【3613】 揺れた次の瞬間  (海風 2011-12-29 11:00:56)


【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】
【No:3171】【No:3174】【No:3177】【No:3183】【No:3187】
【No:3196】【No:3205】【No:3233】【No:3249】【No:3288】
【No:3327】【No:3380】【No:3397】【No:3443】【No:3464】【No:3498】【No:3501】 解説書【No:3505】
【No:3509】【No:3515】 【No:3538】【No:3541】【No:3589】【No:3593】【No:3597】【No:3601】から続いています。









 小笠原祥子の実力を知る者は少ない。
 ――今日までは。

 貫通している腹から血を流しながら、祥子は頭を切り替えた。
 衆人環視のこの状況だが、どう考えても周囲の目を盗んで目の前の相手を叩き伏せる手段が見つからない。
“鴉”。
 無所属で最も強く、恐らく二年生でも最強であろうと囁かれる人物だ。ほんの少しだけ見せた実力だけ取れば、どうにもそれが真実らしいと祥子も判断した。躊躇のない踏み切りと先読み、動きが非常に正確で隙がない。力と身体と精神がこれ以上ないくらいに高レベルで噛み合っている。
 きっと三勢力総統と並ぶだろう。
 そして、たぶん自分より強い。

 衆人環視のこの状況だが、どう考えても、奥の手というカードを切らないと状況は変わらない――というより、負ける。

(仕方ない、か)

 祥子は覚悟を決め、――“揺れた”。
 緩やかな風に髪が踊る。
 風など吹いていないのに。

「……驚いた」

“鴉”の目が丸くなった。

「あなた、“回せる”のね」

 今度は祥子が驚いた。

「知っているの?」

 ――祥子の“揺れる”現象は、超速の力の“回転”にある。
 普通なら体外に発散するべき――具現化能力などに転換するべき力を、外に出さず皮一枚隔てた体内だけで全身に“回す”のだ。頭からつま先まで、そしてつま先から頭まで。“回された力”は、発する時の瞬発力と、力の摩擦によって膨張し、その力に耐えられるよう一時的に基礎能力が高くなる――それも爆発的に。
 普段の祥子は、それを一瞬一瞬のみ使用し、「相手よりわずかだけ上回る」というフェイクを掛けて誤魔化していた。この状態の祥子なら、黄薔薇の蕾・支倉令の基礎能力さえ超えることがあるにも関わらずだ。
 これは能力ではなく技術である。
 会得しようと思えば誰でも会得できる――力の使い方が上手ければ。
 祥子がこの技術に至った理由は、実は令である。「常時肉体強化」などというふざけた能力を調べ、考えて辿り付いた、一つの答えだ。
 ――もしや令はこれを自然とやっているのではないか?
 令は多くのリリアンの子羊と違い、幼少から剣術を学んできた武道家のようなものである。
 つまり、根本的な力の使い方が違うのではないか。
 実際令が(無意識に)この“回す”技術を使っているかどうかはわからないが、祥子の出した答えはこれだった。
 姉である紅薔薇・水野蓉子が祥子のことを天才だと判断したのも、この技術にある。これは従来の力の使い方ではない。そもそも発想自体が変質的すぎる。

「一つだけ前例があるから」

“鴉”が口にしたその事実にも驚いた。
 祥子は、(令が無自覚なら)これは自分が考えたオリジナルだと思っていた。令の常時肉体強化に同様、あるいはそれに類似する異能は、調べても見つからなかったからだ。似てると思えば憑依かただの強化か、という具合に。
 簡単に会得できるようなものなら、すでに皆が使っているだろう。過去にも発見されていたはずだ。それだけこの技術は難易度が高く、実戦に投入するには更に難しい。祥子はかなり苦労して会得した。実戦で使うとなれば、もはや息を吸うかのように使えねばならない。

「まあ、おしゃべりはいいわね」

“鴉”はすっと指を差す。

「傷、塞がった?」
「待っていてくれたなんて感激だわ」
「非常に珍しいものを見せてくれたから、そのお礼」

“回している”間は、基礎能力が非常に高くなる。即ち自然治癒力も上がる。

 更に、この“回転”は、“回転”し続ければし続けるほど、基礎能力は上がっていく。それこそ紅薔薇勢力突撃隊副隊長“鵺子”の“進化”より圧倒的に早く。
 だが、あまり人に勧められる技術ではないと、祥子は思っている。
 本来発散するべき力を堂々巡りさせて溜めている――それは風船をどんどん膨らませているようなもので、身体への負担が非常に大きいのだ。一瞬一瞬使うくらいで丁度いい。
 早くも祥子の長い髪の先が、白く変色しつつある――力の膨張に、祥子という器が耐えられなくなってきているからだ。
 しかし、今使わずしていつ使うというのか。

「祥子さんも、時間がなさそうね」

 この状態を2分もキープすれば、祥子の身体は壊れるだろう。
 だが、2分あれば充分だ。
 1秒ごとに毛先から色が抜けていく祥子を眺めながら、“鴉”はゆっくりと身構えた。

「ちなみにそれを使った人の二つ名」

“鴉”が身構えるのは珍しい。
 それだけ今の祥子を脅威に感じているからだ――祥子の気配は変わらないので周囲にはわからないだろうが。

「――“巡凶者”ですって。かつての薔薇が使ったらしいわよ」




 祥子が消えた。
“鴉”の身体がわずかに沈む。
 微風が吹き抜けた。

「……これは……」

“鴉”は振り返り、“駆け抜けた”祥子を見た。

「どうやら手加減なんていらないみたいね」

 冷静な顔をしてはいるが、“鴉”は内心焦っていた。
 今のスピード、“鴉”には微塵も見えなかった。
 そして“鴉”も驚いてはいるが、実はそれ以上に祥子の方が驚いている。

(今のを避けた!?)

