「はぁ…」
一人の少女が、薔薇の館の前で溜息を吐いた。
さすがに去年に比べれば、身近に感じられるようになった山百合会といえども、やっぱり一般生徒からすれば、神聖不可侵とも言うべき薔薇の館には入り難いものだ。
「よし」
一言、自分に言い聞かすように渇を入れると、意を決して扉を開けた。
そして、慌てず騒がずゆっくりと階段を上り、ビスケットと比喩される扉の前に立つ。
(なるほど、言いえて妙ね)
変なところで感心しつつ、扉をノックした。
「はーい」
返事は、聞いたことがある声。
ガチャリと音を立てて開いた扉から顔を出したのは、黄薔薇のつぼみこと、島津由乃だった。
「あ」
「あら」
誰かいるだろうとは思っていたが、まさか一番いて欲しくなかった人物が現れようとは。
「あ、あの」
「ごきげんよう。どうぞお入りくださいな、軽部逸絵さん」
「ご、ごきげんよう。失礼します」
由乃に促され、おっかなびっくり部屋に入る逸絵だった。
一対一では由乃の押しにも充分対抗できる逸絵だが、さすがに薔薇の館では、相手が黄薔薇のつぼみという肩書きのせいか、弱気になってしまう。
やはり山百合会関係者は、それだけでも強いというわけか。
「どうぞ」
「は、はい」
緊張気味の逸絵、由乃が淹れた紅茶を前に、しゃちほこばるばかり。
「で、御用はなんでしょう?」
笑顔で訊ねる由乃。本人はいたって普通のつもりなのだが、逸絵からみれば、裏になにかがありそうなコワイ笑みに見えて仕方がなかった。
「あ、あの、陸上部の二学期後半の予定表を持ってきました」
「そうですか、ご苦労様です」
差し出した予定表を受け取り、目を通す由乃。
その姿を、じっと見詰める逸絵。
「…どうかしました?」
「あ、いいえ。なんでもありません」
慌てて目を逸らし、紅茶に口を付ける。
「それではこの資料は、薔薇さま方に責任を持ってお渡しします」
「はい、よろしくお願いします。では私は…」
「待ってよ逸絵さん。もうちょっとのんびりしていったら?」
急いで館を辞そうとした逸絵を、急にフランクな口調に変えて引き止める由乃。
「…え?」
「なかなか誰も来ないから、退屈してたのよ。暇つぶしみたいで悪いけど、せめて誰かが来るまでお相手してくれないかな?急ぐのなら、無理に引き止められないけど」
今なお由乃に対し、苦手意識と負い目がある逸絵。
出来るなら、祐巳か志摩子に予定表を渡し、さっさと館を出たかった。
ところが、現れたのは由乃で、しかも自分を引き止めようとする。
「…どうして、そんなことが言えるの?」
「ん?何が?」
「私、あなたに酷い事言ったのよ?謝ってもいないのに、どうして私と話をする気になれるのよ!」
押さえきれなくなったのか、由乃に詰め寄る逸絵。
「あのねぇ。私は体育祭実行委員として、やるべき仕事をやっただけなの。別に逸絵さんに腹を立てているわけでもないし、リレーに出られなかったからって、責めるつもりも無ければ責任を取らせる気も無いわよ」
「でも!」
「体育祭に怪我はつきものよね。それがたまたま逸絵さんに当たっただけ。あなただって、怪我したくてしたわけじゃないもんね」
「……」
毒気が抜かれたように、呆然と由乃を見詰める逸絵。
「…むしろ、謝るのは私の方ね。ごめんなさい、無理なお願いしちゃったもんね」
逸絵は、由乃の謝罪に、泣きそうな顔で首を振った。
「…こちらこそごめんなさい」
両手で顔を押さえ、肩を震わす逸絵を、そっと抱きしめてやる由乃だった。
「あれ?ごきげんよう逸絵さん」
「ごきげんよう、紅薔薇のつぼみ。じゃぁ由乃さん、私はこれで」
「うん、ありがとね。また、いつでも遊びにおいで」
「ええ、喜んで」
笑顔で手を振りつつ、出て行った逸絵。
「どうしたの?」
「何が?」
「え、だって逸絵さんと…」
「仲良くしてたらダメって?」
「そんなことないけど…」
二人の関係を知っていただけに、納得がいかない祐巳だった。
「部長!ただいま戻りました!」
「あら逸絵さん、妙にご機嫌ね」
あれだけ薔薇の館に行き渋っていた逸絵が、やけにハイテンションで戻って来たのだ。
部員はみな、不思議そうな顔をしていた。
「ええ、薔薇の館って、とってもいい所でしたから」
「そうなの?一度行ってみようかしら」
「行きましょう行きましょう!私がご案内します!」
陸上部所属、二年松組軽部逸絵。
我ながら現金だなと、腹の中で苦笑いしていた。