がちゃS・ぷち

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No.3509
作者:海風
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2011-05-12 11:07:42
萌えた:6
笑った:6
感動だ:35

『惨劇の連鎖』

【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】
【No:3171】【No:3174】【No:3177】【No:3183】【No:3187】
【No:3196】【No:3205】【No:3233】【No:3249】【No:3288】【No:3327】【No:3380】【No:3397】【No:3443】【No:3464】【No:3498】【No:3501】 解説書【No:3505】 から続いています。









 昼休み。
 報告自体は休み時間に伝わっていたが、ゆっくり話せる昼休みまで接触は断っていた。

「申し訳ない」

 吊るし上げられているのは、紅薔薇勢力遊撃隊隊長“鍔鳴”である。
 集合場所としてとある部室を一時的に借りて、四名の紅薔薇勢力幹部が集まっていた。

 遊撃隊隊長“鍔鳴”。
 突撃隊副隊長“鵺子”。
 二年生長“送信蜂(ワーク・ビー)”。
 暗部所属“bS”。

 一応表向きは解散しているので、こうしてこそこそ会っているわけだ。
 ちなみに全員二年生で、それなりに仲が良い。

「うーん……やってしまったことだし責める気はないけれど、だいぶ肩透かしを食らった気分ね」
「私は責める気マンマンだけど!? これだったら私が行くべきだったわ! 闘わずして引くなんて論外よ、論外!」
「声が大きい」

 ――責められている理由は、今朝の白薔薇狩りの一件である。
 あの白薔薇・佐藤聖と闘おうなどという無謀な勇士を募り、兵を引き連れて現場へ駆けた“鍔鳴”は、闘うことさえせず、小競り合い程度をこなして撤退してしまった。
 負けるのであればいい。
 力の限り闘って負けたり失敗したのであれば、それは諦めもつく。相手が相手だ、負けたところで誰も責めはしない。
 しかし闘いもせずに引き上げたのだ。
 白薔薇が弱っている絶好のチャンスを活かせなかった。それどころかチャレンジさえしていないのであれば、“鍔鳴”を代表として立てサポートしていた仲間が怒るのも無理はない。

「どうして引いたの? ぜひ納得の行く説明をして」

 白薔薇の情報を掴み、皆を集めて作戦を立てた“送信蜂(ワーク・ビー)”の冷静な視線に、“鍔鳴”は「うーん」と唸った。

「なんとなく、としか……」
「ぐ……ぐ、具体的な理由もないのかよ……」

 一人だけ目に見えて怒っていた“鵺子”は、もう、怒りのメーターがまるっと一回転して気が抜けてしまった。

「一年からの報告によれば、乱入してきた支倉令から逃げるように退散した、って聞いたんだけど」

“bS”の冷めた声に、“鍔鳴”は頷いてしまった。

「それ、合ってる」

 腰が引けただの臆病風に拭かれただのチキンだの、そういった意味を含んだその言葉を、“鍔鳴”はさらりと認めた。

「私は支倉令から逃げた。そしてその前にも負けていた」
「その前?」
「あんなのがいるなんて驚いた」
「わかるように言いなさいよ、わかるように!」
「――“鼬”よ」

“鍔鳴”は語った。あの時、何があったのかを。

「ちょっと、それ……」

 冗談では済ませられない内容に、三人の表情が変わる。

「懐に入られ、刀を封じられた。刀使いが刀を封じられたのだから、その時点で完全に私の敗北だわ」

 だいぶ軽く言っている“鍔鳴”だが、その重大さはわかっている。己が紅薔薇勢力総統“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に次ぐナンバー2である自覚もある。実力だけに限れば次期総統と呼べることもわかっている。
 その“鍔鳴”が、顔や名前は知っているが実力は未知数だった一年生に負けたという。
 今となっては元がつく、白薔薇勢力隠密部隊副隊長“鼬”に。

「令さん本人もわかっていないけれど、私は令さんに助けられたのよ。知っているとすれば当人だけ」
「当人って、あなたと」
「“鼬”?」

“鍔鳴”は頷いた。

「言い訳はしない。けれど冷静に考えて戦力が足りなかったと思う。“鼬”さんがあれほどの実力者だった以上、総力戦を続けても確実に押し負けた。きっと白薔薇まで届かなかった」

 意外な伏兵がいた、と思う。

 まず、“神憑”だ。
 本人が温厚なだけに誤解されがちだが、あの三年生は非常に強い。なぜ特務処理班長だなんて雑用係を担っているのか不思議なくらいに強い。戦闘部隊の幹部でもおかしくないくらいの実力を有しているのに。
 三年生は知っている者も多いが、二年前のちょうどこのくらいの時期に、“神憑”は“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”とやりあっている。当時一年生同士で、お互い勢力に所属したばかりの頃だ。いったい何が原因で闘ったのかはわからないが、結局決着はつかなかったとか。
 そして、当時も今も好戦的な“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”に、「二度と闘いたくない相手」とまで言わせた存在である。

