花寺学園祭の(恐らく)メインイベント、『花寺の合戦・セカンドステージ、リリアンの陣』は予想外に強烈なものだった。
男子校の学園祭、と言うことで由乃もある程度は覚悟していた。
由乃が今までに経験したことがある学園祭は、幼稚舎から現在の高等部に至るまで幸か不幸かリリアンだけだ。
共学の学校の学園祭すら行ったことがないのだから、いきなり男子校の学園祭に放り込まれても圧倒されるだけなのは目に見えている。
しかしリリアン女学園生徒会幹部の一人、黄薔薇のつぼみとして敵陣に乗り込む以上、無様な姿は見せられない。
島津由乃と言う一個人としてはもちろんだし、リリアンの代表として来ているのだと言う責任がその思いを駆り立てる。
そう、薔薇さまではなくともその妹、つぼみとして堂々といなければならない。
散々難癖を付けて言い訳をごねて、結局本当に昨年の花寺学園祭を逃げ切った当代某薔薇さまとは違うのだ。
なめんなよ、ってなもんである。
覚悟完了、敵は花寺にあり! と由乃は玄関先から同行した令ちゃんが半ば引いてしまうほどにテンションを上げていた。
〜 〜 〜
けれどその覚悟は結局「ある程度」に過ぎなかったんだな、と地響きすら巻き起こして櫓へと突進する男子生徒の山を見ながら思う。
はっきり言って尋常ではない。
リリアンでは十年待っても決して見ることが出来ない光景だろう。
百年待ってもきっと駄目だ。
それくらいに迫力のある、と言うか獣地味た連中の「合戦」だった。
また一人、櫓を目指して滑り台を駆け登っては足を滑らせ、転げ落ちていく。
滑り台に塗りたくられているどろどろした黄色の何かが体中に纏わり付いて、地面に返ってくる頃には目も当てられないことになっていた。
それでもまた登るのだからその胆力たるや流石はオトコノコ、と言う感じはするけれど――
正直、あんまり近付きたくない容貌ではある。
生粋のお嬢様である小笠原祥子さまなら、その姿を目にしただけで凍り付いてしまうだろう。
親友にして由乃と同学年ながら白薔薇さまの藤堂志摩子さんは祥子さまほどお嬢様然としている訳では無いけれど、それでも温厚派だ。
泥塗れの男子生徒の前で何とか作る引き攣った笑顔、と言うのが可哀想なほどしっくり来る。
その点由乃の姉である令ちゃんは、自宅の剣道場と言う男子が多い空間で長く生活してきたお陰で、そう言ったことに対する免疫は強い。
それは間違いなく山百合会最高値で、だからこそ泥塗れの彼らに「おめでとう!」なんて朗らかに言いながらシールを貼れるのだ。
恐らくこれが出来るのは今の山百合会では令ちゃんだけだろう。
由乃が仮に黄薔薇さまとして令ちゃんの場所に座ったとしても、果たしてそれが出来るかどうか。
ただシールを貼ったり、引き攣った顔で「おめでとう」を言うことは出来るだろうけど、心からの笑顔は多分無理。
そう考えると、各色毎の滑り台に凝らされた趣向は本当に絶妙の配置だったと思う。
そんな事を考えながら櫓を見上げたり遠い人垣を眺めたりしていると、不意に目の前を上から釣られたバケツが通り過ぎた。
