がちゃS・ぷち

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No.2947
作者:杏鴉
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2009-05-13 15:45:06
萌えた:7
笑った:3
感動だ:39

『天然ボケなんだけど深まる絆』

つづいています。
【No:2557】【No:2605】【No:2616】【No:2818】→これ。



まだ眠たげな様子で、しょぼしょぼと目を開けた祐巳が現状を把握するのに、たっぷり30秒はかかった。
なにせ祐巳の腕の中にはホカホカして、やわらかくて、いい匂いのするお姫さまがいたのだから無理もない。寝起きだし。
眠りにおちる前のことを思い出すにつれ、じわじわと顔を赤くする祐巳。
苦しんでいるお姉さまの力になりたくて必死だったとはいえ、私ってば、あんな大胆な事を……。
昨夜の祐巳の言葉や行動に偽りなんてカケラもない。すべて本心からのものだ。
ただ、夜が明けてお互いの姿がバッチリ見えてしまう今のこの状況で昨夜のことを思い返すと、どうしても頬が熱くなるのを止められないらしい。
とはいえ、照れているわりには祥子さまに触れている手をどかそうとしないあたり、祐巳もちゃっかりしている。
それにしても――、と祐巳は思う。

その寝顔は反則ですよ、お姉さま……。

時計を見ていないから正確な時間は分からないけれど、部屋の明るさからして起きるのに早すぎるという時間ではないだろう。
よそ様のお家で寝坊するのもどうかと思うので、そろそろ起きなければいけないのだが、祐巳は未だベッドの中でじぃっとしている。
へたに動けば祐巳にぴったりくっついている祥子さまを起こしてしまうからだ。
いや、べつに祥子さまを起こしちゃいけないわけではないし、むしろ起こした方がいいんじゃないかと祐巳も思っているのだが……、
あどけない顔で眠る祥子さまが可愛すぎて、祐巳は身動きできなくなっていた。

困ったなぁ……。

なんて心の中でつぶやいている祐巳の顔からは、幸せ以外の感情が見当たらない。
ずっと見ていたい、という気持ちにひたすら正直になっている祐巳は、自分が着々とヘンタイさんの仲間入りをしている事に、まだ気付いていなかった。
そんな祐巳を窘めるようなタイミングで、部屋の扉がノックされた。

「祥子さん。祐巳ちゃん。起きている? 一緒に朝ごはんを食べましょう」

清子小母さまだ。
なんだか今にも扉を開けそうな気配に、祐巳は慌てて身を起こそうとした。
寝転がったまま「おはようございまーす」なんてリリアン生として、というよりお呼ばれしている身でありえない。
ノックの音や、清子小母さまの声では祥子さまは起きなかったけれど、さすがにくっついている祐巳が動けば眠ってはいられないだろう。
そう思っていたのだが……、

――ばふっ。

起き上がりかけた祐巳は、しがみつく祥子さまの重みでベッドに再ダイブしてしまった。

「あの、お姉さま……?」
「……すぅ」
「まだ寝てる……」
「あらあら、祥子さんったら」
「お、小母さま!?」

いつの間にか清子小母さまは部屋の中にいた。
祐巳は起き上がろうと必死でもがいたけれど、祥子さまに遠慮しながらなので、いつもは布団で寝ている子供が初めてのベッドではしゃいでいるようにしか見えなかった。
清子小母さまにもそう見えたのだろう。口もとに手をやって、ころころと笑っている。

「ち、違うんです小母さまっ! これには深いわけがっ!」

うろたえる祐巳は、浮気がバレちゃった夫みたいになっている。
祐巳のセリフに小首を傾げながら、清子小母さまはベッドサイドまでやってきた。
未だに眠っている祥子さまの顔をひょいっと覗き込んだ清子小母さまが、さっきまでとは違う種類の笑みを浮かべた。

「こんなに穏やかな顔で眠っているこの子を見るのなんて、本当に久しぶりだわ」

――眠るのが怖い。
昨夜、祥子さまはそう言って泣いた。
身体の異変に気付いてから、祥子さまはずっと不安な夜をすごしていたのだろう。
その祥子さまが、今、祐巳の腕の中で眠っている。本当の子供のような、あどけない顔で。
ほんの少しだけかもしれないけれど、自分が傍にいることで祥子さまの苦しみが軽くなっている。祐巳にとって、それは何よりも嬉しい事だった。
目を細めて二人を眺めている清子小母さまと、幸せ気分の祐巳。耳をすませば祥子さまの静かな寝息が聞こえてくる。
とても穏やかな時間だった。
――が、

