【3624】 誰がために君は泣く  (海風 2012-02-06 14:18:19)


【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】
【No:3171】【No:3174】【No:3177】【No:3183】【No:3187】
【No:3196】【No:3205】【No:3233】【No:3249】【No:3288】
【No:3327】【No:3380】【No:3397】【No:3443】【No:3464】
【No:3498】【No:3501】   解説書【No:3505】 【No:3509】【No:3515】
【No:3538】【No:3541】【No:3589】【No:3593】【No:3597】
【No:3601】【No:3613】【No:3616】【No:3617】【No:3618】  解説書2【No:3620】 【No:3621】【No:3623】から続いています。









 無人の廊下を歩いていた。
 まだ陽が昇らない早朝、肌寒い空気を帯びている秋の日。
 その人物は、どこか芯が通っておらずゆらゆらしている。どこかだらだらしていて歩調はゆるかった。まるで人となりを現すかのように。
 しかし、知っている。
 彼女がここにいることを察知している者は、気付いている。
 動きも歩く姿も気配の配り方も非常に甘いくせに、その実何一つ気が抜けていないことに。どこまで実力があるのかさえ隠し通している全ての要素に、危険信号が警戒を促す。

「――“鼬”さん」

 掛かるはずのない背後からの声に、その人――元白薔薇勢力隠密部隊副隊長“鼬”はゆっくりと振り返る。

「なーにー?」

 軽薄な笑みを浮かべて、間延びした声で、非常にゆっくりと。

「一年生で最強と噂の“鎌鼬”。相違ありませんね?」

 振り返り、“彼女”を見ても、動揺は一切ない。
 まるでこうなることを事前に知っていたかのように。

「どうかなー? 試したことないしなー」

“鼬”は警戒さえしない。
 目の前に、最も警戒するべき者がいても。

「お相手を頼んでも?」
「んー? んー……やめとけばー?」

“鼬”は持っていた紙を折りたたみ、ポケットに収めた。

「せめて“10体”は用意しないとー。遊びにもならないよー?」
「なるほど。では――」

“彼女”は増えた。忽然と。言われた通り“10人”に。

「これでよろしいですか?」

 人間と比べても遜色ない“彼女ら”をじっと見詰め、ようやく“鼬”は向き直る。

「あんまり時間ないからー、ちょっとだけよー?」

 合意の返事を得て、“彼女ら”は闘気を漲らせる。
 対する“鼬”は、のんびり突っ立っているだけ――にしか見えないが、見えないだけで、最初から臨戦態勢に入っている。
 数日前まで白薔薇勢力隠密部隊の副隊長で、実績はないがその座にあるだけの実力は上に認められていて。
 そして、次期白薔薇勢力総統と言われた一年生。
 もし今も勢力が安定して存在していたら、そろそろ始めていただろう。
 ――実績造りのロザリオ狩りを。
 全ての争いの発端となっている、この狂ったリリアン史が始まった元凶である、あの罪深い行為を。

「一つ質問をしても?」
「えー? 代わりに私の質問にも答えてくれるー?」
「――あなたはなぜ闘うのです?」
「無視かよ……冷たいなー」

“鼬”は言った。

「そんなの考えたことないからわかんないー」

 躊躇も迷いもなかった。
 なんのために闘うのか。それはその時々によって理由が違う――そういう意味の質問ではなく、譲れない信念のようなものを問うているのはわかる。
“鼬”にはそれがない。
 正確には、なくなったというべきか。
 最初はただどこまで自分の力で昇っていけるか確かめたかっただけだが、その目的はすぐに潰えた。その直後に出会った藤堂志摩子との出会いで、大まかな闘う理由はできた。その後、とある三年生二人による英才教育で、白薔薇勢力総統になることが目標になった。
 しかし、その白薔薇勢力は、解散してしまった。
 これからどうなるかなんて、本当に全然わからない。
 仮に志摩子が白薔薇にならなかった場合なんて、考えたくもない。
 ただし“鼬”ももはや駆け出しではない。
 闘うのに闘う理由が必要だなんて言わない。

「なるほど。ただ流されるまま暴力を振るうのがあなたの正義だと。もっともらしい詭弁を振り回さない分だけ嫌いじゃないです」
「正義ねえ……その正義を貫くための力がまだ備わってないんだよー。単純にねー。だから強くなるために闘い続けている、っていうのが私の答えなのかもねー。だから、」

“鼬”が動く。

「そういうのはまだ考えるのさえおこがましいんだと思うよー」

“鼬”が無造作に出した一歩と、“彼女ら”の素早い一歩は同時だった。
 二歩目が出た時、すでに“鼬”は包囲されていた。
“彼女ら”の一手目が眼前に迫る中、“鼬”ができたのは右手を上げること。振るわれる正面からの“光拳”を、上げた右手とわずかに避けた頭との間に通し回避する。

 キリキリと“糸”が笑い声を上げた。

 上げた右手と下げたままの左手の間に張った“糸”、一回転させて作った輪が、一手目の“光拳”を捕らえていた。高速で動く“彼女ら”は見落としたようだが、ここでようやくそれがあることに気付いた。
 気付いたが、それでも強行したのは、止まれなかったからではなく。
“鼬”の次の手が予想できなかったからである。
 単純に手を伸ばせば触れられるような距離まで詰め、囲んでいる。普通に考えれば「たかが“糸”でこの状況を覆せるものか」という慢心があった――それも「普通」とか「常識」という慢心が。
 力で勝り、基礎能力でも勝り、数でも勝る。
 先日の紅薔薇・水野蓉子とは違う。彼女は三薔薇と言われる学園最強の一人であって、率直に言えば相手が悪かった。
 だが、今度は違う。
 一年生で最強と言われてもしょせん経験不足の一年生で、しかもふざけているとしか思えない言動。何一つ強いと思える要素が感じられないし、力も基礎能力もそう高くない。
 勢い、力任せ、数の有利で押し切ろうとした“彼女ら”の気持ちは、わからないでもない。
 この一年生より強い者はゴロゴロしている。三薔薇、山百合会、三勢力総統、三勢力幹部、それら以外にも点々と強者が存在している。
 今このくらいの相手には勝っておかないと、不安だろう。

