【3601】 現在進行形で  (海風 2011-12-14 13:36:48)


【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】
【No:3171】【No:3174】【No:3177】【No:3183】【No:3187】
【No:3196】【No:3205】【No:3233】【No:3249】【No:3288】
【No:3327】【No:3380】【No:3397】【No:3443】【No:3464】【No:3498】【No:3501】 解説書【No:3505】
【No:3509】【No:3515】 【No:3538】【No:3541】【No:3589】【No:3593】【No:3597】から続いています。









 わかっていることは少ない。
 少ないくせに、わかっていることだけでもなんと厄介なことだろう。

 黒鳥が翼を広げ羽を撒き散らす。
 それは厄災にし、
 退廃を意味し、
 深い闇に引きずり込む、

 災禍そのものである。

「簡単に負けないでね?」

 凶兆を告げる亡き声一つ、“鴉”は舞った。




 わかっていることは少ない。
 紅薔薇の蕾・小笠原祥子は、軽く両手を広げた“鴉”を見ている。その手からポタポタと零れ落ちる“黒い雫”こそ、“鴉”の能力である。
 あれは“ペンキ”だ。
 ただの“着色料”である。
 ――使い手が“鴉”じゃなければ、本当に何の変哲もない異能の一つとして、リリアンの歴史に埋もれていたかもしれない。“塗料”の具現化なんて戦闘と直結して考える者も希だろう。事実として過去の異能使いに“着色料”に才能を開花した者はいたが、それを戦闘に用いた歴史はない。
 しかし、かの“図書室の守護者”は、直感でそれを戦闘用の力だと理解した。
“鴉”の使う“塗料”は様々あるが、基本は見ての通り液体である。同系統の水使い“宵闇の雨(レイン)”などと比べると性質がだいぶ違うが、類似系だと思っていい。床にテリトリーを広げた“ペンキ”も、“鴉”が自在に操れる。
 だが、“宵闇の雨(レイン)”と闘い方は全く違う。
 警戒して動かない祥子に、“鴉”は言った。

「簡単に負けないでね?」

 それが合図だった。

「っ!?」

“鴉”の足元の“ペンキ”が爆ぜた。
 まるで集めた枯葉が強風に煽られて舞い上げられたかのように、一瞬にして広がった。
 それは百を越える黒い羽。
 一つ一つが烏の羽を模し、“鴉”を覆うようにして、ひらひらと二人の目の前に広がる。
 見た瞬間、祥子の全身に悪寒が走った。

(目くらまし!?)

 ――いや、違う!
 それは勘だった。自分で判断した予想を理性ではなく本能が拒否し、

「――っ!」

 コンマ1秒反応が遅れた。
 それら“黒い羽”をまとったまま、“鴉”はまっすぐに祥子に向かってきていた。目の前にちらつく多すぎる“羽”に遠近感が狂い、普段ならありえない正面からの接近の対処に遅れてしまった。
 祥子が“揺れた”――だが遅かった。
“黒い羽”がびちゃびちゃと祥子の身体に付着し黒く“染め”る。その“塗料”から反射的に目を庇おうとした祥子は、すでに一撃食らっていた。
 ごり、と、肋が悲鳴を上げた。
 激痛を感じる前に身体は浮遊し、強かに壁に叩きつけられた。

(折れた? いや、大丈夫)

 本人も無自覚だが、反射的にギリギリ直撃は避けていた。追撃を許さぬよう祥子は素早く構えなおす――が。

「な…!?」

 なんだこれは。
 視線を上げた目の前に、“黒い壁”があった。祥子の身長とほぼ同じ、肩幅も同じくらい。色といい光沢といい、まるで巨大な板チョコだ。
 ――すでに一手遅れている祥子には、次の攻撃に対処ができなかった。

  ゴォォォォォ!!

 空気を食む音が唸り、一瞬にして“黒い壁”が燃え尽きた。
 そして突風にでも吹かれているかのように、祥子の方に炎が伸びる。
 ――“黒い壁”の後ろで、“鴉”が“巨大スプレー缶”と火種で作った“即席バーナー”を具現化し、吹き付けたのだ。“黒い壁”はほぼ紙一枚程度の可燃性の高い“塗料”の壁で、一瞬で燃え上がり、燃え尽きる。
 祥子に付着している“ペンキ”も可燃性が高い特製品で、祥子は一気に炎に包まれた。
 しかし、祥子の反応は速かった。
 素早く制服を脱ぎ捨てその場を離脱し、ようやく追撃から逃れる。――ちなみに下に着ているのは死装束である体操服だ。祥子は真面目なので常に闘う覚悟をしている。
 改めて構える祥子を見て、“スプレー缶”を消した“鴉”は首を振った。

「もう終わり」

“鴉”の言葉は、一瞬で理解できた。
 先制の一撃。
 追撃の炎。

 ――脱出できる追撃の炎なんて、何の意味がある?
 ――なぜ一撃必殺を狙わなかった?

 より確実に一撃必殺を狙うために、次の手を打っていたからだ。

 瞬時に答えを導き出した祥子が“揺れる”と同時に、横手の壁から飛び出してきた何かが、祥子の右太股に突き刺さった。
 漆黒の棒――“木炭の矢”だ。
 エンピツ大の鋭くとがった“木炭”が、無数の矢となって壁、床、天井に至るあらゆるところから飛んでくる。まるで豪雨のように。
 ――祥子の逃げたその場所は、すでに“鴉”が罠を張っていた。
 壁、窓、天井に至るまで、景色と同じ色の“塗料”で上書きしてある。あとは“塗料”を“違う塗料”に変えて放てば、トラップボックスが完成する。
 逃げ場がない。
 祥子は急所を庇って防御を固めることしかできない。腕にも肩にも身体にも“木炭”が突き刺さる。筋肉を張り詰めて深く潜り込むのは防ぐが、さすがに数が多すぎる。
 ハリネズミのようになりつつある祥子は、痛みの中にありながら、冷静に考えていた。
 せめて、最後の一撃だけは回避しないと、負けてしまう。

(来た――来ると思った)

 豪雨の中、とどめを刺しにやってきた本体の接近を、防御の隙間から確認すると、祥子はダメージを覚悟して身体を開いた。
 流星のようなルビーの一突きが、突っ込んできた“鴉”の身体を正確に貫いた。

 その瞬間、祥子は己のミスに気付いた。

 貫いた“鴉”は簡単に崩れ、ひしゃげた。
 ――“塗料”だ。
 “塗料”で作ったダミーだった。
 身体を開いてしまった祥子は、残りの“木炭”をまともに食らい、倒れた。

  ドン!