 おまけのようで恐縮だが、“白と黒の罠(ホワイト・オア・ブラック)”も充分強い。あの時連れていた一年生達だけなら、かなり苦戦しながらも一人で相手できただろう。

 そして問題の“鼬”だ。
 気味が悪いくらい情報の出回っていない一年生幹部。「副隊長になるだけの実力」さえ垣間見えないのは稀、というより、普通に考えるとありえない。何か手柄を立ててそのポストを得たならともかく、この一年生が何かをした・何かを成し遂げたという記録は一切ない。隠密である以上、確かに情報はそう簡単には漏れないものだが、それにしたって異常なくらい隠蔽されてきた。
 隠密副隊長として幹部連の中に立っていたのだ、それだけでそれなりの力はあると判断できる。
 だが誰もが「所詮一年生」という枠を作っていることだろう。
 きっと、本当は誰しもの想像を越えるほどの実力を有していると、“鍔鳴”は思う。

 あの時。
 睨み合い、懐に入られたあの時、“鼬”は“鍔鳴”の余所見に付け込んだ。
 余所見さえしていなければ、と考えたくもなるが、問題はそこじゃない。
 問題は、“鼬”は“鍔鳴”の間合いに飛び込むことに躊躇しなかったこと、だ。
 もはや肉眼で捉えるどころか、来るとわかっていても避けられないスピードの“鍔鳴”の一閃を直前に見ていながら、その領域に入ることを躊躇わなかった。
 もし余所見がフェイントだったら?
 そう考えたら、相当戦闘に慣れたベテランじゃないと飛び込めないものだ。恐怖と警戒心が足を止める。何せ無防備状態で引っかかったら一発で終わりである。慎重になり、足が前に出なくなるのが普通だ。
 だが“鼬”は違った。
 虚実を見抜いていたのか、それとも一か八か思い切って飛び込んだだけなのか。
 ――“鍔鳴”は、後者の可能性はないと思っている。
 なぜなら、“鍔鳴”を攻撃して仕留めることより、退却させることを優先して刀を封じてきたからだ。「“糸”による斬撃」が可能なら、あの一瞬で一撃必殺を仕掛けられたはずだ。それに“鼬”の能力――“糸”という武器は、わざわざ接近戦を仕掛ける必要がない。“糸”による斬撃、そしてあれだけの動きを可能とするほどの腕があるなら、それこそ間合いはある程度自由に調整できるはずだ。
 あのわずかな時間で垣間見せた“鼬”の実力の片鱗は、まったく底が見えない。
 恐ろしい一年生がいたものだ。
 おまけにあの時は、あの黄薔薇の蕾・支倉令もいた。一年生主体のチームではどうにもならなかっただろう――実際半数以上が“神憑”一人に翻弄されていた。

「もし私が負けていたら、確実に勢力図が動いていた。それが回避できただけでも令さんには感謝するわ。そしてあの時、令さんは困っていた。だからなんとなく私が引いた方がいい気がした。令さんには自覚がないだろうから貸しも借りもないかもしれないけれど、それで借りは返したつもりよ」

 納得はできかねるが、闘わずして引き上げた理由は聞いた。
 三人は、“鍔鳴”の淡々とした説明にひとまずほっとしている。腰が引けたわけでも恐怖から逃げたわけでもないのはわかっていたが、それ以外のやむにやまれぬ事情がないと判断できたからだ。
 幹部としては失格だ。
 どんな犠牲を払おうと、脇目を振らず白薔薇狩りを最優先するべきだった。
 だが、代わりにリリアンの子羊としての義理を通したのであれば、それならかろうじて許せる。今更“鍔鳴”に幹部やリーダーの資質など誰も求めない。

「まあ、“鼬”のことはこの際置いておきましょう」

“bS”は話を進めた。とりあえず“鍔鳴”を責めるだけ責めたので、今朝の件はそれでいい。
 今は他に話すべきこともある。

「白薔薇勢力解散の噂は聞いた?」

 一同が頷く。

「白薔薇の幹部から聞いたし、間違いないみたい。“九頭竜”がはっきり宣言した、って」
「で、同じく次期白薔薇を支持する勢力を立ち上げる宣言もしたらしいわね」
「次の白薔薇か……それってやっぱり藤堂志摩子さん?」
「――それより」

 今後の動向に頭を悩ませる三人に、“鍔鳴”は言った。

「目の前の問題から片付けていかない?」
「目の前の問題って?」
「“契約書”争奪戦。忘れてない? 私達は総統の意志に添って動くと決めたはずよ」

 だから“鍔鳴”が今朝の白薔薇狩りの指揮を取ったのだ。
 群れて動くのも敵味方が入り乱れる乱戦も好きではなく、そもそもリーダーシップに欠ける“鍔鳴”が先頭に立ったのは、それが総統“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の意向だったからだ。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”から具体的な指示があったわけではない。しかし彼女は「争奪戦で紅薔薇を勝たせる」という宣言をしている。そして“鍔鳴”達はそれを支持することを決め、支援するために動いているのが現状だ。
 白薔薇を狩ることができれば、目に見える距離を詰めて頂上――女帝に近づける。
 頂点に立つであろう三人の内の一人がいなくなれば、戦場は増えるかもしれないが、目に見えて競争率は下がるのだ。
 だから白薔薇狩りを決行した。ここぞとばかりに。
 ――もう少し時間があれば、それを確実にこなすだけの準備ができたはずだ。兵隊の数を揃えたり、どこぞから助っ人を呼んだり。しかし白薔薇関係の情報が入ったのが今朝で、あまりにも急な出来事すぎて対応しきれず、準備する時間も取れなかった。この準備不足も今朝の失敗の一要因だろう。実は三年生幹部に連絡を取らなかった理由もここにある。とにかく時間がなかったので、“送信蜂(ワーク・ビー)”が集める段で、深くは問わず動いてくれると信じられたのが、ここに集う四人というだけだ。仲も良いし。
 白薔薇を狩ることは失敗した。
 次の動きは、基本に戻るべきだと“鍔鳴”は考える。