 戦意を殺ぐために腕の一本でも奪おうと剣を振るったのに、かすりもしなかった。一瞬と言うのも憚られるようなあの速度に、“鴉”はきっちり付いてきた。
 つまり、この状態の祥子でようやく“鴉”の実力に追いつけたということ――そう考えるとかなりの絶望感を覚えた。
 こっちは時間制限付き、向こうは平素だ。この差は非常に大きい。

 しかし、実際は違う。

(今のは危なかった……)

 元々悪巧みをする稀代の悪党張りに鋭い“鴉”の目が、今や世界に誇る凶悪犯と言っても信じられるくらいに険しく細められている。
 ――“鴉”は祥子のスピードに付いてきたわけではない。
 ただ、超速で突っ込んできた祥子が、“鴉”の展開している“ペンキ”を踏んだのだ。その瞬間、祥子の接近に感付いて、身体が勝手に回避した――これが真相である。
 だから、お互いが相手を過大評価し、同じ結論を抱き、改めて構える。

 本当に、全てを出し切るつもりでやらないと負ける、と。

 あとはもう、言葉はいらなかった。
 再び祥子が消え――足が付いてこなくて上半身だけ突っ込むという、あらぬ格好で“鴉”の目の前に現れた。“鴉”が石鹸水のようにぬるぬるの素材に変えた“ペンキ”を仕掛け、思いっきり滑らせたのだ。
 祥子は誤解しているが、“鴉”はすでに、祥子のスピードには付いて行けない。
 だからまず足を封じる必要があった――“回転”させて基礎能力が高まったのなら、物理法則と慣性と惰性も変わる。
 異常なまでの速度で、上半身から突っ込んでくるという無防備な祥子の顔面に、“鴉”の渾身の突き出すような右フロントキック――靴底がめり込んだ。
 音の壁にぶつかりそうなほどの己の速さが、カウンターとなって返ってくる。
 それでも祥子は止まらず、慣性に従って今度は下半身が先になって“鴉”のほぼ真下を抜けていった。

「ぐ…!」

 予想以上の重みに、“鴉”の突き出した右足の膝に痛みが走る――間接を繋ぐ軟骨が圧縮されてどうにかなったのだろう。
 そもそも基礎能力とは、本人の力の使用に身体が耐えられるように上昇するものだ。
 つまり今の祥子は、あの速度でも身体が付いていけるように、筋力も増しているということだ。
 痛みを顔に出さずに“鴉”が振り返ると同じく、祥子は次なる突進に向けて体制を整え、身構えるところだった。
 ――やはり、攻撃した“鴉”の方がダメージを負うほど、祥子の身体は頑丈になっているようだ。

(上……いや、左だ)

 次なる祥子の突進ルートに当たりをつけた“鴉”は、その後の一手を練る。あまりにも短すぎる瞬きの時間に、ほとんど直感に近いものの、それでもいくらかの選択肢を取捨している。

 向き合う祥子も、当然のようにそれを考えている。

(やはりあの“ペンキ”は曲者か)

 すでにここら一帯は、“鴉”の仕掛けた“塗装”だらけになっている。景色に溶け込むよう“着色”までされているのでパッと見では判断できない。
 直進はもうダメだ。
 また床の“ペンキ”で滑って転ぶのが目に見えている――自分でも驚くほど見事にすっ転んだのだ。速度を武器と捉えていたが、諸刃であることを学ばせてもらった。

(壁か天井……左、いや、右)

 祥子が突進ルートを決め、“鴉”の予想にハマッた。
“鴉”から見て左、祥子から見て右。
 祥子が走り抜けようと足場に決めた道は、廊下の窓側である。どう見ても窓ガラスにまで“塗装”はされていないからだ。
 もし瞬間的な判断じゃなければ、祥子は更に裏を考えただろう。
 時間制限――それも自分の身体に負担が掛かるという心理が、判断を急がせた。
 窓際から走りこんできた一撃を予想していた“鴉”は、祥子の超速の突きを回避することに成功した。首筋をかすめる冷たいものなど気にも留めず、“鴉”は考えていた一手を実行する。
 足元の“ペンキ”が祥子の足にまとわりつき、乾燥して“固まる”。
 しかし所詮は“ペンキ”である。特に今の祥子には特に拘束力などない。

 だが、ほんの少しだけ、意識を逸らすことはできた。

 気を逸らした一瞬に“鴉”は付け込む。
 腕を引き二手目の剣撃に入る祥子の意識を逸らし、割り込み、そのわずかな隙間に“鴉”の反撃が入る。首筋に当たる紅い刀身を自らすべらせ、“鴉”は一歩分だけ歩み寄り、左手で突きを繰り出した右腕、右手で祥子の胸倉を掴んだ。
 基礎能力は上がっても、体重までは変わらない。
“鴉”は力技で祥子を振り回し、思いっきり壁に投げつけた。投げつけると同時に、壁の“塗装”が形を変え――“木炭の矢”が剣山のような形で発生した。
 祥子は背中からまともに、針の山となっている“木炭の壁”に突っ込んだ。
 べきべきと音がした。
 ――“鴉”は更に嫌な汗を掻いた。

“木炭”が一本も刺さらず“折れた”のが、わかったからだ。

(これが“巡凶者”か……そりゃ薔薇にもなるわ)

 基礎能力の伸び幅が尋常じゃない。ただの強化能力だと思えば大違いだ。強化能力は力とイコールで結ばれるので、上限の予想はつく。
 しかし祥子のこれは、その枠を大きく超えている。
 何より、実戦レベルでこれを使える祥子の技術だ。“それ自体”の維持だって大変なはずなのに“紅夜細剣(レイピア)”のみ力を開放し、攻撃を食らってなお持続できるほどの集中力は並外れている。もし“鴉”が一帯に“塗装”を施す前だったら、すでに負けているだろう。
 とにかく、これで攻撃手段がかなり限定されてしまったことを悟った“鴉”は、もはや攻撃を捨てた。
 祥子の使っている“回転”は、身体への負担が非常に大きい。だから時間さえ経過すれば、攻めるまでもなく祥子は自滅する。
 立ち回りを変えることを決めた“鴉”を前に、ここで祥子の足が止まった。

(信じられない。ここまで強いだなんて)

