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私だけの最終戦争  No.1756  [メール]  [HomePage]
   作者:まつのめ  投稿日:2006-08-06 20:02:31  (萌:1  笑:0  感:37
『桜の季節に揺れて』
 act1〜act2は【No:1746】です。
 act3〜act4は【No:1750】です。




act.5 さよなら人魚(1)


 日曜あけて、次の月曜日。
 登校した私が、銀杏並木の二股の所のマリアさまに向かって手を合わせていると、後ろから誰かがやってくる足音が聞こえてきた。片足を引きずるような独特の足音だったので、私は誰であるか察してぱっと左に避けた。
 ひゅんと風を切る音と共にミネラルウォーターのペットボトルが私の顔をかすめて通り過ぎ、地面に落ちてバウンドした。
 振り向くと、自称“海野もくず”、本名不詳、がまた大げさなスウィングのポーズで、今日はがっかりしたような顔で立っていた。
「ごきげんよう、もくず」
 私がそういうと、もくずは「えへへ」っと破顔した。
「ごきげんよー、乃梨子」
 もくずはそう言いながら足を引きずって私のところまで来た。
 すぐそばに立って、いつまでの私の方をにやにやと見ているので私は言った。
「お祈りしないの?」
 今気づいたのだけど、この子、今まで一度もお祈りしていなかった。
 私自身がお祈りを重要視していないこともあるけど、あまりに個性的な登場をするものだからそこまで気が回らなかったのだ。
「お祈り?」
 首を傾げるもくずに、私は白いマリア像に視線を向けた。
 もくずは一寸、私をマリア像を見比べるようにした後「ああ」と今気がついたみたいな顔をした。
「人魚は神さまが違うから、お祈りなんてしないんだよ」
 そうきたか。
「人魚の神さまはね、一番長生きした人魚がなるんだ。でも長生きだけじゃなくて、卵の世話とか他の人魚のために一生懸命働いた人魚じゃないとなれないの」
 なんか、また延々とおとぎ話を聞かされそうな気配なので私は言った。
「判ったわ。判ったから手を合わせるくらいしなさい。これは挨拶なの。人魚だって陸に上がったら人に挨拶くらいするでしょ?」
 もくずはそれを聞くと不満そうな顔をしたけど、私の横に来てマリア像に手を合わせた。
 もうしたのだけど、私ももくずと並んでもう一回マリア像に向かって合掌した。
 そして、もくずがお祈りを終えるのを待ってから、彼女の歩調に合わせるようにゆっくり校舎に向かって歩き出した。
 もくずは私の右側にいたんだけど、何故かわざわざ私の後ろを回って左側に来た。
 そういえば一緒に歩く時はいつも左側にいたっけ。
「乃梨子はなにをお祈りしたの?」
 もくずがそう聞いてきた。
「今日一日心安らかに過ごせますようにって」
 私は信心深い人間じゃない。でも毎朝そう念じる事で心安らかに過ごそうとどこかで意識する、という心理的効果なら信じられる。私が形だけじゃなくてちゃんとお祈りらしきことをするようになったのはそんな理由からだった。
「ふうん」
「もくずはなにか祈ったの?」
 さっきは時間をかけて結構熱心に祈ってるように見えた。
 もくずは言った。
「愚かな人間がはやく死んじゃいますように」
「……」
 絶句した。
 死んじゃいますようにだなんて、なんて物騒なことを祈るんだ。
 互いに黙ったまま、しばらく銀杏並木を歩いた。
 もくずの足を引きずる音だけがやたらと耳につく。
「あのさ、その足」
 私は何気なくそう口に出していた。
 何かリアクションがあるかと思ったら、何も無かった。
 邪魔になるんじゃないかと思えるくらい伸びた前髪の向うのもくずの目は前を向いたままだった。
 私は続けた。
「それ、怪我で?」
「違うよ、汚染なの」
「汚染?」
「そう。人魚は何百年もずっと海で暮らしているんだ。昔から同じ生活で。だけど、人間は近代化とかいって海を汚すようになったから。工場の排水とか下水とかゴミもいっぱい捨ててる。それからタンカーが沈没して海を真っ黒にしちゃったりとか。だから人魚はみんな皮膚病で困ってるんだ」
「……」
 またかわされた。
「ぼくも生まれた時から汚染された海で育ったから、昔からこうなんだ」
「……魔法使いの呪いじゃなかったの?」
 そのつもりはなかったのに、出た言葉は意地悪な口調だった。
 胸がむかむかした。
「それは鰭を足に変えてもらったときのこと。皮膚病は別なの」
 もくずは私が駅で見た痣のことを言っているようだった。
 いずれにしろ、本当の事を話す気はないのだろう。
(はぁ)
 私は諦めにも似た気持ちでため息をついた。
「あなたさ、友達、居ないでしょ?」
「乃梨子がいるよ」
「そうじゃなくて! 同じクラスに仲の良い子とか居ないの?」
 つい声が大きくなってしまう。
 こちらを向いていたもくずは、私から視線を外し不満そうな顔をした。
「……馬鹿しかいないもん」