 倒れた祥子の背中から、“巨大な木炭”が生えた。
 そう、生えたのだ。
 直径3センチほどのそれは、誰がどう見ても、祥子の腹から貫通して背中に抜けてきたモノだ。
 そして、ゆっくりと“木炭”が下がり、祥子の背中にまた消えた。身体に刺さっていた“木炭”も消え、焦げ臭い匂いと倒れた祥子だけが残された。
 祥子は動かず、ただ、赤いものがゆっくりと広がっていくだけだった。

「……」

 祥子の敗因は、誤解から来るものだろう――見下ろす“鴉”はそんなことを思っていた。
 いや、祥子だけではない。
“鴉”に吹っかける者のほとんどがそうである。

 ――最後のとどめは自分で刺す。

 そんな戦闘マニアな戦闘狂の思考は、“鴉”にはないのだ。
 血気盛んで必要ならば遠慮なく闘うが、顔に似合わず戦闘嫌いで、こんなものを楽しいと思ったことはない。楽に勝てるならそれでいいし、図書室と自分に害が及ばないならいくらでも不戦敗を受け入れる。

「うそ……」
「強すぎるでしょ……」

 周囲がようやくざわめき出した。
 数十の異能使いに囲まれても、軽々上回ってみせた小笠原祥子。
 一年前、今でも常勝無敗の記録を誇るあの水野蓉子と歴史に残る一戦をこなした、本人も無敗記録を持つ強者。
 それが、無所属最強と言われる“鴉”に負けた。
 それも“鴉”は無傷である。

 1分もなかった激闘は、こうして幕を閉じた。
 山百合会の一人に勝った――充分誇り自慢してもいいことなのに、“鴉”は全然嬉しくなかった。
 むしろこれからのことを考えたら、頭が痛いだけだった。

 だが、己が甘かったことを知るのは、この直後である。




「“十架(クロス)”さんいる?」

 紅薔薇自らの訪問に、三年菊組は騒然となった。
 新聞部の部室で打ち合わせをした通り、紅薔薇・水野蓉子は、“十架(クロス)”を迎えに来ていた。
 彼女は“桜草”対策の一手になる。ぜひとも復帰してもらいたい。

「黒須さん! 黒須さん黒須さん! 黒須さんってば!! おーい!!」
「は、早く起こしなさいよ!」
「今メリケンサック持ってるの誰!?」
「あ、さっきトイレ行ってた」
「ばかー!!」
「私の筆箱、象が踏んでも壊れないけど!? これで殴る!?」
「だめ! 前に試したことある! 容赦なく砕けるわよ!」
「――はいはい、もういいから」

 まるで有名店の昼時の厨房のような騒ぎの渦中に、蓉子は周りに声を掛けながら苦笑しながら近付く。
 立ち止まった先には、机に突っ伏して寝ている女生徒が一人。

「“十架(クロス)”さん、起きて」

 揺さぶるが、起きない。
 起きる気配がない。
 ――それはそうだ、未覚醒者が使用してもかなり痛い、メリケンサック着用の殴打でも起きないことがある超難物である。揺らされたくらいではまず起きない。
 まあ、覚悟の上だったが。

「このまま連れて行くわ」

 蓉子は反応がない“十架(クロス)”を両腕に抱き上げ、そのまま菊組から連れ出した。

 ――紅薔薇勢力突撃隊隊長“十架(クロス)”。
 本名を黒須といい、二つ名もそのままそれに掛かっている。
 長い眉毛、色の薄い唇、明るい茶色の髪は細く長く、いつも寝癖だらけでボサボサで、一歩歩くたびにきらきら輝きながら揺れている。こうして見るとわりと派手である。今時の女子高生のような。盛ってる感じの女子高生のような。
 だが、中身は見た目とまったく違う。
 ちょっとよだれが垂れているところは、中身に近いが。
 だらしなさここに極まる“十架(クロス)”は、1日の4分の3を寝て過ごしている。
 ――これが戦線から離れている理由である。
 元々どこででも寝るような輩だった“十架(クロス)”だが、白薔薇・佐藤聖が食事で回復するのと同じように、こちらは睡眠で回復するのだ。力が強いおかげで睡魔の強さも顕著で、意思に関係なく身体が眠りを求めてしまう。


 事件は五月の半ば。
 あれからもう5ヵ月が過ぎようとしていた。
 紅薔薇勢力に所属したばかりの新入りの一年生が、黄薔薇勢力の幹部と揉めたのが事の発端だった。それもきっかけは新入りの一年生、悪いのも新入りの一年生だった。
 すぐにでも状況を把握している黄薔薇勢力副総統“夜叉”と相談の上、詫びを入れれば済んだのだが、その前に総統“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”の耳に入ってしまった。
 常に闘う理由を探しているような“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”である。当然のように紅薔薇勢力の幹部との戦闘を要求した――変な詫びを求めない辺りが彼女らしい。
 要求に応えず放置すると、紅薔薇と黄薔薇の抗争が始まる。
“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”の要求を飲んでも同じことだ。いかなる理由があろうと幹部同士がやりあえば、どんな結果に終わっても全面抗争の引き金になる。
 重要なのが、“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”の発言を覆すことができないことだ。4月から務める新黄薔薇勢力総統として、発言の撤回はそのまま総統職にあることへ対する不満と不安に繋がる――総統職の疑問視は、内外に反乱の芽を生む。だから首の据わっていないような新米の間は、特に撤回はできない。
 あるとすれば妥協案だが、戦闘を求める“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”に妥協させるには、それなりの案を出さねば承服しない。具体的な例を出すなら、紅薔薇勢力の幹部一人を差し出すくらいのことをしなければ納得しない。
 全面抗争だけは避けたい紅薔薇勢力総統“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”と、黄薔薇勢力副総統“夜叉”が思い悩んでいる最中、“十架(クロス)”が人柱になった。

「元は私の部下がやったことだから」と自ら意見を出した。発端の新入りは突撃隊に配属されたばかりだった。

“十架(クロス)”の異能を封じること。
 この条件を提示することで、“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”に妥協させた。「あの“十架(クロス)”を数ヶ月拘束できるならお釣りが出る」とまで言わせて。


 その結果がこれである。
“十架(クロス)”は一日中眠り、遅々とした回復行為に努めている。外傷なら白薔薇の蕾・藤堂志摩子に任せればいいが、生憎怪我の類ではない。
 起きた時に学校へ行き、起きた時に下校する。
 規則正しいことなど一つもなくなった彼女に、遅刻と早退が多くなるのは必然だ。最初は丸一日起きない日が続いたくらいだから、今はまだマシと言える。
 貧乏くじを引かせてしまった。
 そんな想いが、蓉子を含めた紅薔薇勢力と、黄薔薇・鳥居江利子を含めた黄薔薇勢力、すでに不仲説が浮上していた白薔薇・佐藤聖と白薔薇勢力――三勢力全ての総意だった。
 だから“十架(クロス)”は、どこからの文句も出ることなく、半引退のような生活に戻ったのだ。たった一人、新入りの部下の責任を取るためだけに取った“十架(クロス)”の英断は、理想の上司、理想の上役の判断として捉えられ、今でも尊敬の対象となっている。
“十架(クロス)”がどんな気持ちで決断を下したのかはわからないが、蓉子は非常に悪かったと思っている。もし蓉子がもう少し早く対処していれば、“十架(クロス)”一人が責任を取ることもなかった。
 だが、“十架(クロス)”はそこまで考えていただろう。
 蓉子や“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は温厚で仲間を大事にする。だから問題の一年生を切り捨てることはないし、詫びは入れるが誰か一人を犠牲になんてできない。
 だがそうとなれば全面抗争の可能性も捨てきれない。
 実際、蓉子には判断できていない。
 一人を切り捨てるなんてできないし、もしそんな決断を迫られたら、身内の一人を護るために全員で打って出るという決断を下すかもしれない。
 そんな局面にあって、“十架(クロス)”の英断はどの方向から見てもベストと言わざるをえなかった。意見を却下できなかった“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の気持ちもよくわかる。