 ――だが、甘い。

 二手目、左と右の挟撃。
“鼬”は正面の者に背を向け、身体を密着させるように寄せる。目の前を交差する腕と足を捕らえ、しゃがんで後続の攻撃をワンテンポ遅らせる。
 わずかに遅れた三手目は、飛び蹴りと右と左。上と左右。“鼬”は素早く前方に飛び一度包囲を抜けた。

「あははー」

 そして、これまでの動きが嘘だったかのように、ゆっくりと振り返った。

「はい、おしまい」
「……まさか」

 たった三手。
 時間にして1秒と少し。
 中には“鼬”に近付きさえしなかった者もいる。
 なのに、“10人”全てが“糸”に囚われ、動けなくなっていた。幾重にも巡らされた“糸”は強固なのではなく柔軟に伸縮し、たかが“糸”なのに力任せには断ち切れない。

「あははー。一年生相手なら力とか数とかで押し切れると思ってたー? 甘い甘いー。無警戒で飛び込んでくればー、そりゃそうなっちゃうよー」

 見切っていた。
“鼬”の動きは全て見ていた。
 しかし、“鼬”の繰る“糸”は、全て追えていなかった。
 あのわずかな時間に“全員”の動きを把握し、先読みし、“糸”を巡らせ捕縛した。その動きは繊細にして慎重、かつ正確。
 ――こんな奴もいたのか、と戦慄が走る。これで一年生だという事実に恐怖さえ覚える。

「あなたと遊ぶのはー、あんまり楽しくないねー」

 「じゃーねー」と“鼬”は背を向けた。

「お待ちなさい。これで終わりではありませんよ」

“彼女達”は一度“消え”て拘束から抜け出し、再び“実体化”する――そもそも物理的に対処できない“彼女達”である。
 拘束を抜けたことはわかっているのだろう“鼬”は、しかし振り返らず、後ろ手に手まで振って終わりを告げている。
 ――逃がさない。
“彼女ら”は今一度“鼬”に踊りかかり――

  パン!

 素早く振り向いた“鼬”が、拳をかわすと同時に何かを、先頭に迫っていた“彼女”の顔面に直で叩き付けた。その爆竹が破裂したかのような鋭い音に、周囲の“彼女ら”が止まった。

「落ち着きなよー。そう焦んなくても大丈夫だってー」

“鼬”はゆるい口調で言った。

「それあげるよー。じゃーねー」

 叩き付けたそれは、折りたたんだ紙である。顔から引っぺがした時、やはり“鼬”は背を向けていた。特に逃げる様子でもなく、堂々とゆらゆら歩き去っていく。

「あ、そうだー」

 振り返った。

「狙いはいいと思うよー。いきなり三年生に向かわなかったことは評価するしー、由乃さんに……っていうか山百合会に関わらなかったこともいいねー。今のところ私が一番狙うには手頃だよねー。だからもしかしたら来るかなーって思ってたー」

 強襲を予想されていた。
 根拠もないし漠然とではあるようだが、それでも予想されていた。

「でもねー、もう遠慮しなくていいんだよー。みんな知ってるしー、妙な動きがあることはあなたも知ってるでしょー?」

 確かに知っている。
 主立った強者がいつも以上に早く登校し、何かをしている。

「あとねー、志摩子さんに手を出したらー、いろんな意味でシャレじゃ済まなくなるからー、忘れっぽくても忘れないできっちり憶えといてねー」

 それだけ言い、今度こそ“鼬”は去っていく。
 言葉の意味を全て察することはできなかったが、しかし、渡された紙を見て、言葉の意味どころか今日の予定さえ決まってしまった。

  リリアンかわら版号外 “桜草”対策概論

“彼女”――久保栞は、驚きに目を見開いた。




 木曜日が始まる。
 リリアン史上かつてないほど激しい、だがいつも通りの一日が始まる。




 大変なことになっていた。
 なんというか、色々、全てが一変していた。

「待てこらぁー!」
「そっち行った! あ、あぶなっ」

  どこーん

 蹴られた女生徒は悲鳴を上げて空を飛び、校舎三階の窓に直撃し、中へ飛び込んだ――向こうからも違う意味の悲鳴が聞こえた。

「派手だなぁ」
「そうですね」

 今日はまた、すさまじい。
 福沢祐巳の目の前で、美しい黒髪が流れる。ふわりと広がる白いスカートが腰の動きに付いて流れ、回転しながら元の位置に戻る。
 ――久保栞だ。
 だが祐巳は久保栞を知らないので、「制服の違う人がいるな」くらいの感想しかない。冷静に考えれば異常でしかないが、長く恐ろしい刃物を振り回す人の方がよっぽど怖いので、異常でも怖くなければ平気である。

「一般生徒の前で恥ずかしくないのですか! 巻き込んだらどうするのです!」

 逃げてきた久保栞が、追ってきた6名に怒りをぶつける――その背後からも違う団体が久保栞を囲もうと迫っていた。

「あ、お姉さま方ごきげんよう」
「ごきげんよう。早く行っちゃいなよ」
「そうします。行こう祐巳さん」
「あ、はい」

 手を引かれたので仕方なく、まるであてつけのように怒っている久保栞の真横を通り、祐巳達はその場を通過した。
 祐巳達が離れ、しばしの沈黙の後、

「恥ずかしくないのですか!」

 久保栞はもう一度、同じセリフを吐いた――彼女にとっては大事なことだったのだろう。
 祐巳は少し申し訳なく思った。たぶん自分のために言ったのだから。
 残念ながら、もうこんなことは日常茶飯事なので、露骨に敵意や注意を向けられなければ全然平気なのだが。人間の学習能力はすばらしい。

「意外と度胸あるね」
「あの、わざと刺激するの、やめませんか?」
「あ、ごめん。護衛とか慣れてないんだ。やっぱまずい?」
「まずいです」

 彼女――紅薔薇勢力突撃隊副隊長“鵺子”は「じゃあ次から気をつけるね」と頭を掻いた。好戦的なこの二年生がわざと相手を刺激するのは、もはや習性に近かった。
 それが自分の、突撃隊としての役割だと知っているからだ。