 校舎前でもくずと別れ、教室に着いてから授業の準備などをしていると、私に話しかけてくる者がいた。
「あの、乃利子さん?」
「あ、ごきげんよう」
 話しかけてきたのは、二年になってまた同じクラスになった美幸さんだった。
 仲の良かった敦子さんとクラスが違ってしまってクラス発表のとき二人で嘆いていたのが記憶に新しい。
「ごきげんよう。ちょっとお話があるんですけど?」
「なに?」
 美幸さんは入学当初は敦子や瞳子とセットで結構一方的にお世話されたけど、その後はまあ普通のクラスメイトって感じの仲だった。
 その美幸さんが改まって何のお話なのかちょっと想像がつかなかった。
「あの、今朝も愛子(ちかこ)さんと一緒に登校されてましたよね」
「え? 誰と?」
「海老名愛子さん、一年菊組の」
「えびな……ちかこ? 誰?」
 全然知らない名前だったので、思わすそう答えた。
 美幸さんは私の返事に驚いた顔をして言った。
「ご存知無いんですか?」
 一年菊組って言ったよね? それから今朝一緒に、って……まさか?
「あ、いや、あの、足引きずってて、いつもペットボトル持ってる子のこと?」
「ええと、ペットボトルは知りませんけど足が不自由な方で合ってます」
 だとしたらやっぱりもくずのことだ。
 そうか、“えびなちかこ”って言うんだ。初めて知った。
「乃利子さん、愛子さんと親しいんですか?」
「まあ、それなりに」
「良くお話される?」
「うん、おとといは一緒に映画見に行ったけど……」
 美幸さんはそれを聞いて「まあ」と喜んだ顔をした。
 私はどういうことなのか美幸さんに問いただした。
 美幸さんは「実は」と言って経緯を話してくれた。
「……聖書朗読同好会に新しく入った一年生が愛子さんのことを心配してたんです。彼女は足がお悪いでしょう? それで最初、お手伝いをしようと思って声をかけたら辛らつな言葉で罵られてしまったそうで」
 まあ、ここは純粋培養された善意のお嬢様が集う場所だから、体が不自由な子がいればこぞって手伝おうとするだろう。でも、あの子、なんて言ったんだろう?
「今は声をかけても無視されるんだそうです。それで誰も近づこうとしないのでクラスで孤立しているって」
 私は、ちょっと感心した。いや感心するところじゃないんだろうけど。
 この、善良なお節介人間の集合体の学園で、ハンディキャップを持つという目だった存在でありながら、そこまで孤立した状況を作ってしまったことに。
 これは誰にでも出来る事じゃない。
 最初、私はもくずが周りから拒絶されて孤立している状況を思い浮かべたのだけど、実はもくずの方から突っぱねていたのだ。
 お節介を疎ましく思う気持ちは判る。私も外部受験ということでいろいろいらぬお節介を受けた経験があるからだ。まあ、その一人がこの目の前に居る美幸さんなのだけど。
「でも乃梨子さんが親しくされていると聞いて安心しました」
 美幸さんは目を輝かせて私を見つめ、言った。
「愛子さんのことお願いしますね」
「う、うん……」
 たかだか後輩のクラスメイトのことで、こんなに心配して私に『お願い』までしてしまうのは傍目でみたら大きなお世話以外の何者でもないのだけど、それが、美幸さんの美幸さんたるところだろう。
 というか、この学園にはこういう人が結構多いのだ。