「祐巳ちゃんの胸って、よっぽど気持ちいいのねぇ」

感心したような清子小母さまの一言で、穏やかさはどこかへ吹っ飛んでいった。
無邪気に笑う小母さまには悪気なんて一切ないのだろうけれど、祐巳は耳まで真っ赤になってのぼせてしまった。

「祥子さん起きて。祐巳ちゃんが困っているわよ」

祐巳が困っているとすれば、それはむしろ清子小母さまの発言のせいだが、本人にその自覚はないようだ。
清子小母さまが祥子さまの小さな肩を、ぽんぽんと叩いてみたけれど、祥子さまは「んー……」と鼻を鳴らしただけで起きない。それどころか、ますます祐巳にくっついてきた。
どうやら相当起きたくないらしい。
連日寝不足だったからか、さっき清子小母さまが言ったように祐巳の胸が気持ちいいからかは定かでないが。

自分のパジャマをぎゅうっと掴んでくる祥子さまの姿に、祐巳はちょっとクラクラしている。
清子小母さまがいなければ、きっと祐巳は祥子さまを抱きしめていただろう。
祥子さまが目覚めるまで、ずっと。

「あの、小母さま。もう少し寝かせてあげるわけにはいきませんか?」
「そうしてあげたいのはやまやまなんだけれど……、祥子さんはこれから検査を受けに行かないといけないから」

祐巳は控え目にお願いしてみたが、返ってきたのは清子小母さまの申し訳なさそうな顔と、祥子さまの現実だった。
つい表情を曇らせてしまった祐巳に、清子小母さまは祥子さまによく似た微笑を向けた。そして、祐巳の胸で眠る祥子さまをそっと抱き上げる。
離れていく温もりに思わず手を伸ばしかけた祐巳は、祥子さまを引き止める代わりにきつくシーツを握りしめた。

「ほらほら祥子さん。もう、おっきしましょうね」

のろのろと起き上がる祐巳の耳に、楽しそうな清子小母さまの声が聞こえた。
見ると、小母さまは小さい子の機嫌をとるように、抱っこした祥子さまの身体を上下に揺らしている。
普段、重いものなんて持たないであろう清子小母さまの足もとは、お寿司を片手に家路を歩く酔っ払いのオジサンなみにふらついていて、今にも転んでしまいそうだ。
祐巳が慌てて清子小母さまを支えようとするのと同時に、小母さまの声とは正反対の不機嫌そうな声が聞こえた。

「……何をしているのですかお母さま」
「何って、祥子さんがいつまでたっても起きないから、起こしてあげたんじゃない」
「普通に起こしてくださればいいじゃありませんか……っ!」

祥子さまは小母さまの腕の中から逃れようとジタバタしだした。
抱っこされている状態でそんなことをしたら自分が危ないのだが……朝に弱い祥子さまは、どうも寝起きで判断力が低下しているらしい。

「祥子さん、そんなに暴れたら……」
「さ、祥子さま危ないっ!」
「え?……きゃっ!」

ただでさえ危なっかしかった小母さまがそんなことをされて持ちこたえられるわけもなく、祥子さまもろとも倒れてしまった。
――祐巳の上に。

「むきゅうぅ……」
「ゆ、祐巳っ!? 祐巳!? しっかりなさい祐巳!」
「大変。祐巳ちゃん大丈夫?」

祥子さまと清子小母さまに押し潰された祐巳は、二人が呼びかけても目を閉じたままだった。
突然の強い衝撃に、祐巳は返事もできなくなっていたのだ。
といっても、しばらくじっとしていれば平気になる程度だったのだが――、

「祐巳っ! 祐巳ぃいぃぃ!!」
「大変大変。そうだわ。先生をお呼びしないと。誰かー」

じっとしている事を状況が許してくれなかった。
祐巳は気合で起き上がり、いまいち焦点が定まっていない目で精一杯微笑んだ。

「私なら大丈夫ですから、どうかお二人とも落ち着いてください」

逆に心配をかけるんじゃないかと不安になるうつろな笑みだったが、祥子さまと清子小母さまに対しては安心効果があったようで、二人は落ち着きを取り戻してくれた。

「祐巳。本当に大丈夫なの?」
「はい。ちょっとビックリしちゃいましたけど、もう平気です」
「よかった。祐巳ちゃんにもしものことがあったらどうしようかと思ったわ」
「よくありませんわ! お母さまがあんなことをなさるから、祐巳がこんな目にあってしまったではないですか!」
「だって……、祥子さんが暴れるから……」

ただでさえ寝起きで不機嫌な祥子さまのお怒りモードに、清子小母さまは拗ねてしまった。とても高校生の娘がいる人には見えない。
未だまぶたの裏では星が瞬いていたが、それどころではないと必死に二人を宥める祐巳の努力が実ったのは、それから十分後のことだった――。