 そんな“十架(クロス)”に復帰の兆しが見えたのだ、嬉しくないはずがなかった。実務的な意味で必要なのも本当だが、残り少ない高校生活をこれ以上無駄に寝て過ごさせないためにも。
 今後のこと――“桜草”のことを考えると気が重いが、“十架(クロス)”が復帰すれば今後の行動の幅は広がる。今どうしても欠かせない存在だ。
 まあ、とにかく。
 なんとか回復してくれるとありがたい。
 ――それにしても。

「本当に起きないわね」

 新しい温室に到着しても、“十架(クロス)”は眠ったままである。
 現役時代は過敏すぎるまでに変化に対応していたのに、今では多少殴られたって起きやしない有様だ。

「紅薔薇」
「早いわね」

 一足遅れというタイミングで、約束していた元白薔薇勢力隠密部隊隊長“宵闇の雨(レイン)”がやってきた。
 対象がどこにいるかわからないという状況だったにも関わらず、このスピードである。さすがは情報戦のプロと言うべきか。
 まあ、状況はそんな生易しいものではなかったが。

「……」

 振り返る蓉子は、「さすがやり手」と思うと同時に呆れもしていた。

「なんでさらってくるのよ」
「ごちゃごちゃ言いそうだったから。時間、惜しいでしょ?」

“宵闇の雨(レイン)”は目的である“契約者”こと“瑠璃蝶草”と思しき女生徒を、肩に担いでいた。女生徒に意識はないらしく反応がない。
 どう見ても誘拐だった。

「三薔薇や山百合会に限らず、紅薔薇勢力にある者だって彼女にとっては敵だし。どう考えても交渉が難航しそうだから、交渉以外の手段を使った方が早いし彼女も納得しやすい。今無理して道理を通す理由はないでしょ」

 ――さすがだ。この手段を選ばない頼もしさ。本当にさすがと言わざるを得ない。

「紅薔薇の名前は使わない。だから道理は必要ない。私が言いたいこと、わかるわね?」
「ごめんなさいね」
「汚れ仕事は慣れてるから」

 それより早く行って、と“宵闇の雨(レイン)”は蓉子を急かした。
 ――これから、交渉以外の手段も駆使して、“瑠璃蝶草”と取引するのだ。“瑠璃蝶草”の意志と意向次第で、脅し、恐喝、人質等々、紅薔薇としても蓉子本人としても看過できない、俗に言う「汚い手段」も“宵闇の雨(レイン)”は遠慮なく使うつもりだ。

「手荒な真似はしないでね」
「――それはさせない」

“宵闇の雨(レイン)”の背後から遅れて姿を現したのは、“瑠璃蝶草”に付けていた護衛である元白薔薇勢力戦闘部隊隊長“氷女”だ。
 それと、姿は見えないが“影”もちゃんと付いてきている。

「“レイン”、彼女を傷つける行為は許さない」
「だからそれどころじゃないって何度言わせるつもり?」
「わかっている。だからここに連れてくることは黙認した。だが、何があろうと私は彼女の護衛だ。危害を加えるなら“レイン”でも容赦しない」
「――決着もつけたいし?」
「――そういえばまだ決着がついていなかったか」

 感情のない残酷な笑みを浮かべる“宵闇の雨(レイン)”と、普段通り冷たい眼差しを返す“氷女”。
 二人は親友とも呼べる関係かもしれないが、元を辿ればライバルである。同じ勢力になってやり合うことができなくなり、なんとなく馴れ合いはしたが、今は組織のしがらみがない。やれない理由がないし、やらない理由もない。

「ああ、もう。とにかく任せるから」

 どうしてこう血の気の多い奴ばかりなのか。蓉子は早々に仲裁を諦め、“十架(クロス)”を任せて温室を出た。
 ――それにしても、なかなか面白い。
 少し前まで、会えばいがみ合うような関係だった“宵闇の雨(レイン)”や“氷女”が、組織という枠から外れた途端、行動を共にするようになった。
 なんだか不思議な感じがする。




 そんなことを考えているのは、蓉子だけじゃない。

「まさか私が“十架(クロス)”の治療に関わるなんて、ね」
「全くだ」

 眠りこける“十架(クロス)”を見て感慨深く呟く“宵闇の雨(レイン)”と“氷女”も、似たような感情を抱いている。
 思えば三年間も意地を張り合った仲だ。友達だなんて断じていえないが、他人以上の浅い関係だとも思わない。個人的なことは全然知らないが、なぜだか本質はわかっている気がする。
 戦友――もしかしたらそんな言葉が一番相応しいのかもしれない。

「ひどい寝癖は変わらない」

“氷女”は普段は見せないような柔らかい笑みを浮かべ、“十架(クロス)”の頭を撫でた。――特に部署柄三年間、事あるごとにぶつかりあってきた“氷女”は、“宵闇の雨(レイン)”以上に思うところがあった。
 そんな“氷女”を見て、“宵闇の雨(レイン)”は「うわあ……」という表情で引いた。

「……寝てる相手にも容赦なしね。恐ろしい……」
「いや攻撃じゃない。攻撃なんてしてない。よく見て」
「嘘ばっかり。あなた普段そんな穏やかな表情できないじゃない。どう見ても嫌がらせで耳の奥に“氷”詰めてやろうって顔だわ。私にはわかる」
「あなたは三年間私の何を見てきた」

 観察眼も並外れている“宵闇の雨(レイン)”のくせに。節穴にも程がある。――いや、冗談か。そうじゃなければ悲しすぎる。

「“氷女”、始めるわ」
「彼女に危害を加えるとNGだ。問答無用で」
「わかった。それとあなたもここにいて」
「…? 外さなくていいの?」
「口出ししなければね。あなたにも聞いて欲しい話だから。言ったでしょう? 大事な話なのよ」
「……“レイン”の大事な話は、嫌な予感しかしないな」
「その予感、当たってるわよ」

 まあ、嫌な予感は確定だろう。
 あの紅薔薇まで関わり、戦線から離れている“十架(クロス)”の復帰まで考えているのだ。これはどう考えても非常事態だ。
 そもそも、非常事態もしくは興味がなければ、“宵闇の雨(レイン)”は動いていないだろう――いや、そういえばだ。

「“レイン”、久保栞さんのことはどうなった?」

 担いでいた“瑠璃蝶草”を降ろし、意識の回復を図る“宵闇の雨(レイン)”は、振り向くことなく一言で済ませた。

「現在進行形」

 つまりこれは久保栞とも関係している、ということだ。
 飲ませた“麻酔の水”を回収し、頬を叩くと、“瑠璃蝶草”はすぐに意識を取り戻した。
 状況がわからない、目の前にいる自分を拉致した“宵闇の雨(レイン)”に驚き目を丸くする――そんな“瑠璃蝶草”に暗示を掛けるように、“宵闇の雨(レイン)”は眉間に人差し指を突きつけた。

「大事な話」

 冷静にして冷徹な声と瞳。
 それは言葉以上に雄弁に語る言葉となり、“瑠璃蝶草”の心に冷たい水を掛けた。
 動揺した表情に冷静さを取り戻したことを確認して、“宵闇の雨(レイン)”はポケットから彼女のメガネを取り出し、差し出した。