 校門で祐巳を待っていた“鵺子”は、昨日のミルクホールでのことを詫び、借りを返すために争奪戦の期間中、祐巳の護衛をすると告げた。
 上からの指示か、本人が買って出たのかは知らないが、「断っても無理やり付いていくよ」とのことだ。だから一緒に通学路を歩いていた。
 マリア象に祈りを捧げて少し行ったところで、さっきの久保栞とそれを追いかける一団と遭遇した。
 校門からここまでで、久保栞を3回見ているので、もう祐巳には戸惑いも何もない。
 今日もまた、色々なことが起こっている。
 たったそれだけのことであり、そんなのリリアンではいつものことだ。




  一時間目 休み時間

 ――どうやら計画通りになったようだ。
 三階廊下に椅子を持ち出し陣取り、本を広げている“鴉”は、バタバタと慌しい一団が通り過ぎるのを見もしない。
 この付近一帯の『クロスポイント』を任された“鴉”は、粛々とその務めを果たしている。狙い通り、周囲には頻発する戦闘及び小競り合いを恐れて逃げ込んでくる一般生徒が集まり、きちんと安全地帯として機能していた。
 計画通りというのは、“桜草”の出方である。
 今朝配られたリリアンかわら版号外で、“桜草”の名と能力、今後の動きの予想と対策が流布された。

 その結果、“桜草”がどう動くか?

 新聞部部長・築山三奈子は、「人目を憚る理由がなくなって自由に動き出す」と結論を出した。というか、それが最悪と考えた。
 冷静に「“契約書”を狙って49人体制の組織が動き出す」という事態を想定する。
 それは、今までそれなりの緊張感を以って均衡を保っていた関係が、一気に崩れることを意味する。
 49人どころか、10人ものグループが意欲的に動き出すだけでもバランスは崩れる。様子見をしている者達には見逃せない一石――どころか、水面に投げられたのは特大の大岩だ。小波どころか大波となってリリアン全体を刺激する。
 その結果、少々早い決戦が始まる。
 予想通り、リリアンは朝から大混乱で、大乱戦の最中にあった。
 正体不明人物だった久保栞は至る所でその姿を現し闘っているし、さっきから“鴉”の目の前を走り抜ける者も何人かいた。当初考えていた通り、この『クロスポイント』で久保栞と闘う豪の者もいる。
 ただ、予想外だったのは、やはり――

「ますます人間業じゃないわね」

“鴉”の隣で壁に寄りかかり、単語帳を捲っている“冥界の歌姫”蟹名静も、冷静に状況を見ている。

「同感よ。確か山百合会も遊撃に当たっているはず。少なく見積もっても“10人”くらいは“消した”はず」

 予想外だったのは、昨日の放課後、静主導で調査した“桜草”の情報である。
 細かいものは省くとして、一番重要なのは「超広範囲の空間系で、しかも出現場所を目算する必要もない」ということだ。
 即ち、“烙印”持ちで“桜草”を相手できる者、ここ『クロスポイント』で倒せる者も含めて、倒してすぐ目の前に具現化される可能性だ。“消した”傍から思念体がまた生まれ、“禁じたはずの再生”に近い現象が目の前で起こるのではないか――というものだ。
 まあそれも問題だが、この問題が抱える最大の疑問点は、「“再生”と“再具現化”は違う」ということだ。
 簡単に言えば、前者なら“全自動”。後者なら“手動”――再び力を消費して呼び出すことになる。
 流れとしては、このまま久保栞を倒し続ければ“桜草”の力は枯渇する、ということだ。“再生”と“再具現化”の違いはそういうことだ。
 しかし、それにしても。
 山百合会や名の売れている二つ名持ちが遊撃に走り回り、率先して久保栞を減らしているはずなのに、リリアンで起こっている騒動がまったく変わらない。むしろ増えている。
 ――いったいどれだけの力を持っているのか。
 久保栞にそっくりな思念体を造り、かつ49人もの数を用意できる。その時点で人間業じゃないが、更に人間業じゃないことを更新し続けている。
 率直に言って、あまり良い兆候ではない。

「どう考えてもまずいわね」
「そうよね」

 静は単語帳を閉じ、ポケットに納めた。

「意見を聞かせてくれる?」

“鴉”はチラリと静を見上げ、同じように本を閉じた。

「“桜草”の目的って何?」
「女帝。リリアンの頂点、と本人から意思表示があったらしいわ」
「だから“契約書”を狙っている。そこまではわかる」
「察するに、女帝になってリリアンをどうしたいか、とか?」
「そう。ずっと考えていたの」

 頂点に立ってどうしたいか。

「言動から考えて“桜草”は現状を憂いている。まず山百合会を排除することで『強者こそ絶対』のルールを壊す。後に望み通りのルールを敷く。――静さんの疑問は、“桜草”の望むルールね?」
「ええ。“鴉”さんは今をどう思っている? 正しいと思う?」
「まさか」
「じゃあ正しくないと思っている?」
「暴力が正当に振るわれる正義なんてどうかしている。それが正しいなんて口が裂けても言わない」
「なら“桜草”が目指すルールは、“鴉”さんにとって望むものじゃないの?」

 少なくとも、既存のルールとは違うのだから。確かにそうだろうと“鴉”も思う。

「――暴力でルールを敷くような輩のやることに賛同はしない、と言いたいところだけれど、それだけなら我慢する。でも姿も見せないような相手の言うことなんて信じられない」
「なるほど」

 静も概ね同じ意見だ。
“桜草”の意見に真っ向反対する気はないが、やり方が気に入らない。強い者が正義だなんてルールは納得していないが、ならばどうすればいいのか答えは出ない。
 ただ、“桜草”が女帝になった時、もっとも注意しなければいけないことがある。