「今日が水曜日。木、金、土。今日を入れて4日あるけれど、そろそろ奪いに行ってもいいんじゃない?」
「まだ早いと思う」
「右に同じく」

 即答で反対するのは“鵺子”と“bS”である。
 まだ早い――そう結論を出しているのは彼女らだけではない。勢力外の他の者達もそう考え様子を伺っているのが現状だ。
“契約書”の持ち主を常にマークし、隙あらば、と。
 まだ焦る段階ではない。まだ時間はある。より確実に奪うためにと、多くの子羊が息を潜めて身を伏せているのだ。
 同じく反対する“送信蜂(ワーク・ビー)”は、より具体的に述べる。

「たとえ奪えても、今度は期限までそれを護り通さないといけない。最低でも残り2日まで表立った動きは見せない方がいいんじゃないかしら」

 タイムリミットが近付くにつれ、争奪戦が激化するのは想像に難くない。それまでは力を温存しておくのがいい――彼女が言いたいことは“鍔鳴”もよくわかる。
 だが。

「それは誰が所持するかにも寄るでしょう」

“鍔鳴”は、自分の立場で考えてみた。

「私達が奪って、総統や紅薔薇に渡せばいい。私達では護り切れないかもしれないけれど、あの人達なら護り通す可能性は高い。何より手を出しづらいしね」
「なるほど、一理ある」
「そうか、そうね。私達が持ち続ける必要はないのよね」

“bS”と“鵺子”が意見に興味を示し、“送信蜂(ワーク・ビー)”は渋い顔だ。

「そうするにしても、私はまだ早いと思うけれど。仮に“契約書”を奪えて紅薔薇や総統に渡せたとして、そうしたら二人が集中砲火を受けることになるわ」

 紅薔薇・水野蓉子も“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”も、負けるとは思わない。実力を疑うわけでもない。だがその集中砲火には「他の薔薇」も含まれ、襲ってくる可能性がある。タイムリミットが近付けば近付くほど、絡んでくる確率は高くなる。
 タイミングは大事である。
 いかに三薔薇でも、消耗したり怪我をしている時を狙えば、わずかながらも勝機が見える。そして永遠に闘い続けることなどできない。そんな隙間を縫うことができれば、三薔薇や強い二つ名持ちの強襲を回避できたり、戦闘を避けたりできるかもしれない。
 慎重を期す“送信蜂(ワーク・ビー)”の気持ちも充分わかる。いや、むしろ兵隊を預かる幹部としては、彼女の慎重な意見の方が正しいのかもしれない。判断を誤れば戦力を減らすのだから。一時的に解散された身ではあるが、彼女らの号令があれば従う子羊は圧倒的に多い。
 しかし反対する彼女自身も、“鍔鳴”の意見に賛同する部分はある。
 要するに、どっちでも正解なのだ。ベストではないかもしれないが、どちらも同じくらいベターであり、どちらにも利点がある。
“鍔鳴”は「言いたいことはわかる」と頷き、更に言葉を重ねた。

「どうせ私達は、四人同時に動けない立場にあるわ。だから今後は各々の判断で動けばいい――元はそうしようと決めていたんだから」

 今回は、不意の白薔薇狩りのチャンスが巡ってきたから集まり、手を取り合ったのだ。それがなければ、目的地は同じでも、違う道を行くはずだった。それも解散を宣言した紅薔薇と、それに従う“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の意向だ。できるだけトップの意向に添って動きたい。

「白薔薇勢力解散の話は、それこそ紅薔薇や総統の指示を待ってもいいんじゃない? 二年の私達が関わるには話が大きすぎるわ」

 三大勢力の一つの解散は、多くの三年生も関わっている。二年生だけで対処するのはさすがに厳しいだろう。
 何より、大きな事件に勝手に対応してしまうと、同じ勢力のお姉さま方の顔に泥を塗ることにもなりかねない。優秀なお姉さま方ならチャンスと見たら絶対に動くし、的確な指示も出してくれるだろう。

「そうしましょうか。“鍔鳴”の言う通り、この集まり自体がイレギュラーだものね」

“送信蜂(ワーク・ビー)”が言う。
 異論は上がらなかった。

「――よし。じゃあ解散ね。また何かあったら集まるってことで」

 こうして、四人はその場を後にした。




 時間を空けて最期に部室を出た“鍔鳴”は、「どうしようか」と呟いた。
 ――今現在、“鍔鳴”が知る“契約書”所持者は、紅薔薇の蕾・小笠原祥子と、黄薔薇勢力総統“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”と、“冥界の歌姫”蟹名静だ。
 選択肢は二つだ。同じ勢力にある祥子とは闘うわけにはいかない。

(気持ちとしては、黄薔薇総統と闘いたいわね)

