【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】
【No:3171】【No:3174】【No:3177】【No:3183】【No:3187】
【No:3196】【No:3205】【No:3233】【No:3249】【No:3288】
【No:3327】【No:3380】【No:3397】【No:3443】【No:3464】
【No:3498】【No:3501】 解説書【No:3505】 【No:3509】【No:3515】
【No:3538】【No:3541】【No:3589】【No:3593】【No:3597】
【No:3601】【No:3613】【No:3616】【No:3617】【No:3618】 解説書2【No:3620】 【No:3621】から続いています。
☆
初っ端から、大変なことがわかった。
「……“消えた”わね」
「ええ」
「これはまた厄介な……」
今朝、“契約者”たる“瑠璃蝶草”が襲われた現場である二階廊下にて、“冥界の歌姫”蟹名静、新聞部一年生・山口真美、そして“鴉”らは、調査を開始する。
山口真美の異能“司るモノ(ビスケット)”は、力の痕跡から追跡する能力である。
“司るモノ(ビスケット)”は、力を“登録”し、その力の持ち主を辿る自動追跡機能を“モノ”に与え、“登録した力の持ち主”の力の軌跡を追いかけることで本人まで辿り付くという仕掛けだ。警察犬が優れた嗅覚で何かを追いかける様と酷似している。
これの最大の利点は、だいたい1日までなら、戦闘跡地からでも“力の登録”ができるこということだ。
掲示板に張り出してある“戯言を囁く地図(バベル・クラフト)”なんて格好の捜査対象で、すでに真美はあの能力が誰のものかを調べてある。多くの場合“力の持ち主”にもバレずに済む辺り、この捜査能力もなかなか優秀である。
だが、今回追跡するのは、“桜草”を名乗る正体不明人物である。与えられているわずかな情報から“桜草”の危険度を察した真美は、こうして護衛を雇ったというわけだ。
――ちなみに図書室を訪ねたのは、無所属最強と噂の“鴉”に協力を仰ごうと思ったからではあるが、その返答がNoであることはわかっていた。あの時あの場所で静らと会えたのは非常に幸運だった。
「つまりどういうこと?」
静と“鴉”は、簡単な説明を受けて「追跡能力だ」と理解し、“司るモノ(ビスケット)”の能力を“与えられた紙”を追って走るべく準備はしていた。
しかし、“紙は消えて”しまった。文字通りに。
これでは追跡などできないし、何より理屈がわからない。
「“司るモノ(ビスケット)”が“消えた”ということは、『力はいきなりこの場所に現れた』ってことです」
言葉の意味を理解し、静と“鴉”の表情が変わった。
いきなり現れた。
ならばそれは静の使う“冥界の歌姫”と同じ理屈ということになる。
「三奈子さんの予想が当たったわね」
会議に参加し、簡単な概要も頭に入れている“鴉”は、静と真美より、更に深いところで脅威を感じている。
新聞部・築山三奈子は、「49の思念体はバラバラに活動するかもしれない」と言っていた。だが彼女の口にした推測は、彼女が考えうる最悪のケースである。外れていればだいたい事態はそれより少しは楽、少しは明るいということだ。
だから、その考えていた最悪のケースで正解ということだ。
「空間系で決定ね。いつでもどこにでも久保栞は現れる」
「いや、そうでもないわよ。……あ、空間系のところは同意だけれど」
静が異を唱える。後半半分に。
「……と言っても、私達の通例に添うかどうかわからないわね」
静も同じ空間系である。だから言えることもある。
ただし、“桜草”は静とは桁が違う使い手のようなので、静の常識で計れるかどうかは疑問だが。
「いつでもどこにでも思念体を発現させることができる。でも逆に言うと『どこに発現させればいいか』を考えなければいけない」
「あ、なるほど。いつでもどこにでも発現できるけれど、いつでもどこにでも出せばいいってものじゃない」
「そうですね。闇雲に発現させているわけではないはずですよね」
そういうことである。
静はもっとも基本的な目算で発現している。集中力が高まれば見なくても大体の位置に呼び出せるが、それだって目算あってのもの、目算がなくてもある程度の当たりをつけてからの話だ。
状況を見て、あるいは聞いて、それからもっとも有効だと思える場所とタイミングを狙って発現する。少なくとも静はそうやっている。
つまり、だ。
「“桜草”はここが見える場所から発現した」
そうなるはず――だが。
「生憎はずれのようです」
真美は冷静に否定する。
「“司るモノ(ビスケット)”は“外”へ行きました。使用ポイントはあの三叉路……登校の時に通るマリア象付近のようです」
「えっ」
「私の追跡能力を甘く見ないでください。空間系相手なら最初から“過程”は存在しません。でも追跡能力は健在です。“結果”は追えますよ」
いきなりここに現れる――いわゆる“瞬間移動”と考えると、そう例外的でもない。自分の“司るモノ”がどこへ行ったかくらい真美はわかる。断続的に所在地が飛ぶ者だってちゃんと追跡できる。
