子としては言われるまでもない。そのために来たのだから。

「誰ですかー?」
「由乃ちゃん」
「おや。……前ならともかくー。今現在の由乃さんが保健室に担ぎ込まれたんですかー?」

 ならばよっぽどの重症か、真剣勝負で身体を削りすぎたのか、どっちかだ。どっちも、かもしれないが。
 由乃は譲れない理由がない限りは、大怪我をする前に逃亡する。三勢力の幹部としては失格だが、ベテランとして見るなら当然の選択である。“鼬”も“鋼鉄少女”も、状況によってはそうするだろう。

「まあ大方の予想はつきますけどねー」
「そうなの?」
「“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に焼かれたんでしょー?」

“鼬”は薔薇の館の前で、白薔薇・佐藤聖から由乃に“契約書”が移動したのを見ている。その後の由乃の行動くらいは読める。

「半分正解」

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に負けたのは確かだが、ただ焼かれたわけではない。少々変則的だが「奥の手」を食らって負けたのだ。

「もしや“遠吠え”ですか?」
「あ、志摩子さん知ってるの?」
「特徴的な傷ですから、一度見れば忘れません。……あれは体内を焼くから、“治療”に時間が掛かるんです」

 外傷ならば直接力で触れられる。骨折ならば皮下の筋肉から“癒す”という力の伝達方法で案外楽に患部に触れられる。
 しかし、体内を焼くという特殊な傷は“治し”づらい。人間が持つ自然治癒力が体内の火傷に対応できないからではないか、というのが志摩子の考えだ。そもそもを言えば“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”以外にその傷を刻める人、作れる事象がないのではないかと思う。

「とにかく“治療”します。少し時間が掛かるかもしれませんが」
「よろしく」
「あれー? “鋼鉄少女”さまはー、もう付き添わないんですかー?」
「用事があるから」

 ――“契約書”争奪戦に参加するのだ。一緒に付き添ってきた“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”と“白と黒の罠(ホワイト・オア・ブラック)”は先に行ってしまった。
 助力が必要かどうかはともかく、「紅薔薇が三枚そろえた」という情報からの続報は知りたい。もしこの昼休み中に奪えなかったら、確実に紅薔薇勢力は防御体制に入るだろう。それだけは避けたい。

「志摩子さんのこと、頼むね」
「当然でしょー。言われるまでもないですよー」

“鋼鉄少女”と別れ、二人は保健室に踏み込んだ。
 まっすぐベッドへ向かうと、由乃がいた。
 ところどころ焼け焦げた制服と、覗かせる肌に赤く腫れた火傷の痕が痛々しい。

「なんの用よ。“治療”なんて頼まないから」

 眉を吊り上げいきなり憎まれ口を叩くが、顔面は蒼白で、しかし玉のような汗はとめどなく浮かび流れる。どう見てもやせ我慢である。全然平気そうに見えない。
 由乃の言葉など気にせず、志摩子は早速“治癒”を始めた。
 その隣のベッドで。

「どっか悪いのー?」

 枕を抱きしめて顔を隠し横たわるその人。その巨大な力には覚えがある。
 これは“竜胆”だ。
 顔は見えないが、この力はよく憶えている。というか巨大すぎて一度感じたら嫌でも忘れられない。