「仮に“桜草”が女帝になって、山百合会を排した時に起こる暴動は、」

 目の前の壁一面が斬り崩され、外気が頬に触れる。

「こんなものじゃ済まない」
「でしょうね」
「“桜草”はちゃんと考えているのかどうか」

 強者こそ絶対。
 誰もが従うこのルールが侵された時、それこそ本当の無法地帯となるだろう。
 混沌を納めるべく無数の二つ名持ちが尽力し、結局元の鞘に戻って、狂った正義のルールがまた芽吹くのが目に見えるようだ。新しい正義などどこかへ消え失せ「いったいなんだったんだ」という失意だけを残して。
 今までそれを目指さなかった者がいなかったわけではない。
 今でもそれを目指している者もいる。
 それでも実現できないから、狂った正義は今もリリアンを支配しているのだ。誰も彼もが納得はしていない。ただ反対しても代案が出せないだけだ。

「ちなみにそれについての“鴉”さんの意見は?」
「新しいルールの? そうね……」

“鴉”は立ち上がる――今度の来客は、通り過ぎるわけではなさそうだ。

「キーポイントは、藤堂志摩子さん」
「へえ?」

 静も並び立つ。

「彼女、一年生でしょう? あと二年ある。もしかしたらやれるかもしれない」
「あとは、隣に並ぶ薔薇の存在ね」
「前衛は私が。静さんは先制を」
「OK。――皆さん、下がってください!」

 周囲に避難している一般生徒に呼びかけ、二人は団体の前に立った。
 廊下の先から十数名の団体が走ってくる。どんな経緯でそうなったのかはわからないが、久保栞“15人”に追われて逃げてくる。
 何一つ問題ない。

「どきなさい! どっ――」

 先頭にいた彼女は、次の言葉を紡ぐことができなかった。横手に急に現れた“冥界の歌姫”が、壁を失っている外へと殴り飛ばしたからだ。
“思念体”は次々に逃げている集団を外へ弾き出す――が、相手も相応の者である。“思念体”を回避し、あまつさえ静に襲い掛かってくる。
 その前に、庇うように“鴉”が立った。
 すでに“仕掛け”は終わっている――視界を覆うような量の黒鳥の羽が舞った。
 躊躇し足を止めたのが運の尽きだ。“思念体”が容赦なくまとめて外へ放り出した。
 ――あんな人数で『クロスポイント』を利用されると、一般生徒に害が及ぶ。ここを利用するのは構わないが、一般生徒の安全こそ最優先事項だ。

「ちなみに静さん、もう“彼女”とは闘った?」
「いえ。見ていただけ」
「じゃあ大丈夫ね」

 ものの数秒で十数名を排除した二年生達は、続けてやってくる久保栞の集団と対峙しようとしていた――




  二時間目 休み時間

 ――あまり良い流れではない。
 中庭一帯の『クロスポイント』を受け持ったのは、元白薔薇勢力総統“九頭竜”である。個人的な思惑でも絡んでいるせいか、広範囲の激戦が予想される場所を任されてしまった。
 まあ、それはいい。
 この場所は、校舎内で遭遇した久保栞を一気に連れ込める場所だ。ちょっと窓から飛び出せばすぐにでも利用できるポイントとして、すでに多くの者が利用している。そして昼休みでもない限り、一般生徒が来ることもあまりない。
 ここは激戦区である。
 49人もの数が一斉に動いているらしく、いたるところから久保栞が現れ、誰かと闘う。数で押したり押されたりと、“九頭竜”の目の前で死闘を繰り広げている。
 あまりよろしくない状況だと言わざるを得ない。

「“レイン”が探ってるんだっけ?」
「たぶん」
「早く見つけないと危険だね」
「まったく」

 中庭のど真ん中に堂々と立つ“九頭竜”と、その隣には紅薔薇勢力突撃隊隊長“十架(クロス)”がいた。
 周囲では絶え間なく戦闘が起こっていて――しかしこの二人には誰も近付かない辺りに、周囲の認識がどういうものなのか伺うことができた。
 助けを請われれば助けるが、それはリリアンの子羊としてのプライドが許さない。よって出番があまりない――もっともそれなりの強者が立たねば、戦闘に巻き込まれて場所を確保できないだろう。この二人は久保栞と闘える場所を護り続けなければならない。

「ねえ“蛇”、知ってる?」
「ん?」
「●リキュアって実在するんだよ」
「へえ。まあサンタクロースも実在するからね。プリキ●アも実在するかもね」
「……えっ!? サンタって実在するの!?」
「ついでに言うと、私、つい最近仮面●イダー見たわよ」
「ま、まじで……!? 悪と闘ってた!?」
「ええもうばっちり」

 遊園地で。ステージ上で。甥っ子と。ついでに握手して記念撮影までしてきた。

「あなたも隅に置けないわね」
「そう?」

“十架)(クロス)”の言葉の意味がわからないが、言動からわかる通り“九頭竜”はまともに相手にしていない。
 それよりだ。

「嫌な感じよね」
「そうね。眠気が醒めるような感じよね」

 どういう感じなのかもよくわからないが、“十架(クロス)”も状況を見ているのは確かのようだ。

「このままじゃ押し切られる、か……」

 ポツリと呟いた核心の言葉に、“十架(クロス)”は顔を引き締める。

「間違いない?」
「恐らく」
「……“桜草”っていったいなんなのかしらね」

 その問いに対する答えは、“桜草”以外誰も持っていない。
 このままではまずい。
 まずいが、しかし、どうしようもないだろう。
 もし“九頭竜”が指揮を取るなら、この辺で方針を変更するところだが――