ただ、“桜草”がやっていることは例外的すぎるが。
同じ空間系だけに、静は「信じがたいわね……」と難しい顔をして腕を組んだ。
「見えない場所に思念体を生み出した? それどころかこことマリア象付近じゃ支配領域が広すぎる……」
見えない場所にどうこうというのも問題だし、リリアン全域を支配していると言えるくらい広い使用範囲も問題だ。
知れば知るほど化け物である。
「……静さん、考えるのは置いておきましょう。真美さん、これでネタ切れってわけじゃないわよね?」
「いえ……残念ながら」
真美は首を振った――そこも例外的なのだ。
「本当なら、使用ポイントから更に使用者に追跡対象を移し、その後の動きまで追えるんですが」
そこから追跡できない。だから真美の“司るモノ(ビスケット)”は、マリア象付近でうろうろして使用者の痕跡を探しているが、見当たらない。
「……参ったわね」
言ったのはこの調査の指揮を取る静ではなく、“鴉”の方だ。――相手が話に聞く以上に厄介だという事実がどんどん出てきたからだ。
これは、明日はもっと大変そうだ。きっと一筋縄ではいかないだろう。
「何を悩んでいるんですか? 行きますよ」
手がかりが途絶えたと思っていた矢先、真美が毅然とした表情で言う。
「新情報が出たでしょう? 思念体が活動した正確な時間もわかっている。ならばその時間マリア象付近にいた人物が怪しい。幸いその時間は朝のピークを少し過ぎた頃なので、目撃情報はきっとある」
なるほど、新聞部らしく足で情報を掻き集めようということか。
「OK、手分けして聞き込みに行きましょう」
「はい」
「私は別行動でいいかしら?」
静と真美が次にやることを決定するも、“鴉”はそれとは違う返事をする。
しかし、二人は特に止めなかった。
「じゃあ待ち合わせ時間だけ決めて、後で会いましょう」
――きっと“鴉”には、何かしら気になることがあるのだろうと、わかっていたから。
保健室前には、福沢祐巳への面会を求める者が集まっていた。
「いやぁ、モテモテだねー」
「そうね」
出入り口付近から少し離れた藤堂志摩子と“鼬”は、ただただ事の成り行きを見守っていた。
「私も会いたかったなー福沢祐巳さん」
「会ってくれば? 誰かに頼めば一緒に行けるかもしれないわ」
「志摩子さんを置いてー?」
「これだけの人がいる場所で、誰が私にちょっかいを出すの?」
確かに。薔薇でもすぐに排除できないようなメンツが集っている。
紅薔薇勢力総統“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”と、“複製する狐(コピーフォックス)”と。紅薔薇の蕾・小笠原祥子と“瑠璃蝶草”と、元白薔薇勢力戦闘部隊隊長“氷女”と。
薔薇こそいないが、ただの一年生に会いに来たには、なかなか豪華である。
「あははー。私がただの一流だったら安心して行ったかもねー。でも私は超一流だから行かないのでしたー」
第一、会ってみたいとは思うが、会ってどうするというものがない。目的がないのでは護衛中断の理由にもならない――あっても離れないが。
それに、“複製する狐(コピーフォックス)”がいる。
目的はわからないが、あの宿敵の曲者が行くのであれば、自分が行くまでもない。スカウト目的なら見極めくらいはしてくれるだろう。
「――何見てんだ“狐”こらー。見るなよー。私の志摩子さんだぞー」
その胡散臭い“狐”が胡散臭い笑みを浮かべて志摩子らを見ているので、視線から庇うように“鼬”は前に出た。なお、深い意味はないが「私の志摩子さん」に反応した者が何人かいた――志摩子は罪な女である。
「“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”さまから行ってください」
どうやら順番のことを話し合っていたようだ。封鎖を命じていた祥子の号令で、まず“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”と“複製する狐(コピーフォックス)”が保健室に入った。
と同時に、入れ替わりのように次なる三人組がやってくる。
――“契約した者達”三名だ。
今注目の者達を確認し、何しに来たのかと場が静まり返るのも気にせず、三人はこちらへやってきた。
「何?」
通りすがりのように“瑠璃蝶草”を三人がかりで抱きしめて、そのまま何も言わずに、しかも何事もなかったかのような顔で素通りし、藤堂志摩子の前にやってきた。「何」と背中に再び問いかけるが、誰も振り返らなかった。
――密かに“鼬”が臨戦態勢に入ったのは、彼女をよく知る“氷女”にしかわからない。戦闘開始を予期して警戒する。
その中の一人が歩み出た。
「“九頭竜”さまから言われてきました。“雪の下”です。暫定であなたをお護り致しますので」
志摩子は驚いた。
“雪の下”のことは、会ったことはないが話には聞いている。この三人は“契約した者”――山百合会の敵である。特に“竜胆”とは今朝も会った。
「信じられないなー」
“鼬”の言う通りだ。いや、正確には「腑に落ちない」だろうか。
「あなたは?」
「志摩子さんの護衛」