見上げると、令ちゃんのボディーガード役である小林君がちょいちょいと今由乃の眼前を通過したバケツの中身を指している。
そのバケツは中に手紙なり品物なりを入れて櫓を上下させ、イベントの関係上櫓の椅子を離れることが出来ない薔薇さまとその補佐であるつぼみとの意思疎通に使われていた。
櫓の高さは意外にも高くて、周りの喧騒もあって普通の声では殆ど届かない。とは言え周りに人が多くて大声を上げる訳にもいかず、アナクロながらそのバケツは非常に有効だった。
ついさっきも、喉が渇いた令ちゃんが泣き言を言うのに使われたばかりだし。
今度はお腹でも空いたのかなー、とバケツを覗き込んでみると。
『ごめん、洗ってきて』
なんて泥だらけの手紙と、これまた泥だらけのタオルが二枚入れられていた。
何でこんなにタオルが泥だらけになるんだろうと由乃は一瞬悩んだけど、考えてみれば答えはすぐにわかった。
泥だらけの男子が握り締めて持ってくる泥だらけの問題用紙にシールを貼っていれば、そりゃあっという間に貼る側の手も泥だらけになる。
令ちゃんはそれが気になるほどの潔癖症ではないけれど、それを失礼だと考えてしまうくらいには礼儀を重んじるタイプだ。
だから一枚シールを貼る度に手を拭っていたんだろう、それなら二枚のタオルもすぐに汚れてしまう。
(全く、令ちゃんらしいというか何と言うか)
確か令ちゃんは三枚か四枚のタオルを大体常備しているから、二枚が使い物にならなくなったということは結構切迫していると言うことだ。
由乃は息を吐いてそれらを掴むと、運動場の手洗い所目指して駆け出したのだった。
二枚のタオルを掴んで走る内に何となく櫓を振り返った由乃は、令ちゃんの座する櫓の隣、紅薔薇の櫓上で立ち上がり何やら祐麒君と口論している祥子さまの姿が眼に写った。
すぐに座り直されたので祥子さまの姿は見えなくなったし、屈みこんだんだろう祐麒君も消えてしまったのでそれ以上は判らない。
本当に口論だったのか、それすらも曖昧だ。それくらいに一瞬の出来事だったから。
でも由乃はその時、直感で感じとっていた。
紅薔薇で何かが起きている――って。
程無く手洗い所についた由乃は蛇口を一杯に捻って水を勢い良く出すと、二枚のタオルをその下に置いた。
重ねておいた上側のタオルを引き上げて、割と盛大に付いている泥を水流と擦り洗いで落としていく。
(うーん、でも気になるなー。祥子さまが言葉を荒げるのはいつものことだけど)
ごしごし擦りながら由乃は晴れ渡った青空を見上げた。
(花寺の生徒会相手に何か言うかな? 担当の祐麒君と相性が悪いってこともないだろうし)
ざぶざぶ。ごしごし。
ぼたぼた水を滴らせるタオルを見詰めながらうーん、と唸る。
(祐巳さんの弟君だから祥子さまも気を張らずに済んでいる、ってことなら良いことなんだろうけど)
油汚れと言う訳でもないし付いたばかりの汚れだから、そんな事を考えながらだと二枚のタオルはあっという間に洗い終わった。
ぱんぱんと広げて水を弾けば、清潔な無地のタオルが顔を出す。
(ん? 祐巳さん?)