 祥子は驚きが続きすぎて、若干パニックにさえなっている。
 だが、それは全て誤解である。
“鴉”は祥子と張り合っているのではなく、先読みで勝っているだけだ。特に今の祥子は自分でも焦っている自覚がない。そんな相手なら行動くらい余裕で読める、というだけである。
 だが、祥子にとっては、目の前の強者は「もしかしたら三薔薇とさえ並ぶのか」と思わせるくらいの大きな存在に見えている。
“鴉”の攻撃はほとんどダメージはないが、今の祥子にまともに二回も攻撃を当てているという事実は、たとえダメージがないからと無視できるものではない。その二回が一撃必殺だったら、祥子はすでに倒れている。
 これも焦りから来ている。
 そこらの中堅じゃない、“鴉”は三勢力総統と並ぶと言われるほどの強者である。
 はっきり言えば、二回も一撃必殺をしくじるわけがないのだ。
 ――つまり、祥子に対する“鴉”の攻撃手段がない、またはかなり限られている、ということだ。先の二回の攻撃は、普通ならそれで充分一撃必殺になりえたはずなのだから。少なくとも“鴉”はそう判断していた。
 普段の祥子なら、気付いていただろう。
“回転”を常時使用しての戦闘への不慣れさから、まだ精神面が付いてきていないのだ。

(……やるしかないか)

 じりじりと自らの身体を蝕む力に追われ、祥子は未だ未完成していない必殺技を使うことを決意する。
 できれば使いたくなかった。
 というより、未完成だから使えなかった。

 ――危険すぎて。相手が。

 だが、“鴉”に致命傷を負わせるには、それしか手が浮かばなかった。




「じょ、冗談じゃないですよ……これ“6本”でも足りないじゃないですか!」

 その声には、もはや恐れを通り越した危機感さえあった。

「これで『力の一部』なんでしょう!? だったらその“桜草”って……!」
「いいから黙って調べて」

 新聞部部長・築山三奈子は、言われるまでもなくそれを知っていた。
 問題は、信じがたい事象に対する愚痴や文句ではなく。
 それらにどう対処するか、だ。
 ――つい先程、“禁断の死角(パンドラボックス)”にて部室に呼び戻した部員……ではないのだが、内定していている中等部三年生・高知日出美は、問題のそれを手にし、顔を青ざめている。
 三奈子は、そんな下級生を「まだまだ修羅場が足りないな」と思って見ていた。
 それが普通なのに。
 よくよく考えれば、一年生の頃から活躍している新聞部部員なんて、ここ数年で言うなら三奈子くらいである。妹の山口真美はきちんと危機の一線を守っているし、それは他の部員も同じだ。普段でさえギリギリの綱渡りなのに、時と場合に応じて駆け抜ける三奈子のような危ない活動は基本的にしないのだ。
 まあ、それはともかく。
 日出美の手には、紅薔薇・水野蓉子から渡された“紅い薔薇”がある。

「もしかして調べられないの?」
「……いえ、大丈夫です」

 冷や汗すらにじませるが、日出美の表情が締まる。
 彼女の能力は、新聞部向きの情報処理能力“多目的記憶媒体(スイートメモリー)”。
 USBメモリーのようなものだと思えば早い。映像、サウンド、文章ほか瞬間記憶能力などへの転用も利くという、“記録”に関する全てをまかなう。
 ただし、“記憶媒体”自体は日出美しか利用できない。
 ――正攻法では。

「では、始めます」

 日出美が具現化するのは、親指の先ほどの“バッジ”である。ピンクのハート型という日出美の趣味を伺わせる物質を“紅い薔薇”に張り付けていく。
 合計“7個”だ。

「……信じられない。これだけで紅薔薇の力を越えています」

 ちなみに華の名を語る者一行を抜かせば、現リリアン最高の力の持ち主は、紅薔薇たる水野蓉子だった。その蓉子でさえ“5個”で計れる。それでも情報に特化した日出美の“多目的記憶媒体(スイートメモリー)”の容量半分、最大“10個”の半数を要するのだ。
 「力の一部」であるはずの“紅い薔薇”は、一部だけで蓉子をも越えている。日出美が取り乱すのも無理はない。

「本人もそう言っていたわ」

 日出美からすれば「どうして三奈子はこんなに冷静なんだ」である。三奈子からすれば「潜ってきた修羅場の数が違う」である。
 今は日出美の困惑に付き合っている場合ではない。日出美のためにもだ。
 こんな危険極まりない代物が出てきてしまった以上、“桜草”問題が片付くまでは、日出美を中等部に返すべきだ。それはもう決めている。できれば“契約書”争奪戦関係の諸々を“記録”して欲しかったが、状況が状況だ。誰かと揉めたのであればどんな相手だろうと出張って交渉して安全を確保する自信はあるが、新たな異能使い“桜草”だけは未知の存在である。どんな人でも覚醒直後の行動はわりとパターン化されている。それに漏れる場合は、その後の歩みもセオリーから漏れるはずだ。だから“桜草”の次の行動が読めない。
 それより何より、まず正体を探し出さないと、交渉や取引を持ちかけられない。

「なんとか“映像”は拾えましたが……」
「でかしたわ」

 これがあるから中等部生でも新聞部部員として投入しているのだ。
 日出美の“多目的記憶媒体(スイートメモリー)”は、“記録”を吸い出すには直接“力”に“バッジ”を張る必要がある(従来なら使用者に貼り付ける)が、今回の“絶大なる力”にもちゃんと対応できたようだ。
 そして、ここで出番なのが“禁断の死角(パンドラボックス)”である。

「そういえば、日出美ちゃんにはまだ“これ”の説明していなかったわね」

 三奈子は片手に乗るほどの小さな黒い箱“禁断の死角(パンドラボックス)”を取り上げる。

「“禁断の死角(パンドラボックス)”ですか? 真美さまに聞いたら『それに限らず能力関係のことは絶対に聞くな』と注意されましたが……」

 三奈子は感心した。
 妹はちゃんと後輩を指導しているようだ。そう、そこを弁えないと、どこから疑惑の目や敵意を向けられるかわからない。

「この“禁断の死角(パンドラボックス)”は、能力を“記憶”させることができるのよ」
「能力の“記憶”ですか……」
「容量を超える“記憶”はできないから、ちょっとした情報系能力を複数搭載している程度のものだけどね。戦闘用異能なんてとてもじゃないけど“完コピ”できないし。“記録”と“再現”の複合体だから、ちょっとだけ日出美ちゃんの能力と似ているかしら」

 まあ、どちらかと言うと“複製する狐(コピーフォックス)”の方に似ているが。向こうの方が高性能ではあるものの。
 新聞部にはこれで充分なのだ。
 基本的に複数名と通信さえできれば三奈子的に文句はなく、それ以上ができるなら大歓迎だ。