祐巳が奮闘の結果得た、三人での穏やかな朝食が終わる頃、祥子さまが清子小母さまに尋ねた。

「今日の検査には私とお母さまとで行くのですか?」
「……えぇ。そうなるわね」
「そうですか」

祐巳は首を傾げた。
祥子さまの口調になんだか残念そうな、あきらめたような響きがあったからだ。
いつもはべつの人と行っているのだろうか?
そんな事を考えていた祐巳に、祥子さまが声をかけた。

「ねぇ、祐巳」
「なんですか? お姉さま」
「私が戻るまで、ここで待っていてくれる?」

祐巳を見上げる祥子さまの瞳が不安げに揺れている。
自分が検査に行っている間に帰ってしまうのではないか、祥子さまの瞳がそう祐巳に問いかけていた。
お姉さまが出かけている間に、勝手に帰るわけなんてないのにな。
そうは思いながらも、傍にいてほしいという祥子さまの気持ちが伝わってきて、祐巳は頬を緩ませた。

「お帰りをお待ちしています」

言った後で、まるで奥さんみたいなセリフだと気付いてしまった祐巳は真っ赤になって慌てだした。
「あなたは本当に落ち着きがないわね」と祥子さまに呆れられたけれど、祐巳は落ち込んだりしない。
だって祥子さまの不安な顔を微笑みに変えられたのだから。祐巳は満足だった。

その後、「祐巳ちゃん、私の事は待っててくれないの?」と拗ねだした清子小母さまを祐巳が宥めたりといった出来事をへて、お二人は松井さんの運転する車で検査へと向かった。
祐巳は一人でお留守番だ。
といっても、使用人さんたちがいるから正確には一人ではなかったけれど。それでも祐巳がお正月にお邪魔した時には皆さんお休みされていたから、今回が初対面の人ばかりだ。
一人きりではないけれど、祐巳は一人ぼっちだった。

朝食の時の祥子さまの質問の背景には、こういう心配もあったのかもしれない。
もっとも、祥子お嬢さまの妹に使用人の方々が辛く当たるわけもなく、祐巳はとても丁重な扱いをうけた。
かえってそれが庶民である祐巳を気疲れさせてしまったわけだが……。





二人がお帰りになったと祐巳が知らされたのは、昼食もすんで食後のお茶を飲んでいた時だった。
教えてくれた使用人さんへのお礼もそこそこに、祐巳は主人の帰りを察して玄関へ待機しにいく犬のように、嬉しさを振り撒きながら食堂を出た。

玄関の扉の前で見えない尻尾をふりふりしながら『まだかなぁ?まだかなぁ?』という心の声がだだ漏れ状態の祐巳を、
使用人さんたちは子パンダの群れを見ているかのような目で眺めていた。
当然ながら祐巳はその視線にちっとも気付いていなかったが。

――ガチャ。

「お帰りなさい!」
「「お帰りなさいませ奥さま。お帰りなさいませお嬢さま」」

元気いっぱいの祐巳と、使用人さんたちの恭しい言葉が二人を出迎えた。
清子小母さまが開けた扉から、先に入ってきた祥子さまが祐巳を見て目を丸くする。

「祐巳ったら。部屋で待っていてくれてよかったのよ?」

そう言いながらも嬉しそうな顔を見せる祥子さまに、祐巳は千切れそうな勢いで尻尾を振っている。

「だって、少しでも早くお姉さまに会いたかったから」
「……ばかね」
「えへへ」
「祐巳ちゃん! ありがとう!」
「へっ?」

――ぎゅうぅ。

二人だけの世界を醸し出していた祐巳と祥子さまの間に、行列ができている店にあっさり顔パスで入る有名人のごとく清子小母さまが入り込んできた。
しかもいきなり祐巳に抱きついている。
他の、――例えば、元白薔薇だったあの方あたりがやったら大変な事になりそうだが、清子小母さまなので、まぁ大丈夫「お母さまっ!」――でもなかったか。

祥子さまは清子小母さまに「はしたないですわ」なんてお説教をしているが、見た目が幼子なので、お気に入りのオモチャを取られて不機嫌になっているようにしか見えなかった。
娘にお説教されているというのに、清子小母さまはずっとにこにこしていて怒る気配もないし(怒っている清子小母さまというのも想像しにくいが)祐巳を放そうともしない。

