体育祭に修学旅行、学園祭と盛りだくさんの2学期もあっという間に大部分が過ぎ去り。
茶話会だの、剣道の交流試合だの(ってこれは主に令さまと、別の意味で由乃さんが大変だっただけなのだが)のイベントも済んで、ようやく落ち着いた頃には、期末試験が間近に迫っていた。
そして、祐巳は、憔悴していた。
「abandon...捨てる、見捨てる、断念する...英語、捨てちゃおうかなぁ」
昨日も夜遅くまで奮闘してはいたのだが、一向に頭に入らないのだ。
今日も気合を入れて、こうして放課後にわざわざ図書館閲覧室まで来て勉強しているのに、眠気ばかり先に来て全然先に進まない。
「amiable...愛想のよい、気だての優しい...(...エイミーか...)...瞳子ちゃん...(...かわいかったなぁ...)」
判ってはいるのだ、自分でも。憔悴している割にはボケボケしてるなって。
「お呼びになりまして、祐巳さま」
突然、背後から声をかけられた。不意のことでも、あわてず、身体全体で振り返る、というのが淑女のたしなみというものではあるが、座っている椅子の真後ろに立たれていたのではさすがに無理がある。とりあえず首だけで振り向くとそこにいるのは1年椿組、松平瞳子ちゃん。
「と、瞳子ちゃん?!どうしてここに?!」
「あら、私が図書館に来てはいけないわけでもありますの?」
「そ、そんなことないよ、ただ丁度、最近会ってないなあ、なんて考えてたところだったから」
学園祭のときの瞳子ちゃんを思い出して一人ニマニマしていました、なんて正直に答えてしまったら、それはただのヘンタイさんだろう。
「まったく祐巳さまときたら、図書館まで来て何をされてるんですか」
「ああうん、期末試験に向けてちょっと気合を入れて勉強を、ね」
「とてもそのようには見えませんでしたけれども」
「あは、は」
「あ、そうだ。ねえ、瞳子ちゃん、英単語とか歴史年表とか、覚えるコツって、何かない?」
まさかそんなことを聞かれるなんて思ってもみなかったのだろう。瞳子ちゃんは目を白黒させる。
「お勉強のことを、1年生の私にお聞きになりますの?そういう質問は、由乃さまや白薔薇さま、それか祥子お姉さまにでもお聞きになれば……あ……」
言った所で気が付いたのだろう。瞳子ちゃんはしゃべるのをやめた。
「お姉さまはほら、試験勉強とかしない方だから。それに、瞳子ちゃん演劇部だから台詞とか覚えたりするじゃない?だからそういうコツなんかも知ってるんじゃないかなと思って。コツだから、1年生とか2年生とか、覚える内容はあんまり関係ないはずでしょう?」
「祐巳さま、今、しゃべりながらその理屈考えたでしょう?」
「あれ、ばれた?」
「まるわかりです」
うーん。どうやら祐巳の顔には、思考を表示する電光掲示板でもついているらしい。顔をさすっていると、
「顔に書いてある、というのは比喩表現ですわ。顔をこすったところで字が消えるわけではありませんのよ」
きびしいツッコミが入る。考えていることをことごとく言い当てられて、がっくりとうなだれる祐巳を哀れに思ったか、瞳子ちゃんは小さくため息をついた後で言ってくれた。
「仕方ありませんわね。これは秘伝中の秘伝ですから、本来お教えすることは禁じられているのですが……他ならぬ祐巳さまの頼みです、こっそりお教えしましょう。ただし、簡単ではありませんわよ?」
ゴクリ。
「う、うん、わかった……」
それを聞いて瞳子ちゃんは満足したようにうなずくと、鞄から台本?いや、古文の教科書らしきものを取り出した。
「今からお手本を見せますから、ようく、見ていてくださいましよ?」
そう言うと、瞳子ちゃんは教科書の1ページ目をにらみつける。
一体何が始まるのかと、祐巳がどきどきしながら見ていると、やおら瞳子ちゃんが教科書のページを破り取った。
ビリッ。
「な、何」
祐巳が止める間もなく。小さく丸められた それ は、瞳子ちゃんの口に消える。
「と、瞳子ちゃん?ヤギじゃないんだから、そんな、お腹壊すよ?それに、教科書食べちゃったら授業で困るじゃない?」
もぐもぐもぐ。祐巳の言葉にかまわず、しばらく咀嚼していた瞳子ちゃんだが、やがて、ゴクリ、という音とともに、彼女の咽が嚥下の動きをした。そして再び開いた唇からは、驚くほど低い声が洩れ出たのだった。
「『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢の如し。竹着物持つ胃には滅びぬ、人絵にか是の前のち利に同じ。瞳子銀杏を問うライブ、死の兆候、 quando corpus、……』」
最初の部分は祐巳でもわかる。「平家物語」の冒頭部分だ。だが途中からはさっぱり判らない。祐巳には異国の呪文のようにすら聞こえる。
「瞳子ちゃんが、壊れた……」
だって。教科書を千切っては食べ、わけの判らないことを口走るのだもの、乱心したとしか思えない。
だが、ひとしきり台詞を言い終わった瞳子ちゃんはふう、と息をついた後、にっこりと微笑んだ。
「いかがですか。このようにして、書いてあることを身に付ける、のです。」
どうやら祐巳の杞憂だったようだ。
「ああ、瞳子ちゃんが帰ってきた……」
「さあ、今度は祐巳さまの番ですわ」
「! きてない……」
しけ単を手にした瞳子ちゃんが迫ってくる。逃げようにも、椅子に座り、机に挟まれたこの状態、椅子を押さえつけられては逃げようがない。
祐巳も覚悟を決めた。
ビリッ。クシャクシャ。ムシャムシャ。ゴクリ。
ビリッ。クシャクシャ。ムシャムシャ。ゴクリ。
「さあ、まだまだありますわ。どんどんお食べくださいな」
祐巳の、いつ終わるとも知れない試練の時が始まった。
+ + +
瞳子がそこで祐巳さまを発見したのは、まったくの偶然だった。
閲覧室の机に突っ伏した、見覚えのある髪型のその方にそっと近づいてみると、どうやらよくお休みのご様子だ。おそらくはこの閲覧室でお勉強をするつもりでいらしたのだろうが、早々に力尽きたようだ。まったく、期末試験も近いというのに、呑気な方だ。
ふと気が付くと、祐巳さまが何やら、もごもごとつぶやいている。何か呼ばれたような気がして、瞳子は顔を近づけてみた。
「……瞳子ちゃん……もう、食べられないよ……」
なんとまあ、わかりやすい寝言であろうか。どんな能天気な夢を見ていることやら。
辺りを見回したところ、人影はまばらで、これなら祐巳さまが見世物になることもないだろう。
瞳子はそっと、その場を離れた。
祐巳さまの口元に、ティッシュを配置して。