“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”。リリアンで最も好戦的であろう強者だ。
“鍔鳴”も強者である。ゆえに強者と闘いたい。相手が三薔薇勢力総統なら文句なんてあろうはずもない。
 しかし彼女とは勢力間の隔たりのせいでなかなか闘う機会がなかったのだ。幹部同士が揉めれば全面抗争が始まるきっかけには充分だ。末端の揉め事とはわけが違う。
 だが今は、“契約書”というバトルチケットがある。
 あれくらいの相手ならば、負けても紅薔薇勢力幹部としての汚点にはならないし、仮に勝てれば黄薔薇勢力を確実に弱体化させられる。ついでに“契約書”も手に入れられて紅薔薇・水野蓉子に貢献することができる。

(実力的にはまだ負けるかな)

 だがそれでもいい。敗北を経て学ぶことは多い。
 かつて見た“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”の闘いは、“鍔鳴”の目にはっきりと焼きついている。一対九の死闘を名に恥じない勇猛さで打ち破り、その名が伊達じゃないことを広く証明して見せた。
 獰猛にして迷いのない巨大な闘気と、まるで周囲に火薬が舞っているんじゃないかと思えるようなざらつく殺気。そして彼女は闘争心に支配されたかのような大雑把な動きを見せるが、同時に非常に繊細な動きも見せる。その見事なまでのバランスと両立はもはや天性のものだろう。
 ぜひとも手合わせ願いたいと、前々から思っていた。
 ようやく念願が叶いそうだ、と胸を躍らせ校舎へと踏み込む。向かう先は掲示板――“戯言を囁く地図(バベル・クラフト)”である。
 その時だった。

「――“鍔鳴”」

 ものすごく近くの、真後ろからの囁くような声。“鍔鳴”は心臓を鷲掴みにされたかのように足を縫い付けられた。
 だが、振り返らない。
“鍔鳴”の背後を取れるものなど、そう居ない。だからすぐに相手を察することができた。

「“ヨンさま”?」

 ――“bS”である。ちなみに「ヨンさま」は、どう略そうと語呂が悪かったので、ふざけて呼び始めたら定着してしまったという悪ふざけの産物である。三年生でも「ヨンさま」と呼ぶのだから“bS”には非常に居心地の悪くなる呼び方である。
 話したいことがあったから待っていたのだろう。そうじゃないと暗部所属の“bS”は接触なんて絶対しない。
 傍目には他人同士にしか見えない二人は、背を向け合ったままボソボソと言葉を交わす。

「“鼬”と再戦する気?」
「まだその気はないけれど」
「なら結構。彼女はできるだけ相手にしないでほしいのよ」

 その言葉から、“鍔鳴”は“bS”が彼女の何らかの情報を握っていることを悟る。

「理由を聞いても?」
「不確かな情報だけれど――彼女、次期白薔薇勢力総統だったらしいから」
「……」
「夏休み明けくらいに仕入れた情報よ。聞いた時は信じられなかった。でもあなたの話を聞いて信憑性が生まれたわ」
「……いや、案外本当にそうなのかも」

“鼬”の実力は、まだ端っこしか見ていない。
 だが“鍔鳴”の勘が告げている。
 あれは相当強い、と。

「気をつけて。こんなに特殊な状況だから、何があるかわからない。孤立した白薔薇と白薔薇勢力幹部の動きも気になるし、今朝の久保栞のことも気になる」

 久保栞の一件は“鍔鳴”も聞いている。いないはずの久保栞が帰ってきた、と。

「“ヨンさま”は栞さんを追いかけるの?」
「まだ決めかねているわ。個人的な興味もあるけれど、久保栞の件はあの白薔薇の“レイン”が動いているのよ。あの人が動くなら何もないとは思えない」
「何かあったら声を掛けて」
「頼りにしてる」

“bS”は、消していた気配を表に出す――隙だらけで、第一印象では「目覚めていない」という気配を。
 そして、校内にまぎれた。

 暗部――暗殺部隊の存在は、基本的に公表されていない。それはそうだ。顔や情報が売れている暗殺者など、業務に障るだけだ。
 だが存在だけなら有名である。情報屋連中に圧力を掛けているので情報が出回らないだけで、そういう組織が実在することは周知の事実だ。
 所属メンバーはほぼ最優先で秘匿され、幹部くらいしか知らされることはない。“鍔鳴”も“bS”以外の暗部所属者は知らない。“bS”とは、たまたま同時期に紅薔薇勢力に所属し、すぐに部署を割り当てられたその場で「あなた暗部向きね。そっち行ってみる?」と勧められた現場に居合わせて知ったのだ。
 とてもアバウトでいい加減な仕様だった。
 そしてその時は何もわからなかった。
“鍔鳴”も、“bS”も。
 暗部のメンバーとなると、味方にも正体を明かさないことから、勢力内の接触がほとんどなくなる。つまり半ば孤立状態になる。どんな状況になろうと現場では一人で対処しなければならない。繋がりがあることが知られるわけにはいかないので、味方は絶対に助けに来ない。
 過酷にして孤独な仕事が待つ。
 優秀であればあるほど、それはずっと続く。
 だから、卒業してしまった当時参謀役の三年生は、同期として、わざと“鍔鳴”にだけは知られるように“bS”を所属させた。
 この校内にたった一人でも“bS”の存在を知り、“bS”が本当に困った時に頼れる戦友として。
 色々あって……というか“鍔鳴”が紹介する、という絶対にやってはいけない違反で“bS”を知る者は増えてしまったが。
 だが、今現在でも、“bS”の心の支えになっていた。きっと参謀のお姉さまの思惑通りに。
 ――尚、暗部メンバーは全員が幹部級の権限を持ち、必要に応じて上役を通して色々と要請することができる。共闘したり繋がりを知られるのはタブーだが、暗殺実行に際してのシチュエーション作りは勢力が手伝うこともある。