「あ、あの、小母さま……? 私、小母さまにお礼をおっしゃっていただけるような事しましたっけ……?」

おかんむりの祥子さまは可愛くて、清子小母さまはいい匂いで、もうどうしていいか分からなくなった祐巳はとりあえず小母さまにさっきのお礼の意味を聞いてみた。
すると小母さまは嬉しそうに、ますます祐巳を抱きしめる腕に力を込めた。
祥子さまの眉がつり上がるのが見えたが、だからといって小母さまの腕を振りほどくわけにもいかないし、そういう気もない。
祥子さまとは違う好き≠セけれど、祐巳は清子小母さまの事も大好きだから、実はけっこう今の状況を喜んでいたりする。

――ぱたぱたぱた。

尻尾の勢いも好調だ。

「……祐巳。あなたずいぶん嬉しそうね?」

――ぴた。

あ。止まった。

「あの、あの、小母さま……」

祐巳が清子小母さまの腕の中でモゾモゾと身じろぎしだした。
本気でご機嫌ななめになりかけている祥子さまの気配を察したようだ。
清子小母さまは「もう祥子さんったら、いつもいつも祐巳ちゃんを独りじめにして……」とかなんとかぶつぶつ言いながらも、祐巳を解放してくれた。

「あのね。今日、検査してみたらね。祥子さんの若返りが止まってたの!」
「本当ですかっ!?」
「えぇ。本当よ、祐巳。間違いがないか、いつもより念入りに検査したからずいぶん帰りが遅くなってしまったけれどね」

周囲に安堵と喜びのため息が漏れる。
祐巳はへなへなとその場に座り込んで泣きだしてしまった。

「よかったぁ……。よかったですねぇ、お姉さま」
「まだ元の姿に戻れたわけじゃないんだから」

祐巳の頭を愛おしそうに撫でる祥子さまの瞳は、言葉とは違い希望に輝いていた。
祥子さまにやさしく涙を拭ってもらった祐巳は、これじゃあ夢で見たのと逆だなと照れ笑いを浮かべた。
まだ床にぺたりと座り込んだままだが、少し落ち着いてきた祐巳はようやく「あれ?」と首を傾げる。

「えっと……、お姉さまの若返りが止まったのは本当によかったのですけれど……、どうして私がお礼を言っていただけるのでしょう……?」
「だって祐巳ちゃんのおかげだもの」
「へ?」

祐巳が来た日から若返りがストップした = 祐巳のおかげ。
という図式が清子小母さまの中で出来上がってしまっているらしい。
たまたまそういうタイミングに祐巳がやってきただけ、とは考えないようだ。
偶然を自分の手柄にできるほど肝が据わっていない小心者の祐巳が困っていると、祥子さまが微笑みながら言った。

「気にしなくていいのよ。お母さまが喜んでいるのだから、それでいいの」
「でも……」
「それにね、私だってあなたのおかげだと思っているのよ?」
「えっ!?」
「だって、昨夜は本当によく眠れたもの。精神的に穏やかでいられたから、身体の調子もよくなったのではないかしら」

確かに一般的な病気ならばそれで納得できるが、この場合はちょっと違う気が……。
悩む祐巳がふと顔を上げると、その場にいた人全員から感謝のまなざしで見つめられていた。
祐巳は後になって知るが、今この屋敷に残っているのは昔から小笠原家に仕えている信用のおける人たちだけだった。
みんな祥子さまの誕生を喜び、美しく成長する姿を見守ってきた人たちだったのだ。
祥子さまが謎の若返りを始めてからも、祥子さまと小笠原家の人々を支える為に彼らはここに残っていた。
けれど幼年期に入ってからの祥子さまの身長と体重は、それまでとは比べ物にならないスピードで減り続け、
このままではあっという間に赤ん坊の姿になってしまうと、祥子さまだけでなくみんな悲愴感に苛まれていたのだそうだ。

そんな時、祐巳がやってきて祥子さまの若返りが止まった――。
偶然だろうがなんだろうが、どうでもいいのかもしれない。
ただ、希望らしきモノを見つけて、みんなはそれに縋りたかったのだろう。

それから使用人さんたちはそれぞれの持ち場に戻っていったけれど、祐巳はまだ立てずにいた。
祐巳は自分の肩にのしかかってくる、とんでもない重圧を感じて震えていた。
祥子さまの為だ。当然、自分にできる事ならば祐巳は何だってする気でいる。
でも――、
自分ではどうしようもない事だったら、私はどうすればいいの……?
自らの無力さに怯える祐巳の、震える髪に祥子さまがそっと触れた。そして愛らしい小さな手で祐巳のリボンを直してくれる。

「言ったでしょう? 気にしなくていいって」
「でも……でも……」
「――あなたは私に何かをしてもらえると期待したから妹になったの? 傍にいる事にしたの?」
「そんなっ……! 違います! 私はただお姉さまが好きだから、だからお傍にいたかっただけで……!」
「私もそうよ。これまでも、今も、これからもね」