「どういうことですか?」

 メガネを掛け、“瑠璃蝶草”は立ち上がる。確か自分はお聖堂にいたはずで――

「…? “氷女”さま?」

 って、どういうことだ。誘拐されたんじゃないのか。護衛の“氷女”まで普通に一緒にいるではないか。

「非常事態らしい。理由はこれから話すそうよ。――“レイン”は嘘はつくけれど、理由もなく行動は起こさないから、これは間違いなく必要な行為だと私は知っている。だからあなたが誘拐されるのを黙って見ていて追いかけてきた」
「……」
「でも、もしあなたが納得いかないなら、護衛としてあなたをここから連れ出そうと思う」

 「どうする?」と問われたところで、答えは一つである。

「話とは?」

 従うかどうかはさておき、話を聞く気にはなった――「大事な話」という一言も気に掛かる。

「あれ」

“宵闇の雨(レイン)”は腕を組み、眠りについている“十架(クロス)”に目配せした。

「彼女のことは知っているかしら?」
「紅薔薇勢力突撃隊隊長“十架(クロス)”……夏休み前に実務から離れてそのまま引退した、と聞いていますが」
「なるほど、三流の情報源はその程度なわけか。あなたもう少しいい情報屋探した方がいいわよ」
「いませんよ、そんなの。全部私が調べたんです」
「こりゃ失敬」

 悪びれもなく“宵闇の雨(レイン)”は笑う。

「あなたへの要求は、あいつの“封印”を解いてほしいのよ」
「封印、ですか」

 いまいちよくわかっていないようなので、“宵闇の雨(レイン)”は一から説明することにした。

「“十架(クロス)”はね、“簡易結界”というレア能力の使い手なのよ」
「簡易結界?」
「初耳?」
「初耳です」
「まあ、でしょうね。かなり珍しい能力だから」

 ――“結界”とは、簡単に言えば術者が場所を支配する能力のことである。出入り禁止、異能禁止等々、相手ではなく場所に効果を付加する。
 どんな相手でも強制的に従わせる禁止、禁則、禁制を扱う非常に強力な異能だが、“結界”にはそれを使用する際に前準備が必要なのである。
 それが“結界文様”だ。
 要石のように、楔のように、使用者の力量と範囲に直結して、“文様”という使用者独自の絵や字などを場所に刻んでおかなければならない。いくつか必要だったり、または大きさも関係するが、これも使用者によってまちまちである。
 だが、“文様”が必要なことは共通事項だ。どんなに優れた使い手でもそれは必ず必要なのだ。
“結界”を破壊するには、この“文様”を消すか、使用者に解除させるか、吹き込んだ力がなくなるまで放置するしかない。リリアン最高の“結界”使いでも、教室一つ分を維持するのは最長半日がいいところである。

「――で、この“十架(クロス)”は、“文様”なしで“結界”が作れるの。それも瞬時にね」
「まさか……そんな恐ろしい能力者がいるとは……」

“瑠璃蝶草”は頭の回転は悪くない。
 ここまでの説明だけで、“十架(クロス)”がどれだけ有能なのかを悟っていた。もし“宵闇の雨(レイン)”の言うことが寸分の違いもないのであれば、異能使いとして最強だとさえ思う。

「安心して。そこまで万能じゃないから。“簡易”はしょせん“簡易”止まりよ」

“十架(クロス)”の“簡易結界”は、従来の“結界文様”を必要とする機動性・運用性に物足りなさを感じる鈍重なものではない。
 やろうと思えば何の前準備もなく、自分が支配する領域を作り出せる。
 ただし、“宵闇の雨(レイン)”の言う通り、しょせん“簡易結界”なのだ。

「有効範囲は1メートルから2メートルが限界って話。それに“文様”で支えというか、力を増幅して場所を支配するのが“結界”だから。“簡易結界”は脆いのよ。内外の力で充分壊せる」
「……なるほど、面白い能力ですね」
「でしょう?」

“簡易結界”は有効範囲が狭く、脆い。
 だが、それは“結界”としての欠点であって、能力の有用性とイコールではない。
“簡易結界”は“結界”ではなく“簡易結界”として使用するのだ。まるっきり違う能力と捉えた方が正確なくらいに別物だ。

「ここからが本題なんだけど。前にちょっと揉めてね、“十架(クロス)”はその責任を取るために、自らの“簡易結界”で自分の能力を“封じ”たのよ」
「……」
「それ以来、この通りほとんど寝てる。寝ることで回復するタイプだから、元々どこででも寝るような奴だけれど、もっとひどくなった。まあでも、それも問題なのよね」

 眠る → 力が回復する → 力が勝手に己の“簡易結界”を維持するため消耗 → 眠る

 こんなひどいループの中で、懇々と眠り続けているのが“十架(クロス)”の現状だ。自給自足かつ、いつだって進行形で“結界”に力を吹き込んでいるせいで、そう簡単には壊れない。本気で外部から“封印”を解除しようとすれば、“十架(クロス)”本体まで壊しかねない。だから放置するしかなかった。
 ただ、いくら力を注いでも“簡易結界”自体の老朽化はあるらしく、「“封印”はそのうち壊れるだろう」とは本人の弁である。

「とまあ、これが“十架(クロス)”が前線から離れた理由なわけ」

 話が見えた。

「私の力なら彼女の“封印”を解ける、と」
「さっきも言った通り、非常事態なのよ。だからあなたの能力も聞いている」
「……“契約”を?」
「知っている。これは私の独断じゃないから」

“契約”の能力を知る者は限られる。
 非常事態。
“契約”の力さえ聞いている。
 つまり――

「山百合会関係ですか?」
「これ以上は言えない」
「……」
「話さない理由はわかるわね?」
「聞いたら私が力を貸せなくなるから」

 当たりだ。花の名を語る者として、山百合会、特に三薔薇の名前が出たら普通は協力なんてできない。
 むしろ“宵闇の雨(レイン)”は親切だと言えるだろう。
 話さないことで山百合会と、“瑠璃蝶草”の顔を立てている。どこの馬の骨とも知れないような新人である“瑠璃蝶草”を相手に、“宵闇の雨(レイン)”は元白薔薇勢力隠密のトップとして恥ずかしくない筋を通している。
 この誘拐も含めてだ。――いざという時には「“宵闇の雨(レイン)”に脅迫されて従った」という言い訳が立つように。
 一見めちゃくちゃなように見えるが、“宵闇の雨(レイン)”の言動には無駄がない。

「これは強制ですか?」
「いいえ、取引よ。何か交換条件を提示してもいいし、あなた自身の身の安全を図るのもいいし」

“瑠璃蝶草”は笑う。
 これは取引だ。
 間違いなく取引だ。
 それも、あの“宵闇の雨(レイン)”とだ。

「変な感じですね」
「…? 何が?」
「私は今、初めて、覚醒した実感を得たような気がします」

 これまではやるべきことを必死でやってきただけだが、これは違う。
 自分の意志が、自分と相手の行動を左右する。
 しかも相手はあの“宵闇の雨(レイン)”。交渉・情報を専門に動いてきたような存在だ。

「これは私があなたより優位に立つチャンスだと思っていいですか?」
「……ふむ」

“宵闇の雨(レイン)”は“瑠璃蝶草”を観察し出した――というのが“氷女”にはわかった。
 面白がっているのだ。
 即ち、興味を抱いた証拠だ。

「普通、思っても言わないけれど」
「“レイン”さまの口から意見が欲しいなと思いまして」
「そう? もし本気でそう思っているなら――」

 冷たいものが混じった視線を向ける。

「甘いわね。とても」
「わかってますよ。これは取引の名を借りた脅迫で、あなたは是が非でも私に力を要求する。そして私は首を縦に振るしかない」
「肯定しない。私はそこまで無粋じゃない。あなたの意志を尊重する」