「この中に“映写機”が“記憶”されている。もちろんただの“映写機”じゃなくて、日出美ちゃんのような“記録”能力を媒体にして第三者も“観る”ためのもの。つまり日出美ちゃんの“記録”と“互換”できる、ってわけ」
「あ、そうですか。すごいですね」
「より情報の共有に正確性を持たせるためには、“記録”及び“記録”の映像化、または正確な“分析データ”が必要不可欠。……前部長の受け売りだけれど」

 だからこそ、日出美が校舎を越えてここにいるのだ。
 まだ応用が利かないようだが、“多目的記憶媒体(スイートメモリー)”はどこまでも新聞部向きの能力である。日出美以外にも似たような能力を使う部員がいるので、むしろ扱いは日出美本人より慣れている。新聞部の指導が付けばすぐにでも成長させられるだろう。
 そして、だからこそ争奪戦の諸々を“記録”しておいてほしかった。状況が状況じゃなければそうするつもりだったのに。

「それじゃ」

 三奈子が“禁断の死角(パンドラボックス)”を放り投げると、それは空中に止まり、その場でくるくる自転する。

「早速拾った“映像”を見てみましょうか」

 紅薔薇の“女王を襲う左手(クイーン・レフト)”で“削った”前後の、一部始終が“観ら”れるはずだ。
 それを“禁断の死角(パンドラボックス)”内臓の“記録媒体”に、容量の重い“データ”ではなく“動画”として残すのだ。幸い“紅い薔薇”はまだ具現化し続けているので、力の解析はまた違う部員に頼めばいい。
“動画”だけでどれだけのことがわかるか、正直収穫の望みは薄い。
 だがそれでも何かを見つけるのが、新聞部部長の務めというものだ。

 まあ、結局、大した収穫はなかったが。
 強いて言えば、蓉子の話していた事実の裏づけが取れたくらいだ。




 新しい温室では、“十架(クロス)”が頭を抱えていた。
 にわかには信じられない事実を突きつけられ、戸惑っているのだ。

「……信じられないわ」

 ぽつりと呟いた。

「あの“大蛇”と“蛇殺しの騎士(アロンダイト)”が姉妹になっただなんて……」
「でも事実だ」
「すごいわよ。あの犬猿だった二人が、今では人目も憚らず毎日いちゃいちゃいちゃいちゃしているわ」
「嘘だぁ。絶対嘘よ。いや、信じないね。絶対信じないわ」
「でも事実だから」
「嘘臭いけど本当に事実よ」
「だってあの二人、一週間に一回は交互に半殺しにし合うような仲だったじゃない。姿が見えればいきなり襲い掛かってケンカして、そりゃもう仲が良いとか悪いとか以前に、前世で天敵同士だったとしか思えないほど憎みあった関係だったじゃない。どうやったらそんなことになるのよ。そんなの私の寝癖がない日くらいありえないことだわ」
「女子として悲しいたとえを出すな。それでも事実だ」
「賭けてもいいわよ」
「えー…………いや無理! 無理だって! この目で見るまで信じない!」

 楽しそうに話している三年生三人を見ている“契約者”こと“瑠璃蝶草”は、「またか」と溜息を吐く。
 話の脱線は、これで6回目である。
 まあ、数ヶ月間もこっち方面から離れていた“十架(クロス)”がゴシップに等しいものも含めて、情報を求めるのもわからなくはない。本題以外にもいろんなことが動いているのだ、かつて第一線で必要に迫られて様々な情報も仕入れていた身である。気にならないはずがないのはわかる。
 でも6回は多すぎるだろう。さすがに。

「話だけでも先にしませんか?」

 イライラしながら言うと、三人は“瑠璃蝶草”に注目した。

「なんか懐かしい感じ」
「私もよく下に注意されたっけ」
「私はどちらかと言うと彼女側だが」

“十架(クロス)”も“宵闇の雨(レイン)”も、かつてはこうしてよく近しい二年生に注意されたものだ。しょうがないなあ、って顔をして。“氷女”は注意していた側だが。
 ――基本的に、三年生より二年生の方がしっかりしているのである。

「でも話はだいたい済んでいるわよ」
「そうなの?」
「ええ。あなたが必要とされた理由もわかっているでしょう?」
「まあね」

 基本的に二年生の方がしっかりしている。
 が、三年生の方が経験も知識も深く、判断力もある。この三人に限っては特にそうだ。三勢力で幹部を張っていたのだ、間が抜けているはずがない。

「“桜草”に対抗するために私の力が必要、と。話を聞いた限りでは、私にサポートをやらせたいわけでしょ?」
「その辺は指揮を取ってくれる人が決めるんじゃないかしら」

 その辺のことはまだ決まっていない。
 隠密としては身軽でいたいとは思うが、“宵闇の雨(レイン)”が指揮棒を握ってもいい。まあ妥当な線では、紅薔薇・水野蓉子か、もしかしたら新聞部部長・築山三奈子が乗り出すかもしれないが。

「まともな指揮者なら私を実戦に投入なんてしないわ」
「まあ、同感だけれど」

 数ヶ月のブランクがあるのだ。今の“十架(クロス)”に腕っ節を求めるような輩は間違いなく間抜けだ。

「今あなたに必要なのは心構えだけ」
「心構えね。了解。“氷女”も絡むの?」
「どうだろう。必要とされれば力を貸すが、今は――」

 状況を考えると、対“桜草”の一員に加わるのではなく、このまま“瑠璃蝶草”の護衛についていた方がいいだろうと思える。
 “桜草”の数少ないアクションの一つに、“瑠璃蝶草”を襲ったという前例がある以上は、決して一人にしてはいけない。色々と話を聞いた今はより強くそう思う。

「白薔薇次第、かな」

 この護衛は、白薔薇・佐藤聖の依頼である。
 期限も何も決まっていないアバウトさではあるが、まだ引き上げ時ではないことは明確だ。交代か、問題が解決して護衛の必要がなくなるか……離れる時がくれば自ずとわかるだろう。

「それにしても数ヶ月って長いわね。初耳ばかりで驚きっぱなしよ」

“十架(クロス)”の“封印”はすでに解けている。サイン一つで。
 見たことも聞いたこともない“契約書”の力を前にしても、“十架(クロス)”は一切そのことを聞かなかった。もちろん“宵闇の雨(レイン)”もである。
 気にならないはずがないのに、その態度には、これまで人の上に立っていた者の度量の広さが垣間見えた。