“bS”が一般生徒に溶け込み、“鍔鳴”も歩き出す。
 ひとまず、

(忠告に従って“鼬”さんは無視かな)

 それは決めた。
 負けたのは悔しいし、復讐したい気持ちもあるが、今優先するべきは争奪戦だ。思わぬ強敵出現に闘志がたぎるのは止められない。が、それに力を注ぐことは自重せねば。
 全力を尽くしても“契約書”に届かないこともあるだろう。だが全力を尽くすためにも、今は争奪戦のみを見るべきだろう。
 ――そんな“鍔鳴”の決意に味方するかのように、運命の出会いはやってきた。

「……悪運、かな」

 考えていた相手と、出会ってしまった。
 目の前の窓から行儀悪く廊下に駆け込んできた女生徒は、探そうとしていた黄薔薇勢力総統“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”だった。

「あ、“鍔鳴”だ」

 向こうもすぐに“鍔鳴”の存在に気付いた。

「止まらないでください。早く行って。グズ」
「あ? 口の聞き方に気をつけなさいよ“バカ狐”。ハジくわよ」
「いいから早く。ほらほら」
「あ、こら、押すな」

 窓際ギリギリに立っていたあの“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”を、怖いもの知らずにも力ずくで無理やり押して、同じく窓から入ってきたのは“複製する狐(コピーフォックス)”である。

「あ、“鍔鳴”さんだ」
「ごきげんよう」

 ちなみに“複製する狐(コピーフォックス)”と“鍔鳴”は同じクラスである。一年生の頃は接触はなかったが、進級して同じクラスになってからは割とよく話すようになった。
“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”と“複製する狐(コピーフォックス)”。この二人の不仲説は有名なので、セットで動いている状況を見て何事かと内心驚いている“鍔鳴”に、“複製する狐(コピーフォックス)”は胡散臭い笑みを向けてくる。

「興味あるなら一緒にどう?」
「…? 何かあるの?」
「“玩具使い(トイ・メーカー)”と“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の一戦が始まりそうなのよ。私達はその観戦の場所取りに行くところ」
「へえ。うちの総統と」

 それは興味深いチケットだ。
“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃の実力からすれば勝負は見えているけれど、端々からうかがい知れる由乃の熟練の動きは、“鍔鳴”としては無視できない。きっと“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”も同じで、だから直接まともに相手をしようとまで考えたのだろう。
 お互い本気でやり合うのであれば、きっと良い勝負になる。
 勝ち負けではない、勝敗以上の価値を見出せるはずだ。闘う両者も、見ている方も。

「おい“狐”急げ」
「先行っていいですよ。ていうか別に一緒に見る気ないし」
「いいから早く来いよ!」
「何これ。仲良しじゃあるまいしぃ――――」

“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”は“複製する狐(コピーフォックス)”の手を引っ張って階段を登っていった。ドップラー効果を残して。

「……まあ、いいか」

“鍔鳴”は、とりあえず観戦してから“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”に勝負を挑むことにした。




 時は少し遡り、薔薇の館会議室。
 遅れていた島津由乃もテーブルに着き、客が来ていた佐藤聖も戻り。
 これで山百合会メンバーが全員揃った。

「無理に口を割らせようとは思わない。話せる範囲で話して」

 水野蓉子に促され、立ったままの客――“瑠璃蝶草”に視線が寄せられた。
 ある者は待ちわび、ある者は好奇心をたぎらせ、久保栞の情報を心待ちにしていた。どこまで詳細を聞けるかはわからないが、今出揃っている情報よりは、より深いネタを仕入れられるだろう。

「あまり時間を取らせるのも悪いので、手短に行きます」

 冷徹なものを感じさせる“瑠璃蝶草”の無表情は、いつも通りだ。

「まず、私と同じような能力者がもう一人いる、とお考えください。そして私と同じように『人間に近い思念体を使う異能使い』を生み出した。今朝の久保栞さんは、そういう存在です」

 手短である。きっと今朝から昼休みまでに考えておいた説明文なのだろう。
 だが、とてもじゃないが納得できない。

「しゃべったわ」

 小笠原祥子は、問題の久保栞を思い出しながら紅茶を一口。

「栞さんは言葉を発し、明確に私と会話し、彼女自身の意志も見せた。――それでも思念体だ、と?」

 祥子自身も「あれは思念体のようなものだ」と聖に説明したのだが、誰よりも自分が納得できていなかった。

「私と同じような能力者だから。今までの常識を超える存在だと思って」

 祥子は一瞬険しい顔をしたが、黙って目を伏せた。確かにそれを恥ずかしげもなく口にする“瑠璃蝶草”は、今までの常識を超える存在だ。
 法則を越える“契約書”の力。
 そんな異能使いが、更にもう一人いるという無茶な説明を、信じるしかないのだろう。