 昼休み。
 私はお弁当を持って教室を出た。
 雨が降らない限り、今頃は講堂の裏の桜の木のところで志摩子さんと一緒にお弁当を食べるのに良い季節なのだけど、「新メンバーの親睦の為」との薔薇さま方の意向があって、このところお昼は山百合会の本拠地である薔薇の館に通っていた。
 中庭に出る為、渡り廊下に差し掛かったところで「乃梨子さま」と声をかけられた。
 振り向くとお弁当箱を抱えた有馬菜々ちゃんだった。
「ごきげんよう、菜々ちゃん、これから薔薇の館でしょ?」
「はい。でもその前にちょっとよろしいですか?」
 私と菜々ちゃんはそのまま中庭に出て、薔薇の館には入らずに、建物の脇に寄りかかって話をした。
「えっと、乃梨子さま、最近一年生の方と一緒に登校されてますよね?」
「え、うん」
 そうか、結構見られてるもんね。
 私は白薔薇のつぼみだから、そろそろ噂になりはじめているのかもしれない。
「それで、噂とかもう聞かれてますか?」
「ううん、なあに噂って?」
 わざわざこんな所で話すようなことなのかな?
「ご存知ないんですか? ええと、その乃梨子さんと一緒にいる……」
「愛子ちゃんね?」
 もくずって呼んでるけどこっちじゃ判らないだろうから、今朝聞いた名前を言った。
「あ、はい、その愛子(ちかこ)さんに関してちょっと」
 ここで菜々ちゃんは表情を曇らせて、言いにくそうに口篭もった。
「なんなの?」
「ええと、あまり良い噂ではないので……」
 そして、菜々ちゃんは、彼女の両親は離婚していて、数年前までは父親のところに居たけど一年ちょっと前に母親のところに移ったと言う話をした。
 それはなんとなく本当だと思った。確か、そういうような事をもくずが言ってた気がする。
「それで、その移った理由が、愛子さんが父親を刺したからだって」
「ええ!?」
「噂ですよ、噂。でもちょっと穏やかでない話なので知らないなら伝えておかないとって思って」
「その、刺したってどうして?」
「そこまでは……ただ、」
 そのあと菜々ちゃんが話したことは、まさかこんな話をリリアンで聞くことになるとは、と思うようなショッキングな内容だった。
「彼女の中学で、飼育小屋で飼ってたウサギが惨殺された事件があったそうです」
「え? ウサギ?」
 私は呆然として菜々ちゃんの口から紡ぎだされる言葉を聞いていた。
「そのウサギは全て首が切られていて、ウサギ小屋は血の海だった……」
 その光景が思い浮かんで血の気が引いた。
「強烈な話なので噂する人も相手を選んでいるようです。だからまだあまり広まっていないようなんですけど、その犯人が愛子さんだったって話です」
 多分、ここの生徒の半数はこの話を聞いたら貧血を起こすか失神するだろう。
 相手を選ぶ話なのが幸だったのか? いやこんな噂されるなんて良いことのわけが無い。

「こういうことはあまり言いたくないんですけど」
 そう前置きして菜々ちゃんは言った。
「乃梨子さま、気をつけてくださいね」
 つまり、こう言いたいわけだ。
 『海老名愛子は危ない奴だ』と。
 私はそう思えなかった。
 今の話も、全然別の人の話を聞いている気がしていた。
 これは“海老名愛子”という全然知らない人の話で、私の知っているのは全然力のないおとぎ話をぽこぽこ投げてくる“海野もくず”っていう変な子だって。
「なんでよ」
「乃梨子さま?」
「あの子はそんな子じゃない」
 私は憤慨していた。
 あの子は、嘘ばかり言ってなかなか本当のことを話してくれない。
 でも、映画でわんわん泣いちゃうくらい純粋な子なのだ。
「そんな子じゃ、ないわ……」
 私はもくずのことはほとんど知らない。
 噂の話だって今はじめて聞いた。
 そんな私が悔しかった。