「一番驚いたのは、白薔薇勢力解散のことだけど。本当なの?」
「それも事実だ」
「つい今朝の話だけどね」
「ふーん……時代は変わるねぇ」

 気楽に聞こえる声ではあるが、“十架(クロス)”の言葉は結構重い。

「三年生はそろそろ本当に引退の時期なのかもね」

 いわゆる引き時というやつだ。“十架(クロス)”は否応なく半引退に追い込まれていたが、今口にした「引退」は意味が違う。
 残りの時間は、二年生達に託す時間。
 教えなければいけないこと、伝えなければいけないこと、妹達に残したいこと――
 知識も技術も、遣り残したことも、果たせなかった夢も、個人的に伝えたい遺言も、かつて同じように託され、それを糧に積み重ね研鑽し高めに高めた経験は、短時間では決して伝えきれない。

「そうね……紅薔薇も祥子さんに経験を積ませたがっているし、そういうことを考える時期に入っているのかもしれないわね」

 あまり意識していなかったが、三年間意地を張り合い続けてきた“十架(クロス)”が言うなら、“宵闇の雨(レイン)”だって考えないことはない。ついさっき新聞部で紅薔薇・水野蓉子もそんなことを言っていた。

「…………ん? 祥子さんに何かあった?」

 黙って「三年間色々あったなぁ」と感傷に浸りかけていた“氷女”が、聞き流しそうになっていた固有名詞に反応した。

「ああ、ついさっき“鴉”に襲われたんだって。もう決着はついているけれど」
「は? 何それ? 詳しく」

“十架(クロス)”の目の色が変わった。
 ――見慣れた紅薔薇勢力突撃隊長の顔だ。
 この顔をされたら、“宵闇の雨(レイン)”は口を噤み、頭を働かせ、自分達にとって利がある方向で相手を騙すことを考えなければならない――今朝のその時までは。
 反射的に自分も白薔薇勢力隠密部隊隊長の顔になりそうになったが、もうそんな必要はないのだ。

 どことなく寂しく思ったのは、もう目の前の戦友と肩を並べていないことを自覚したから、だろうか。勢力解散の実感がようやく感じられた。
 悔しいから顔になんて絶対に出さないが。

「今、争奪戦をやっていることは知っているでしょう? それ絡みで“鴉”が祥子さんから“契約書”を奪い取ったんですって」
「二点わからない。あの“鴉”が動いたの?」
「そう聞いたわ」
「嘘の可能性は?」
「疑う理由がないわね」
「……そうね。確かに。たとえ嘘でも、それなら嘘をついた人が“鴉”に恨まれるだけだし。何の得もないわ」
「もう一つの疑問は?」
「祥子さんが負けたのかどうか」
「“契約書”を奪われた、としか聞いていないわね。でも」
「わかってる。あの祥子さんがそう簡単に盗られるとは思えないし、“鴉”もケチな手段で入手するとは思えない。それなりにぶつかりあったはずよね」

 考えれば考えるほど紅薔薇の蕾・小笠原祥子の敗北色が強くなっていく。

「保健室に行けばわかると思うが。“鴉”が相手では、結果はどうあれ祥子さんも“鴉”も大怪我だろう」
「あ、そうか。じゃあちょっと顔出してみようかな」

“氷女”の建設的な意見に、“十架(クロス)”の行動が決まった。

「……それにしても、“鴉”はなんで……」
「ん?」
「いや、なんでも」

 思わず呟いてしまった“宵闇の雨(レイン)”だが、面倒なので話す気はなかった。
 新聞部で情報を耳に入れた時も疑問だったが、“鴉”の動向がおかしいのだ。
 彼女はかなりの高確率で、現在“冥界の歌姫”蟹名静と一緒に久保栞――“桜草”を追いかけているはずだ。静にはそう指示を出したし、静も了承した。
 ならばなぜ争奪戦に参加している。しかもこのタイミングで。
 わからない。
 わからない、が――“鴉”は貸し借りの責任はきっちり果たすタイプだ。祥子を襲った争奪戦と“桜草”の調査、二つはきっと無関係ではないのだろう。どう関わっているかは想像もつかないが。

「よし。じゃあ保健室行って寝直すか」
「まだ寝るの?」
「たくさん話したから疲れちゃった」

 とてもじゃないが現代を生きている女子高生とは思えないセリフが、解散の合図となった。




 気だるい。
 ぼんやりした意識が暗闇から浮かび上がり、また暗闇に戻ろうと意志を働かせる。

 ――あれ?

 伸ばす手が布団を探せない。
 寝返りを打つも、妙に背中が痛い。
 というか堅い。
 遠かった喧騒が嫌でも耳に付くようになり、そして、

「おはよー」
「……」

“竜胆”は眠りから醒めた。
 目の前には、窓際を背に笑う小柄な女生徒がいる。

 ――あれ?

 意識がはっきりしてきた。
 どうやら自分は廊下のど真ん中で枕を抱えて寝ていたらしい。
 どんな状況なのかわからなくなるのも、無理はなかった。

「保健室……私、保健室で寝てたはず……」

 それなのに、なぜ廊下のど真ん中で寝ているのか。通行人の迷惑も無視して。

「あははー。寝ぼけてるのー? 最初からそこで寝てたよー。あははー」

 よくよく見れば胡散臭い笑顔の女生徒が、そんな答えを示した。
 ――嘘だ。さすがに騙されない。
 だが、思う。
 嘘だったらどんなに好かっただろう、と。
 あの取り返しのつかない過ちが嘘だったらどんなに気楽だっただろう、と。
 思い出すと泣きそうになったので、堪えた。

「あなたは?」
「ただのリリアンの子羊でーす。あははー」

 気配は一般生徒だ。まったく力を感じない。
 が、ただの一般生徒とも思えない。
 根拠のない勘だが、それに逆らうことなく“竜胆”は警戒心を抱く――敵とは思えないが、味方では決してないと、本能が訴えている。
 とりあえず立ち上がり、周囲を見て、保健室の前だということに気付いた。いまいち状況がわからないが、なんにしても枕は返すべきだろう。
 踵を返して歩き出そうとする背後で、胡散臭い女生徒が言った。