祐巳の震えは治まっていた。
できない事なんか何もない。私はこの人の為なら何だってする。絶対に。
この人を護りたい。すべての災厄から、すべての悲しみから、この人を遠ざけたい。
決意を秘めた祐巳のまなざしが、祥子さまの瞳に吸い込まれていった。





「ねぇ、祐巳ちゃん。お夕飯は何がいいかしら?」

祥子さまと清子小母さまが遅めの昼食をすませ、三人でお茶を飲んでいる時に、清子小母さまが祐巳に聞いてきた。
『え?もう夕飯の話?』と思ったが、時計を見ればもうすぐ4時だ。支度の時間を考えると早すぎる事もない。
祐巳は基本的に好き嫌いがないので、美味しければ何料理でも楽しめる。
だから作り手にとって最も難関であろうお人の意見を聞くことにした。

「お姉さまは何がよろしいですか?」
「さっきお昼をいただいたばかりなのに、お夕飯の事なんて考えられないわ」
「そうですよね……」
「じゃあ、お夕飯は少し遅らせてもらいましょうか」
「私はそれでいいですけれど……、祐巳はあまり遅くなるとダメでしょう?」
「え? 私も大丈夫ですよ? まだお腹いっぱいですし」

用意してくれた料理が美味しくてお昼を食べすぎていた祐巳は首を傾げた。
そんな祐巳に「そうじゃないでしょ」と祥子さまは呆れ顔を返す。

「あなた明日は学校でしょう? あまり帰りが遅くなるとご両親が心配なさるのではなくて?」
「あっ!?」

すっかり忘れていた……。
清子小母さまも『そう言われればそうだった』という顔で固まっている。
そんな二人の様子に、祥子さまはため息をついた。
それは呆れているというより憂鬱な気持ちの表れのようで、祐巳の胸がチクリと痛んだ。

帰りたくない。ずっと傍にいるって約束した。
でも、さすがに両親がそれを許してくれるとは思えなかった。




「小母さま。私をここに置いてくださいませんか」
「……どういう事かしら?」
「祥子さまのお傍にいたいんです」

祥子さまが席を外して清子小母さまと二人きりになった時、祐巳は思い切って小母さまに自分の思いをぶつけた。
傍にいて護りたい。その気持ちは清子小母さまたち身内の方々にだって負けていないと自負している。
けれどそれを実行するには祐巳の決断だけでは足りない。
――祥子さまの為なら何でもする。
祐巳はそう誓った。ならば行動あるのみだ。

「自分勝手なワガママだとは分かっています。ご迷惑なのも分かっています。でも私は祥子さまを傍で支えてさしあげたいんです」
「祐巳ちゃん――」
「両親は私が説得してみせます。お願いですから、私をこの家に居させてください!」

祐巳は自分の足元しか見えないほど頭を下げた。
小母さまの沈黙が耳に痛い。
祐巳はぎゅっと拳を握った。
ふいに温かな手が固く握られた祐巳の拳を包んだ。

「祐巳ちゃん。あなたそんなに祥子さんの事を……」
「……」
「あの子は幸せね。こんなに想ってもらえて」
「小母さま……」
「私も一緒に、ご両親の説得に伺うわ」
「え? じゃあ……!」
「ありがとう祐巳ちゃん。もう。祐巳ちゃんは可愛いし、やさしいし、姉想いだし、うちの子にしちゃいたいくらいよ」

――ぎゅう。

感極まった小母さまが祐巳に抱きついてきた。
滞在許可をもらえてホッとしたのと、小母さまが説得に協力してくれるという心強さに、祐巳は力が抜けてされるがままになっている。
で。まぁ、あれですよ。祥子さまはべつに初めてのおつかいに行っているわけでもなく、ただちょこっと席を外していただけだというのをうっかり忘れていたと。

「――何をしているのかしら?」

ゴゴゴゴゴ。

聞き慣れない擬音を背負って祥子さまが帰ってきた。
位置的に清子小母さまは祥子さまに背を向けているからいいが、祐巳はバッチリ目が合ってしまった。
祐巳と目を合わせたままで、ゆっくりこちらに近づいてくる祥子さまのお姿は幼稚舎の子くらいのはずなのに、ゴゴゴのせいでありえないくらいの威圧感を放っている。
目を逸らすなんて失礼だし、かといって今の祥子さまと見つめ合えるほど祐巳はスチールハートの持ち主ではない。
祐巳はそっと目を閉じた。無抵抗になる事で被害を最小限にしようという考えだ。ぷるぷる震えているが、それは祐巳の意思とは無関係なのでそっとしておいてあげよう。