「二人か」

 鳥居江利子は笑う。楽しそうに。

「“思念体使い”と、“瑠璃蝶草”さんのようなもう一人の“契約者”と。今問題なのはその二人ね?」
「聞かれる前に答えますが、その二人の正体については黙秘します」
「あら」

 黙秘。つまり問題の二人の正体を知っているが話さない、ということか。それとも片方だけ知っている、ということか。

「なぜ黙秘するの? あなたにとって都合が悪いから?」
「半分はそうです。もう半分は、少なくとも久保栞さんは私に用事があって出てきただけで、皆さんにはまだ迷惑を掛けていない。つまり無関係です。私の個人的なことを話す必要はないと思います」
「ふむ。なるほどね」

 確かにそうだ。久保栞は山百合会にケンカを売ったわけではない。“もう一人の契約者”も、まだ表立っての動きはない。“瑠璃蝶草”が話す義理は今のところない。
 だが、どちらも放置はできないが。
 今の内に、どちらにも目星をつけておくべきだ。二人ともどう考えても今後リリアンに混乱を招くだろう。
 特に、「能力者が増える」のはまだいいが、「増やす者」の存在は看過するべきではない。

「――無理やり口を割らせますか?」

 なかなか強烈な皮肉を放つ“瑠璃蝶草”に、蓉子は苦笑する。

「必要なら私もそうする。でも今は必要ないかしら」
「今は必要じゃない、ですか」
「そもそもあなた、本当はどっちも知らないんでしょう?」
「さすがです」

“瑠璃蝶草”も苦笑する。

「そこらの事情も、恐らくは皆さん想像しているでしょうけれど、私にはそれを口にすることができません。お察しいただけますか?」

 ――察することができない方がおかしいだろう。
 根本の問題だ。

「前後逆ね。“契約者”は本当は一人で、あなたは“もう一人の契約者”の力を借りて、同じく“契約者”となった。――いわゆる“オリジナル”が別にいて、あなたは“コピー”なんでしょう」
「……」
「そして“契約者”となる際に、“オリジナル”の情報を漏らさないことが“契約条項”にあった。だから話せない。……私としては、あなたはその“オリジナル”とも面識はないんじゃないか、というのが読みだけれど」

“瑠璃蝶草”は何の反応も示さないが、蓉子の読みは全て当たっている。

「なぜ“オリジナル”とは面識がないと推測を?」
「私なら会わないから。逆の立場ならあなただって会わないでしょう?」

 理由は単純だ。

「極力情報漏洩の可能性を断ち、長く潜伏し、色々な準備を整える。正体さえバレていなければ何度だってリトライできる。目的を遂げられれば傀儡を立てて自分の分身として動かせばいい。知られない方が利点の多い能力だものね」

 それも当たりである。逆の立場なら、蓉子の意見通り“瑠璃蝶草”もそうしただろう。

「あなたは仲間を増やすために顔を出した。でも“オリジナル”は仲間を欲したのではなく、自分の手足として動く駒を欲した。言い方は悪いけれど、本当なら“コピー”のあなたも駒の一つに過ぎない。
 ただ、あなたは何かをしくじってクビになった。だから久保栞さんが死刑宣告に来た。……私の推測はこんなところかしら」

 答えられない“瑠璃蝶草”の反応はない。
 だが、当たりである。
 聖も江利子も、祥子も令も、由乃だってそこまで考えている。そして蓉子の言う“オリジナル”が、少し前に耳にした“復讐者”である可能性が高いのだろう。

「で、結局どうなると?」

 由乃が結論を急ぎ、令に「シッ」とたしなめられた。今とても重要な話をしているのだ、意見を求められない限りは一・二年が口出しするべきではない。
 だが、口を出したい気持ちはわかる。
 結論としては「これ以上話すことはない」となるのだから、由乃としてはここで拘束されるより動き回りたいのだろう。せっかくの争奪戦中なのだから。
 久保栞のことは確かに気になる。
 ここに来てようやく確信できた“オリジナル”の存在も、気にならないはずがない。
 しかし、ここでできることは、もうないのだ。

「白薔薇、黄薔薇、どう思う?」

 意見を求める蓉子に、聖と江利子は同時に立ち上がることで意思表示した。

「どうもこうもないでしょ」
「これ以上情報が引き出せないのなら、ここにいる意味もないわ」

 そして蓉子も「そうね」と言いながら立ち上がる。

「各々の判断で動けばいいだけよね。今まで通り」

 まだ共通の敵が現れたわけでもなし、そもそも山百合会の敵なのかどうかもわからない。
 ならば今まで通りではないか。
 ここに集まったのは、いつもより毛色の違う事件が起こって、その事件に関する情報が得られそうだったからだ。
 そして情報源は、これ以上話すことはないと言っている。
 もう、ここにいる理由はない。元が仲良く顔を合わせているような関係でもなければ、次の行動を教え合うほど馴れ合ってもいない。

「あの」

 だが、このあっさりぶりに戸惑ったのは“瑠璃蝶草”の方である。問い詰められるだろうことを予想し幾重もの応答を考えていただけに。本当にこれでいいのか、と。

「はいはい、お帰りはこちら。“影”、表に出るから」

 江利子は“瑠璃蝶草”に触れ、彼女ごと消えた。“瞬間移動”で言葉通り薔薇の館から出したのだろう。そして勝手に開く会議室ドア――護衛兼監視の“影”が出て行ったのだろう。