「“九頭竜”さん」

 急にそこに現れたのは、黄薔薇・鳥居江利子だった。

「指令からの伝言よ」

 タイムリーである。さすがは三勢力総統を巻き込む事件の指揮を取る者、打つ手が速い。

「黄薔薇が伝令やってるの?」
「いえ、たまたま近くにいたから。――どの道これじゃ、非戦闘員の隠密ではあなた達に近づけないわ」

 本当に乱戦のど真ん中である。並の者では平然と会話なんてできるような状況じゃない。

「昼休み以降の“桜草”の動向に注意せよ。以上」
「つまり今は静観でいいのね?」
「ええ。昼休みからは何かしら動くことになるかもしれないけれど」

“九頭竜”らが抱いた危機感に指令役が気付いているなら、それでいい。その上で静観しろと言うのなら従う。
 だが、どう考えても――

「「ん?」」

 三人は同時にあらぬ方向を向いた。
 二階からガシャンと窓ガラスを割って、とある人物が飛び出してきた。
 ――黄薔薇の蕾・支倉令だ。

「ごめんなさい。令のこと、お願いね」
「ええ」「わかった」

“九頭竜”と“十架(クロス)”は同時に頷き、江利子を置いて走り出した。

 実は、令は“契約書”を持っている。
 別の場所で『クロスポイント』を護っている紅薔薇勢力総統“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が持っていたもので、「持っていると襲われるから」という理由で手放したのだ。
 遊撃に当たる誰かに持たせよう――という理由で、総合力が高く安定した持久戦を可能とする支倉令が“契約書”を持つことになった。

 当初の予想通り、久保栞もリリアンの子羊も“契約書”に殺到した。
 中庭に降り立った令を見て、周囲の乱戦が次第に収まっていくのも、令を追って二階の窓から何十人もの強者がやってくるのも、一時間目の休み時間に経験した。
 およそ50以上の視線が令に集まり――

 爆発した。

「――――――――――――っっっっっ!!」

 もはや形容できない雄たけびが校舎を揺らし、感情むき出しの怒号が地を揺らす。
 差し出された贄のごとく、飢えた獣となって令目掛けて殺到する子羊達。久保栞も入り混じって大変な数となっている。

「“十架(クロス)”、令さんの背中を!」
「了解!」

 半年近いブランクのある“十架(クロス)”に実戦はあまり期待できない。令を護りながら攻めることはできないだろう。
 だから、“九頭竜”がそれをやる。
 令と“十架(クロス)”を護りつつ、攻めるのだ。

「すみません!」

 誰よりも一足早く駆けつけた三年生達に令は声を掛けるが、二人は同時に「これが役目だ」と答えた。
 二人より一歩前に出て身構える“九頭竜”を見て、全体の動きが一瞬止まる。
 だが、止まらない。
 勝負時と見るなら、相手が誰であれ止まる理由がない。
 今は山百合会だろうが三勢力総統だろうが、躊躇う理由もない。
 ――たとえ負けようとも。

「陸竜“悪螺詩”」

“九頭竜”の声に空が鳴く。
 竜の口を模した構え、空に走る風が形造るは“風竜”。
 空気中の水分をきらめかせ、朧の“風竜”が真正面の全てを舞い上げながら駆け抜ける。
 悲鳴さえびゅうびゅう鳴きわめく“竜”に食われ、一撃で十数人もの猛者が戦線から離れていた。威力も驚異的だが、その威力を維持しながらの速度こそ恐怖である。しかも“風竜”は来ることがわかっていても避けづらい――何せ“風竜”の名の通り、見えない上に生き物のように軌道を変えるからだ。
 しかし、さすがはリリアンの子羊である。
 真正面以外、範囲外にいた左右の者達は、今のを見ても“九頭竜”を恐れることなく突っ込んでくる。
“九頭竜”の足が跳ね上がった。
 見事な右の上段回し蹴り。綺麗に孤を描く爪先の先端には、固めた“土”が付着している。ウエイトを増し遠心力のついたハンマーのような蹴りが、戦斧使いの獲物の上から力任せに数人を薙ぎ払った。スカートが翻る。その回転の勢いを止めず、再度回りながら真上に飛ぶ。

「捌竜“迦狭寝”」

 己を支配する“重力”を、掲げた右手に集め、振り下ろす。

  ザクッ

 目に見える“黒い爪”、“重力”が空気を裂き、地面を抉る。
“重寝竜”の四つの爪が押し潰す。
 体重どころか飛ぶことで掛かる“重さ”まで利用するこの技は、効果範囲にいれば防御ができないことに意味がある。
 降り立つ“九頭竜”。
 目の前の者、それどころか令達に襲い掛かろうとしていた者達まで足を止め、動けなくなっている。
 一気に三十人以上を仕留めた眼前の存在が、まるで本物の竜の化身のように見えた。

 元白薔薇勢力総統“九頭竜”。
 間違いなく三勢力総統の実力を持つ者である。




  三時間目 休み時間

 ――これは結構まずいのではなかろうか。
 掲示板前を含めた一階廊下をカバーする下駄箱外の『クロスポイント』を護る“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は、拳を握りなおす。
 この三時間目の休み時間に入って、ここには久保栞が襲来し続けている。掲示板前を確保することは争奪戦を制するための第一歩だと考えることはできるが、どうにも目的はそれだけではなさそうだ。

「総統」

 離れた掲示板前で動いている、紅薔薇勢力遊撃隊隊長“鍔鳴”が、持ち場を離れて寄ってきた。

「何かあった?」
「いえ……この状況はかなりまずいと思いまして」
「わかっている。でも私達がそれを考える必要はない」

 指揮を取っているのは、黄薔薇勢力副総統“夜叉”と、元白薔薇勢力隠密部隊隊長“レイン”だ。あの二人の目は節穴ではない。
 この悪い方に傾きつつある現状も、きちんと理解しているはずだ。

「持ち場に戻りなさい。まだまだ来るわよ」
「……お気をつけて」

“鍔鳴”が躊躇いがちに遠ざかっていくのを背中に感じる。
 この場所は、久保栞の襲来が非常に多い。恐らく中はそうでもないのだろう。
 これまでに“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が相手をした久保栞の数は、実はすでに三桁に到達している。一度のアタックで来るのは10名前後。それが断続的に続いている。
 元々いつ終わるかわからない戦闘を強いられることが多かった。それゆえ強者は持久力もあり、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”も例外なく、というより優れている方だろう。このペースなら放課後まで繰り返したって息切れ一つしない自信がある。
 だが、問題はあった。
 その問題こそ、“鍔鳴”が心配して声を掛けてきた理由でもある。
 別の『クロスポイント』を護る“鴉”チームと“九頭竜”チームも、すでに気付いているだろう。

