【7】 笙子眼鏡計画  (柊雅史 2005-06-07 02:28:04)


「眼鏡分が足りない」

いきなりそんなことを言い出したのは蔦子さまだった。
眼鏡分。聞いたことのない単語に笙子は首を傾げた。

「えぇと。眼鏡分ってなんなんですか?」
「眼鏡分は眼鏡分よ。眼鏡のフレームとレンズに含まれるのよ」

キラリと眼鏡を光らせる蔦子さまはちょっと挙動が怪しかった。多分、最近紅薔薇のつぼみに激写の隙がない、と嘆いていたことと関係があるのだろう。
蔦子さまは今ちょっと、ストレスが溜まってるのだ。きっと。

「えぇと、蔦子さまは眼鏡をかけてますけど、それじゃダメなんですか?」
「何を言うかと思えば。私がかけていても眼鏡分は発散されないに決まっているじゃない。そんなことも分からないの?」

分からない。分かるはずがない。笙子は眼鏡分なんてものがあるのさえ初耳なのだ。
いや、実際にそんなものがあるのかどうかさえ、怪しいと思う。思うのだが……きゅっきゅっとカメラのレンズを磨きつつ、うつむきっぱなしの蔦子さまにその辺りをつっこむ勇気を笙子は持ち合わせていなかったし、それをするにはちょっとばかり蔦子さまに惚れ過ぎていた。

「えぇと、それでは誰がかければ眼鏡分は発散されるのでしょう?」
「私以外の誰でもいいのよ。誰でもいいの。でも私の周りにはいない。眼鏡分がないのよ、分かる!?」

分からない。分かりっこない。
でも確かに、山百合会の方々や新聞部の中には、眼鏡をかけている子がいないのも事実だ。

「あぁ……どうしよう。眼鏡分が。眼鏡分が足りないのよ。このままじゃとんでもないことになるわ……」
「とんでもないこと」
「そう、とんでもないことよ。とても口に出しては言えないけれど」
「そうですか……」

どんなことか分からないけれど、蔦子さまが言うとシャレにならない気がするのは笙子だけだろうか。

「眼鏡分は写真を撮ると減るのよ。分かる?」
「は、はぁ……」
「エネルギー源なの。ガソリンと言い換えてもいいわ」
「は、はぁ……」

今日の蔦子さまは変だと思いつつ、笙子はちょっと不安になる。
眼鏡分とやらが写真を撮ると減るのであれば、もしかして眼鏡分が不足すると写真が撮れなくなるのだろうか。
それは困る。笙子は蔦子さまの写真が好きだったし、いつか撮ってもらいたいと思っているのだ。最高の自分の笑顔を。
今日の蔦子さまは怖いけれど、そんな蔦子さまをフォローするのも自分の役目に違いない、と思う。蔦子さまには妹もいないことだし。

「えぇと、蔦子さま」

こほん、と一つ咳払いして、笙子は提案した。

「私でよろしければ、眼鏡、かけますけど」
「ホント!?」
「は、はい……」

ぐいっと迫ってくる蔦子さまの勢いに頬を染めつつ、笙子は頷いた。
こんなに喜んでくれるなら、眼鏡くらいいくらでもかけたっていい、と思う。

「じゃあ、これ。伊達眼鏡だから」
「なぜこんなものを? 蔦子さまの眼鏡って……」
「私のはれっきとした度入りよ。それはこんなこともあろうかと持ち歩いてる分」
「……」

どんなこともあろうかと持ち歩いてるのか、物凄く問い詰めたい。
でも蔦子さまが「さぁ!」と促すので、笙子は黙って眼鏡を受け取った。

「……でも蔦子さま。写真は撮らないで下さいね」
「私は撮らないわよ」

ただでさえ写真嫌いなのに、なんとなく生まれて初めての眼鏡姿を撮られるというのは気恥ずかしい。
笙子は蔦子さまの返事を聞いて、恐る恐る眼鏡をかけてみた。

「……ふむ。思ったとおり、笙子ちゃんには眼鏡が似合うわ」
「そ、そうですか?」

じーと見られた上に褒められて、笙子の頬が熱くなる。
蔦子さまに褒めてもらえるなら、普段から眼鏡をかけてもいいかな、なんて思ってしまう笙子だった。



笙子が帰ったのを待ち構えていたように、ばたんと部室に備えられていたロッカーが開いた。
「あっつ〜! たまんないわね、ロッカーの中ってのも」
「それより、首尾は!?」
汗だくで床にへたり込む真美に、蔦子は駆け寄って尋ねる。
ぐったりしていた真美だが、蔦子の問いには満面の笑顔で、OKマークを返した。
「よし。さっそく現像に取り掛かりましょう」
蔦子は真美からカメラを受け取ると、そそくさと暗室に向かう。
その後を追いながら、真美は笑いをかみ殺しながら声を掛けた。
「それにしても、毎回思うんだけど、眼鏡分ってなによ、蔦子さん」
「いいじゃない、成功したのだから。これで祐巳さんに志摩子さんに由乃さん、そして笙子ちゃん。100%の成功率だわ」
「まぁ、文句は言わないけど。――それにしてもあの子、凄い乗り気ね。あれならいつでも貴重な眼鏡っ子ぶりを見せてくれるわ、きっと」
「そうね。――イイコだわ、ほんとに」
しみじみと蔦子と真美は頷きあう。コンタクトの値が下がった昨今、眼鏡っ子は激減している。そんな社会の風潮を二人は憂いていた。主に自分の趣味を理由に。
「今度、あの子に眼鏡を贈ってあげなさいよ」
「そうね……考えてみるわ。でも今は、現像よ!」
「分かってるわ! 嗚呼、初めての眼鏡! 初々しくて堪らないわね!」


写真部部室――別名、眼鏡っ子愛好会集会室。
そこで恐るべき計画が進んでいることを、笙子はまだ知らなかった……。


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