「そうですか。……私は勢力のことはわかりませんし、知りたいとも思いません。これからのことも興味がありません。ただ私は志摩子さんを護るだけ。それだけでいいと約束しました。だから条件を飲みました」
“雪の下”は優しげに微笑んだ――今護衛が剣の切っ先を喉元に突きつけていることには、気付いているのかいないのか。
いや、たぶん、気付いていても同じだろう。
「あなたはリリアンに必要な人です。私より何倍も。だから私はあなたの盾になります」
「……盾ですか」
「志摩子さんを護るためにしか戦いません。だから私はここに来ました」
志摩子は“鼬”を見る――“鼬”は頷いた。
対応を“鼬”に任せたのだ。
断るなら自分の口から言う。受け入れる場合も自分の口から言うが、今の志摩子は自分一人だけの身ではない。この“鼬”や自分を支援する者達もそうだが、何より白薔薇・佐藤聖の安否に関わる。
だから判断に困り、任せた。
受け入れるにしろ何にしろ、すぐに結論を出すべきではない。
「後ろの二人もー?」
「彼女らは付き添いです。暇だったそうで」
「ふーん……でー? それを言いに来たのー?」
「“九頭竜”さまから、志摩子さんに挨拶はしておけと言われまして。明日からでいいとのことです」
「あーなるほどー」
それは“九頭竜”らしい。すぐに結論を出せないことも見越して、まず顔を合わせておこうと思ったわけか。
「挨拶は受け取ったからー。もう行っていいですよー」
「そうします。有事の際はお呼びください」
では、と、“雪の下”らは去っていく――再び“瑠璃蝶草”を三人がかりで抱きしめて。あれにはいったい何の理由があるのか。
「……意外な流れになってきたなー」
本当に挨拶だけ済ませて帰っていくので拍子抜けした“鼬”の言葉は、志摩子もこれ以上ないくらい同感だった。
「“鼬”さん、あの人のこと知っている?」
「“雪の下”? 二年生でー、最近噂の“天使”だよー。感じる通り力はすごいけどー、実戦経験はほとんどないんじゃないかなー。性格はゆるくて間が抜けてるけどー、時々すごく頑固でー、正義感が強いらしいよー」
「“鼬”さんはどう思った?」
「あれは嘘がつけるタイプじゃないからー、言ってることは本当だと思うよー。バカ正直っていうのじゃなくてー、嘘をつきたくないって感じだねー。性格的には人畜無害だから受け入れてもいいとは思うけどー、でもー」
「何か問題が?」
「うんー、まあー、問題っていうかー。単純に使い物にならないってところかなー」
「使い物に……?」
「弱いってこと。盾やるにも相応の腕ってものが必要なんだよー。私の警戒を察知できないようじゃー、志摩子さんの護衛は任せられないなー」
他のことなら色々できるかもしれない。だが“雪の下”は、志摩子の護衛しかやらないと言っている。だから使い物にならないのだ。
盾とは、身を粉にして危険の前に立つことでもあるが、この場合は護衛対象を最優先で護ることだ。
たとえば、敵が二手に分かれていて、一人で対処しなければならない時は?
総統クラスの強者がやってきたら?
――そんな想定をすると、生半可な腕では盾にもならない。
「でもー、志摩子さんがリリアンに必要って部分はー、完全同意かなー」
「ありがとう」
島津由乃から貰った答えのおかげで、その言葉を素直に受け入れることが出来た。
蟹名静らと別れた“鴉”は、昼休み同様に掲示板前を訪れていた。
昼休みと違って随分慌しいようだが、探しにきた人物は変わらずそこにいた。
「あら? また?」
紅薔薇勢力二年生長“送信蜂(ワーク・ビー)”だ。
「“夜叉”さまは?」
「さあ? 別に望んで一緒にいるわけじゃないから」
――一応聞きはしたが、きっとまだ会議が終わっていないのだろうと当たりはついていた。
「面白いことになっているわよ」
一年生の頃に同じクラスだった二人は、今でもそれなりの交流があった。
――小笠原祥子から“契約書”を奪い取ったことは聞いているはずだが、“送信蜂(ワーク・ビー)”はそのことには触れなかった。
何気なく“地図”に目を向け、しばし眺め、ようやくその堂々とした違和感に気付いた。
「“点”が二つ?」
“地図”上の“紫の点”は、“契約書”の場所を指す。昼休みに見た時は確かに三つあったはずだが。
「そう、忽然と一つ“消えた”のよ。だからこの騒ぎ。興味深いと思わない?」
「確かに興味深い」
なかなか気になる事件が起こっているようだが、残念。“鴉”はそれを面白がっている時間がない。
「頼みがあるんだけれど、いい?」
「私に? ……立場上あんまり肩入れできないんだけど」
小笠原祥子の一件のせいだろう。やはりなかったことにはならないか。
「探している人がいる。今どこにいるか教えてほしい」
「誰?」
「“罪深き相貌(ギルティ・アイ)”」
「――武嶋蔦子さんか。ちょっと待ってて」
“送信蜂(ワーク・ビー)”は近くに仕える隠密を呼び、武嶋蔦子の居場所を問う。「しばしお待ちを」と答え、隠密はどこぞへと走り去る。
「蔦子さんに何か用?」
「彼女も一応情報屋でしょう? 取引がしたいのよ」
「ちなみに内容は?」
「ノーコメント。……というより守秘義務か」
「借りたの?」
「だいぶ前のだけどね。結構高くついてる」
取り留めのない話をして待つこと数分、優秀な隠密が戻ってきた。