 ――そんな子じゃない。

  そう心から断言できない私が悔しかった。






act.6 さよなら人魚(2)


 あの子のショッキングな噂を聞いてから数日。
 噂の話は、もくずの話みたいにどこか現実から離れたおとぎ話のように思えていた。
 あの日は志摩子さんに『元気がないわ』と心配をかけてしまったけれど、もくずは相変わらず朝のお祈り中に背後からペットボトルを投げてきて、私はそこからもくずが更に投げつけてくるおとぎ話を聞きながら校舎に向かう毎日だった。
 私は本名が判った今も彼女を“愛子ちゃん”と呼ぶ気になれず、前と変わらず“もくず”と呼んでいた。


 そんな日が続いたある日の放課後の事。
「乃梨子ちゃんが付き合ってる一年生の話なんだけど」
 薔薇の館で由乃さまが私に言った。
「なんですか?」
「志摩子さんが言わないから代わりに私がいうわ」
「由乃さん」
 祐巳さまが咎めるように由乃さまの名を呼んだ。
 つまり、薔薇さま方の共通認識がある話ってことか。
「祐巳さんは黙ってて。私もう我慢できないわ」
 三年になってから編むのを止めた長い黒髪を揺らして由乃さまは立ち上がった。
「……何の話ですか?」
 私はそう聞いた。
「率直にいうわ。海老名愛子と付き合うのは止めなさい」
 やはり、その話か。
 実はここ数日、薔薇の館の雰囲気がおかしかったのだ。
 三人の薔薇さま方を中心にピリピリとしたオーラを放っていた。
 そしてその対象が私だってことも判っていた。私が遅れて会議室にやってくるとはっきり空気が変わるのが判るのだ。
 私は毅然として言った。
「それを、部外者の由乃さまに言われる筋合いはありません」
「そうね。確かに乃梨子ちゃんが個人的に付き合ってるんだから姉でもない私が口出すのは筋違いだわ。でもね志摩子さんがそれで悩んでたら話は違うわ。私は志摩子さんの親友なのよ。私はあなたの姉の志摩子さんの代弁をしてるのよ!」
「志摩子さんは私に言いたい事があれば直接言います! 余計なお節介しないで下さい」
「お節介じゃないわ!」
「お節介です。本人が言わないでいることを勝手に話すなんて、余計なこと以外の何物でもないじゃないですか! それで志摩子さんの『親友』だなんて、呆れて物も言えません」
「なんですって!」
「由乃さま」
 由乃さまが表情を険しくしてテーブルに手をついたところで菜々ちゃんが声を出した。
 それを聞いて一旦、由乃さまは引いて菜々ちゃんに向かって言った。
「……判ってるわ」
 私は議論なんてしたくない。
 だから言うべき事を言って終わらす事にした。
「皆さんがどんな噂を聞いたか知りません。でも噂で人を推し量って『付き合いをやめろ』とかそんなことを言う人のことなんか聞けません。私はあの子と付き合うのをやめる気はありませんから」
 私は志摩子さんの方に視線を向けた。
 志摩子さんもあの噂は聞いているのだろう。
 もしかしたら裏付けまで取っているのかもしれない。
 でもあの子をそばで見て、話を聞いたのは私だけだ。一緒に映画を見てあの子が泣いているのを見たのは私だけなのだ。
「乃梨子、あのね」
 落ち着いた静かな声で志摩子さんは言った。
「噂の話じゃないのよ」
「志摩子さん? いいの?」
 祐巳さまが驚いたように言った。
「ええ、私に話させて」
「え? なに?」
「昔の事件のことじゃなくて、今のこと」
 落ち着いた声だけど、志摩子さんは俯きぎみにして悲しそうな顔をしていた。
「今って?」
「先日、一年生の学年主任と学園長先生からお話があって」
「学園長?」
 なに? 何の話?
「海老名愛子さんにはとても不幸な経過があったのよ。この学校に入学してからもちょっと上手くやっていけないんじゃないかって先生方が心配なさっていて」
 不幸な経過ってなに?
 私しらないよ?
「他の生徒たちにも悪影響があるかもしれないから、それ相応の施設に入れたほうがいいって」
「な……」
 施設って? 他の生徒に悪影響って?
「でも、親御さんの希望があったから一応入学させて様子を見て、難しそうなら……」
「なんだよそれ!」
 私の大声に志摩子さんはビクッと顔を起こした。
「乃梨子?」
「乃梨子ちゃん!」
「もくずが何をしてたっていうんだよ! 上手くやっていけない? 足がちょっと不自由なだけじゃない! 施設に入れるなんておかしいよ!!」
「乃梨子、落ち着いて!」
 志摩子さんがうろたえてる。
「どうしてよ!」
「お願い、聞いて。あの子、中学の時暴力事件を起こしてるの」
「え……」
「クラスメイトを棒で叩いたって。母親が事件にならないようにもみ消したのだけど、それで中学を何回か転校しているのよ……」
 わかんないよ。
 もくずがそんなことする子だなんて信じられない。
 彼女の投げつける物は甘い甘い、砂糖菓子のようなおとぎ話だった。
「現にいま彼女はクラスから孤立してるって聞いたわ。コミュニケーションを拒否してるって」
「だからなに!」
「乃梨子?」
「だからもくずを追い出すっていうの! 過去なんて関係ない! どうしてもっとちゃんと今のもくずを見ないのよ!」
「の、乃梨子ちゃん、落ち着いた方がいいよ。いまお茶いれるからさ」
 判っている。心のどこかで冷静になれと言う声が聞こえていた。
 でも祐巳さまの愛想笑いでさえ私には憎らしく映ってしまっていた。
「乃梨子! 何処行くの!?」
 私は会議室を飛び出した。
 もくずを『悪い子』にしようとする皆ともう一秒たりとも一緒に居たくなかった。
(もくずに会いたい)
 そう。会って話を聞きたかった。
 私を苛立たせた甘ったるい砂糖菓子のような話を今は聞きたくてたまらなかった。
 もくずは誰かを棒で叩いたりしない。人を傷つける実弾なんて撃たないってことを私に証明して欲しかった。