そこで由乃は気が付いた。
櫓で立ち上がっていたのは祥子さまだ。
その前に立っていたのは祐麒君。
櫓に同席していた筈の祐巳さんは何処に居た? いや、居なかった。
祥子さまの傍には間違いなくセットとして存在する筈の祐巳さんが居なかった。
見間違いだろうか? 口論していた相手が祐巳さんだったとか。
もしくは由乃から見えない位置に実は居て、単に見逃してしまっただけだったとか。
そうかも知れない。そうじゃないかも知れない。判らない。
とは言え、洗い所でタオルを前に首を傾げても記憶がはっきりする訳も無い。
由乃はタオルと一緒に思考も畳んで櫓に向かった。
合戦はまだまだ拮抗状態。でもそれは初めの頃とは少し様相を変えていた。
流石にクリアーされた問題も多くなり、答え続けたチャレンジャーの体力も少なくなり、群がるように櫓に駆け寄ってきていた男子生徒の姿はもう無い。
あるのは、整列されている訳じゃないのに一列に並んで滑り台へ突貫する、まだまだ元気な人達の姿だ。
多分、櫓に突っ込んではどこかで休み、突っ込んでは休み突っ込んでは休みを繰り返している間に自然と人の流れみたいなものが出来たのだろう。
如何に血気盛んなオトコノコとは言え、体力も無尽蔵ではないというところか。
遠目から見える、櫓の上で暇そうに欠伸を噛み殺す令ちゃんに笑みが零れる。
戻ったらちょっと上にお邪魔してみようかな。祐巳さんも上がってたことだし。
なんて事を考えながら由乃は軽くスキップを踏んで櫓を目指した。
と。
その脇を駆け抜ける一陣の風ありけり。
「わっ」
「ごめん、ちょっと急いでて!」
ぶつかりしなかったけれど、遠く(令ちゃん)を眺めていた由乃は殆ど対応できずに声を上げる。
もしそれがぶつかるコースを取っていたら間違いなく正面衝突していた。
そうなれば、身長・体重その他諸々同年代女子の平均を僅かに割り込んでいる由乃は哀れ吹っ飛ばされてしまっただろう。
ああ、でもこの場合は多分ぶつかった相手にも結構な損害が出そう。
物凄い勢いで、それこそ風のように由乃の脇を通り過ぎたのは祐麒君だったから。
花寺生徒会でもアリスの次に華奢な彼だから、多分ぶつかっても大事故になるまでは無いだろうけど、その分お互いのダメージも大きそうだ。
これが高田君とか薬師寺さん(どっちでも可)だったりしたら、為す術もなく由乃だけが吹っ飛ばされて終わりなんだろうけど。
しかも相手はノーダメージっぽく。
って、それは良くて!
「祐麒君! どうしたの! どこ行くの!」
見た目はもちろん、おっとりながらも意外に考えるところは考えている、正に祐巳さんと瓜二つの祐麒君が慌てて駆け抜けるなんて並大抵じゃない。
あっという間に小さくなる背中に声を掛けたけど、返事は返ってこなかった。
聞こえなかったのか答えたくなかったのか。
どちらにしろ、それを確認する間も無く祐麒君は由乃の声が届かないところにまで行ってしまった。
今から走っても絶対に追いつけない。
性差を上げるまでもなく元々徒競走は得意じゃないし。
だから由乃は、瞬く間に遠ざかる祐麒君の背中を悔しげに見詰めることしか出来なかったのだ。
ここでやれやれ、と肩を竦めて櫓に戻れば。
戻るなら、それはきっと黄薔薇のつぼみ島津由乃ではない。
祐麒君が慌ててどこかにいってしまうのは、まぁ、それ単体ならそんなに珍しいものじゃないんだろう。
何といっても生徒会長だし、段ボールの一件を鑑みても結構アクティブな面もあるから。
でもその祐麒君は、ほんの少し前に櫓の前で祥子さまと口論していた。
そして――振り返って確認する。
紅薔薇の櫓。その上、祥子さまとボディガードの代役だろうか、薬師寺さん(どっちか判らない)の姿があった。
けれど祐巳さんの姿はやはり無い。
口論と、走り去った祐麒君と、消えた祐巳さん。どういう繋がりかはわからないけど、少なくとも由乃の中でそれらは一つに纏まった。