 しかし威圧と威嚇は続ける。言う通り脅迫だ、と言わんばかりに。

「“レイン”さま、私の提示する条件は」
「条件は?」
「あなたが私の隠密になること」
「……へえ?」

 威圧感が一段と強くなった。

「あなた、私を飼えるつもり? 気がついたら操り人形になっているわよ?」
「それも覚悟の上だ、と言ったら?」

“瑠璃蝶草”は口元を覆うようにしてメガネを押し上げ、そのまま口を開く。強調される相貌に強い意志が見えた。

「生半可な方法じゃ山百合会に追いつけない。だから私はあなたのような切れ者の隠密が欲しい」

 どう見ても“瑠璃蝶草”は本気で言っている。

「あなたが“九頭竜”を越える逸材なら喜んでこの身を捧げるわ。でもあなたはそれほどの人物だとは思えない」
「そうでしょうね」

“瑠璃蝶草”は言った。

「これから“レイン”さまが育てるんですよ。私を。“九頭竜”を越えるような存在に」
「……ふふふ。面白い。面白いわあなた」

 要求も言葉も面白いが、何より、威圧する“宵闇の雨(レイン)”相手に一度も動じなかった度胸だ。少しでも迷いが見えたら、躊躇いが見えたら、答えはNOだった。
 こんな出会い方じゃなければ、そして一年前に出会えていれば、もしかしたら組んでいたかもしれない。
 もしかしたら、山百合会に反対する勢力に“宵闇の雨(レイン)”の名があったかもしれない。
 そんな可能性が見えた。
 ――幸か不幸か、一緒に何かをする時間は、“宵闇の雨(レイン)”にはもうないが。

「でも答えは一緒」
「……そうですか」
「私の条件は?」
「構いませんよ。“十架(クロス)”さまの“封印”をどうにかすればいいんですね?」

 ――見事だ、と“宵闇の雨(レイン)”は思った。
 交渉決裂にも動じず冷静冷徹を通した“瑠璃蝶草”の判断は、「育ててみたい」という想いを得るには充分だった。
 これで新人なら、次の4月には、それなりの指揮者になれるだろう。
 それこそ山百合会を脅かすような存在に。

「代わりに私の部下を一人、あなたにあげる」
「部下?」
「いい腕してるわよ。私が仕込んだんだから。保証する。もっとも――」
「……?」
「いえ、なんでもないわ。近い内に紹介してあげるから、せいぜいこき使ってやりなさい」

 もっとも、もし“瑠璃蝶草”に彼女を飼うだけの器量がなければ、完全に食われるだろうけれど――
 そう言おうと思ったが、やめておいた。
 言わなくてもわかっていると思ったから。だったら言うだけ相手に失礼だ。
 このリリアンにおいて、自分が認めない者の下に就こうとする者など、まずいない。

「そろそろ始めたいんですが、まず“十架(クロス)”さまを起こしていただけますか?」

 「じゃあ私が」と“氷女”が買って出た。「強く殴らないと起きないわよ」と忠告しつつ、“宵闇の雨(レイン)”の視線は“瑠璃蝶草”に向いている。
 興味深い逸材である。もしまだ白薔薇勢力の隠密だったら、参謀候補として少し欲しいくらいだ。

「今更だけれど、なんとかできるの?」
「私より力の強い人ならわかりませんが、そうじゃないならできますよ」

 つまり、“桜草”を除けば、リリアン全ての異能使いと未覚醒者にも対応する、ということになる。
 三薔薇が隠匿するだけあって危険極まりない力である。これで駒さえ揃えば、充分山百合会の壊滅を狙えるだろう。
 ――“宵闇の雨(レイン)”が指揮を取れば、できると思う。
 でもきっと、それでは意味がないのだろう。
 彼女は華の名を語る者、山百合会の敵だ。
 そして“宵闇の雨(レイン)”は山百合会の本性を知っている分だけ、山百合会を敵視しないしできない。だから協力もできないのだ。

「“九頭竜”さまの指揮は、“レイン”さまの納得いくものだったんですか?」
「ん? んー……どうかしら」

 三年生になった当初、“宵闇の雨(レイン)”も“九頭竜”の指揮には期待していた。彼女なら自分の能力以上、限界以上を引き出すような使い方をするのではないか、と。
 しかし、結果は全く違った。

「彼女は首輪を外したわ。早々にね」
「首輪?」
「人事が終わってすぐに命令された。『白薔薇勢力は任せる。ついでに自分の指揮もよろしく』、って」
「……それって、“レイン”さまが白薔薇勢力を動かしていたってことですか?」
「その通りよ。まったく。隠密に使われる総統がどこにいるんだって話よ」

 まあ、その命令を貰った時は、すごいと思ったが。
 首輪を外して自由を与えたかと思えば、“宵闇の雨(レイン)”をピラミッドの頂上に置いたのだ。一人で勝手に動けば転落するような、極端に足場が少ない高い高い頂上に。
 足場となっている部下は沢山いる。
 手足のように動いてくれる者もいる。
 だが、不都合の方が多かったし、何より窮屈だった。
 それに白薔薇勢力には元々問題があった。
 それでも今まで生かしてきたのは、獅子身中の虫に触れなかった“九頭竜”の判断と、“宵闇の雨(レイン)”の同意を含めた見事な統率から成り立っている。
 考えてみれば、いつ反乱分子が藤堂志摩子を押さえ、白薔薇狩りに打って出るのかわからなかった。だがそのタイミングさえ調整していた“宵闇の雨(レイン)”の判断力と洞察力は、やはり非凡と言わざるを得ない。
 ――“九頭竜”の采配が正しかったかどうかはわからないが、“宵闇の雨(レイン)”は、“九頭竜”はきっちり自分を使い切ったと思っている。実際“宵闇の雨(レイン)”は自分の知識と経験を総動員して勢力を動かしていた。それこそ自分の限界を超えるほど見事に。

「……ところで“氷女”、やりすぎじゃない?」
「え? そう?」
「“十架(クロス)”さま、鼻血出ちゃってますよ」
「でも起きないが」

 軽くボコボコにされているにも関わらず、“十架(クロス)”は「うふーうふー」と変な寝息を立てていた。
 まったく筋金入りである。




 ――それから三分後。

「やりすぎでしょ……コレ絶対やりすぎでしょ……」

 ようやく“十架(クロス)”は目覚めた。
 鼻を押さえながら涙目で。

 ――紅薔薇勢力突撃隊隊長“十架(クロス)”。
 突撃隊には珍しく穏やかな性格で、攻撃性も低い。闘えば当然強く“氷女”も何度か負けかけているが、“十架(クロス)”の恐ろしさは最前線での仲間のサポートで発揮される。
 単純に言えば、“十架(クロス)”と組めば“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃が三薔薇くらい強くなる。冗談抜きで“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に勝てるかもしれないくらいになる。