 ――闘うことで久保栞に経験を積ませていることに。

 ホームルーム前に手合わせした限りでは、久保栞はまったくのルーキーで、力が強いだけの素人だった。
 なのに、今はだいぶ違う。
 数だけの連携ではなく、個々の動きに磨きが掛かり、単純に攻める中に虚実が生まれ、今や囮役や防御役と役割分担まで組み立てつつある。
 恐るべき学習能力、という陳腐なものではなく。
 全てが、今朝からこの時までの経験から学んだことだ。
 新聞部部長・築山三奈子の読みでは、49人の意識はバラバラで、だが共有しているという――恐らくは“桜草”が司令塔としてまとめているのだろう。単純に考えると、49人が一度戦闘を経験すれば、あわせて49倍の経験地が得られるということだ。
 つまり。
 闘い続ければ続けるほど、“桜草”もどんどん強くなるということだ。元々久保栞のポテンシャルは高い。一人一人の力を取ってもきっと“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”より総合力は上だ。
 足りないのは経験だけ。
 そして、その経験を、常人の49倍の速さで積み重ねている。

 これが脅威じゃなくてなんだというのか。
 その内、自分と同じくらい強くなった久保栞が49人で自分を囲んだりするのだろうか、と考えると、――笑みがこぼれる。

「役得よね」

 総統職に就いてからは、個人的に闘うことさえ自重を求められてきた。それがもっとも強くなる近道だと知っているのに。
 新たに発生した久保栞十数名から発せられる圧倒的力量差というプレッシャーを前に、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の気負いはない。
 まだ数が多いだけだからだ。それだけなら“炎”を使うまでもなく、徒手空拳だけで充分。
 だが、放課後にはわからない。
 このペースを崩すことなく強くなり続ければ、放課後には苦戦する程度には強くなっているかもしれない。
 非常に楽しみだった。

 ――そんな喜び勇んで久保栞の集団を相手する“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の背中を、下駄箱の奥から見ている“鍔鳴”は、思わず嘆息する。

「心配ですか?」
「いや」

“鍔鳴”は、こちらの久保栞に向き直る。

「心配なのはあなたの方」
「……と、おっしゃいますと?」
「あの人が一年生の頃、なんて呼ばれていたか知っている?」
「“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”ではなかったのですか?」
「いや――ただ“狂犬”とだけ」

 性格上は今もほとんど変わらない。温厚で優しく、情に篤い、“鍔鳴”が付いて行きたいと思った上級生。
 だが、そう――言うなれば、

「鎖が外れたら徘徊するタイプだから」

 本質は炎を連想させるほど激しく、“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”に負けないほど好戦的な者だ。ただ“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は自分より強い者しか相手にしたがらないが。

 ――かつての紅薔薇勢力総統に負けた“狂犬”はそのまま紅薔薇勢力遊撃隊に所属し、自分に勝った総統の言うこと以外聞き入れない尖りまくった姿勢から「狂犬に首輪がついて忠犬になった」と言われ、正式についた二つ名は地獄の番犬“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”。日々を追うごとに闘いたいという欲求は「強い者を破りたい」という野望へと変わる。恐らく、自分より強い者がたくさんいることに気付いたからだ。
 年が明け、主人だった総統も卒業し、二年生になった“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は次期総統の肩書きつきの幹部職という新たな首輪を用意されたが首に合わず、一年生の時と同じように主人を求めて強者との闘いを望む。その相手を買って出た当時紅薔薇の蕾だった水野蓉子に敗北し、それからずっと大人しく“番犬”をしてきたが。
 あまり刺激すると、自ら鎖を断ち切り、また強者を求めてさまよい出すだろう。それが総統職さえ難なくこなす唯一の彼女のワガママで、唯一のワガママだからこそ、去年の水野蓉子は応えた。まるでちゃんと言いつけ通り我慢してきた愛犬にご褒美を与えるように。
 その一年前の、水野蓉子と“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の一戦を見守った“鍔鳴”は、普段にはない激しい“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の本質を知り、恐れ、だが安心もした。
 ――私達の紅薔薇の蕾と次期総統は強い、と。
 さっき心配したのは、本人も誤解しているかもしれないが、状況より“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”自身の方だ。

「あまり刺激しないでほしい」

 もし鎖が切れたら、自身が負けるまで止まらないだろう。だが紅薔薇勢力総統の敗北は非常に大きい。いや、負けるだけならまだいい。もしその相手――今一度水野蓉子と闘い、あまつさえ勝ってしまったら、それこそ大問題だ。
 可能性は低くない。
 一年前の一戦だって、常勝無敗が当たり前の水野蓉子が半身大火傷を負わされ辛勝に終わった。本気になった“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は三薔薇相手でも本当に勝敗を左右するくらい強い。

「で? いい加減やるの?」
「いいえ」

 これだ。
 この久保栞は“戯言を囁く地図(バベル・クラフト)”で“契約書”の位置を確認している。
 闘う意思のない者は斬れない――これは甘さだろうか?
 だが、誰に「甘い」と言われても、“鍔鳴”は斬れない。頭の中で好戦的な友人が「そういうところが幹部らしくない」とガミガミ言おうとも。そういえばかの友人は昨日の責を負って護衛任につくとか言っていたっけ。

「…………あぁ…………わからんなぁ……」

 と、“鍔鳴”の隣で終始難しい顔をしているのは、紅薔薇勢力二年生長“送信蜂(ワーク・ビー)”だ。彼女はずっと消えた三枚目の“契約書”の行方を推理している。
 問題の久保栞が混じっていようとお構いなしに掲示板前の人の出入りは激しく、玄関外と違ってここでは“鍔鳴”の出番がほとんどない。
 だが、守護者は必要だろう。誰もいなくなれば『クロスポイント』云々関係なしに久保栞に占領されるかもしれない。彼女らは明確に“契約書”を狙って動いているのだから。玄関外の“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の立ち位置では、さすがに一人でカバーするには面倒だろう。
 それにしても、なんというか、どこまでもリリアンの子羊らしい。
 誰もが久保栞――“桜草”という正体不明人物が混じっているのに、意に介さず争奪戦に乗り出している。誰よりも強い力を有する久保栞に萎縮するでもなく、また徒党を組んでのけ者にしようという動きもなく。時には久保栞と肩を並べて“契約書”を奪いに出たり、その逆も然りだ。時に利用しようとし、利用されてしまったりもして。
 相手が誰だろうと関係ない。
 これが、リリアンを支配する正義の、一つの答えなのだろう。
 そう考えると、あながち間違いだらけという気はしない。純粋に実力主義だというのなら――まあ平等とはまったく言えないが。

