某月某日、一年生の健康診断の日。
事件は、一年椿組で起こった。
「あ、あれ? ポンチョがない……」
今朝は朝食を抜いただとか、昨日は寝る前にバストアップ体操を3時間ぶっ通しでやっただとか、最後の無意味な抵抗で盛り上がる教室内で、鞄を手に呆然と呟いた少女がいた。
二条乃梨子、16歳。あるいは白薔薇のつぼみ、と呼んだ方が分かりやすいだろうか。一年生の中でももっとも有名で、同時に人気のある少女だった。
「どうかしましたの?」
乃梨子の様子に気付いたのか、声を掛けてきたのは、いち早く白ポンチョに着替えを終えた、縦ロールが麗しい松平瞳子。
乃梨子の(一応)親友である。
「瞳子。それが……確かに入れたはずなのに、白ポンチョがないの」
「……乃梨子さんてばうっかりさんですわね。お忘れになったのですか?」
「そんなはずないよ! 今朝、家を出る前にちゃんと確かめたもの!」
くすくす笑う瞳子に乃梨子は強い口調で反論する。
今朝方、確かに乃梨子は鞄を開けて白ポンチョの存在を確認していた。それは間違いない。その時に鞄から出しもしなかった。
乃梨子が夢遊病か何かの精神疾患でも抱えていない限り、鞄の中には白ポンチョがあるはずなのである。
だけど現実には、鞄の中には白ポンチョの姿はなかった。何も入っていない布袋が、所在無げに隅っこで潰れているだけである。
「かしらかしら」
「どうかしたのかしら?」
乃梨子が困惑していると、ふわふわと白ポンチョの裾をたなびかせながら、敦子と美幸が乃梨子に近付いてきた。
「敦子さん、美幸さん。乃梨子さんの白ポンチョがなくなったそうですわ」
「かしらかしら」
「それは事件かしら?」
瞳子が状況を説明すると、敦子と美幸が乃梨子の鞄を覗き込んで、困ったように首を傾げる。
「確かに、入れてきたはずなんだけど」
「乃梨子さんの勘違いではありませんの?」
「そんなはずないよ! 絶対、この目で確かめたもの!」
断言する乃梨子に、瞳子と敦子と美幸は顔を見合わせる。
乃梨子の性格は三人ともイヤというほど理解している。うっかりとか勘違いとか、そういう単語にもっとも縁遠いのが、この二条乃梨子という少女である。
「かしらかしら」
「窃盗かしら?」
「……かもしれませんわ」
乃梨子の勘違いでないならば、その可能性はあり得るだろう。瞳子と美幸と敦子は、手近のクラスメートたちにも事情を話し、心当たりがないかを確かめてみた。
「かしらかしら」
「心当たりはないかしら?」
美幸と敦子のなんとなく逆らい難い質問に、クラスメートは揃って首を振った。乃梨子自身は昼休みや授業の合間の休憩時間に教室から出てはいたけれど、その時にはクラスメートの半数以上が常に教室に残っていたのだ。
そして、その中で誰一人として、乃梨子の机に近付いた怪しい人物を見た者はいなかったのである。
「かしらかしら」
「奇々怪々かしら」
「少なくとも、教室で盗まれたわけではなさそうですわね。――乃梨子さん、どういたします?」
「どう、って言われても――」
瞳子に問われて乃梨子は困惑した。確かに今は誰が乃梨子の白ポンチョを盗んだのか、悠長に考えている場合ではない。隣のクラスから係りの子がやって来て、椿組の健康診断開始を告げた。
このままでは乃梨子は、白ポンチョなしの上半身裸な恥ずかしい格好で健康診断を受けることになってしまう。
「――仕方ないわね」
「どういたしますの?」
「瞳子、入れてくれる?」
乃梨子は溜息混じりに、親友に懇願した。
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「――ということがあったのです」
「そっかぁ。乃梨子ちゃんもやっちゃったんだね。二人ポンチョ」
「ににんぽんちょ?」
「うん。二人羽織ならぬ、二人ポンチョ。私と蔦子さんも、前の健康診断でやっちゃったんだよね」