「さっきの話はまだ祥子さんには内緒にしておきましょう」

耳元で囁く清子小母さまの言葉に、無言でうなずくのが精一杯の祐巳だった。





「ごめんなさいね祐巳ちゃん。祥子さんって怒りんぼだから」
「いえ……」

福沢家へと向かう車内で祐巳は苦笑していた。
確かに祥子さまはちょっと怒りんぼさんなところはあるけれど、今日のは清子小母さまの弾けすぎが原因のような気がしていたからだ。

「あんなに楽しそうな祥子さんを見たのは久しぶりだったから、つい。祐巳ちゃんには迷惑をかけちゃったわね」
「小母さま……」

辛いのは、なにも祥子さま本人だけではない。
すぐ傍で大切な人が苦しんでいるのを見ている事しかできない人たちもまた、辛かったのだ。苦しんでいたのだ。

「祥子さまや清子小母さまとはしゃぐ事ができて楽しかったですよ。祥子さまには、ちょっと叱られてしまいましたけど」
「祐巳ちゃんは本当にいい子ね」

頭をなでなでされて、祐巳はくすぐったそうに笑った。
こんなところを祥子さまに見られたら、また叱られちゃうかな……。
祥子さまの事を考えた祐巳の脳裏に、祥子さまの寂しそうな顔がよぎった。
祐巳が小笠原家を出る時に見た、一番新しい記憶の中の祥子さまだ。
お願いしにいくのなら早い方がいいだろうと、ゴゴゴの後すぐ、祐巳と祐巳を送っていくという名目の清子小母さまは小笠原家を出た。
夕飯までは祐巳と一緒にいられると思っていたのだろう祥子さまのショックを受けた顔が、祐巳のまぶたの裏に焼きついている。
本当の事を言ってしまいたかったが、それはできなかった。

祥子さまは天邪鬼だし、自分が大変な時でも祐巳の心配をしてくれるやさしい人でもある。
祐巳の考えを知れば反対する可能性が高い。それに、万が一祐巳の両親の説得に失敗した場合、ぬか喜びに終わってしまう。
祐巳は前者を、清子小母さまは後者を心配して祥子さまには黙ってきた。
この事を知られたら、自分に黙って勝手なまねを、と祥子さまはたぶんお怒りになるだろう。
それでもいい。あんな寂しそうな祥子さまなんて見たくない。それなら叱られて震え上がる方が祐巳は幸せだった。

「これからは私も、祥子さまと……小母さまたちと一緒に闘います」
「祐巳ちゃん……。頑張って祐巳ちゃんのご両親にお許しをもらいましょうね!」
「はいっ!」





てっきり祐巳一人が帰ってくるものと思っていた両親は、清子小母さまの訪問にとても驚いた。
清子小母さまはリビングに通され、お互い一通りの自己紹介が済んだ後、話し合いが始まった。祐巳と清子小母さま、そして祐巳の両親の4人でだ。
祐麒は当事者ではないけれど、ただ事ではない様子を察してか、隣のキッチンでそっと成り行きを見守っている。

清子小母さまは若返りの事は伏せたうえで祥子さまの現状を説明し、祐巳をしばらく小笠原家で預からせてほしいと願い出た。
それを聞いたお父さんの反応はやっぱり渋いものだった。

「お嬢さんが大変なのは分かりますが……。なぁ、母さん?」
「……」

両親共に反対である事をアピールしようと思ってか、お父さんはお母さんに話を振ったけれど、お母さんはなぜか上の空で、お父さんにはまったく気付いていなかった。
お母さんは、ただぼんやり清子小母さまを見ている。

「いくらなんでもそれは了承しかねます。娘はまだ学生ですし」

お母さんがあてにならないと判断し、お父さんは一人で頑張る事にしたらしい。

「お父さんお願い。私、祥子さまの力になりたいの」
「祐巳ちゃんは黙っていなさい。今お父さんは小笠原さんと話しているんだ」
「……」

お父さんは言うべき事は言った、自分の意見を曲げる気はないと、口を噤んでしまった。
こうなるとお父さんはなかなか折れてくれない。
どうすれば許してもらえるだろう。
祐巳はぐるぐる回る頭の中と同じように視線もさ迷わせた。
だんまりをきめこんでいるお父さんの横で、お母さんは何か問いたげな顔をして清子小母さまを見つめているものの、口を開こうとはしない。
キッチンの祐麒は心配そうな顔で祐巳を見ていた。

そんな嫌な沈黙が続くなか、清子小母さまがすっと立ち上がった。
怒って帰ってしまわれるのではないか。
祐巳は慌てて立ち上がり、清子小母さまを引きとめようとした。けれど小母さまの腕に縋り付こうとした祐巳の手はあっけなく空を切った。

待ってください。今、私が説得しますから。説得してみせますから!