「――今はミルクホールで黄薔薇と雑談中、ですって」
「黄薔薇と?」
「あなたの目的は武嶋蔦子さんの居場所。それ以上の情報はサービスできない。それとも私と取引する?」
「いえ、充分。ありがとう」
“鴉”は早足で動き出す。なぜか混雑している保健室前を迂回して、中庭を突っ切ってミルクホールへ向かった。
今日の昼休みに起こったという、前代未聞の凶悪事件である昼食強奪事件の痕跡もなく、がらんとした人気のないミルクホールに人影が二人。
聞いていた通り、黄薔薇・鳥居江利子と“罪深き相貌(ギルティ・アイ)”武嶋蔦子がいた。
「あら。珍しい」
このセリフ、今日だけで何度か聞いている気がする。
黄薔薇にも言われ、“鴉”は内心「そんなに図書室に引きこもっているだろうか」と疑問を抱いた。
まあ、それはいい。
「ごきげんよう、黄薔薇。蔦子さん」
「ごきげんよう、“鴉”さま」
そんなに親しくはないが、一応どちらも顔見知りである。
「今取り込み中ですか?」
「明日のことを相談していたのよ。目ぼしい情報屋には声を掛けて、協力を仰いでいるところ。持久戦になると被害が拡大するから、できるだけ早く決着をつけたいわ」
明日からの“桜草”対策には、山百合会は遊撃として参加することになっていた。特に薔薇ともなれば、己の利害を無視してでもリリアンのために動かねばならないのだろう。
江利子の「早く決着を」とは、“桜草”の正体を暴き出すことが終着点と考えているからだ。思念体だけ相手にしていても切りがないだろう。いつ尽きるかわからない兵隊を潰すのではなく、司令塔を破壊した方が効率的にして安全だ。
色々と不明瞭にして謎も多い。それら全てを紐解いて順番に進むより、一気に本体を叩いて問題を解決したいところだ――たとえ特撮で言うところの「変身中に攻撃」並の反則であっても。
「……そういうことなら、話は早いかもしれない」
少し考え、“鴉”は言った。
「蔦子さん、念写で“過去”は撮れる?」
「え?」
「今朝、“桜草”が思念体を使用した時間と場所がわかった。あとはあなたが“過去”を撮れれば、“桜草”の正体が判別するかもしれない」
二人の顔色が変わった。“鴉”がどれだけ重要な取引に来たのか察したからだ。
「詳しく聞かせて」
「残念ながらこれ以上言えることはありません。でも結果は聞き出せばいい」
江利子は悟った。“鴉”が誰かの使いで飛んでいることを。
詳しくは言えないが、しかし目的が一緒であると考え、利害関係は一致していると結論を出した。だから蔦子と二人きりの取引をせず、江利子がいるこの場で話した。
「“過去”ですか……できなくはないですが」
だが蔦子の表情は険しい。
「でも、“過去”は1秒単位まで指定しないと“撮れ”ませんよ?」
蔦子の念写能力“罪深き相貌(ギルティ・アイ)”は、全自動機能がついている。蔦子が見たいと思うシチュエーションを検索し、勝手に撮影するという機能だ。
しかしそれは“未来用”であって、“過去”には適用されない。
「単純に考えて、“過去用”は“未来用”と比べて2割ほどしか力を発揮しないということになります」
“罪深き相貌(ギルティ・アイ)”の未来予想有効日数は、およそ10日前後。今回は関係なさそうだが、“過去”は2、3日前までしか遡れないのもある意味ネックである。
「目撃情報もあるし、時間の詳細は大丈夫だと思う」
「そうですか……妙な縁がありますね」
「縁?」
「今ここで“過去”を“撮って”いたんですよ。“過去”の撮影は私も滅多にしないんです。時間指定が細かすぎてピンポイントで狙えないし、大まかにやるんじゃフィルムを無駄にする。それに、未来にあることだから私の写真は情報として成り立つ場合が多くて、逆はそうでもないですから」
頷ける話である。
だから“過去の撮影”については広まっていない。蔦子も隠しているつもりはないが、色々制約が厳しい能力を取引材料としては外して考えている。
ちなみにここで“撮って”いたのは、昼休みの一件である――紅薔薇勢力副総統“鵺子”が起こした凶悪事件も気になるが、特に福沢祐巳に関してだ。
「それで場所は?」
「マリア像の近くらしいわ」
「妙ね」
「わかってます、黄薔薇」
今朝、久保栞が現れた時間は登校時間で、マリア像付近も登校してきた生徒が何人もいたはずだ。
そんな人通りの激しい場所で何かをするなんて、発覚のリスクが高いばかりで利点があるとは思えない。
「でも試すだけならそれほど負担はないと思います」
「……そうね」
“桜草”に関する矛盾点の多さに、眉を寄せる江利子の気持ちはわかる。どうにも理屈が通らないせいで、理屈で追いかけることに違和感さえ覚え始めたのだろう。
だが、正体に迫る手がかりに乏しいのは確かだ。藁にもすがりたいくらいに。
「これで正体がわかるとは思えませんが、可能性の芽を潰すつもりでやっておきましょうか」
それなりにしか話を聞いていないはずの蔦子なのに、情報屋らしくある程度は事情に通じているようだ。話が早くて助かる。
しかし、やはり考えることは同じのようだ。
“鴉”も、これで“桜草”の正体が判別するとは思えない。