「……やめなさいよ」
「えー?」

 反応がないのをいいことにつついたりまさぐったり撫でたりしていた“鼬”を、由乃が「しょーもない」と言いたげな顔で見ていた。

「いやー、完璧に寝てるなーと思ってー」

 ――取り返しのつかない過ちに傷心して泣いて泣き疲れて寝ているというのが真相だが、この場の三人はそれを知らない。

「まあいいやー。連れていくねー」
「え?」
「志摩子さんがー、由乃さんにー、告白したいんだってー。お邪魔虫は退散退散ー」
「はあ?」

“鼬”は「ほーらお姫様抱っこだぞーうれしいかーうれしいって言ってみろー」などと言いながらひょいと“竜胆”を抱え上げる。

「由乃さん」

 背中を向けている“鼬”が、静かに言った。

「二人きりだからって志摩子さんにえっちなことしないでね」
「するか! なんで!? アホか!? アホなの!? アホだわ! あなたアホだわ!」

 由乃の抗議は聞こえていないらしく、「あははー」と笑いながら“鼬”は保健室を出て行った。

「…………」
「…………」

 気まずい沈黙が満ちる。

「……しないからね」
「……え?」

 志摩子は由乃を見た。

「ごめんなさい。“治療”に集中していたから聞こえなかったわ。何か言った?」
「あーそう。ならいい」

 どうやら“鼬”の声さえ拾っていなかったようだ。――本当に、嫌になるほど献身的である。
 由乃だけ気まずい沈黙を味わっていると、ふと気付いた。

「志摩子さん」
「…………」
「志摩子さんってば」
「あ、なに?」

 これは特殊な怪我である。普通の外傷なら話しながらでも問題ないが、そうじゃなければ集中しないと“治癒”ができない。うまく患部に力を向けられない。
 しかし、由乃の顔色はすでによくなってきている。普段と比べるなら牛歩に等しいが、ちゃんと回復はしているようだ。

「私に何か言いたいことがあるんじゃないの?」

 さっきはふざけているだけかと思った“鼬”の言葉だが、ただのジョークなら“竜胆”を連れて出て行ったりしないだろう。
 そもそも彼女は志摩子の護衛であるはず。ならばたとえ保健室でも傍らを離れるとは思えない。“竜胆”を追い出すのは理解できるが、自分まで出て行く必要がない。
 冷静に考えて、志摩子は何かしら本当に由乃に告白することがあるんじゃないか、と。そう思った。

「……今は“治療”を。その気があるなら、あとで聞いて欲しいことがあるの」

 志摩子の瞳が揺れている。
 迷いが見える。
 不安と、もしかしたら話すことに恐怖さえ抱いているかもしれない。
 こんな志摩子は初めて見た。
 何の用かはわからない。だが、よっぽどの悩みか、あるいは相談事があるのだろうとは、察するに余りある表情だ。

「……いいよ。聞くよ」

 幸い誰も見ていない。聞いていない。
 ならば敵同士でも、ただの世間話で済ませられる。
 たとえそれがどんな内容であろうと、ただの世間話だ。
 何の変哲もないただの世間話だ。




 もはや人じゃない。
 ――対人戦に慣れているがゆえ、慣れているからこそ、闘いづらい相手だった。

(攻撃が読めない)

 黄薔薇の蕾・支倉令の前に、“獣”がいる。
 廊下で出会い、目が合った瞬間から始まった令と、“鵺子”の闘いは、まだ何も始まっていないに等しい――令が、廊下に倒れている“鵺子”が返り討ちにした敗者達から遠ざけるように誘導してきたからだ。あんな状況で闘えば巻き込んでしまう。

(確か“強憑依”だったか……)

“強憑依”と普通の“憑依”の違いは、進化にある。
 単純に言えば、“鵺子”は己の理性を食わせることで、際限なくどこまでも強くなる。目の前の困難や壁――今は令だが、令に勝つためだけに進化し、天井知らずに基礎能力を上げていくのである。ただし理性の侵食は自我まで奪っていくので、味方にとっても脅威になりかねない。
 強いとは聞いていたが、これほど厄介な相手だとは思ってもみなかった。
 誘導の間に二つ三つと合わせたが、令の木刀“疾風”を片手でまともに受けてもダメージがないのだ。制服で見えないが、その下はすでに、両手と同じく獣化しているのだろう。
 ――本気で打ち込まないと。
 令は正眼に構えた木刀を、腰溜めに寝かせた。

「―――――――――っっ!!!!」

 生命の恐怖に刻むような雄たけびを上げ、“鵺子”は突っ込んでくる。
 体勢が低い。
 時折り両手まで地を噛み、どんな理由かも定かではない左右へのステップを交えながら、それでも恐ろしいまでの速度を維持している。
 目も眩むような数の残像を残し、飛び掛ってきた。

「――フッ」

 心を鎮めて残像を見抜き、令は“鵺子”本体を打ち抜いた。横薙ぎの一線。突っ込んでくる相手の速度を利用した、威力の増したカウンターがまともに入った。
 しかし。
 相打ち――いや、完璧なカウンターを取った分だけ若干令の方が早かった。なのに“鵺子”は予定を曲げずに右手を振るった。鋭い爪が令の前髪をかする。
 肝が冷えると同時に、令の生存本能に火がついた。
 本気で打ち込んでもよろめかない、退かないなんて、もう令の基礎能力を超えつつある。
 早く仕留めないと、彼女はすぐに自分より強くなる。
 密着している刀身を更に密着させるように自らの身体を寄せ、令は両手を振り上げた。

  ゴッ!