「そんなにこの正義が気に入らない?」
「気に入りませんね。こんなの選ばれた人だけのものでしょう?」

 否定できないが。未覚醒者にとっては何一つ平等じゃない。
 だが“鍔鳴”は、そんなに間違っているとは思っていない。目覚めた者の方がきっとつらい想いをたくさんしているから。戦闘要員――それも“鍔鳴”のような闘うことが義務になっている者は、腕を斬り飛ばされたり腹を刺されたりなんて日常茶飯事で、そんなことをされたことのある一般生徒がどれだけいるだろう。力を持つ者としての責任と痛みは相応に背負っているつもりだ。
 まあ、まだ頂点さえ見えていない“鍔鳴”が語れることではないが。




  昼休み

 朝からとても騒がしい一日も、ようやく昼休みになった。
 力のないか弱い子羊の多くは隠れるように教室に引きこもり、できるだけ戦火に巻き込まれないように注意していた。
 目覚めていない者は、これが日常である。

「待て」
「え?」
「祐巳さんは食べちゃダメでしょ」
「へ?」

 無遠慮に一年桃組に踏み入った侵入者は、普通にお弁当を広げようとしていた福沢祐巳に待ったを掛けた。
 護衛の“鵺子”である。
 「はいしまってしまって」と開けかけていた蓋を閉じ、あれよあれよと鞄に戻した。

「な、なんで?」
「え? 常識だけど?」

 さも当然だと言わんばかりに、むしろ不思議そうに祐巳を見詰める“鵺子”。

「祐巳さん」

 見るでもなく見ていた同じクラスの“反逆者”藤堂志摩子が寄ってきて説明してくれた。
 曰く、闘う者は昼食を取らない、と。
 ――ちなみに“黒い雑音(ブラックノイズ)”桂は“鵺子”の姿を確認し次第すぐに教室から消えている。祐巳が昨日のことを謝る間もなく、今日はずっとそうだ。

「単純に、食べたら動きが鈍るから。それと食べている最中もどうしても隙ができるから、という理由らしいわ」
「はあ……でも私、闘わないんですけど……」
「無理だよ」

“鵺子”は断言した。

「闘う意志があるかどうかは重要じゃない。闘う力があるから備えるの。――相手が自分の都合に合わせてくれると思わない方がいいよ。むしろ都合が悪い時に来ることの方が多いから」

 理不尽な気もするし、そういう世界に踏み込んでしまったという自覚を持つべきなのかもしれない、とも思う。
 どっちにしろ、昼食は諦めるべきか。
 何せ“鵺子”の言っていることは何一つ間違っていない。相手は祐巳の都合なんてお構いなしで襲い掛かってくるだろう。いや、むしろ不都合に付け込むことの方がよっぽど自然なのかもしれない。勝負に勝つため弱点を突くのは常識だ――注意すれば避けられるような弱みに卑怯云々は口にできない。
 本当に、昨日と今日で、祐巳の周囲は一変した。
 まだ知らないのか、それとも「まさか」と思っているのか、クラスメイト達の反応はそんなに変わらないが、一歩教室を出たら自覚せざるを得ない。
 朝校門をくぐり、“鵺子”と出会った時から、鈍い祐巳も己に集まる視線に気付いている。
 休み時間ごとに、教室の外から祐巳を見ている視線に気付いている。
 「あの白薔薇に一撃入れたルーキー」を警戒し、色々な人が見に来ているのだ――三時間目の休み時間に“鵺子”に説明されて納得した。
 わざとじゃない、とか、自分の意志じゃない、とか、みんな祐巳の言い訳なんて聞く気もないのだ。ただ、そういう実績を積んだ者としか見てくれない。何をしたのかしか興味がない。
 これが覚醒した者の世界である。
 もし“鵺子”が護衛についていなければ、力のない者をからかうだなんて生易しいものではなく、一端の覚醒者として誰かに襲われていただろう。
 まあ、仕方ない。
 考えすぎると不安で日常生活も侭ならなくなるから、あまり考えないようにするしかない。色々落ち着くまでは我慢するしかないと結論は出した。
 それに、今は別の不安もある。

「あの、“鵺子”さま。ちょっとお聞きしたいことが」
「ん? 妹ならいないけど?」
「いえそういうことではなく」
「妹にしたい子が同級生ってやっぱまずいかな?」
「わかりませんがそれもいいです」

 祐巳は右手の甲を見せた。

「“これ”、掛けなおしてほしいんですけれど」

 祐巳の能力を“封じ”る“十字架の烙印”が、だいぶ薄くなっているのだ。――それを見た志摩子は、表に出さないが、緊張を走らせた。
 昨日見た時は油性マジックでぐりぐり塗りつぶしたかのようにしっかり焼きついていたのに、今ではお風呂でこすり落としたかのように色が褪せている――もちろん洗って落ちるようなものではない。肉体についているようで、実際に焼きついている場所は皮膚にではないのだ。
 祐巳はちゃんとわかっている。
 自分の力――いわゆる習性で、この“封印”を少しずつ自分で“呑み込んで”いるのだ。