理屈で考えればこれで決定打になるはずだが、理屈を通すと綻びが非常に目立つ――“桜草”には通例や慣例、あるいは常識といったリリアンの子羊に通じる法則みたいなものが通用しない。
だから“鴉”は、静達と別行動を取り、蔦子と接触した。
あくまでも、わずかな可能性があるものに一応賭けておくくらいのものである。蔦子の能力を信じないわけではない、調査相手が特殊すぎるのだ。
「蔦子さんの要求は?」
「あ? ああ、取引ですか。さっきの場所の情報でいいですよ、私も気になりますし」
「わかった。それじゃ蔦子さん、よろしく」
「写真はいつ渡せば?」
「現像は今日の内にやる? 何もなければ明日の朝でいいわ」
「では何か“写って”いれば、図書室に届けますので」
「お願いね」
これで、打てる布石は打った。
どのような結果が出ようと、調査は一歩だけ進むはずだ。
用事を済ませてさっさと立ち去る“鴉”を見送り、江利子は溜息をついた。
「知れば知るほど難物ね」
「同感です」
“桜草”。
すでにただの人間とは思えないのに、ますます遠い存在になっていく。
これで蔦子が写真を“撮れ”なければ、更に人間離れした存在になってしまうのだろう。探すという行為さえ無駄だと思えるような掴み所のなさは、巧妙に隠れているとかいう以前の問題のように思える。
「このタイミングで祐巳さんが覚醒したのも、何かの縁かもしれませんね」
「どうかしらね。偶然のような気もするし、蔦子さんの言う通り縁があるのかもしれないし」
まあ、縁があろうがなかろうが、江利子達がやることに変わりはないが。
「蔦子さん、話の続きだけれど」
「気をつけます」
「ええ、気をつけてね。今回ばかりは誰も先行きが見えないから」
情報屋は、有力情報を求めて危険に近付くことも珍しくない。しかし明日から始まるであろう“桜草”を交えた“契約書”争奪戦は、危険度が段違いに増してしまう。
普段以上に充分に気をつけ、できれば“桜草”の正体を探って欲しい――少々中断してしまったが、そんな話を締めくくった。
「……それと、これは個人的に気になることなんだけれど」
「はい?」
「祐巳ちゃんに異変があったら教えてちょうだい」
「祐巳さんに?」
「昼休み、私はここにいたのよ……って言うまでもなく知っているかしら」
それも江利子は、祐巳を仕留めた者だ。さすがにそこまで中心部に絡んでいれば、自然と耳に入ってしまう。
「あの子の能力は面白い」
「面白いって」
「そうとしか言えないのよ。祐巳ちゃんの能力は面白い」
江利子は笑っている。どこか悪巧みをしているような邪悪さを帯びて。
「確か、“吸収”っぽいとは聞いていますが……」
「私の予想が当たっているなら、その回答じゃマルは上げられないわね。せいぜい△」
「……そんなに特殊な能力なんですか?」
「たぶんね」
だが、予想が外れている気はしない。
「祐巳さんの異変って?」
「今祐巳ちゃんは“封”がしてあるのよ」
「封?」
「能力の“封印”。そのせいで放出も“吸収”もできない状態にある。――それで、何かの拍子にそれが外れたら、何が起こるかわからない」
「何かの拍子って、“封印”だったらそう簡単に外れるものじゃないでしょう?」
蔦子の言う通りだ。“封印”はそう簡単に外れないから“封印”として機能している。特に、“封じ”られた本人は絶対に解除できない、などとも言われている。
しかし江利子の予想は違っている。
祐巳に限っては、その限りではないと思っている。
「とにかくよろしくね」
「は、はあ」
どうにも不可解な江利子の言葉に、蔦子はわけもわからず頷いた。
視線には明らかな敵意と殺意が入り混じっている。
ぴりぴりと肌を刺す一触即発の空気。
圧倒的を感じさせる数の差。
たった一人+1に対して、二十を超える猛者は更に後から後から増えていく。
最高である。
危険極まりない雰囲気に平然と身を晒し、微塵も動じず立ち尽くす。
心拍数さえ変化はない。
こんなものは彼女にとっては日常だからだ。
――テニスコート脇に元白薔薇勢力総統“九頭竜”は立っていた。
フェンス越しの向こうからも、校庭からも、ありとあらゆるところから運動部部員の、無遠慮にして剣呑な視線が集まっている。抗するでも受け止めるでもなく、本気で何事もないように振る舞っていた。
触れている島津由乃には、それがよくわかる。
虚栄でもなんでもなく、本当に“九頭竜”は、この状況をなんとも思っていないことを。
「――お待たせ」
一人の女生徒が、フェンス越しに“九頭竜”の前に立った。
「部長は?」
「私では不服?」
「いえ。あなたで充分」
相手は、“朱点光線(レッドビーム)”波留。テニス部副部長だ。
「相談があるんだけど、聞いてくれる?」
「話の前にそのアクセサリー何?」
「本人に聞けば?」
「“九頭竜”さまの首をエレガントに飾ってますが、何か?」
「遊びたいならよそ行ってくれない?」
「いや本当に話があるのよ。コレは気にしなくていいから」
「いや気になるでしょ」と、波留は“九頭竜”の首をエレガントに飾っているソレを見る。
由乃だ。
どっちもそんなに不都合がないので、相変わらずおぶったままだ。
「うるさいようなら追っ払うから」
「じゃあうるさくなければこのままってわけね……まあいいわ。暇じゃないから手短にね」
