【892】 生きていたい  (たいら 2005-11-20 12:44:24)


「それなら私のために死んでくれるかしら?」

*生きていたい*


シンと静まり返った薔薇の館には現在私と江利子しか居ない。どこか暖かな空気の流れるこの場所は唯一私の居場所なんだとこのごろ思い始めた。
そんなことを考えてる今も目の前の人物は何を考えているのか分か私には理解できない表情で窓の外をじっと眺めている。時折ふと何かを見つけては小さく口元を緩める。
私はこの瞬間がとてつもなく好きだ
「ねぇ蓉子…あなたは誰のために生きているのかしら?」
窓の外を眺めたままいきなり問いかけてきた。私はというと、ため息を一つ漏らして答えを出しかねていた。
するとこちらを振り向きジッと見つめてくる。答えを求めるように眼をそらさない。
私はこの瞬間がとてつもなく嫌いだと思った。
「私は…」

「               」

私の答えを聞いた江利子は満足そうにいつもよりも優しい笑みを浮かべ私の頬を撫でると唇を重ねてきた。やわらかい感触を一通り楽しむと彼女はゆっくりと体を離した。
「だからあなたは好きよ」
優しく一言つぶやいてからまた窓の外へ眼を向ける。
私の好きな時間が戻ってきた。


「ねぇー江利子ー」
駄々っ子の様な口ぶりで袖をぐいぐいと引っ張ってくる聖に明らかに不機嫌そうな眼を向けて低音で返事してみる
「何よ…」
「祐巳ちゃんは?」
「知らないわよ。私は祐巳ちゃんの姉でも何でも無いんだから」
ため息混じりに袖をつかんでいる手を払うと流しへ向かいアールグレイの入った缶を取り出し淹れ始める。それでもなお相手は近づいてきて後ろから質問を繰り返してきた。
「じゃぁ他の皆は?」
「知らない」
振り向く事もなく答えた時、後ろから腕を回された。
「…ちょっと…何してるのよ…」
「だって江利子しか居ないんだもん」
イライラする
こんな風に接する時の聖のことを私はどうしても好きになることが出来ないのだ。
「江利子…」
「ちょっと…もう…」
振り払おうと体を捩っても相手の力にはかなわなかった
きつく抱きしめる腕と背中に密着する体。首元にうずめられている頭。
相手の体温が伝わり、ゆっくりと腰周りから手が這い上がってくる。
次の瞬間にはその手は私の頬を撫でていく
生暖かい…それでもハッキリとした体温は微かに私を安心させた。
唇が重なっている時にはもうお互いの体は向き合っていて、相手の手は今でも私の頬を撫でていく。唇が離れる時にはその手は最初の位置。腰へと戻っていた。
「江利子…どうして蓉子なの…?」
少し甘えるように上目遣いがちに聞いてくる聖の頬を撫でながら私は答えを返す前に聞き返す。
「聖…あなたは一体誰のために生きているのかしら?」
「誰のために?」
唐突な質問に怪訝そうに眉を寄せると相手は何かをひらめいたかのように顔を上げ耳元で囁いた。
「私は江利子のために生きてるよ」
「私のために?」
「そう、江利子のために。」
至極満足そうに笑顔を向ける相手にがっかりした表情を浮かべるとため息を一つ。
「だからあなたはダメなのよ」
相手を突き放すとぬるくなった紅茶を手にいつもの定位置に腰掛けた。
それから何分かたって令と由乃ちゃんがドアを開くまで部屋には冷め切った空気が流れていた。

「ねぇ江利子…あの答えの何がいけなかった?」
薔薇の館に居る間中そんな事を何度も聞く聖に私は呆れ、その答えを返すことは無かった。
期待はしていなかったがあんなにくだらない答えを返されるとこちら側としてもため息しか出ない。私が求めているのはそんな答えではないのに。そんな思いを浮かべていてもきっとはほんの少しも相手には伝わっていないだろうけれど
「きっと誰彼構わずあんな事言っているのね」
冷ややかな声で言うと聖は不思議そうに眉を寄せて私の目を覗き込み続けた。


仕事が片付くと皆はそろって薔薇の館に漂う暖かい雰囲気を楽しむかのようにくつろぎ始めた。窓の外を眺めてみるとどんよりとした分厚い雲が空を覆っている。まるで自分の心の中をあらわすかのように。
同じように窓の外を見つめる江利子はどこか物憂げで私の中の想いをいっそう熱くさせた。
あの瞳に映っている誰かは私じゃない。そう思うと少しの息苦しさを覚え、その誰かを横目で見た。
「何?」
「何も」
眉を寄せて目線を外す私を誰かはよくは思わないだろう。
それでもいいとさえ思った。優等生の仮面をかぶった誰かはきっと江利子の求めるものを提示したのだろう。
答えが知りたい。
江利子の求める答えを…。
そう思ったときにはもう体は動いていて椅子の倒れる音を部屋に響かせながら立ち上がった。
「江利子、話があるの、すぐ終わるからちょっと着いてきて」
「何処に着いていけっていうのよ。寒いのに…嫌よ。」
「いいから、来て」
「嫌。」
部屋に居る誰の眼にも分かる程、険悪な空気が先程までの雰囲気を壊していった。皆が来る前から放っていた雰囲気に気づいていただろう。江利子は別として私の態度は明らかにいつもとは違っていたはずだ。
「江利子…すぐ終わるって言ってるんだから良いじゃない」
優等生な誰かさんがその場を取り繕うように江利子に投げかけると、しぶしぶ…本当にそんな風に立ち上がり、大きなため息を着いた江利子は先に部屋を出て行った。
「少しだけよ。」
私は続いて部屋を出ると後ろ手にドアを閉めた。部屋を出る間に横目で見た誰かは心配そうに私達を見つめていた。