祐巳が叫びだす前に、清子小母さまは立ち止まった。
座っていたソファの横に移動した小母さまは、何のためらいもなくその場に跪いた。
福沢一家が呆然としているなか、小母さまは床に額をつけんばかりに頭を下げた。

「我が子可愛さに、余所さまの大事な娘さんを巻き込もうとする馬鹿な親とお笑いください」
「お、小母さまっ!?」
「祥子には、……いいえ、私たちには祐巳さんが必要なのです。
 あきらめかけたあの子に笑顔を取り戻してくれたのは祐巳さんだけなのです。希望の光を灯してくれたのは祐巳さんだけなのです」
「ちょ、ちょっと小笠原さん! 頭を上げてください!」
「いいえ。お許しをいただけるまで頭を上げるわけにはいきません。お願いです。どうか祐巳さんをあの子の傍に。あの子にとって、祐巳さんだけが心の支えなのです」

祐巳とお父さんがどれだけ止めてくれと頼んでも、清子小母さまは頑として頭を上げない。
祐巳は心底情けなくなった。
両親は自分が説得してみせるなんて大見得を切っておいて、実際は清子小母さまに土下座までさせてしまっている。
情けなくて悔しくて、視界がにじむ。
祥子さまの為に懸命になっている清子小母さまの姿は、祐巳にはとても美しく見えた。
自分もそうありたいと強く思った。

「お願いします! 私を祥子さまの傍に居させてください!」
「祐巳ちゃんまで何してるんだっ!?」

祐巳も清子小母さまの隣で土下座した。
こんな事をするのは生まれて初めてだったけれど、屈辱感はなかった。
祥子さまの為に、自分でもできる事がある。祐巳はむしろ幸せを感じていた。

「お願いします」
「お願いしますっ!」
「……母さんからも何とか言ってやってくれよ」

可愛い我が子と綺麗な女性に揃って土下座されているこの状況で、清子小母さまに「お引き取りください」なんて冷たく言えるような人ではなかったお父さん。
すっかり弱りきってしまい、お母さんに助けを求めた。
これまでずっと黙っていたお母さんが、清子小母さまの目の前にしゃがみ込んだ。そして床にぴたりとつけられた清子小母さまの手に触れる。
それでも清子小母さまは顔を上げようとしない。
ただひたすら祐巳と一緒に「お願いします」とくり返している。

「さー……小笠原さん。娘をよろしくお願いします」
「え? それでは……」
「おい、母さん!?」
「あなた。私からもお願いするわ。祐巳をお姉さまのところへ行かせてあげて」
「何を言ってるんだ母さん……」

清子小母さまの手を取り、顔を上げさせたお母さんは、困惑するお父さんに続けた。

「姉妹ってね、とても特別な存在なの。時には親子より、恋人より、夫婦よりも強い絆で結ばれている。これはリリアンで学んだ人間にしか分からないのかもしれないけれど」

お母さんの視線はお父さんに向けられていたけれど、その目はどこか別のところを見ていた。
遠い日の思い出を見つめているのかもしれない。

「父さん。オレからも頼むよ。祐巳を行かせてあげて」
「な、なんで祐麒までっ!?」
「オレ、祐巳がどれだけ祥子さんのこと大切に想ってるか知ってるからさ」
「それは父さんだって知ってるよ。でもそれとこれとは……」
「……後で文句言われるの嫌だから、言っとくよ。これは息子としての忠告だからね」
「忠告……?」
「もし父さん一人が反対して祐巳を行かせなかったら、これから先たぶん一生、父さん祐巳から恨まれるよ」
「……」

祐巳がそんなに長い間、一人の人間、――それも実の父親に負の感情を抱き続けられるのかというのは疑問だが、間違いなくしこりは後々まで残るだろう。
気付けば反対しているのはお父さんだけになっていた。
自分の家でありながら、今や完全にアウェーとなってしまったお父さん。

「お願いします福沢さん」
「あなた。お願い」
「頼むよ父さん」
「うぅ……」

お願いされているだけなのに、なぜかみんなから責められているように見える。
すでに自白一歩手前のような精神状態のお父さんだったが、祐巳から「お父さん……」と縋るようなつぶやきを聞かされ、それが止めになった。

「あぁ、もう分かった! 分かったよ! 許可すればいいんだろう!」
「ありがとうお父さん!」
「その代わり、学校にはちゃんと行くこと。それと一日一回はうちに連絡すること。この二つが守れない時は、お父さん連れ戻しに行くからな」