これから部活である。波留にはあまり時間がない。
「手頃な勢力を潰したいんだけど」
「……ほう? つまりテニス部と事を構えたいと?」
山百合会に睨まれるのを避けるため、表立っての台頭はないが、誰もが普通に知っている。
部活連合――クラブの総合組織だ。
クラブ所属者は自然とこれに属すことになり、有事の際には総出で対処することになっている。ただし、組織としては成り立っていないので、彼女らは揉め事を嫌う。「不当な暴力行為」は放置しないが、「不当じゃない暴力行為」には一切関わらない。
要するに、理由もなくテニス部どころかどこかの部に手を出せば、全クラブを敵に回すということになる。
部活連はバカにできない。
この“朱点光線(レッドビーム)”も強いが、最近名前を聞く“黒い雑音(ブラックノイズ)”桂、他にも剣道部部長“悪童切り”と、黄薔薇勢力にありながら部活連と掛け持ちの“疾駆戦車(スピードマシン)”田沼ちさと、陸上部リリアン最速の憑依使い“チーター”と“蝶々落とし”軽部逸絵。演劇部“偽りの真実(フェイクスター)”高木典、“一点突破(ポイントアタック)”と呼ばれるフェンシング部部長、聖書朗読クラブの“死霊狩り(ネクロ)”と“末法異聞禄”、柔道部部長“剛鬼”……二つ名持ちを挙げれば切りがない。
さすがの三勢力総統でも、たった一人では相手にし切れない。
「そんなわけないじゃない」
やれば自殺行為である。そしてそれ以上に、理由のない戦闘行為などしている場合でもない。
「由乃ちゃん、オフレコよ。漏らしたら潰すわ」
「席を外せとは言わないんですか?」
その方が早い、とは、波留も思っている。というかなぜ背負っているのかが謎だ。特に仲が良いわけでもないくせに。
「もうすぐ引退する三年生からの餞別よ。こういうやり方もあるってことを教えてあげる」
「……わかりました」
憎まれ口でも叩いてやろうかと思ったが、由乃は素直に頷いた。「餞別」という言葉に期待してしまったのだ。
「部活連で適当な組織を立ち上げて。それを私が潰す。どう?」
「何のために?」
「狼煙を上げるため。新しい白薔薇勢力を立ち上げるから」
波留の目が驚きに見開かれる。知っていた由乃も驚いた。
「立ち上げる際にどこかの組織を潰して、周りを威嚇したいのよ。新しい白薔薇勢力もそれなりにやるぞ、ってね」
「……うちの見返りは?」
「私の首」
二人は再び驚いた。
「私の首を上げる。その後は引退して、もう一線から離れるわ。――『部活連は“九頭竜”を狩れるほどの強者が集まっている』。そんな実績は決してマイナスにはならないと思うけれど」
「まあ、あなたの首ならね」
元白薔薇勢力総統“九頭竜”。
地味で目立たないが、一年生の頃から積み上げてきた実績は、表に出ているものだけでも凄まじい。知っている者なら裏での動きも評価するだろう。一年生の頃に数回負けた程度で、相手は三年生で当時の白薔薇勢力幹部である――闘えば強く知略にも長け要所要所の人物との繋がりは確保しておく、非常に丁寧な立ち回りをしてきた。
これほど万能に動ける総統はリリアン史上で見ても稀である。
「それって八百長じゃないですか……」
背負われるのも嫌になって、由乃はようやく“九頭竜”の背から離れた。
由乃はがっかりしていた。
怒りも憤りも通りすぎて、がっかりしてしまった。
「そうよ。私が白薔薇勢力総統としてできる最後の務めだから」
「最後の務めが負けることですか?」
「負けてこそ価値があるからね」
「納得いきません。あなたの首を本気で欲しがって、全力で闘った人も沢山いたはずです。なのに実力以外のところで勝敗をつけるなんて」
青い――波留も“九頭竜”も、過去を懐かしむように目を細めた。眩しすぎて見ていられない。
「由乃ちゃんにもいずれわかるわ」
「わかりません。誇りを忘れた人から教わることはありません」
由乃は去っていく。そんな由乃を二人は止めず、ただただ黙って見送った。
「あんな頃あったわ」
「私もよ」
――二年前の自分達は、三年生のお姉さま方がどうしてあんなことやこんなことをしたのか、その時は理由がわからなかった。
今ならわかる。
だから同じことをしようとしている。
三年生は妹達に何を残すのか悩む。
三勢力総統やクラブの部長副部長ともなれば、尚更沢山のことを残したい。
卒業したらもう手を貸せない、手を出せない、助力できない、だから遺産を残すのだ。
いかなる理由があろうと白薔薇勢力を解散した“九頭竜”は、その責任を取るためにも、何らかの罰は受ける覚悟をしている。
このまま何事もなく卒業は許されないだろうと思っている。
ならば、いかに自分の敗北が後世の役に立つか。意味のある敗北にするか。勝利よりも利のある敗北にするか。
その他諸々も加味して、これがもっとも新白薔薇勢力の――藤堂志摩子のためになるだろうと結論を出した。
「本当にいいの?」
「もう決めたことだから。部活連が断るなら別口を探すわ」
「……わかった。会議に掛けてみるから、時間をちょうだい」
これで大部分の準備はできた。
あとは兵隊集めだが、これはもう後回しでいい。宙ぶらりんの元白薔薇勢力構成員の何名かは声を掛ければ戻ってくるだろうし、勧誘に長引いたらよそに気取られる。
