一目惚れという言葉がある。
その言葉の響きは、甘く幻想的だ。だが、幻想的であるが故に現実的ではない。品物であれば直感的に気に入るということもあるだろう。しかし、人に対してその言葉を自分が使うことはないと思っていた。
でも、私は今その気持ちを表現するのに、その言葉を使っていた。その言葉でしかそれを表現できる言葉がなかったから。
それは、私が高等部に入り、一週間も経ったある日の出来事だった。
体育の授業のために、学校指定の体操着に着替えを終わった私は、休み時間のにぎやかな空気の中を、ゆっくりと歩きながら、校庭を向かっていた。
私はそこで、とある生徒と目があった。
どこかへ向かっている最中に、知らない誰かと目が合うなんてことは、よくあることだ。だから本来であるならば、それは日常の中に埋もれていく些細な出来事で終わるはずだった。
でも、それはそうはならなかった。
彼女と目が合うと、彼女はなぜか知人と出会ったように、私に向かって微笑んだのだ。
そのたおやかな笑みは、一瞬にして私を包み、なぜかひどく懐かしい気持ちにさせ、私の歩みを止めさせた。
次の瞬間、彼女は私の横を通り過ぎていった。
柑橘系の甘い薫りをほのかに残して。
私はすぐに振り返り、彼女の後ろ姿を視界から消えるまで、じっと見送った。
どうしてそんなことをしたのか、わからないままに。
その日から、私は彼女のことをずっと想うようになっていた。
習い事の絵画の時間など、瞼の裏に焼き付いた彼女の面影をスケッチブックに写し取るほどに。
時が経てば経つほど、私は彼女のことが気になった。
教室に習い事で描いたスケッチを持っていき、クラスメイトに彼女のことを知らないか聞いてみると、あっけないほどに彼女のことがわかった。彼女はそれほどに有名人だったのだ。
彼女は薔薇の館の住人で紅薔薇のつぼみ。名は水野蓉子と言った。
それを知って、私はひどくがっかりしたのを憶えている。
薔薇の館の住人といえば、リリアンでは手の届かない、いわばアイドルみたいな存在だ。
そんな人が、私なんかに見向きをするはずもない。あの時、私を見て微笑んだのも、きっと何かの間違いに違いない。
姉妹関係。私はそれを渇望していた。小笠原という家ではなく、小笠原祥子という人間を見てくれる人を渇望していた。
あの人なら、私の乾ききった心を癒やしてくれる。そう直感していたのだけれども。
それから、しばしば彼女と視線を合わせることがあった。しかしそれだけだ。
私は彼女と話しもしていない。ただ目が合っただけ。本当にただそれだけなのだ。
私は家の習い事で忙しいし、彼女は生徒会の仕事で忙しいだろう。
だから、目を合わすこと以外、彼女との接点は存在しない。
接点がない彼女に、私が話しかけることは考えられなかった。
だから、この想いは、優さんのときと同じように、ずっと一人で抱え込み暗い池の淵へと沈ませ、やがて、それは飛沫となって消えるはずだった。
そうなるはずだったのだ。
でも、そうはならなかった。
私にとって全く予期せぬことがおこったのだ。
それは、いつものように、学校を終え家に帰るときのことだった。
「小笠原祥子さん」
マリアさまに手を会わせ、歩きだそうとしたときに突然声を掛けられた。
「はい」
内心びっくりしながらも返事し、声を発した人物を捜す。
その人物は、なぜかすぐ後ろに立っていた。
「何か?」
私は、その人物に呼びかけられたことに内心驚きながらも、彼女をじっと見つめた。
私を呼びかけた人物。それは、あの紅薔薇のつぼみだった。
「ちょっとお話ししたいことがあるのだけど、どれくらいならお時間大丈夫?」
その言葉に、私は時計を確認した。
バスの時間を1本くらいは遅らせる余裕がある。
「十分くらいなら」
本当は彼女とだったら、丸一日でも一緒にいたいのだけれど、だからといって、今日の習い事さぼってしまうわけにもいかなかった。
「十分。それでいいわ。来て」
そう言って、彼女はゆったりと歩き出す。それに私もついて行く。
何の用だろうか? 彼女が私に話しかけるとは。
考えられるのは姉妹の申し込みだが、私と彼女との接点は、ほとんど言っていいほど無い。
ただ、校内でしばしば目を合わせ、会釈を交わすだけなのだ。それだけの接点で、姉妹の申し込みをするだろうか?