お父さんは怖い顔をつくって言ったものの、祐巳に抱きつかれるとすぐにその顔は苦笑へと変わった。
清子小母さまが繋いだままだったお母さんの手に祈りを捧げるように頭を下げた。

「本当にありがとうございます。このご恩はけして忘れません」
「もう頭を上げてください小笠原さん。……ずいぶん強情を張ってしまい、申し訳ありませんでした」
「とんでもありません。大切なお嬢さんの事ですもの、あたりまえですわ」

お父さんにくっついたままだった祐巳を祐麒が引っぺがした。

「おい祐巳。祥子さんが待ってるんだろ? 早く支度しろよ。荷物運ぶの手伝ってやるからさ」
「うん。ありがとう祐麒。さっきも、ありがとうね」
「べつに……。オレはただ祐巳に恨まれる事になったら、父さんが気の毒だなって思っただけだよ」

照れているのか、祐麒はふいっと顔を背けた。
その可愛くないところが可愛い。
祐巳は一瞬だけ祐麒にぎゅーっと抱きついて、文句を言われる前にリビングを飛び出した。
そのまま自分の部屋に猛ダッシュ!――しようと思ったら階段でつまづいた。

「いったぁ――むぐっ……」

感嘆符3個分くらいの叫び声を上げそうになった祐巳は慌てて自分の口を塞いだ。
両親や祐麒はともかく、清子小母さまに聞かれるのはちょっぴり恥ずかしかったのだ。
『聞こえてないよね?聞こえてないよね?』そう心の中でつぶやきながら、祐巳はさっきよりも慎重に階段を上がっていった。

一方リビングでは――、

「……どうも、そそっかしい娘でして」
「はあぁぁ」

お父さんとお母さんは顔を赤らめ、祐麒はため息をついていた。
残念。丸聞こえ。




教科書よし。制服よし。着替えよし。
持っていくべき物が揃っているか祐巳が指さし確認をしていると、ノックの音がしてお母さんが入ってきた。

「何か手伝いましょうか?」
「大丈夫だよ。もう済んだから」

「そう?」と言いながら最終確認に加わるお母さんに、祐巳はさっき言いそびれた感謝の言葉をかけた。

「さっきはありがとう。お母さんがああ言ってくれなかったら、たぶんお父さん許してくれなかったよ」
「いいのよ。それより、しっかりお姉さまを支えてあげるのよ」
「はいっ」
「でも、無理はしちゃダメよ」
「うん。……ありがとう」
「祐巳ー。準備できたか?」

振り向くと、開けっ放しにしていたドアの向こうから、祐麒がひょいっと顔を覗かせていた。
普段なら「ノックもせずに部屋の中見ないでよ」と怒るところだが、今日は特別だ。
自分から荷物持ちを買って出てくれたやさしい弟に、祐巳は笑顔で教科書が詰まった紙袋を指さした。

「これお願い」
「はいよ」

祐麒は一瞬だけ「重っ!?」という顔をしたけれど、結局、祐巳が自分で持っていこうと思っていた着替え入りの旅行鞄も一緒に持っていってくれた。
さすが男の子だなぁ。さて、そろそろいかないと。
制服を入れた袋(シワになるといけないのでこれだけ別にした)を持って祐麒の後を追おうとした祐巳は、ふと気になってお母さんに尋ねた。

「ねぇ、お母さんにもリリアンで大切な人がいたんだね」
「えぇ。いたわ。残念ながら姉妹ではなかったけれど……特別な人だった」

そう言って微笑むお母さんの顔は、普段見せる表情とはまったく違っていて、ひょっとするとお母さんにとって今でもその人は特別≠ネのではないかと祐巳は思った。
いつかその人の事を聞いてみたいと思う反面、たとえ娘でも踏み込んではいけない思い出もあるような気もして、祐巳は黙ってお母さんを見つめた。

「ほらほら祐巳ちゃん。ぼーっとしてないで、急がないと」
「あ。うん……」

お母さんはもういつものお母さんに戻っていたから、祐巳はその事について考えるのを止めておいた。
いつかお母さんが話してくれる気になったら、その時に聞こう。そう思って。

よし。じゃあ、出発だ。いざ、祥子さまのもとへ!
気分を変えて部屋を出ていこうとした祐巳を、お母さんが呼び止めた。
まさかもう話してくれる気に?
というのは祐巳の勘違いで、

「祐巳ちゃん。通学鞄忘れてるわよ」
「あっ!」
「忘れ物に気付いたら電話するのよ。持っていってあげるから」
「はい……。よろしくお願いします……」

お母さんのため息混じりのツッコミが聞けただけだったとさ。






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