「保健室は今取り込み中なんだー。できれば遠慮してほしいなー」
「…?」

 「どういうこと?」と肩越しに振り返ると、女生徒はやはり胡散臭く笑っていた。

「率直に言うとー。私が封鎖してるって意味ー」

 封鎖。
 その意味を察して、刀を具現化し身構え――すでに目と鼻の先に、女生徒がいた。
 刀の間合いの更に内側、手の届く距離。この距離では刃を抜けない。
 女生徒の接近には音も気配も何も感じなかった。これほど静かに動く者など、“竜胆”にはまだ経験がなかった――存在を警戒し張り付き尾行する者がいることにも気付いていないので、まあ当然と言えば当然だが。

「遅いしー。隙だらけだしー。それだけの力があるのに宝の持ち腐れだねー」

 と、女生徒は笑いながら離れた。――まともに“竜胆”の刀の距離に入っているのに、それでも一切気にしていない。

「でも真っ先に戦闘体勢に入ろうとしたことは褒めてあげるー。あははー」

 しかも女生徒は背を向け、窓に肘をついて外を眺める。

「強いて用事がないならー、そのまま大人しく待っててよー」
「……あ」

 思い出した。

「あなた、今朝、体育館前にいた」
「超ショックー。まだ思い出してなかったのー?」

 まあ、あの時はごたごたしていたし、白薔薇狩りにやってきた紅薔薇勢力一行が引き上げたら、それぞれバラバラに散ってそのまま解散したので、チラとしか顔を見ていない。これでは憶えていなくても無理はない。
 しかもあの時は「骨折れた」って泣いていたので、今とギャップがありすぎるのだ。特徴的な間延びした口調をなんとなく憶えていたから思い出せたのに。

「で、誰?」
「名乗るほどの者じゃないですよお嬢さんー。あははー」

 お嬢さんて。自分よりよっぽど小さいくせに。
 だが、あの場にいたということは、それなりの使い手のはずである。
 ――具現化したままの刀を握る手に、わずかに力が入る。
 もし今斬りかかったら、どんな反応を見せるだろう?
 そんな危険な思考を読んだかのように、彼女は口を開いた。

「やっぱ“鍔鳴”さま強いなー」

 女生徒が見ている中庭では、黄薔薇勢力総統“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”と紅薔薇勢力遊撃隊隊長“鍔鳴”が、校舎内からステージを移して相変わらずの激闘を繰り広げている。
 彼女の口調は軽いが、その目に油断がないのは、まだまだ新米に過ぎない“竜胆”にはわからなかった。まあそもそも背中を見せたままだが。

「あの人くらいには勝てるようにならないとなー。先は暗いだろうなー」
「“鍔鳴”さまに、勝つ?」

 リリアンの情報や対人関係に疎い“竜胆”でも、“鍔鳴”のことは知っている。目を見張るほどの美人で、刀の達人で、紅薔薇勢力で二番目だか三番目に強いと言われる人だ。同じ刀使いとしては、不相応だが嫌でも意識する存在である。

「うんー。それくらいできるようにならないとー、お話にならないわけー。山百合会を除いてもー、あの人より強い人はゴロゴロしてるからさー」
「……ふうん」

 大した大口を叩いたと思うべきか、本当にそれができる人物だと予想するべきか。
 ――いや、待て。

「あなたは志摩子さんの味方?」

 あの場にいたということは、そして今朝の言動を考えれば、白薔薇側に立っていたように思える。
 女生徒は「そうだよー」と振り返った。

「そう言う“竜胆”さんはどうなのー?」
「……私を知ってるんだ」
「そりゃそうだよー。それだけの力を持ってるんだからー。みんな注目してるよー。知らない奴は大したことないって思っていいよー」
「じゃあ、“九頭竜”さまの関係者なんだ?」

“竜胆”は、元白薔薇勢力総統“九頭竜”の依頼で、“反逆者”藤堂志摩子の助っ人に駆けたのだ。となると、この女生徒も無関係ではない可能性がある。

「あははー。ノーコメントー」
「え?」
「あんまりぺらぺらしゃべれない話題もあるってことだよー。言わせるなよ恥ずかしいなー」

 なぜ照れるのかよくわからないが、とにかくそういうことらしい。

「私も聞きたいんだけどー。どうして保健室で寝てたのー?」
「……」

 青き過ちを思い出して“竜胆”は落ち込んだ。元々死んだような目が更によどみ、床の一点を見詰める――せっかく上手いこと忘れていたのに。

「…? なんかよくわかんないけどー、元気出しなよー。今日がダメなら明日もきっとダメダメだけどー、さすがに明後日くらいには小さなイイコトがあるかもしれないよー」

 励まそうって気持ちが1ミリも見えない励ましの言葉で励まされるわけもなく、“竜胆”は床の一点から視線を動かせなかった。

 ――そんな時だった。

「あれ? こりゃえらいのが来たな」

 低く呟く女生徒に釣られ、“竜胆”が顔を上げると。

 どう見ても大丈夫じゃなさそうな足取りで、壁伝いにゆっくり歩いてくる小笠原祥子の姿が見えた。

 女生徒と“竜胆”が何気なく見ている間に、祥子は肩で息をしながら近付いてくる。見た目も気配もグロッキー寸前、押せば倒れるほど弱々しい。
 それにあの髪の毛と格好。
 誰もが祥子と言えばすぐに連想する、あの長く美しい黒髪が、後ろ髪が、ちょうど中ほどまで白く変色していた。どんな理由かまではわからないが、あれもきっと祥子が弱っている原因の一要因だろう。そしてどうしても気になる体操服姿。あれは闘う者にとっては死装束、勝敗はともかく完全勝利か完全敗北以外を認めないという覚悟の格好である。どこかで死闘を繰り広げたのだろうことは想像に難くない。腹部にある大きな血の痕がどうしても目を引く。
 祥子は途中から、女生徒をじっと見ながら歩いてくる。
 決して目を逸らさず。
 窓際の女生徒と、壁際の祥子。
 ちょうど最も近付いたその場所で、女生徒は言った。