「……そう。じゃあ、」

“鵺子”が振り返ると、ちょうど「志摩子さーん」と志摩子に付いている護衛がやってきたところだった。

「志摩子さん、祐巳さんのこと頼んでいい?」

 志摩子が頷くと、「今から連れてくるから」と“鵺子”は桃組を出て行った。

「祐巳さん、それって」
「このままだともうすぐなくなると思う」
「……」

“封印”とは、掛けられた本人には解けないから“封印”なのだ。同じような力を持つ紅薔薇・水野蓉子でも例外ではないだろう。
 しかし、祐巳は違うようだ。
 先程志摩子が緊張したのも、「祐巳には封印さえ意味を成さない」という事実を目の当たりにしたからだ。
 やはり、祐巳の力は異質だ。

「何やってるのー?」

 志摩子の護衛である元白薔薇勢力隠密部隊副隊長“鼬”が、“鵺子”と入れ替わりにやってきた。相変わらず胡散臭い笑顔だ。

「何も。何か状況は変わった?」
「そうだなー」

“鼬”は机の上にある祐巳の右手を取り、持ち上げたり横から見たりと“烙印”を仔細に観察する。

「祐巳さんの手って小さくてかわいいなーって思う」
「聞いてない」
「というかなんで触るの?」

 珍しくツッコミを入れる志摩子と、ただ疑問を投げかける祐巳。
“鼬”は、

「ただの過剰なスキンシップだよー」

 と答えた。
 なるほど納得の行為である。でもなんか嫌だ。「過剰」って付いてる辺りが特に。

「志摩子さんが一緒にお風呂に入ってくれないからなんだからねーっ」
「…………触っていいわ」
「なんで志摩子さん私を指差して許可出したの!? 自分をじゃないんだ!?」

 祐巳、驚愕。
 今まさに自分は志摩子に売られたのではなかろうか――そんな戦慄を覚える。これが覚醒者の世界の常識だと言われたら、なんと恐ろしい世界であろうか。
 志摩子的にはただの冗談だったのだが。

「不服なら逆に私を触ってもいいけどー?」
「結構です」

 今日会ったばかりで面識のなかった相手の何を触れというのだ。

「状況は良くないねー」

 過剰なスキンシップに飽きたのか、祐巳の手を離すと、何気なく“鼬”はさっきの質問に答える。

「思念体がどんどん強くなってきてるからー、早めに本体を叩かないとー、確実に押し負けるねー」
「そう……」
「このままだとー、明日の今頃にはもっと大変なことになってると思うよー」

 今でも激しいのに、更に激化する戦闘。
 それが現状のように至る所で起こり、校舎を破壊し、もはや半壊の運命は免れないのではなかろうか。
 それに、久保栞に狩られて被害者も増えるはずだ――今でさえ増え始めているのだから。

「“契約書”の持ち主は変わってないからー、令さまと紅薔薇はがんばってるみたいよー」

 ――実は、“鵺子”が持っていた“契約書”は、当初の予定通り無事に紅薔薇・水野蓉子に渡っていた。
“契約書”を持って遊撃に回るということは、あらゆる方向から標的にされるということだ。誰しもの想像を超える現在において危険を買って出る辺り、さすがは山百合会と言わざるを得ない。

「紅薔薇はがんばってるとはちょっと違うけどね」
「お?」

 更に来客だ。呼びに行った“鵺子”が“十架(クロス)”とともに戻ってきた。

「ちーす“十架(クロス)”さまー。元気ー?」
「眠い」

 ならばいつも通りだ。

「紅薔薇の場合、“桜草”にも強奪者にも敬遠されているらしいわよ。寂しいってぼやいていたわ」

 と、“十架(クロス)”はこれまた祐巳の右手を取る。

「“押した”時も思ったけれど、やっぱり私の“封”じゃ弱いわね」
「あの、なんか、すみません。お呼び立てしちゃって……」
「気にしない気にしない。紅薔薇にも祥子さんにも頼むって言われているから」

“十架(クロス)”は“ロザリオ”を具現化し、祐巳の右手の甲に再び押し付けた。ジリジリと皮膚が焼ける音と煙が上がる――が、熱くない。祐巳はこれが肉体に“焼きついて”いるわけではないことがわかった。

「効果は丸一日くらいかしら」
「そう、ですね……」

 ――違う。曖昧に頷いたが、祐巳にはわかる。
 この“烙印”は、祐巳がその気になったら――“呑み込む”気になれば、すぐにでも外せる。

「それじゃ私は行くから。“鵺子”、しっかりやりなさい」
「はい」
「“十架(クロス)”さまも寝ちゃダメですよー」
「眠いのよ」

 祐巳の「あ、お疲れ様です」という言葉に手を振り、“十架(クロス)”は行ってしまった。

「……すごい寝癖頭だ……」

 祐巳的には非常に衝撃的だったのだが、志摩子らは見慣れているので今更どうとも思わなかった。

「――志摩子さん」
「あ……それじゃ祐巳さん、私は行くから」
「あ、うん」

 廊下から呼ぶ声――今日から一応志摩子の護衛として動いている“雪の下”がやってくると、志摩子は「保健室にいるから」と言い残して教室を出て行った。

「しっかりやれよ“鵺子”ー」
「呼び捨てすんな!」
「あははー」

 さて。
 昼食も取れなくなってしまった祐巳は、すっかりやることがなくなった。
 ぼんやり座ったままの祐巳に、“鵺子”は言った。

「暇なの? 暇なら中庭を見学するといいよ」
「……それは“鵺子”さまが見学したいってことですよね?」
「うん。見たい」

 躊躇なく、しかもイイ笑顔で頷く。

「……まあ、いいですけど」

 暇だから。
 席を立ち上がると、ふと思った。

 そう言えば、誰かが闘っているのをちゃんと見たことがなかったな、と。
 これまでは関わることが嫌で、怖かったから。

 闘うことからは逃れられないだろう。
 それを思って不安が胸を騒がせるが、それでも、足が止まることはなかった。

 もしかしたら、これこそが祐巳が“契約”の際に失ったものの、代償なのかもしれない。




 大方の予想に反して、昼休み以降の“桜草”の動きに変化はなかった。
 木曜日は、経験を積むことに終始した。

 どう考えても、金曜日と土曜日に向けて調整していたとしか思えなかった。
 だから、きっと。

 明日の激戦は、今日の比ではないだろう。


 木曜日が終わる。
 終わりが始まる。













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