これ以上は厳しいだろう。
まだ、せめて争奪戦が終わるまでは周囲に動向を知られたくない。特に“雪の下”の確保に成功したことは黙っていたい。
争奪戦と“桜草”問題が重なったおかげで、混乱に乗じて素早く動くことはできた。漏洩の心配よりスピードを優先した判断は、間違っていないはずだ。
とにかく、これで心置きなく“桜草”問題に取り組める。
(あと気になるのは、やはり福沢祐巳か)
今頃は色々な勢力から勧誘されていたりするかもしれない――
藤堂志摩子が出て行き、再び横になって、保健室の天井を見ながら祐巳は考え事をしていた。
小笠原祥子のことだ。
祐巳の首にロザリオをかけまくったお姉さま方とは違い、祥子は本気で祐巳を求めている。
――さっき志摩子が怪訝な顔をした理由も知っている。
祥子は祐巳ではなく、祐巳の力が欲しいのだろう、と。ちゃんとわかっている。そうじゃなければなぜあの祥子が祐巳なんて妹にしたがるだろう。他に相応しい子がいるはずだ。
だが、反面断ってはいけないという気もしている。
たとえ祥子の目的が祐巳の力だけであっても、山百合会の力になれる。一緒に苦労を背負える。きっとそれができるだけの力があるから祥子も祐巳を妹にしたいと判断した。
(……ダメだ)
やはりすぐには結論が出そうにない。
問題は、祥子は祐巳の力を認めているようだが、祐巳自身が自分の力を認めていないからだ。
志摩子にも話したが、感覚的に、祐巳の力は壊れている。
能力が特殊だとか強力だとかではなく、根本的にどこかがおかしいのだろう。志摩子に触れた時の感覚と比べ、向こうが正常だというなら、なおのことおかしい。
(それに……)
右手の甲を見る。
まるで罪人に押された“烙印”のように“十字架”が焼きついている。
――それに、この“封印”自体も、少しずつ“呑み込み”つつあるようだ。
「おーい祐巳さーん」
「え?」
ドアの開く音に合わせ、あまり馴染みのない声が重なる。
意識も身体も回復している祐巳はベッドから起き、衝立の向こう側へ移動した。
「あ」
そこには女生徒が二人。しかもどちらも今朝見た顔だ。……名前はちょっとわからないが、どちらも上級生であることはなんとなくわかる。
「なんだ、案外元気そうね」
「なんて挨拶よ」
今朝、体育館倉庫で見た胡散臭い笑い方をする方が気楽に言い、もう片方の凛々しい方に咎められる。こちらは今朝保健室を怖い顔をして封鎖していた人だ。
「部下の非礼を詫びにきた。ごめんなさい」
「は?」
いきなり非礼だの詫びだの言われても、祐巳にはさっぱりわからない。
「“鵺子”さんのことだよ。ってわかんないか。ミルクホールで暴れてた奴いたでしょ? 祐巳さんの手を煩わせてごめんなさいって意味だよ」
胡散臭い方が説明してくれた。
なるほど、一応わかった。“鵺子”とは祐巳にぶつかってきた“黒い人”のことで、この人はそのことで謝りに来たらしい。
「気にしないでください。というかたぶん私の方が……」
勝手に力を“呑み込んだ”りなんだりと、逆に迷惑を掛けたような気がしているのに。
「いや、“鵺子”が悪い。祐巳さんは何も悪くない。第一ミルクホールで暴れるなんて前代未聞だわ」
「むしろ止めてくれた礼を言いたいくらいだ、って言ってるよ」
「あなたちょっと黙ってて」
「はいはい。へっへっ」
ほんとに胡散臭い笑みをこぼし、どう見てもわかってなさそうな顔をする。今朝見た時はもうちょっと真面目そうに見えたけどなぁ、と祐巳は思った。
「あの件であなたが気にすることはない。もし誰かに何か言われたら、いつでも私に言って。必ずどうにかするから」
「は、はあ……」
そういえば紅薔薇・水野蓉子にも前に似たようなことを言われたな、と思った瞬間、思い出した。
そしてさーっと顔面から血の気が引いた。
(この人、紅薔薇の総統だ……)
三勢力総統と言えば、三薔薇が最も信を置く者――祐巳の認識では、黄薔薇勢力総統の印象が強すぎて「すごい暴れん坊の一人」である。
まずい。
粗相があったらやられる。
「……“狐”さん、お願い」
「え? 黙ってろって言ったじゃないですか」
「あんな顔されたら私はもう話せない」
「ああ……そうっすね。殺されるーって顔してますね」
どうやら祐巳の顔は、こんな時でも気持ちをちゃんと語ってくれたらしい。
「祐巳さん、この人結構温厚よ。……と言っても今は無駄かな。もう引き上げるからそれだけ憶えといてね」
「えっ」
まだ何か言いたげだった紅薔薇勢力総統を強引に押し、二人は保健室から出て行った。
「……あーびっくりした。あーびっくりした」
なぜか二回呟き、バクバク言っている心臓を押さえる。
――殺されるかと思った。
温厚だとか筋は通すとか、そういう問題ではない。過剰な生存本能は、もはやか弱き子羊の悲しい習性であるからして。すでに肩書きで怖いのだ。
それから間もなく、またドアが開いた。
すわ紅薔薇の総統再来か、と飛び上がって驚く祐巳だが、今度の顔は祐巳も会いたかった人物だ。
「祐巳さん」
「“瑠璃蝶草”さま……」
冷徹な眼差しとそれに拍車を掛けるメガネ。祐巳にこの力を与えた“契約者”こと“瑠璃蝶草”だ。
「覚醒したと聞いたから会いに来た」
そう言って、保健室に入ってきた“瑠璃蝶草”は、歩み寄り祐巳の右手を取った。