「私なんでお花に囲まれて“氷女”にボコられてるの? ここを私の死に場所にするの? ……私なんか粗相したの? いびきがうるさかったから殺す気だったの? まさかお漏らししたから?」
「いや……とにかくすまない。何度殴っても起きないから力を入れすぎた」

 正直、冗談抜きで、どうしても起きなかったからつい本気で入れてしまった。“氷女”本人も悪いことをしたと思っている。

「それより“十架(クロス)”、話があるのよ」
「……」
「…………」
「……?」
「……………………」
「寝ないで!」
「あっ? あっ、あー……ごめん寝てた。おかあさん朝ごはん何?」
「なぜ私を母と呼ぶ」
「さあ? 似てるんじゃない?」
「似てないよ」
「似てないって」
「じゃあなぜ母と呼んだ」

 なんだこの無駄なやり取りは、と、一人蚊帳の外の“瑠璃蝶草”は思った。
 とにかく、このままだとまた“十架(クロス)”が深い眠りについてしまう。早く話を進めるべきだ。

「“レイン”さま」
「あ? ああ、うん――話があるのよ」
「ん〜……“レイン”の持ち込む話はろくなもんじゃないからやだぁ」
「はっきり言ったわね」
「私も同感だが」
「うるさいわよ」

 まぶたが閉じかけている“十架(クロス)”を見て、“宵闇の雨(レイン)”は具現化した“水”を全身にぶちまけた。

「どう? 目が覚めた?」
「……」

 ボサボサだった髪がおとなしくなり、ポタポタと水を落とす“十架(クロス)”の非難げな目が、“宵闇の雨(レイン)”に向けられる。

「力が使えない私に用なんてないでしょう?」
「あるから今会ってるのよ」
「何? お礼参りの類? 勘弁してよ〜。そこまで恨み買うようなことしてないじゃないさ〜」
「そんなことしているほど暇じゃないわよ」
「私ね、もう引退してるのよ。紅薔薇がどーしてもって言うから籍は残してるけど、もう勢力も何も関わる気なし。最近の状況もわかんないし。何より闘えないし。話すだけ無駄よ」
「あなたの事情は聞いてない。ポンコツになったあなたを必要とするくらいの非常事態なのよ」
「いつになく強引ね……じゃあいいよ。話したら?」
「というか話なんてないけどね」

“宵闇の雨(レイン)”は“瑠璃蝶草”に目配せする。

「そこの子が、あなたの“封印”を解けるのよ」
「ほんと? それは嬉しいなぁ。もう“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”のメンツも充分保てただろうし、そろそろいいでしょう」
「その後、必要なら情報を渡すわ。必要ないなら黙って手を貸してくれればいい」
「…………」
「…………」
「…………」
「……“十架(クロス)”?」
「おっ? おぉ……ちょっと寝てたわ、ごめんごめん。え? 何? お昼ごはん?」
「……もういいわ。“瑠璃蝶草”さん、ささっとやっちゃって」
「おかあさん膝枕してぇ」
「だからなぜ私を母と呼ぶのか答えろ」
「ちょっとだけ似てるんじゃない?」
「全然似てないよ」
「全然似てないって」
「さっき聞いたが」
「そろそろいいですかお姉さま方」

 メガネをギラリと光らせ、“瑠璃蝶草”は幾分大きい声で会話を遮った。
 基本的に、二年生の方がしっかりしていたりする。

「まあ冗談はさておき、本当に私の力が必要なの?」
「必要なのよ」
「あなたが?」
「私も含めてよ。たぶん有名どころはほとんど絡むと思う。それくらいの緊急事態」

 眠そうにぼやけている“十架(クロス)”の瞳が、少しだけ現役時代の光を宿す。

「厄介事の臭いしかしないわね。眠いし」
「実際厄介事だからね」
「紅薔薇とうちの総統はこのことを?」
「紅薔薇は知っている。“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は知らないけれど、すぐ耳に入るはずよ」
「上は知ってるのね。ならいいや」

“十架(クロス)”は水気を含んだ寝癖頭を撫でつける。

「じゃあ私が寝る前に用事を済ませてよ」

 ――この“十架(クロス)”の復帰が、後に重大な意味を持つことになる。




「あ、いた! 黄薔薇」
「…?」

 三階の廊下で、中庭に飛び出した黄薔薇勢力総統“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”と紅薔薇勢力遊撃隊隊長“鍔鳴”の一戦をのんびり観戦していたのは、黄薔薇・鳥居江利子である。

「あら。あなた確か紅薔薇の三年生の」

 駆けてきた女生徒を見ても、江利子にはピンと来ない。はっきり名前を呼んだので自分に用があるはずだが、なんの用なのか検討もつかない。

「あなたを探していたのよ」
「私を? なぜ?」
「“鵺子”を止めて」
「……ああ、その手の厄介事ね」

 現在、紅薔薇勢力突撃隊副隊長“鵺子”は、黄薔薇の蕾・支倉令と交戦中である。
 まあ、それに関してはどうでもいい。
 問題は“鵺子”の方だ。
 彼女はある意味“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”よりも危険な存在である。彼女の憑依は、彼女の理性をどんどん奪っていく。その末に一般生徒が巻き込む可能性があるので、勢力が違うだのなんだの言っている場合ではないのだ。

「今、あなたの妹が闘っているけれど、保険を掛けておきたいのよ」
「令が? へえ」

 別に「令が負けるかも」と言っているわけではない。“鵺子”が逃げる可能性を考慮しているだけだ。
 理性がなくなり“獣”に近付くにつれ、“鵺子”は予想できない行動に出ることが多々ある。勝敗に関係なく逃走するのも、その予想できない行動の一つである。
 逃がすと厄介なので、確実に仕留められる人物を保険として押さえておくのが、対“鵺子”対策としてのセオリーだった。
 ――“十架(クロス)”が現役だった頃は、“解除”の“簡易結界”で止められたので、安心かつ安全に“獣”になれたのだが。今では本人も止め役もだいたい痛い想いをすることになる。
 そんな中、無傷で確実に止められる江利子の存在は、大きかった。

「そういうことなら仕方ないか」

 江利子としては、“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”と“鍔鳴”の闘いを観ていたかったのだが。
 しかし、妹の令と“鵺子”の一戦も、なかなか興味をそそるカードだ。
 選択肢として選ぶことはもうできないが、それなりに楽しそうなので、江利子は喜んで保険役を快諾した。

「で、現場は? “鵺子”はどこまで“進化”したの?」
「場所はミルクホール近くの一階廊下。“進化”は……令さんがまだ仕留めていなければ、そろそろ四足。最悪尻尾」
「ああ、尻尾生えると近接戦闘はキツイわね」

 これで必要な情報は耳に入れた。「お先に」と江利子が消え、現場に飛んでいった――瞬間移動で先に行ったのだ。
 だが、伝令の三年生は、まだ行けない。黄薔薇がしくじるとは思わないが、保険は多ければ多いほどいいことを知っているからだ。

「蓉子さんどこよ……」

 走り回っているが、蓉子はまだ見つからない。
 ――“契約書”が三枚揃っていることを、蓉子は知っているのかどうなのか。紅薔薇の意向次第で紅薔薇勢力は動くことになる。
 とにかく、探すしかなかった。




 現場から少し離れた廊下の先で江利子が見たものは、まあ、予想通りのものだった。

「珍しい」

 あの令が膝をついている――どうやら劣勢らしい。
“鵺子”は強い。
 アレは近接戦闘以外には滅法弱いが、こと近接戦闘においては冗談でも笑えないってくらいに強い。特に尻尾が生えた状態はまずい。もう生えちゃっているが。