「今襲ったらー、きっと楽に勝てるでしょうねー」

 疲れの見える祥子の瞳が、それでもギラギラと闘志を帯びた。

「――やるなら構わないけれど?」

 ニヤニヤ笑う女生徒と、祥子の視線が噛み合う。
 そんな緊迫した空気を、しかし“竜胆”は目を逸らさず見ていた。止めもしないし、参加もしない。
 これは成長である。
“竜胆”は己の立場を忘れていない。自分は華の名を語る者として、山百合会と対立関係にある。今の祥子なら自分でも勝てるかもしれない――しかしそれをしない、することさえ考えないのは、実力はなくても三薔薇と並ぶ、並びたいという意味を持つ、華の名を語る者としてのプライドである。それに、弱っている相手を倒して好い気になっていい、などと、かの師匠からは教えられていない。
 それに止めもしない。
 今ならわかる。闘う者には闘う者として譲れない理由がある。それを止めるということは、それなりの理由がないといけない。
 そして、わかっていることがもう一つある。
 この女生徒は、今の祥子を襲わないということだ。

「……目が少しでも動揺したらー、やっちゃおうかなーと思ったんですけどねー」
「構わないと言っているけれど?」
「祥子さまの都合はいいんですよー。私のプライドの問題ですからー」

 そう、プライドの問題だ。今の祥子に勝っても仕方ないだろう。
 きっと祥子は、己のプライドを以って自力でここまで来たのだ。そんな祥子に仕掛けるなんて恥ずかしい真似はできない。
 それにしても、さすがは山百合会である。
 この状態にありながら、それでも闘う意思を見せるなど、いったいどれほどの存在なのか。

「で、どうしたんですかー? 志摩子さんなら保健室の中にいますけどー」
「答える必要はないわね」
「刺されましたー? でも血は止まってるみたいですねー。……んー? いまいちよくわかんないなー。髪もどうしたんですかー?」
「……筋肉痛みたいなものよ。全身ね」
「あらま。無茶しちゃったんですねー」
「しちゃったのよ」

 祥子は壁に背を預け、大きく息をついた。

「志摩子を呼んでちょうだい。あなたがここにいるってことは、封鎖しているんでしょう?」
「そうですねー……あ」

 ようやく待ち人が現れた。
 保健室から出てきたのは、“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃だった。
 顔が真っ赤だった。

「やっほー由乃さんー。お話終わったー?」

 女生徒が手を振ると、由乃はずずいっと女生徒に詰め寄った。

「あなた、どうして私にあの話をさせたの?」
「あははー。どうしてだと思うー?」
「……」
「正解はー、照れまくって照れ隠しで怒る由乃さんの顔が見たかったからー。超かわいー」
「くっ……憶えてなさい。この屈辱は絶対忘れないから」

 由乃はギリギリと女生徒を睨みつけると、ふいと顔を背けて足早に去っていった。

「これで一つ問題が片付いたかなー」

 由乃の眼中になかったらしい“竜胆”は、いよいよ聞かずにはいられなかった。

「あなた誰?」
「あなたの心の恋人だよー」
「それは間に合ってる。愛人でもいらない」
「……そんなはっきりフるなよー。寂しいだろー」
「“鼬”よ」

 答えはのは、祥子である。

「正確には“鎌鼬”。一年生で最強かもしれないと噂される元白薔薇勢力隠密部隊副隊長。次期白薔薇勢力総統でもあったらしいわね」
「さすが紅薔薇の蕾、超詳しー」

 笑顔の女生徒――元白薔薇勢力隠密部隊副隊長“鼬”は、実績のない幹部だった。その実力を知る者はほぼ皆無だったはずだが、さすがに山百合会ともなると、幹部の情報くらい筒抜けだったのかもしれない。

「え、これが? 次期総統?」

 言葉を疑う“竜胆”だが、得体の知れないものはしっかり感じ取っている。だから何も感じなくても油断しなかったのだ――“鼬”に対してどれほどの効果があったかはしらないが。

「私のことはどうでもいいよー。それよりー、祥子さまがどうしてこうなったかの方が重要でしょー」
「……確かに」

 その通りである。
 祥子のこれは外傷による衰弱とは思えないし、髪の変色も気になる。

「……やれやれ」

 興味津々で己を見詰める二つの視線に、祥子は首を振って溜息を吐いた。




 ほんの数分前。
 未完成の必殺技を祥子が使おうと決め、打つ手が非常に限られている“鴉”がわずかな勝機さえ見つけられない状態で。
 二人は同じ心配をしていた。
 祥子は、この状態で技を放つと、自分も“鴉”もどうなるかわからない。
 そして“鴉”も、ここまでの基礎能力が向上している祥子の身体の負担と、この状態の祥子に打ち勝つ打開策が乏しい。
 どちらも共通しているのは、相手の心配までしていることだ。
 決して珍しい心理ではない。誇りを賭した闘いならまだしも、どちらもそれ以外の理由で闘っている。相手に勝つ、というより、現状を切り抜けるという気持ちの方が強い。
 そしてどちらも同じことを考えている。
 ――長期戦になったら己が不利だ、と。
 祥子のスピードに付いていけない“鴉”は、たとえ攻撃を捨てて防御に専念しようと、恐らく全てを捌き切ることはできない。闇雲に攻められ続けられるだけでも追い込まれる。
 祥子の方はそもそも長期戦ができる状態にない。
 祥子が足を止め、何を考えているかは“鴉”にはわからないが、何かを仕掛ける算段を考えているということは理解している。
 なのに、それを止める術がない。
 ――いや。

(ないこともない、か?)

 攻撃とは、何も殴る蹴るだけではない。
 問題はそれが可能かどうか、だが。
 わずかにしか残っていない勝機の糸を見出した“鴉”は、再び幾百の“羽”を舞わせた。
 祥子は動かず、“鴉”を見据えている。今度は接近を許さないだろう――だが狙いはそこにない。
 そのまま5秒が経過した。
 この“羽”に何らかの罠があることはわかっているが、しかし長期戦のできない祥子は仕掛けるしかなかった。
 まっすぐ一直線。最短距離を駆けた。
 身体に付着する“塗料”を無視し、そして祥子は(そもそも見えないほどのスピードだが)“鴉”の目の前でまた消えた。
 フェイント。
 ただの基礎中の基礎の動きだが、それでも圧倒的な速さで行われたそれは、“鴉”が祥子を見失うには充分だった。
 周囲に飛ばした“羽”の動きで祥子の動きを感知し、“鴉”は二手は遅い回避行動に身を移した。人体の中央にある急所全てを軸からずらすだけの簡素極まりない、だが確実に一撃では倒れないであろう回避行動を、振り返ると同時に行う。
 それでも二手遅れである。

“鴉”の腹部に深々と、真紅の刀身が沈み込んでいた。

 ――急所は外した。
“鴉”にとってはそれで充分だった。
 そのまま壁に押し込もうとする祥子は、“鴉”の目の前にいて、踏み込んだ足は前にしか向かわない。
 やはり祥子は勝負を急いでいる。
 だからこそ、そこに勝機が見えている。
 祥子が壁に“縫い”つけようと二歩目を踏み出した時、“鴉”の右掌底が祥子の顔を捉えた。体重も載らず体勢も崩れている半端極まりないそれは、攻撃と呼ぶにもおこがましい。祥子は構わず“鴉”を壁に“縫い”つけて――

(しまった……!)

