【42】 甘い日々  (くにぃ 2005-06-17 07:48:01)


【1.紅薔薇姉妹の場合】

「菜々ちゃんごっきげんよーっ!」
放課後、いつものように志摩子さん、由乃さまといっしょに薔薇の館にやってきた祐巳さまは、ビスケット扉を開けると、目の前でテーブルを拭いていた菜々ちゃんの背中に、いきなり抱きついた。
「きゃぁっ!や、やめてください。紅薔薇様。」
じたばたと抗う菜々ちゃん。しかしそれでは祐巳さまをますます喜ばせるだけだ。抱きしめる腕にはさらに力が込もる。
「うふふ。良いではないか、良いではないか。」
今日も祐巳さまは絶好調みたいだ。

薔薇様方より先に来て、そうじや雑用をこなしていた乃梨子、瞳子、それに菜々ちゃんの三人のつぼみのうち、このところの紅薔薇様のお気に入りは、一年生の菜々ちゃんだった。

「お姉さまぁ、助けてください!」
たまらず菜々ちゃんは傍らのお姉さまに助けを求める。
しかし頼るべき黄薔薇様、由乃さまが苦笑しつつ言うには。
「祐巳さんも一年生の頃、先代白薔薇様にさんざん遊ばれていたのよ。しょうがないから少しだけサービスしてあげなさい。」
鬼のような形相で菜々ちゃんを奪い返すかと思いきや、意外なことに由乃さまは、祐巳さまのおもちゃになっている菜々ちゃんを見るのが、結構お好きなようだ。

「そういうこと。お姉さまのお許しも出たことだし、菜々ちゃんおとなしくなさい。」
「そんな〜・・・。」
黄薔薇様と紅薔薇様、二人の薔薇様のお言葉に、どうやら菜々ちゃんは、逃げ場を失ってしまったようである。

そこへ救いの手を差しのべるのは、わが友にして紅薔薇のつぼみ、松平瞳子。
乃梨子と二人でお茶の準備をしていた手を止めて、振り返って言った。
「祐巳さま、菜々ちゃんいやがってるじゃありませんか。」
「え〜、だって菜々ちゃん小っちゃくって抱き心地がいいんだもん。」
「いいんだもん、じゃありません。祐巳さま、ご自分が薔薇様だということを、もう少し自覚なさったらどうですか!」

瞳子が祐巳さまを叱る光景は、もはや薔薇の館の日常になっている。
そんな二人を、志摩子さんはにこにこと、由乃さまはやれやれといった様子でいつも傍観している。
初めの頃ははらはらしていた乃梨子も、今ではすっかり慣れて、
(ああ、また今日もやってるな。)
と、なま暖かく見守るようになっていた。

祐巳さまはしぶしぶ菜々ちゃんを離すと、急にキリッと真顔になり、いつものように目を泳がせることなく、瞳子をまっすぐ見つめた。そして自称舞台女優・瞳子のように、(祐巳さまにしては)お腹の底から出すような低めの声で言う。
「・・・瞳子。」

いつもは柔らかく、『瞳子ちゃん』と呼ぶ祐巳さまが、珍しく呼び捨てにしたことで、瞳子の表情には微かに警戒の色が浮かぶ。だがそれで気圧されて退くような瞳子ではない。祐巳さまに負けない迫力で応える。
「なんですか。」
「ちょっとこっちへいらっしゃい。」
「なぜです。」
「いいからいらっしゃい。」
「今お茶の準備で手が放せませんので、後にしてください。」
そう言うと瞳子はプイッと背を向けて、お茶の支度を再開する。