「あ、黄薔薇だ」
「ん? ……あら。こっちも珍しい」

 声を掛けてきたのは、由乃のケンカ友達の“鋼鉄少女”だった。

「順番守ってくださいよ。次は私の番ですからね」

 どうやら“鵺子”と一対一で闘うつもりで待っているようだ。相変わらずのケンカ好きである。

「どうぞお好きに。でも、令は負けないわよ?」
「フン。由乃ちゃんのお姉さまなら、あれくらいの相手に負けてもらっちゃ困りますけどね!」
「まだ諦めてないの?」
「諦める理由がどこにあるんですかね!」

“鋼鉄少女”は由乃が大好きで、未だに由乃を妹にすることを諦めていない。そして支倉令とは犬猿の仲だ。

「だいたいあんな優柔不断な人のどこがいいんですかね!」
「え? 顔じゃないの?」
「か…………顔か……」
「いやちょっと。冗談なんだから深刻な顔して落ち込まないでよ」
「ベビーフェイスじゃダメですか?」
「私は好きだけど」
「黄薔薇の好みはどうでもいいんです」
「その『由乃ちゃん以外どうでもいい』って態度、私は嫌いじゃないわよ?」

 江利子どころか三薔薇に対してこんな態度取れる下級生なんてそういない。だから江利子はわりと気に入っている。由乃が世話になっていることも含めて。

「――で、どう?」

 江利子の声に真剣みが含まれると、“鋼鉄少女”も顔を引き締める。

「今のところ実力は五分ですけど、令さん尻尾知らないんですね。いきなり受けてました」
「ああ、あの子情報とか疎いから」

 だからこそ令の恐ろしさが際立つのだが。
 令は情報で補うべき作戦や戦術を、ほとんど己の鍛錬という培った実力のみで覆す。相手が何をするのかわからないという状況下でそれでも正攻法で対抗できるのだから、ある意味で偉才と呼ぶべきだろう。

「そろそろ1分経ちます。まだ動ける方が驚異的ですが」
「となると勝機は薄い、か」
「私はそう見てますけど――でも由乃ちゃんの姉なら、負けるところなんて見たくないですけどね」
「あら意外。令を応援してるのね」
「当然。令さんを倒していいのは私だけですから」
「そんなところも嫌いじゃないわよ?」

 さて。
 いよいよ令の身がまずいことになっているのはわかったが、江利子はやはり、令が負けるとは思っていなかった。
 状況的にここから逆転は不可能に近い。
 だが、それはそこらの中堅レベルの話だ。

 自慢の妹、黄薔薇の蕾・支倉令は、ここからが違うのだ。




 かすり傷を負って15秒が経過した頃、ようやく令は己のミスに気付いた。

(左手が痺れてきてる……“毒”か!)

 立ち回りの最中、第五の攻撃手段――勢いよく振り抜かれた尻尾の一撃を左腕に受け、アレの先端に皮毛と同色の“毒針”があることに気付いた。
 兆候はあったのに、見抜けなかった。
 アレは制服を突き破って出てきたのだ。ならば先端が硬くとがっていると察することはできたのに。
 そして、“鵺子”の動向にも変化が見える。
 今まではただ突っ込んでくるだけだったのに、ゆらゆらと身体を揺らすフェイントを続けながら、じっと令を観察している。
 まるで、流し込んだ“毒”で弱るのを待っているかのように。

(まずいな……全身に回る? それとも掠った程度ならここまで?)

 即効性は高いようだが痺れ以外の不調はない。体調は変わらず、意識もはっきりしている。
 ――どちらにせよ、早く仕留めるべきだ。

「くっ……!」

 だが、追いつけない。
“鵺子”は完全に待ちに入って逃げ回り、令は“毒”のせいで動きが鈍ってきている。よしんば追いついてもまともな一撃で倒すことができないことはもう試している。

 焦りだけが先行し、30秒が経過した。

 膝が震え出し、力が入らなくなってきた。
 どうやら全身に回る“麻痺毒”のようだ。
“鵺子”は獲物を狙う肉食獣のごとく令を凝視し、令はついに片膝をついた。

 ――途端、“鵺子”が仕掛けてきた。

 四肢の爪を走らせ、令の身体を狙う――もう避けるのも難しくなってきた。見切りは正確だが身体がついてこない。尻尾の攻撃だけは全力で避けているが、その他はそれなりに当たっている。
“鵺子”は攻めると見せかけて退き、退くと見せかけて攻めるという虚実の動きで翻弄する。そして深く攻め込まず、掠る程度で退く。
 獲物をなぶっている――のではなく、弱らせているのだ。
 ――令は知らないが、そもそも“鵺子”の“毒”は、“進化”のほぼ最終段階に当たる。つまりこれを見れること自体がそのまま“鵺子”の、相手への危機感となる。
 だから動きの一切に油断もないし、遊びもしない。

 50秒が経過すると、令はもう血まみれだった。

 全身を浅く刻まれ、ボロボロだ。
 力の入らない両膝が折れ、両手はだらりと下がり、白木の木刀“疾風”も消していた。
 しかし、それでも令の瞳は、血を求める刀身のように輝いていた。
 まだ負けていない。
 それを感じている“鵺子”は、足を止めて令を見ている。――この状況でも余裕はなく、油断もない。さすがは自我まで失おうとも紅薔薇の幹部である。
 だが、待っていた甲斐があった。

(……よし、来た)

 そして、尻尾の攻撃だけは無理して避けてきた甲斐があった。
 令の強靭な基礎能力が、体内に巡る“麻痺毒”を自浄し始めたのだ。傷を受けた左腕はまだ動かないが、右手の握力は戻ってきた。

「“流転”」

 静かな声に答え、右手に黒塗りの木刀“流転”が具現化する。
 ――令は、“流転”を実戦に用いることは少ない。別に切り札というわけではない。強力すぎるというわけでもない。恐らく、強い弱いの次元にない。
 この“流転”の特性は――

「……」

 令は柄尻で、左腕の傷――“麻痺毒”を注がれた傷に押し当てた。

 この“流転”の特性は、生命以外の“破壊”である。

 生命は含まれない。あくまでも生命以外である。だから人を殴ったところで効力はなく、その場合はただの木刀扱いでしかない。
 ただし、生命以外は“破壊”できる。
 刀と合わせれば一方的に“へし折れる”し、弾丸やミサイルだって“流転”に傷一つ負うことなく“変形させ打ち返す”ことができる。
 いつか足を取られた思念体――“冥界の歌姫”も、恐らく“斬る”ことができるだろう。“冥界の歌姫”が物理法則にないように、令の“流転”も物理法則を越えた能力だ。言うなれば武器破壊専用の武器、といったところか。
 令はその特性を利用し、“麻痺毒”の“破壊”を行った。

「……よし」

“麻痺毒”を“破壊”した令は、黒塗りの木刀からいつもの白木の木刀に握り直し、立ち上がる。傷に近い“麻痺毒”は“破壊”できた。まだ両足の先と左手に痺れは残るが、それでも、これなら闘うことはできそうだ。
“鵺子”の動揺は見えない。
 当然のように思っているのか内心驚いているのかもわからない。
 だが、もう、決着はついている。

「あなたの動きはもうわかる」

“鵺子”が見ていたように、令も“鵺子”を見ていた。
 奇抜にして人とは思えない攻め方と癖、動きのパターンと歩幅と攻撃速度、そしてそれらに生じる隙の数々。
 すでに攻略法はできている。
 すぐに“麻痺毒”を消さなかったのは、これ以上“進化”させないため。
 だからずっと“鵺子”の攻撃に身を晒しつつ、観察していた。
 次に攻勢に出る時、確実に仕留められるように。

“鵺子”が消えた。
 消えるような速度で令に向かう。
 だが、もうわかる。
 奇抜に見えるステップも、接近方法も、もうわかる。

  ガッ!