いつの間にやらシグナル・ブルーは点灯している。先ほど祐麒君が通りすがりにスイッチを押していったに違いない。
とにあれ櫓を目指して超特急、少し前までのスキップなんて有り得ない。
降りっぱなしだったバケツにタオル二枚を放り込み、即座にポケットから生徒手帳を取り出す。
由乃がタオルを放り込んだからだろう、ゆっくり持ち上がり始めたバケツを掴んで無理矢理引き止めた。
小林君が紐を引くのを止めた事を確認して、急いでページを繰る。事態は一刻を争うのだ(多分)。
『何かあったみたい。調べてくる』
由乃は手帳にそれだけを書き付け、千切り取ってバケツに放り込む。
そして踵を返し、今はもう無い祐麒君の背中を改めて追った。
背後でバケツがゆるゆる上がり始めるのを確認する間は、無かった。
目指すは生徒会室である。
理由は二つ。
一つは、祐麒君が急いで向かう場所としてとりあえず思いついたのが生徒会室だったこと。
もう一つは、今となっては随分前のことだけれど、少し前に由乃が祐巳さんとすれ違った時に祐巳さんが向かったのが生徒会室だったことだ。
ちらりと腕時計を確認すると、すれ違った頃からもう三十分ほど経過している。
まさか未だに生徒会室に居るとは考えられないし、いかに広い敷地とは言え元々行動範囲が制限されているから学校内で迷うとも考えにくい。
何かが起きている。それだけは間違いない。
最後に見た祐巳さんの姿を思い出していると、徐々に胸の奥が疼くように恐ろしくなってくるのが判った。
そもそも、人が一人消えると言うことは物凄い大事件だ。
もしかしたら祐麒君は警察を呼びにいったんだろうか、何て事を考えてしまう。
もちろん、学園祭のゲームがまだ続いているから多分それは杞憂なのだろう。
でもそれが将来的に無いとも限らない。祐麒君が解決できなければ本当に警察沙汰になるかも知れない。
その対象が祐巳さんだなんて。
祐巳さんだなんて――そんなことは、あっちゃいけない。
これがリリアンの学園祭中であればまだ良かったのに。
花寺構内で居なくなったという事実が、背筋が凍るほど怖い。
祐巳さん。
祐巳さんっ――!
「アリス!」
生徒会室の扉を開けて室内に飛び込んだ由乃は、それだけで事態が本当に切迫していることを理解した。
アリスが一人、机の上で両手を組み、重い空気を背負って額を預けている。
その姿はまるで仏教学校の花寺ではアンマッチなカトリックの懺悔のようであったけど、そこに突っ込めるほど由乃に余裕は無い。
物音に顔を上げたアリスに、立て続けて質問を投げ付けた。
「祐巳さんが来たわよね、どこに行ったの。あ、あと祐麒君来なかった」
するとアリスは安堵したような、それで苦しそうな、悲しそうな、凄く微妙な表情を浮かべた。
首を振ったアリスは答える。
「それが……誘拐されたかも知れないの」
由乃は絶句した。
誘拐。誘拐。
事態に対してある程度までは覚悟していたけれど、やっぱりその覚悟も「ある程度」に過ぎなかったのか。
実際にアリスの口から告げられたその単語は、眩暈がするほど禍々しい言葉に思えた。
「ユキチもうん、来たわ。それでね、生徒会室の前に段ボールがあったの覚えてる?」
「っええ」
「あれが無くなっているの。だから今、その目撃情報を聞き込みに行ってる」
足ががたがた震えた。
動悸がはっきりと聞こえて忌々しい過去の記憶が蘇る、一年前の由乃ならきっとこの場で倒れていた。
けれど。
「判った。私もその線で当たってみる、アリスは続けてここに居て。誰か帰ってくるかも知れない」
今の由乃は倒れない。
倒れるより先にすることがある。出来ることがある。
それは間違いなく幸せなことだったけれど、こんなことで実感したかった幸せではない。
由乃は歯軋りして、生徒会室を飛び出した。
今はもう居ない由乃の幻影を扉にしばらく見詰めて、アリスは再び机に向き直って祈った。