いつもは瞳子に叱られると、祐巳さまは苦笑いとともに、
『ゴメンね瞳子ちゃん。そんなに怒らないでよ。』
などと自分から折れていたが、今日はなんだか様子が違う。

周りのギャラリーもそれを察して、一体どうなるんだろうと、ことの成り行きを見守っているようだ。ただし不安そうな顔色を浮かべているのは、薔薇の館初心者の菜々ちゃんだけで、あとの面々は興味本位に見ているだけであるが。
なにしろ祐巳さまは親しみやすさが売り、という方だから、本人はがんばっているつもりでも、端から見れば今一つ迫力に欠ける。

「そう。じゃあしょうがないわね。」
静かにそう言うと、いいつけを聞かない瞳子にそっと忍びより、祐巳さまは背後からいきなり、今度は瞳子にムギュッ!と抱きついた。
「ぎゃうっ!?な、何なさるんですか!」
不意を突かれた瞳子は、女優らしからぬ声を上げ、耳まで真っ赤になって抗議する。
「もう〜、瞳子ちゃんのいけずぅ。そんなに怒ってばっかりで祐巳悲しいわぁ。」
「祐巳さまがろくなことをなさらないからです!それより離してください。」
「でも瞳子ちゃん。ほんとは菜々ちゃんにやきもち焼いてたんでしょ。」
「なっ、そんなわけないじゃないですか。恥ずかしいから早く離れてください!」
「あとそれと、『祐巳さま』じゃなくて『お姉さま』ね。」
「お姉さまと呼んで欲しければ、もっとお姉さまらしくなさってください。それに祐巳さまこそ、私のことをいつまでも瞳子ちゃんって呼んで、たまに瞳子って呼んでくださったかと思えば、こんな時ばっかりだし。」
普段は何があっても平静を装う瞳子が、めずらしく声を荒げて必死に抗議する。しかし祐巳さまにとってそんなもの、痛くもかゆくもないようだ。

「う〜ん。こういう話はみんなの前じゃやっぱりちょっと恥ずかしいね。場所を変えようか。」
「そういう問題じゃないです!って、どこへ行くつもりですか!」
「だから二人きりになれる所だよ。乃梨子ちゃん、悪いけどちょっと瞳子ちゃん借りるね。」
祐巳さまは瞳子の手を取ってビスケット扉の方に歩いて行きながら、振り返って乃梨子に言うので、乃梨子もにっこり微笑んで。
「どうぞごゆっくり。」
「ちょっ、乃梨子さん、ごゆっくりってどういう意味ですか。ああ祐巳さま、そんなに引っ張らないでください。」

(ほんとはうれしいくせに、相変わらず素直じゃないんだから。)
階段のきしむ音とともに、次第に遠ざかる瞳子の声を聞きながら、乃梨子はクックックッと小さく笑いながら心の中でツッコんだ。




【2.黄薔薇姉妹の場合】

「ふぅーっ。一時はどうなることかと、ハラハラしましたね。」
由乃さまの横で目を白黒させて事の顛末を見ていた菜々ちゃんがそう言うと、由乃さまは菜々ちゃんの肩をそっと抱いて。
「馬鹿ね。あんなの喧嘩の内に入らないわ。楽しくじゃれあってるだけじゃない。」
「楽しくじゃれあってる、ですか・・・。」
「そうよ。菜々も今にきっと分かるようになるわ。」
「そうすると、お姉さまと私が言い合いしたり、お姉さまが私に後ろから抱きついたりとか。」
「なぁに、菜々は私にそういうことして欲しいの?」
「いえ、べ、別にそういう意味で言ったわけじゃ!でもお姉さまにだったら、その、されてもいいかも・・・。」
菜々ちゃんは真っ赤になってうつむいて、何だかゴニョゴニョと、それでも何気に大胆なことを言っている。
その様子が可愛くて仕方ないといった表情の由乃さまは、菜々ちゃんを正面から見つめて。
「素直で可愛い菜々がして欲しいことなら、何でもしてあげるわ。」
「お姉さま・・・。」
「そのかわり、部活の練習はもう少しお手柔らかにお願いね。」
「お姉さまったら、それとこれとは別ですよ。」
「こいつぅ。」
「うふふっ。」
「ふふふっ。」