いつもはこんなところへはあまり来たりはしない。しかし流石に外では体の芯まで冷えきってしまうような風が吹き抜けている。
私達はしかたなく古びた温室へ向かった。
いくら派手に風が通り抜けないからといって寒くないというわけではなかった。隙間風が吹き込む温室は予想以上に体温を奪っていく。
「で…何かしら」
ため息混じりに聞いてきた江利子はめんどくさそうに鉢棚に腰を降ろした。ハンカチを敷かない所を見ると本当にさっさと館へ戻るつもりらしい。
「さっきの答え…江利子が求める答えは何?私と蓉子との違いは何?」
私と誰かの違いなど一目瞭然だ。
性格なんかまるっきり違うし、頭の出来も違う。要領のよさ、てきぱきと何でも片付けてしまうところなんて感心してしまう。
その上面倒見がよく、いくら他藩だからといって問題が起きればその本人達には負担をかけないようにそれとなくいい方向へ向かうよう対処する。なんにたいしてもそこそこで、適度に手を抜いて楽をしようとする私とはまるっきり違うのだ。
だけど私が聞きたいのはそんな誰かと私の違いではない。
江利子が誰かさんを選ぶ理由。私ではなくてなぜ蓉子なのか。そういうことなのだ。
「貴女は私のために生きている。と言ったわね。だけどそんな事冗談でも言えるあなたに幻滅したわ。いくら私を思ってくれているからって私のために生きられるなんて本当にごめんだわ。願い下げよ。」
冷たい声で、淡々と話す江利子にわけのわからない気分になった。
では一体江利子は誰のために生きているといって欲しかったのか、その質問の意図が全くつかめない。愛した人のために生きれるのなら、それで幸せじゃないか。何の不服があるというのだ。
「…だったら…蓉子はなんて答えたの…?」
搾り出すような声で誰かの答えを尋ねた。
その答えこそが私と誰かの違いならばそれを是非聞かせていただこうじゃないか。
「自分のためよ」
「え?」
「あの子は私の質問にまっすぐにこう言ったわ」

『私は自分自身のために生きているのよ』

一瞬何を言ってるんだと鼻で笑った。その答えが江利子の求めていた答えなの?あたしは少しも理解出来なかった。
「…それが江利子の求めた答え?自分自身のために生きているなんて…そんなの…」
「じゃぁ聞くけど…あなた…私のために生きているというのなら
 私のために死んでくれるのかしら?」

私のために死んでくれるのかしら? 

彼女の言葉が幾度も頭の中で交差した。


江利子から投げかけられた新たな質問の答えを言わないうちに誰かが温室へ脚を踏み入れた。
「…今日の仕事はもう終わったから他の皆は帰らせたわ
 私も帰るからゆっくり話していて…あなた達の荷物は此処へ置いておくわね」
そう、現れたのは私には提示できなかった江利子の望む答えを出した誰かさんだった。ごきげんよう、と帰ろうとした蓉子の腕を江利子は、待って。と掴んで私に向かって言った。
「あなたは私のために生きて居ないじゃない。だって私のために死ねないもの。
 そんな嘘をつかれながら共に過ごすくらいなら私は蓉子を選ぶ。自分自身のために生きているときっぱり言い放った蓉子を愛するわ。
 人は誰かのためには死ねない。それが愛する人の為でも。自分自身の道を歩き生きて、最後は自分自身で道を断ち切るのよ。それが人間というものじゃない?少なくとも、私はそう考えている。
 あなたも胸を張って自分自身のために生きなさい。それが今あなたのするべきことよ。」
江利子は一気に言葉をぶつけてきた。それから自分の荷物をおもむろに掴むと蓉子の腕を掴んだまま温室を離れていった。
「だけど…誰かのために生きている。そんな風に言ってしまえるあなたも…嫌いではないわ」
最後に一言残して。


温室に残された私は突きつけられた言葉を幾度も頭の中で繰り返しながら二つの影が見えなくなるまでその影を眼で追い続けた。
芯まで冷え切った体に微かな温もりをあたえるため側に置かれたコートまでゆっくり脚を運ぶ。丁寧に畳まれたそれは蓉子の性格を現すかのように静かに置かれていた。
腕を通し温室を出ると二つの影が居なくなったのを確認して呟いてから温室を後にした。

「…それでも私はあなたのために生きて、あなたのために死んでいきたい…」







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