 刀身を“折っ”て二本目を具現化した時、祥子は動きを止め、咳き込み、ようやく気付いた。
 顔に“ペンキ”を塗られた。
 視界を奪われたのだ。
 それだけではない。
 粘度の高いそれは、動きに併せて息を吸おうとした祥子の呼吸を止め、完全に攻撃のリズムを狂わせた。できるはずの自然なことができずむせ返り、それでも苦し紛れに二本目を放つも、すでに“鴉”はそこにいない。
 視界を奪われた。並の相手なら、気配や闘気で場所や動向がそれなりにわかるが、“鴉”くらいとなるとそれを読ませてはくれない。そして“鴉”はこのまま距離を取って静観するだろう。
 目とともに呼吸も塞がれ、闇に呑まれた祥子は、――やはりあれしかないと覚悟を決めた。
 望むのは、どうか“鴉”に致命傷以上の傷を与えないこと。
 それだけを祈って、祥子は両手に“紅夜細剣(レイピア)”を構えた。

 祥子が踊る。
 まるで覆い茂る薔薇の棘のように、高速の紅い剣線が幾重にも走り、祥子の周囲を無差別に斬りつけていく。
 当然、そこにいるはずも、追い討ちに走るはずもない“鴉”には届かない。

 美しいが、なんとお粗末な行動だ。

 視界を奪われ、呼吸も塞がれ、錯乱して苦し紛れにやっているのなら、山百合会に席を置いておくには恥ずかしい行動である。
 ――と、見ているギャラリーの何人かは思っている。
 一番近くで見ている“鴉”は違う。
 まだ“回転”を維持している以上、祥子は冷静にそれをやっている。
 何かしらの意図が必ずある。
 油断なく“鴉”が祥子を見ていると、……気付いてしまった。

(何かが飛んでいる?)

 数の影響だろう。
 ようやく祥子の周囲に、砂埃より小さな紅い破片が肉眼で見えるようになってきた。
 一振り一振りでほんのわずか、“紅夜細剣(レイピア)”の欠片、粒子が、祥子の周りを舞っている。まるで祥子のダンスに彩を加えるかのように。

 まずい。
 何が起こるかはわからないが、これは非常にまずい。
 ――だが、思った時は遅かった。

 祥子の動きが止まる。

「“汝往くは茨の果て”」




 祥子が力を解放した。
 周囲に舞っていた“紅夜細剣(レイピア)”の破片が、その場で“再生”する。

 大輪の薔薇が咲き誇った。
 この場に飛んでいた破片の全てが、幾千幾万の真紅の刀身となって空間を埋めたのだ。
 祥子を中心に密集していた紅く細い刃は、大輪の薔薇が咲き誇ったように見え、残酷なまでの冷たい美しさで凶鳥を捕まえていた。

 この場全てに仕掛ける無差別攻撃だ。
 無差別ということは、相手に与えるダメージが自分でも予想できないところだ。ゆえに祥子はこれを未完成とし、普段なら絶対に使わないようにしている。危険すぎるからだ。
“鴉”は、自分でもどこをどう貫かれたのかわからず磔にされたまま、紅い線の隙間から己が具現化していた“塗装”が祥子の顔から消えていくのを見ていた。
 祥子が“鴉”を見て、そして薔薇は消えた。

 膝をついたのは、両方だ。
 祥子は力と“回転”を使いすぎて身体が限界に達し、“鴉”は全身を貫かれて致命傷だ。
 しかし、それでも、震える膝、力のはいらない足を踏ん張り、祥子は立ち上がった。
 ここまで来ると、ただの意地、ただの負けず嫌いである。
 そして、血まみれになった“鴉”も顔を上げた。早くも足元には血溜まりができ、その傷の深さをうかがい知れる。
 だが。
 それでも“鴉”の瞳はまだ負けていない。
 ――恐ろしい相手だと、祥子は心底思った。内容では確実に負けていた。それこそ未完成の技なんてものを引っ張り出さないといけないくらいに。
“鴉”は立ち上がる。
 もう闘えないことは、本人がわかっているはずだ。
 それでも、立ち上がり、血を吐き、何度も膝をつきながら、祥子の目の前までやってきた。
 やはり瞳は負けていない。
 闘う前に見たものと、まるで変わらない。

「あんまり動くと出血多量で死ぬわよ」

 思わずそんな注意をしてしまうも、“鴉”は違うことを口にした。

「……はあ……本当に高くついたわ……」
「お互い様よ」

 祥子ももう闘えない。意思はあっても身体が動いてくれない。

「祥子さん」

“鴉”は笑った。

「これが私の覚悟」
「……はあ」

 返事より何より、溜息が出た。

「持っていけ、なんて言わない。欲しければ奪っていきなさい」

“鴉”は両手を伸ばし、祥子の首に抱きつくようにして“契約書”の紐を解く。

「ごめんなさいね」

“鴉”が耳元で謝ったのは、自分の意志でこれを欲していないからだ。
 本当にこれを必要としている者と、そうじゃない者と。
 祥子は前者で、“鴉”は後者。
 争奪戦において、決してこんな形で邪魔していいものではないと思ったからだ。

「いいわ。貴重な経験を積めた」

 こんな機会でもないと、祥子は“鴉”と闘う機会はなかっただろう。




“契約書”の紐を握った“鴉”が、身体を引きずるようにようにして去っていく。
 それを欲してここまで来たギャラリーが、誰もその身を追おうとしないのは、死闘を繰り広げた者に対する敬意に他ならない。

 そして、身体がガタガタになっている祥子を襲わないのも、同じ理由である。

「……一応、勝ちかしらね」

 負けず嫌いとしてそこにはこだわり、祥子も歩き出した。
 とりあえず、行き先は保健室だ。









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