【No:935】―┬――→【No:958】→【No:992】
└【これ】┘
「志摩子」
「え?」
学校で名前を呼び捨てにされるのは初めてだった。
誰かと思い、声のしたほうへ振り返ると、紅薔薇のつぼみ、小笠原祥子さまがそこに立っていた。
「ちょうど良かったわ。 今、よろしいかしら?」
「あの、何か御用でしょうか」
「時間は取らせないわ」
そう言って祥子さまは、「よい」とも「よくない」とも答えていないのに、もう志摩子が同意するのが当然のようにさっさと背を向けて歩きはじめてしまったので、志摩子は慌ててそれを追った。
「ここでいいわ」
人気のない校舎の裏手まで来て祥子さまは立ち止まった。
そして、後をついて来た志摩子に振り返り、志摩子が祥子のそばに立って聞く体制になったのを見て言った。
「あなた、山百合会のお手伝いをする気はあって?」
「え?」
他ならぬ紅薔薇のつぼみの話だから、山百合会関係のことであろうと思っていた。
だが、いきなりそう聞かれて、志摩子はどういう意図なのか図りかねた。
「あの、それは紅薔薇さまが望んでいらっしゃるのですか?」
「いいえ、お姉さまは関係ないわ。 私があなたに聞いているのよ」
よくわからない。 紅薔薇のつぼみが藤堂志摩子にそれ聞く理由が。
接点はないこともない。
白薔薇さまを怒らせたこと。
紅薔薇さまと一緒に後から来たのでやり取りを全て知っているわけではないと思うが、紅薔薇さまが止めに入ったときの険悪な雰囲気は祥子さまもしっかり目撃していたのだ。
あのあと、志摩子と祐巳さんを外に連れ出したのは祥子さまだった。
でもそれは「手伝いを頼む」という理由にしてはどちらかというとマイナス要素だ。
だから、祥子さまが『紅薔薇さまに関係なく』そのことを志摩子に問うというのは志摩子にとっていささか不可解なことであった。
志摩子が返事をしないで思いを巡らせていると、それを察したように祥子さまが言った。
「……そうね、まわりくどい聞き方は私には合わないわ。 単刀直入に聞くけど、あなた白薔薇さまのことどう思っているのかしら?」
やはり。
そういうことなら判る。
おそらく、あのときの様子を見て『なんとかしたい』と思っての行動であろう。
志摩子は言った。
「白薔薇さまのことは別に嫌いというわけではありません」
「嫌いではない。 じゃあ、問題は無いわけよね」
「え?」
「祐巳と一緒に山百合会のお手伝いに来ることよ」
「え、はい。 それならそのつもりでしたが……」
「そう」
それから祥子さまはなにか考えられている様子で沈黙した。
志摩子を見つめたまま、それもほんの少しの時間。
「……そうよね。来るのは判ったわ。それで、どうなの?」
「どう、とは?」
「あなたは聖さまに謝る気はあるのかしら?」
「謝る?」
そういわれて少し戸惑った。
あの『事件』から一度もそんなことを考えたことがなかったからだ。
「そうよ」
祥子さまに言われて初めて志摩子は『白薔薇さまに謝る』ということイメージした。
確かに、理由はどうあれ上級生を怒らせたのだから、祥子さまがそう言ってくるのも当然だろう。
でも、志摩子はどうしても素直に「はい」といえなかった。
志摩子は反抗的に思われるのを承知で言った。
「どうして、私が白薔薇さまに謝らなければならないのですか?」
「当然でしょう?」
案の定、祥子さまは眉の端を釣りあがらせて口調も厳しく言った。
「あなたは上級生である白薔薇さまに失礼なことをしたのよ。 判っていないの?」
失礼なことをしたのは判っているつもりだった。
でもどうしても納得できないのだ。
「それでしたら、白薔薇さまだって祐巳さんを傷つけるようなことを言いました。 それとも祥子さまは上級生ならば許されるとでも仰るのですか?」
売り言葉に買い言葉だ。
志摩子はそう思った。
これを言ってしまっては引っ込みがつかなくなると。
でも、志摩子の中ではもう白薔薇さまに掴みかかられたときから、とっくに『引っ込みがつかなく』なっていたのだ。
「話をすり替えないでちょうだい。 私はあなたと白薔薇さまのことを言っているのよ!」
「すり替えてなんていません! 謝るというのなら白薔薇さまが祐巳さんにまず謝るべきではないのですか?」
志摩子は自問していた。
祥子さまだって上級生なのに。 いつから自分はこんなに不遜は人間になったのだろうと。
握り締めた掌が震えた。
ふと見ると、祥子さまの握り締めた手も震えているのが判った。
それがどういう感情から来るものなのかは志摩子には判らなかったが、ここで激しく怒りをぶつけられようとも主張を翻すつもりは無かった。
しかし、祥子さまは感情を露にすることは無く、むしろそれを隠すように志摩子に背を向けた。
「……もういいわ。 今日の放課後、祐巳と一緒に薔薇の館に来なさい。 これは紅薔薇さまからの伝言よ」
祥子さまは背を向けたままそう言った。
祥子さまは紅薔薇さまからの伝言を最後に、その長い髪を翻して三年生の教室の方へ去っていった。
志摩子はその後姿を見ながら不安と焦燥が入り混じったような感情が湧き上がってきた。
上級生である祥子さまと口喧嘩のような言い合いをしてしまったこともある。
中学からの外部受験とはいえ、志摩子にもリリアン流の学年の上下関係というものはしっかりと染み付いている。
にもかかわらず、上級生である祥子さまに対してあんな反抗的な態度を取ってしまったのだ。
でも、理由はそれだけではなかった。
それよりも気になること。 ――祥子さまは祐巳さんを『祐巳』と呼び捨てにしていた――。
その前に志摩子のことも呼び捨てにしたので、関わりある人に対してはそうする人なのかも知れない。
でも、そうだと思い込もうとしても一度湧き上がった感情の乱れは収まりそうも無かった。
『山百合会に嫉妬してたのかもしれない』
つい先日、祐巳さんに言った自分の言葉だ。
そう。
その感情の名は『嫉妬』という。