 駆け上がる柄の底が“鵺子”の顎を克ち上げた。顎骨を砕くつもりでやったが、“鵺子”は衝撃を殺すように自ら顔を上げた――なんて反射神経だ。
 だが次は違う。
 戻ってくる“鵺子”の顔、額を狙い、今一度柄尻を叩き込んだ。令が“柄駆”と名付けた、木刀の間合いより更に踏み込まれたゼロ距離で放つ一撃必殺である。
 狙いは脳震盪。見る限りでは、まだ顔の進化は進んでいない。
 令の一撃必殺を受け、“鵺子”は大きく退き、よろめく。ふらふらと足取りが怪しくなり、壁に寄りかかって――しかしなお令を“獣”の目で見ていた。闘争心が薄れることなく、殺気も変わらない。
 手負いになってもこれである。
 自我を害う強さなど本当の強さじゃない――なんて言う者もいるかもしれないが、令は今、違う感想を持っている。
 あれは“鵺子”だからああなのだ、と。
 野生の獣なら痛みを負い、怪我をし、相手が自分より強いと確信すると、闘う以外の選択肢を選ぶ。それは腹を見せる降伏だったり、縄張りを追われる逃走だったりする。
“鵺子”は違う。
 理性を失っても、根底にあるのはきっと本人の闘争本能だ。そこだけは“獣”に譲っていないように思う。
 あれは“獣”だが、どこまで行こうと人間だ。
 あれはただの誇り高いリリアンの子羊だ。

 だからこそ、令はとどめを刺すために走り出した。
 三回ほど獲物を振るい、完全に“鵺子”を叩き潰した。

「……ふう」

“疾風”を消し、令は息を吐いた。
 あと1分ほど闘っていたら、どうなっていただろう?――そんな疑問が拭えなかった。
 まさか本気で打ち込んでもビクともしない者がいるなんて思わなかった。

「令さん!」

 ついさっき会った紅薔薇勢力の三年生が、令を呼びつけ、叫んだ。

「――後ろ!」

 全身の毛が逆立ちそうなことを。
 振り返ると、“鵺子”はゆっくり立ち上がるところだった。
“強憑依”は解けていない。
 つまり、まだ闘えるということだ。

「……」

 だが、もう闘えまい。
 令は“鵺子”の両足の骨を折り、鎖骨も砕いた。立ち上がれることは驚異的だが、とてもじゃないが動ける状態にない。
 状態にない、はず、なのだが。

「―――――――――」

“鵺子”はぐるぐると喉を鳴らす。そんな人には不可能な奇怪音を放ち、まっすぐに令を見ながら、折られた鎖骨の辺りを手で撫でる。

「令さん早く仕留めて! 自然治癒力も尋常じゃないわよ!」

 そんなことを言っている間に、すでに両足の骨は繋がっている――だから立ち上がった。
 令は、動かなかった。
 というより、驚きのあまり動けなかった。
 ギチギチと骨がきしむような不愉快な音を放ち、黒い髪が目に見える速度で伸び始める。“獣”の瞳が更に強い闘争心を帯びる。ついに上履きを破壊して鋭利に伸びる足の爪に――


「……四足」

 令はぽつりと呟いた。
 鎖骨の自然治癒も終わったようで、“鵺子”はスプリンターのように両手を付き、膝を曲げ、しかし表情だけは前を見ている。
 顔を覆い隠すように成長していく髪は、どことなく頭の右上と左上が不自然な盛り上がりを見せる――まるで猫耳だ。
 そして――
 信じがたいような進化を目の当たりにし驚く令に、更に驚きを与えるそれ。

「し、しっぽ……?」

 スカートの一部を突き破り、それが飛び出してきた。
 黒い毛並みに覆われた――どう見ても尻尾だった。




 令は思った。
 こんなに可愛くないのに、どうして某電気街ではこれの人気があるのだろう、と。










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