「私達も解散するか。あ、一年生は後片付けお願いね」

 聖の言葉に、祥子と令も立ち上がる――が。

「祥子さま」

 志摩子の声に、祥子の動きが止まる。「何か?」という視線で応える。

「由乃さん、後片付けは私がするから」
「……そう。わかった」

 気を遣ったわけでもないが、由乃は深くは問わず、聖、蓉子、令と共に薔薇の館を出て行った。




 気配が遠ざかり、窓から今出て行った者達の後ろ姿を確認するまで、志摩子は何も言わなかった。
 そしてそんな用心深い志摩子を、祥子は不思議そうに見ていた。

「珍しい行動ね」
「はい?」
「周囲を気にするなんて、あなたには珍しい行動だと思って」
「……ああ、そう、かもしれません」

 言われて気付いた。
 誰かの目や耳を必要以上に気にするなんて、もしかしたら初めてかもしれない。
 何せ、今から話そうとしていることは、自分のことではない。自分だけが迷惑をこうむるならともかく、自分以外が関わるのだから慎重にもなる。
 正直、まだ迷いはある。
 果たして祥子に話すべきか、否か。
 だが、志摩子よりは正しい判断ができる人であることは間違いないと確信している。話すことを迷っているのは、誰の了解も取っていない独断だからだ。

「祥子さまに相談があります」

 ただ、今のままではまずい。
 それだけは間違いないと思ったから、志摩子は祥子を見据え、言葉を発した。
 真剣な瞳の志摩子に、祥子は一瞥をくれて紅茶を啜った。

「相手を間違えているわね。あなたのお姉さまは白薔薇でしょう」
「内容次第で相手も変わります」
「その内容とやらは、あなたが得をするのでしょう? 付き合う理由はないわね」
「いいえ。話の運び方次第では、私は……お姉さまと私は困ったことになると思います」

 祥子はようやく志摩子を見た。

「白薔薇はこのことを?」
「知りません」
「あなたはお姉さまの不利益になることを私に話そうとしている。そう解釈していいの?」
「それを選ぶのは祥子さまです」
「……フッ」

 祥子は鼻で笑った。

「面白いわね。あなたが白薔薇を売る話なら、喜んで聞いてあげる」
「……」

 冗談でもなんでもなく、本当にそうなってしまうかもしれない。
 ――しかし。
 きっと志摩子のお姉さまは、先に話していたとしても、こう言うだろう。

「好きにすればいい」と。

 たとえこの情報が聖の首を絞め、聖が敗北して白薔薇ではなくなったとしても、志摩子は聖の妹であり続ける。山百合会に残ってリリアンを変えるという志摩子の野望より、聖の方が大事だ。それだけは譲る気もない。きっと聖にとっての志摩子もそういう存在だ。
 志摩子と聖はそういう関係だ。
 聖と志摩子にとって、白薔薇の称号なんて、首にあるロザリオほど重いものではない。
 そう信じている。
 だから話せる。

「相談というのは、祐巳さんのことです。実は――」




 興味本位で蓉子が訊いた。

「――なんで泣いてるの?」

 祥子と志摩子を残して外に出た山百合会一同は、先に出ていた江利子と“瑠璃蝶草”とともに、出入り口ドア付近で人を待つ“鼬”に注目した。
 だって泣いているのである。

「私が泣かせた」

 応えたのは、同じく人を待っていた“氷女”である。

「下級生いじめなんて関心しないわね」
「生憎いじめじゃない。教育だから」

 理由が非常に情けないのでいちいち説明なんてしないが、この結果は本当に教育である。

「そもそもそれは嘘泣きだ」
「半分は本気ですー。“氷女”さまのばかー。お尻くらい揉んでもいいだろー」

 ああ、とこの場の全員が納得した。
 そりゃ泣かされるわ、と。
 本当に半泣きの“鼬”は全員から無視されることが決定した。同情する気にもなれない。

「“氷女”」
「わかっている」

 聖に頷いて見せ、“氷女”は“瑠璃蝶草”を視線で促した。

「失礼します」

“瑠璃蝶草”は一礼し、踵を返した。その背中を少しだけ距離を取って“氷女”が追いかける――元白薔薇勢力戦闘部隊隊長は、今“瑠璃蝶草”の護衛である。

「あれー? 志摩子さんはー?」

 殴られたらしき頭を擦りながら首を傾げる“鼬”に、蓉子が「ちょっと祥子と話があるみたい」とだけ応えた。

「ふーん。話をねー」

 なんの話をしているのか気にはなるが、さすがに盗み聞きに潜入するのは難しいだろう。

 ――そんな無茶を考える“鼬”の真横で、驚くようなやり取りが行われていた。

「コレが気になる?」

 胸元で怪しいオーラを放つ“契約書”を見詰める由乃に、からかい口調の聖が言った。

「気になりますね。ちょっと手を伸ばせば届くところにあるんですから」

 しかし物理的には非常に近いが、実際は何千キロも先にあるようなものである。由乃はまだ、聖からこれを奪い取れる場所にはいない。

「あげようか?」
「そういう冗談やめてください」
「いや本気で」
「だからいいって」
「いやいや、だから本気だってば。ほら」

 聖は首から“契約書”を外すと、由乃の前に差し出した。

「……」

 由乃は“契約書”ではなく、ニヤニヤしている聖を睨み付けた。どこまで悪趣味な冗談を続けるんだ、という怒りを込めて。どうせ手を出せば避けられる。今の由乃には決して届くものではない。それがわかっているから、冗談だとしか思えない。
 だが、実際は本当に本気である。