それは仏教の念仏でもキリスト教の祈りでもなく、ただただ真摯な人の祈りだった。
「祐巳さん……無事で居て――」
〜 〜 〜
人が一人入るくらいの段ボール箱。それ自体は珍しくないけれど、本当にそれで人を運んだのだとしたら結構目立ったはずだ。
一人が抱えて持つのだけでは無理だろうし、単純に底が抜けてしまう。
だから底を支えながら四隅を持つのが妥当。となると、四人がかりで運んだことになる。
一つの段ボール箱を四人で運べば絶対に目立つ。
そんな由乃の、そして恐らく祐麒君も辿っただろう思考に基づいて聞き込みを行った結果、やはり結構な割合で目撃されていた。
特に学園祭と言うことで、出店なんかで移動せずに居た生徒が多かったことが幸いした。
これは生徒会室が校舎にある花寺ならではだ。
もし同じ事をリリアンでやれば、薔薇の館から人を連れ去っても校舎内の人間に見つかる確率はかなり低い筈。
とは言えリリアンにそんな不埒な輩が侵入できる訳はないけれど。
……できる訳はない筈だ。
兎も角、目撃情報の聞き込みを続けていくうちにやがて由乃は推理小説同好会の展示室に到達した。
やっぱりか、と言うか何と言うか。
推理小説同好会がどうこうではなく、花寺の学生が犯人なんだろうとは聞き込みの途中から気付いていた。
これだけの派手な舞台だ。本気でリリアンのお嬢様を狙った営利目的の誘拐でないことは用意に想像がついたが、かと言って油断は出来ない。
お金が目的じゃない誘拐なんてゴロゴロしている。
そこまで考えた由乃は顔を真っ青にして祐巳の現在を案じた。
本当に、何で、どうして、こんなことになったんだろう。
何で祐巳さんがこんな目に合わないといけないんだろう。
でも辿り着いた先は推理小説同好会。
俄かに雲行きがおかしくなってきている。
もしかすれば、もしかする。
何と言っても「推理小説」同好会、整った舞台での派手なイベントはそりゃあお手の物だろう。
(だからって、冗談でしたなんて一言で許されることではないけれど)
でも由乃が危惧したようなことにはなっていないように思える。
それはそれで非常に重畳だ。
情報によると、随分前に件の段ボール箱が運び込まれて以来かなり慌しくなっているらしい。
元々パッとしない同好会の癖にはパンダのきぐるみで客引きをする、と言うことで一部では結構注目されていたようだ。
とは言え良い意味の注目では決して無かったと言うのが哀愁を誘う。
しかして今はそれもどうでも良い。
ちらりと時計を見ると三時二十分を指していた。
花寺の合戦もあと十分で終わる。もしここで祐巳さんを確保できなければ一大事になることは避けられない。
由乃は意を決して、扉を開けた。
「おや、今日は――」
「わっ」
そして再び扉を閉めた。
(な、何なのよ! 何なのよいきなり!)
それもその筈、展示室の真中ではTシャツ短パンの男性が、他数人とトランプをしていた。
由乃は男性に免疫が無いわけじゃないけど、今日散々観てきた男子は学ランや体操服だったのだ。
不意を突かれると対処できない、何のかんので女子高育ちな由乃であった。
溜息を一つ。
「おや、今日は千客万来だ」
改めて、わざわざ「おや」からセリフを言い直した男性を睨みつけて、改めて由乃は室内に踏み入った。
展示室には先の男性が一人、それに四人の学生がやはりトランプをしている。
机の上で行われていた七並べは佳境に入っているようで、トランプのカードを慌てて並べたようには思えない。
そして当然ながら、祐巳さんの姿も少し前に辿り着いただろう祐麒君の姿もそこには無かった。
「不躾だけれど、福沢祐巳さんはどこに居るのかしら。ここに居るのよね?」
由乃がそう言うと、びくりと学生服の四人がびくりと体を震わせる。
その様が何とも小者っぽく、如何にも「僕達は悪い事をしましたー」と言っているようで間抜けだ。
「もう居ないよ」
だからこそか、そう答えたのは一人別格のオーラを放っている半裸の男性だった。