「……確かに覚醒している」
祐巳は驚いていた――“瑠璃蝶草”の力の大きさに。志摩子と比べると三倍近く大きい気がする。
「ん? この“十字架”は?」
「あ、実は」
祐巳は、先ほど志摩子に説明した己の力について、洗いざらい話した。さっきの今なので今度は簡潔にまとめられた。
「……“底の抜けた桶”か」
「はい……どうやら私は力を留めておくことができないみたいです。今はこの“十字架”のおかげでなんとか保てていますが」
「――たぶん祐巳さんは才能がなかったのよ」
「えっ?」
わりと衝撃的なことを“瑠璃蝶草”はさらっと言った。
「私の“契約書”は、『才能がない者は目覚めない』のよ。才能の有無は私の力でもどうにもならない。“契約”の際、そう言ったと思うけれど。覚えていない?」
「いえ、さっぱり……」
まあ、あの時の祐巳は、喜び勇んで説明どころではなかったから。説明も聞かず“契約書”にサインしてしまったから。
思えば、あの時、祐巳は平穏を捨ててしまったのだろう。よく考えもせずに。
「後悔しているか」と問われると……さすがに今はなんとも言えない。
「いえ、訂正する。『限りなく0に近いけれどギリギリで才能があった』という感じ。だから自分で消耗した力を回復できないし、そもそも祐巳さんには自分の能力というものがない」
異能使いの多くは、先天的な才能を持っている。あれが得意これが苦手、といった感じの才能が。
島津由乃の“玩具使い(トイメーカー)”は“火薬”の才能だし、その才能に大きく依存するのは蟹名静の“冥界の歌姫”だ。空間系としても思念体使いとしてもリリアン史においてこれほどの逸材はいない。
「えっと……つまり?」
「祐巳さんの言う通り、“完全充電型”という認識で間違っていない。“充電”しないと何もできない、というのも合っていると思う。――ただ」
“瑠璃蝶草”はメガネを押し上げる。
「面白いわね。すごく」
「さ、才能がないのが?」
「ええ。そして祐巳さんは才能がない代わりに、誰かの真似はできるのよ」
「まね……」
能力は才能に左右される。
だが力さえあれば転用はできる。
ただ「苦手で非効率」なだけで。
由乃だって思念体を使えるし、静だって具現化ができないのかと言われれば、そうでもない。
ただ向いていないだけで。
しかし、祐巳は違う。
「祐巳さんは、“充電”した力をそのまま使える。つまり“才能ごと呑み込んでいる”。だから憑依も“呑み込”んでそのまま放出した。――それで今祐巳さんの中に残っている力は、白薔薇のものだったかしら?」
「あ、はい」
「ならその力で“シロイハコ”が具現化できるはずよ。それもオリジナルに遜色ないものがね」
と言われてもピンと来ないが、しかし大事なことがわかった。
「“充電”さえすれば闘える……そういうことですね?」
「ええ。もちろん慣れてくればできることも増えるはず。……面白いでしょう?」
「い、いえ、そこまではちょっと……」
それにしても。
「よくわかりますね。前にも私と同じ感じの人がいたんですか?」
「え? ただの勘だけど?」
「えっ!?」
「勘というほど曖昧じゃないわね。感じた限りではそんな感じ、というだけで。根拠はないけれどそう間違ってもいないと思うわ」
かなり不安を煽られるセリフだが、今は感じられる祐巳にはなんとなくわかる気がした。
「立ち入ったことを聞くけれど、祥子さんのことはどうするの?」
「は?」
なんで知ってるの、という顔をする祐巳を見て、“瑠璃蝶草”は微笑む。
「祥子さんの紹介で面会に通されたのよ。その時に本人から聞いた」
「……やっぱりダメですか?」
祐巳に力を与えたのは、“瑠璃蝶草”が自分の味方にするためだ。だが祥子の申し出を受ければ“瑠璃蝶草”を裏切ることになる。
そもそも、祐巳は気付いていないが、聞き返している時点で似たようなものなのだが。
「別にいいけれど」
「え、いいんですか?」
「華の名を語る私達は、色々あってね、もう解散しているのよ」
「えっ!? “竜胆”さんとかも?」
「ええ。解散している。今はできるだけ接触も断っている」
そういえば“竜胆”は言っていた。
「あの時とは状況が違う」と。
つまり、もう集まりでさえなくなっていた。そういうことらしい。
「私には三薔薇の監視がついているから、たとえ祐巳さんが望んでも、私の傍には置いておけない。――まあ望まないみたいだからその心配はいらないわね」
「それじゃ……」
「心の赴くままにどうぞ。私達のことは気にしなくていいわ。変に義理立てされても返って迷惑だから」
そう言った時、またドアが開いた。
「10分だ」
護衛の元白薔薇戦闘部隊隊長“氷女”が顔を覗かせ、それだけ告げた。“瑠璃蝶草”は「わかりました」と答え、祐巳に背を向ける。
「山百合会に入りたいならそれもいいと思う。今は私も、山百合会がどういうものなのかわかるから」
入れ替わりで、最後に祥子が戻ってきた。
祐巳を妹にしたいと言った祥子。
たぶんそこには祐巳自身より力を求める意志の方が強くて。
でも、それでも、必要とされて嬉しい自分がいて。
「心は決まった?」
「祥子さま、私は――」
長かった水曜日が終わる。
そして、激動の木曜日が始まる。