 残像を見抜く令の袈裟切りを、“鵺子”は右足の裏で受ける。
 ――こんな奇妙な闘い方も、充分見せてもらった。
 軸足が浮き、伸びた黒髪を振り乱しながら、しなやかな獣の身体が宙を踊る。肩から回すように令の頭上に振り下ろされた右手の爪を紙一重でかわし、回転の軸となって動かない“鵺子”の頭を蹴り飛ばした。しかし“鵺子”は人間離れした反射神経で壁に両手足を着いて衝撃を殺し、そのまま天井へ跳ね――

「―――――――――っっ!??!?」

“鵺子”の瞳に、初めて敵意と闘争心以外の感情が見えた。

 それは、動揺だ。

“鵺子”の行動を確実に読んで先回りしている令に、驚きを隠せない。
 天井に両手足を着いて地上への一撃を加えようと溜めている“鵺子”の目の前に、飛んだ令が木刀を振りかぶっていた。

「うおおおおおおおおお!!!」

 魂切るような気合い声とともに放たれた渾身の一撃は、“鵺子”を力の限り殴り落とした。“鵺子”は背中から落ちて派手に床板をぶち抜く。その音、勢いから、どれほどの威力があるのか窺い知れた。
 さすがにこれは効いたらしい。これまでならすぐに立ち上がる“鵺子”は、穴の中でもがいていた。
 だが、まだ足りないのだ。
 この“獣”を仕留めるには、まだ足りない。
 地に降りた令は“鵺子”の胸倉を掴み強引に壁に投げつけ、それを追う。“鵺子”が壁にぶつかるのとほぼ同時に、令は木刀を上段に構えていた。
 踏み込みが一歩足らないそこで、

「参閃“杯花”」

 令は音速を超える木刀を振るった。
 変化は、ない。
 だが、もう決着はついていた。
 令は木刀を消し、踵を返し、歩き出す。

「…………!?」

“鵺子”の動揺が一層強くなったと思えば、びちゃっとしぶきが張り付く音がした。
 続いて、どさりと重いものが崩れる音がした。
 それで終わりだった。

 打撃ではなく、斬撃。
 左鎖骨から右脇腹に斜めに走る赤い線。
 本気で殴ってもダメージが軽減される“鵺子”の毛皮は、深く深く斬られていた。




「令」
「あ、お姉さま」

 激戦を制した自慢の妹に、保険として呼ばれた江利子が声を掛けた。

「見ていたわよ」
「あ……お恥ずかしいところをお見せしまして」
「まあ、そうね。勝ったとは思えない格好だものね」

 時間にすれば、まともに攻撃に晒していたのは30秒ほどである。なのに制服はもう切り刻まれてボロボロ、自身の血でどす黒くなっている。
 本当に闘いづらい相手だったと思う。それと同時に貴重な体験をしたとも思った。

「フン。負けてもよかったのに」

 何気に、江利子の隣に“鋼鉄少女”がいたりした。

「……なんであなたがいるの?」
「令さんの負けっぷりを拝めるかと期待して見てたんだけど。なんか文句でも?」
「ああ、ご期待に添えずごめんなさい。あなたじゃないから勝ってしまったわ」
「え? それってケンカ売ってるってこと?」
「別に? まあそう思うならそれでもいいけれど?」

 まるで昭和のヤンキーのごとく至近距離で睨み合う令と“鋼鉄少女”。――普段は温厚な令も、こと由乃絡みになると冷静ではいられない。
 そんな二人を「面白いなぁ」と思いながら江利子は笑い――さすがに驚いた。

「……まだ動くの?」

 令も、“鋼鉄少女”も驚いた。
 呆然とする江利子の視線を追えば、血を吐きながらゆっくり立ち上がろうとしている“鵺子”の姿があった。深い斬り傷からどくどくと生命が流れている。
 だが、動いている。
 闘争心こそ弱まっているが、まだ憑依も解除されていない。
 まだ“獣”のままだ。

「しまった!」

 とどめを刺す前に、“鵺子”が走り出した。
 令に向かってくるのではなく、反対側に走り出した。
 ――逃走だ。
 それも、逃げる方向が最悪だった。

「逃がさないで!」

 江利子が叫ぶ。
 さっき“鵺子”にやられた連中がギャラリーと化して壁となっていたのだが、しかし“鵺子”は怪我などものともしないかのように、爪を食い込ませるようにして器用に天井を走り、包囲網を突破した。

「まずいわよ!」

 珍しく江利子が焦った表情を浮かべ、消えた。
 意味を察して令も走り出す――が、痺れのせいで足がもつれ、転んでしまった。

「って何やってるのよ!」

 令と同時に飛び出していた“鋼鉄少女”が舞い戻り、令を小脇に抱えて走る。

「貸し一つだからね!」
「くっ……」

 だが、令には文句が言えない。“鵺子”を完全に仕留められなかったのは令のせいだ。たとえ江利子でさえあれは仕留めたと判断していたとしてもだ。
 どちらにせよ、誰もが焦るような、非常にまずい状況だ。


“鵺子”が向かった先は、一般生徒が溢れ返るミルクホールだった。




 しくじった、というのが全ての感想だった。
 たったコンマ1秒の遅れで、ここまで追い込まれるとは思わなかった。
 さすがである。
 それ以外何も言えない。
 腕に力を込めると咳が出た。
 ごぼりと血の塊を吐いた。
 大丈夫。
 まだ動く。

「はあ、はあ」

 祥子は大きく息を吸い込み、吐き、深呼吸を繰り返しながら立ち上がる。

(最初の“木炭の矢”のダメージはほぼない。身体を開いた時の数十本がかなり痛いけれど、この程度なら問題なし。動きも制限しない。腹の一撃は致命傷。これが狙っていた一撃必殺か)

 祥子は冷静に分析する。
 幸い急所だけは全て外している――地から生えた“巨大木炭”も、ほんの数ミリ、ギリギリで急所を避けられた。
 ――本当に、さすがとしか言えない。

「強いわね、“鴉”さん」

 そして、この状況で、祥子は胸を張って勝気に笑って見せた。
 「大したことない」と言わんばかりに。

「……」

 そんな祥子を、“鴉”はただ見ていた。
 もし“鴉”が闘うことが好きなら、今の祥子に何か感じ入るものがあるのかもしれない。
 しかし“鴉”は違う。
 心も声も熱くなっていない“鴉”は、事務的に言葉を発した。




「“契約書”を渡して。嫌なら続けることになるけれど」

 ならば答えは決まっている。

「じゃあ、続けましょうか」

 誰が見ようと終わったも同然の勝負は、当人同士の意向で続行される。










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