でも………この状況を考えると、いろいろな思いがめまぐるしく頭の中を駆けめぐるが、結論は当然出なかった。
「書道?」
とりあえず、天気の話でも。そう思っていた矢先に彼女はそう聞いてきた。
おそらく左手に持っている、書道カバンを見てそう言ったのだろう。
「はい」
「警戒しなくてもいいわ。姉妹の申し込みじゃないから」
その言葉を聞いて、私はほっとしたような寂しいような、何ともいえない気持ちにおそわれた。
たとえ、私が求めていても、彼女が私を求めるとは限らない。
それは分かり切っていたことだが、本人自らの口で言われるとやっぱり寂しかった。
「習い事をたくさんやっているんですってね。それじゃ、山百合会の仕事を手伝って、なんて言えないものね」
私には毎日のように習い事がある。それがある以上、放課後生徒会の仕事に従事する事はできないのだから。
「そうですね」
私はすこしの胸の痛みを感じながら、ぽつりとそう答えるしかなかった。
しばらく校内を歩き、私たちは大学の敷地に入り、噴水の見えるベンチにすわった。
あたりには、大学生がまばらな間隔で通り過ぎていく。高校の生徒は皆無だ。
厳密には二人きりではない。でも、私たちを知る人たちがいないところで、二人で過ごすというのは二人きりに等しい。
些細なことだったが、あこがれていた彼女と二人きりでいるという事が私には嬉しかった。
「何が一番好き?」
彼女は正面にある噴水をぼんやりと眺めながら、私にそう話しかけてきた。
「は?」
主語がなかったために、私はその問われている内容がわからなかった。
彼女の一番好きなところを言えばいいのだろうか? 困った顔で私は彼女の顔のぞき込んだ。
「習い事」
習っているものを一つ一つ頭に浮かべてみる。でも、これといって特別好きというものは見あたらなかった。
「好きかどうか。そういうことを考えたことはありません」
「好きでやっているんじゃないんだ。じゃ、惰性? 親の言いなり?」
「この歳になったら、親の言いなりも何も。教師は祖父や父が探してきた方たちですが、自分の意志で続けています」
「好きじゃないのに?」
「嗜みですから」
「お見合いでもするの?」
「お見合い?」
その言葉に一瞬優さんの顔が浮かんだ。すぐにその顔を打ち消す。その次に浮かぶのはおじいさまの顔。
そのおじいさまの顔はすぐに政略結婚という言葉に置き換わる。
自分の意志とは関係ない、家柄を重視した結婚。そんな一昔前のお話しに出てきそうな事が私の身近にある。
でも、それはまだ先の話……のはず……だと思いたい。
「……い、いえ。わかりません。もしかしたら、お見合いすることになるかもしれません」
「だったらその時の箔にはなるわね」
私はその言葉に首を振った。
「箔とかではなく、私は何か欠けている部分があるようなので。それを何かで埋めたいと思っているようです」
完全に人ごとの言葉だ。でも、いつも欠けている何かを探しているのは本当だ。
「向上心があるのね」
「今のままの自分がいいとは思っていないだけです。私の十五年間を否定はしません。けれど、私は何かを探しているのだと思うのです」
「見つかるといいわね。その何か」
彼女は私の目をじっと見つめてそう言った。
「十分経ったわ」
しばらく見つめ合った後、彼女は小さくため息をこぼしながらそう言って立ち上がった。
「ご用件はいったい何だったのでしょう」
私も同じようにも立ち上がり、手提げを肩に提げてから鞄を持ちながら、彼女に尋ねた。
彼女との時間は本当に雑談で、実のなるモノが何一つなかったから。
「言ったでしょ? あなたとお話ししたかったのよ」
「そうですか」
そういわれて私は、小さく笑みを浮かべた。憧れの人にそう言ってもらえるのは嬉しかったから。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
私たちはリリアン女学園定番の挨拶をして、噴水の前で分かれた。
そして、彼女は並木道へ。私はバス停の方へと歩き出す。
『言ったでしょ? あなたとお話ししたかったのよ』
歩いてすぐに、彼女の先ほどの言葉がリフレインした。
私は後ろを振り返り、彼女が並木道の奥に消えていくのを見送った。
バスに揺られながら、私は先ほどの彼女との雑談について考えていた。
彼女との雑談。私はあのとき、実のなるモノは何一つない時間。そう思った。
でも、それは違った。私は彼女と楽しい時間を持ったのだ。
それは小笠原家という名前を背負っている私にとって、本当に本当に久しぶりの楽しい時間だった。
また、彼女の方から話しかけてくれるのでなければ、もう二度とこんな時間を得ることはできないだろう。今のままでは。
だって、彼女には生徒会の仕事があるし、私には沢山の習い事があるのだから。
今のままでは。家に着くまでの間、私の頭の中にその言葉がずっと頭の中を回っていた。
翌日。私は初めて学校に放課後に受ける習い事の道具を持たずに家を出た。
もっと彼女のそばにいたい。もっと彼女と話したい。でも、今のままではそれは無理。
なぜならば、彼女には生徒会の仕事があるし、私には沢山の習い事があるのだから。
だったら……。
私は家に帰ると片端から全部の習い事ごとの先生に電話して、来週以降の習い事をキャンセルし、今月末をもってやめることを連絡したのだ。
彼女との時間を持つのは今のままでは無理。なぜなら、彼女には生徒会の仕事があるし、私には沢山の習い事があるのだから。
だったら。私が、沢山の習い事をやめればいい。今まで継続して習ってきたものをやめてまで彼女のそばにいたい。そう思えたから。
幸いにも今日は、新入生歓迎会がある。例年、新入生歓迎会では、薔薇さま方がおメダイを一人一人に掛けてくれる。
つぼみたちはその横でおメダイを渡す手伝いをしているはずだ。そのときにでも、この話をしよう。彼女はどんな顔をするだろうか。
そんな想像をしながら、私は久しぶりに軽い足取りでリリアンへと足を運んでいた。
彼女の妹になる希望と夢を抱きながら。