「おっと」

 聖の手が緩み、するりと紐が逃げていく。
 目の前で落ちていくそれに、由乃は反射的に手を伸ばし、

「あ……」

 取れないと思っていた“契約書”を、呆気なく握り締めた。
 取れてしまった。
 予想外に。
 いや、予想外どころか取るつもりもなかったのに。

「白薔薇」

 咎めるような令の視線。その声には少し険を含んでいた。

「私は落としただけ。落としたそれを由乃ちゃんが拾った。不服ならあなたが改めて取り上げなさい」

 ――今朝の一件で体力その他諸々の消耗がひどく、聖はまだ全力で闘えるほど回復していない。こんな状態で“契約書”など持っていても面倒なだけである。だから手放したのだ。
 時間はまだある。
 欲しくなったら奪いに行けばいい。

「由乃――あ、こら待て!」

 こんな形で手に入れていいものではない。そう思った令が“契約書”を取り上げようと一歩近付いた途端――由乃は思いっきり駆け出した。一瞬遅れて令も走り出す。

「いい逃げ足ね」
「うん、今のはよかった」
「あれほど予備動作と気配の動きがない逃げ足なんて、もうリリアンでもトップレベルじゃない」
「あの令が出遅れたものね。大した技術だわ」

 あの水野蓉子と佐藤聖からお褒めの言葉が出たものの、肝心の由乃の背中は、もう遠くである。ついでに令も。

「あの黄薔薇の蕾が追いつけないとはー……由乃さん何気にすごいなー」

 本当にそう思っているのか傍目には疑わしいが、“鼬”も感心していた。
 恐ろしい速さで遠ざかる二人の姿が見えなくなるまでなんとなく見守ると、おもむろに聖が言った。

「紅薔薇、たまにはお昼一緒にどう?」
「はあ? ……あんまり馴れ合いたくないけれど、まあ、たまにはいいでしょう」
「黄薔薇は? あれ? どこ行った?」
「由乃ちゃん達追いかけていったみたい」
「いないならしょうがない。じゃあ行こうか? お腹すいちゃったよ」
「ええ」

 聖は“鼬”に「志摩子のことよろしくね」と言い残し、紅薔薇と肩を並べて歩くというかなり珍しい組み合わせで行ってしまった。
 そんな二人をぼんやり見ている“鼬”は、ポツリと呟いた。

「仲いいなー。敵対してるくせになー」

 その声には若干呆れの音が混じっていた。




 まだそこにいたのは、幸運だった。
 薔薇の館から一直線で中庭の一角に駆け込んだ由乃は、勢いそのまま突っ込んできた由乃を何事かと見る一同――「“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の炎で焼肉組」の一人に、握り締めていた“契約書”を押し付けた。

「これ賭けて勝負だ!」
「は、え? “契約書”?」

 さっき別れたメンツは、由乃は知らないが“九頭竜”が連れて行った“鳴子百合”以外、“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”と“複製する狐(コピーフォックス)”と、ある意味主役の“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の三人が残っていた。のんびり雑談でもしていたのだろう。
 由乃が“契約書”を押し付けたのは、当然、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”である。

「どうしたのこれ? 誰から奪ったの?」
「時間がないんです早く……あれ?」

 ふと気付いて振り返る由乃の後ろには、誰もいなかった。

(令ちゃんどこ行った?)

 ピタッと後ろに張り付いて振り切れないまま走ってきたのに、由乃のお姉さまの姿がなかった。疑問もあるが、それより好都合だと思う気持ちの方が大きかった。

「とにかく勝負だ! この“犬”め!」
「そうだそうだ! “犬”め!」
「尻尾振ってみろよこの“犬”め」
「――外野うるさい!」

 すぐ傍で野次る腹立たしい“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”と“複製する狐(コピーフォックス)”を一喝し、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は持たされた“契約書”を見詰め、

「……まあ、ね」

“契約書”を賭けて、というのであれば、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”にも断る理由はないわけで。
 そして遠慮する理由もないわけで。

「由乃ちゃんには足を撃ち抜かれた借りもあるし、勝負することは構わないけれど」

 そう言って、いったん“契約書”を由乃に返した。




“契約書”を受け取る瞬間、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の瞳に殺意が生まれた。

「でも由乃ちゃん、どうがんばっても勝てないわよ?」

 地獄の番犬の殺意に、由乃も、上り詰めてきた弱者の殺意で応えた。

「前にも言ったでしょう? 私はあなたと闘いたいだけ」

 受け取った“契約書”を、首に下げる。

「要望があるとすれば、あなたに全力を出してほしい。それだけです」

 島津由乃の挑戦が始まる。











(コメント)
海風 >今回ちょっと短めです。 SVさん>すみませんミスです。ご指摘ありがとうございます。(No.20030 2011-05-12 11:09:13)

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