由乃が睨んでも微動だにしないその人は、トランプを伏せて机に置いて由乃に向き直る。
「祐巳ちゃんにもユキチにも会わなかったのかな? 皆、間が悪いな……兎に角もう戻っている頃だと思う」
「どういうことですか」
「それは僕の口からは言えない。詳細は祐巳ちゃんかユキチから聞いてくれないか」
「そうじゃなくて」
祐巳ちゃん、だなんて。
見ず知らずの上に誘拐した割にはいけしゃあしゃあと親しげに言ってくれるじゃないか。
何様のつもりなんだ。
祐巳さんはそりゃ親しみのある人ではあるけど、それは別に誰彼構わず馴れ馴れしくしていいってことじゃない。
暗いそんな感情が胸に沸いたその時。
「え? あれ?」
不意に由乃は思い出した。
今でこそ沈痛な面持ちは隠さないが、その整い過ぎた顔の造りと所作には見覚えがある。
「もしかして、去年の王子さま? ですか?」
気障ったらしい生まれながらの王子さま。
祥子さまの従兄弟にして婚約者、名前は確か――柏木さん。
昨年のリリアン学園祭で演じられたシンデレラでは、天性の才を生かして見事王子の役を演じきった人だ。
大層な揉め事もあるにはあったけど。
すると柏木さんは一瞬顔を顰めたけど、すぐに何度も頷いた。
「ああ、そうだよ。去年はお世話になったね、由乃ちゃん」
そしてにっこり笑って爽やかスマイル。
別の意味で寒気を感じるほどの完璧な笑みと、一年前にちらっと関わった後輩の名前と顔を覚えているこの完璧さ。
本当にこの人は王子さまなんだなと思う。
柏木さんなら、祥子さま繋がりで祐巳さんとは交流がある。
時々思い出したように祐巳さんが柏木さんに関して愚痴ってくるので、結構な回数で関わりがあるのだろう。
それなら”祐巳ちゃん”にも納得だ。ナチュラルに言われた”由乃ちゃん”にも納得しよう。
それに今はやっぱり、それどころじゃないのだし。
「判りました、それでは仔細は祐巳さんから余すことなくお聞きすることにいたしますわ」
祐巳さんが居ないならこんなところに興味など無い、と踵を返して「ごきげんよう」。
叩き付けるように締めた扉の奥から「ひっ」と言う情けない声が聞こえた。
〜 〜 〜
丁度由乃がグラウンドに戻った時、ゲーム終了を告げる法螺貝が辺りに鳴り響いた。
それで一斉にグラウンドで駆けずり回っていた生徒が倒れこむ。
心身ともに疲弊し切った彼らの様は、正に死屍累々と言った感じだった。
その中で、よたよた。
よたよたと、櫓に歩み寄る影ありけり。
パンダの着ぐるみが力無く歩を進めながら、ゆっくり、覚束ない足取りで櫓へ。
紅薔薇の櫓へ向かっている。
それはまるで、歩き始めたばかりの赤ん坊が母親の元によちよち歩いていくように。
見た目は間抜けだけど、可愛らしくて笑みが零れそうだけど、その仕草は強かに由乃の胸を打った。
あのパンダは母親を求めている。その抱擁を求めている。
それが全身から滲み出るような歩みだったから。
そしてその抱擁は為された。
他ならぬ祥子さまの腕によって。パンダはそれで、本当に力尽きたように縋った。
それはきっと奇跡の瞬間だった。あるいは、祥子さまの愛が何かに勝利した瞬間だった。
尊い祥子さまとパンダ――もう由乃は判っている、祥子さまと祐巳さんとの絆がそこにあった。
櫓を降りた令ちゃんが固まっている。
志摩子さんが穏やかな瞳で眺めていた。
乃梨子ちゃんが志摩子さんに近寄る途中で視線を祥子さまに飛ばして凍り付いている。
不審に気付いたギャラリーが徐々に、徐々に人垣を為し始めた。
その中で、由乃は。
「祐巳さん!」
無粋だとは思いつつも、抱き合う祥子さま達へ駆け出していた。
漸く見つけた祐巳さんが愛しかったのは祥子さまだけじゃないのだ。
「祐巳さんっ!」
二人の世界に浸っている祥子さまも祐巳さんも、すぐには気付いてくれなかったけれど。
由乃はこの瞬間にこそ、全速力で走ることが出来る幸せを実感することが出来ていた。