放課後、薔薇の館でお昼の出来事を話した乃梨子に、紅薔薇のつぼみである福沢祐巳が苦笑交じりに応じていた。
「私と蔦子さんが忘れてね、由乃さんと真美さんに入れてもらったんだけど。なんかもう、凄く恥ずかしかったよ」
「確かに、二度と経験したくない体験でした」
同じトラウマを持つもの同士の気安さか、乃梨子も笑いながら応じる。
「でも、解せないのはその後なのです。診断を終えて教室に戻ったところ――鞄には白ポンチョが戻っていたのです」
「えぇ? それ本当?」
「はい。診断の前には確かになかったんです。それは瞳子も敦子さんも美幸さんも確認しています。――けれど、戻った時には白ポンチョがあった。少なくとも私が白ポンチョを持ってくるのを忘れたわけではなかったわけです」
「……それって、大事じゃない?」
「はい。もしかすると……」
思わず真剣な顔で頷きあう乃梨子と祐巳だった。
診断前になかった白ポンチョが、診断後には戻ってきた。これは間違いなく、第三者の介入があったという証拠である。そのまま戻ってこなければ、乃梨子が忘れただけ、という可能性もあるのだが――
「マズイんじゃないかな。シスターに報告は?」
「いえ、まだしていません。白ポンチョが消えた状況もそうなのですが、戻った状況もよく分からないのです。ご存知の通り、診断中とはいえ、教室内が無人になることはめったにありません」
「うん、そうだね」
乃梨子の指摘に祐巳も頷いた。診断中は色々な教室を回って診断を受けるのだが、なんだかんだで待ち時間も結構多い。そんな時、とりあえず教室に戻って時間を潰す、なんて生徒も結構多いのである。
「事実、教室に戻ったクラスメートは誰一人として、怪しい人物が私の机に近付いた様子はなかった、と言っていました。そうしますと――」
「外部犯の犯行じゃ、ない?」
「そうなのです。でも――分からないのは、どうして白ポンチョなんて盗んだのか、ということです。鞄の中には財布もありましたけど、そちらは手付かずでしたから」
祐巳と乃梨子は互いに顔を合わせながら、うーんと唸った。白ポンチョなんて盗んで、犯人は何をしたかったのだろう。
「――なるほど、問題は動機ね」
そこに、横手から声がかかった。
「動機?」
「由乃さま、何か心当たりが?」
声を発したのは、黄薔薇のつぼみこと、島津由乃。読んでいた文庫本をパタンと閉じると、目を輝かせながら自信満々に胸を張った。
「今の話――中々興味深いわね」
そういう由乃が読んでいた本を、乃梨子はちょっと確認してみた。
エラリー・クィーン短編集とか、表紙に書いてある。
「問題は正にそれよ。白ポンチョなんてどうして盗んだのか。そしてもう一つ――乃梨子ちゃんのクラスメートの証言ね」
「証言?」
「そう……。怪しい人物を見なかった、という証言。全ての謎の答えは、この証言に隠されているわ。それは白ポンチョを盗むという、一見すると意味不明の犯行動機にも合致する。――灰色の脳細胞を働かせるのよ、祐巳さん、乃梨子ちゃん?」
「……それはむしろポワロだと思いますが」
義務感からとりあえず軽いツッコミを入れてから、乃梨子は由乃に向き直った。
「つまり由乃さまは――犯人が分かった、というわけですか?」
「当然よ!」
胸を張る由乃に、乃梨子の隣で「うーん」と唸っていた祐巳が、ポンと手を打った。
「そうか、さすが由乃さん。だから灰色の脳細胞なんだね!」
得心がいったような由乃と祐巳を交互に見て、乃梨子はちょっと複雑な面持ちになる。
(……由乃さまと祐巳さまに分かって私に分からないなんて……ちょっと、自信がなくなりそうなんだけど……)
溜息を吐きつつ。
乃梨子は由乃に、犯人の名を聞いた。
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