先代黄薔薇さまは孫を可愛がれなくて残念がっていたが、こんな二人を見ずに済んだのだから、結果的には正解だったよ、と思わずにはいられない乃梨子であった。




【3.白薔薇姉妹の場合】

「お姉さま、お茶が入りました。」
「ありがとう。乃梨子」
いつもの椅子に腰掛けた志摩子さんに、おいしくなるようにと心を込めて入れた紅茶を出すと、志摩子さんはにっこりと微笑みかけてくれた。それに応えて、乃梨子も最上の笑顔を志摩子さんに返して隣に座る。

他の二組の姉妹のように、特別言葉を交わさなくても、ただ隣にいるだけで、お互いのことを分かり合える。互いが互いを必要としていることを信じられる。
志摩子さんとはいつしか、そんな関係になっていた。
そう、気がつけば、現在の薔薇の館では、白薔薇一家のスール歴が最も長くなっていたのだ。

「梅雨入り前だっていうのにやけに暑くて、ここは地球温暖化が局地的に進んでいるみたいだよね。」
「ふふふ。本当ね。」
「初々しいのはいいんだけど、何だか目のやり場に困っちゃうよ。」
「そうね。」
さすがの志摩子さんもそう言って小さく微苦笑。

普段はほとんどよその姉妹のことに言及しない二人だが、今の薔薇の館では、どちらを向いても出来立てほやほや姉妹が目に入ってしまう。
確かに姉妹になったばかりでうれしい気持ちは分かるが、もうちょっと周りに気を使ってくれてもいいんじゃない?、なんてつい思ってしまう。
一年前の志摩子さんと乃梨子は、その辺をもう少しわきまえていた、と自分では信じている。少なくとも薔薇の館の中では・・・。

「それにしても、祥子さまと令さまがご卒業なさって、祐巳さまと由乃さまのお二人も、正直去年初めて会った頃の志摩子さんみたいになっちゃうのかな、なんて思ってたけど、結構大丈夫だったみたいだね。」
「それはね、」
優しさに満ちた目で乃梨子を見つめて、志摩子さんは言う。
「ふたりには妹がいたから。」
「うん。」

「いつか祐巳さんに言われたことがあるの。姉を支えるのが妹なんだって。私も乃梨子が妹になってくれてそれがよく分かったわ。だから乃梨子」
そこで一度区切って、志摩子さんは言った。
「あなたも出来るだけ早く妹を作りなさい。そこにはきっと素敵な世界が待っているわ。」
膝の上に置いた乃梨子の手に、志摩子さんの手がそっと重ねられた。

「うん。私が妹になって志摩子さん変わったって、私自惚れてるもん。でも本当はね。」
「うん?」
「もうしばらく志摩子さんと二人でいたいな、なんて思ってるんだ。」
「乃梨子。」
「志摩子さん。」

「ああもう、見ちゃいられないわね。もし地球温暖化でツバル諸島が水没したら、きっと貴女たちのせいね。」
いったいいつから聞いていたのか。ご自分のことは、どこか高い棚の上に上げて、言いたい放題の由乃さまに、志摩子さんはただにこにこ笑って「ごめんなさい。」なんて言うだけだから。
代わりに乃梨子が、由乃さま達も相当なものだと思いますけど、と反撃すると。

「いや、悪いけど。一年近くたっても未だにアツアツのあなたたちに言われたくないから。」
と、きっばり断言されてしまった乃梨子たちだった。
由乃さまの後ろでは、いつ戻ってきたのか、祐巳さまも笑顔の百面相で同意している。




三色の薔薇が三色とも超ラブラブという山百合会史上かつてない激甘な状態に、一般の生徒達が薔薇の館のことを密かに『ローズジャムの瓶詰め』と呼んでいることを、彼女たちは知らない。


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