 下校時間も大分過ぎマリアさまの像の前は閑散としていた。
 会議室を飛び出した時は気付かなかったけど、いつのまにか頬が涙で濡れていた。
 私は制服の袖で涙を拭いながら辺りを見回した。
 もくずはいない。
 朝はいつもここで会っていたけど、そういえば放課後会ったのは最初にあの桜の下で一回だけだったことを思いだした。
 私はそのまま講堂の方へ向かった。
 この時間で帰ってしまったかもしれないけど、いなければ電話をしても良い。

 ――もくずの声が聞きたかった。

 桜の木はもうすっかり葉だけになっていて、風に枝が寂しく揺れているだけだった。
 ここにも、もくずはいなかった。
(帰っちゃったか)
 私は講堂の階段に腰掛けた。
(電話、出来ないな)
 携帯電話は電源を切って鞄の中。鞄は薔薇の館だ。
 私は身を縮ませるように膝を抱え込んだ

 『どうしてもっとちゃんと今のもくずを見ないのよ!』

 思わず叫んでしまったけど、私だってもくずのことが判ってるわけじゃないんだ。
(私、もくずに振り回されてる?)
 でもあんな。
 もくずが暴力事件……ここで上手くやっていけなければ施設行きだなんて。
 ペットボトルを投げた姿勢でにやにや笑っているもくずの姿が浮かぶ。
(そんなの嘘だよ)
 もくずの青白い顔を、その表情を思い出しながら、膝に頭をつけた。
 緩やかな風が桜の葉っぱを揺らして小さな音を立てていく。
 しばらくそうしていると、並木道を歩く小さな靴音が聞こえてきた。
(もくず?)
 慌てて顔をあげたが、それは違う事が判っていた。
 靴音は片足を引きずるような独特の音ではなかったから。
 それでも期待してしまったのは、私がそれほどもくずに会いたかったからであろう。
「……乃梨子」
「志摩子さん」
 そこに立っていたのは心配の色を顔に浮べた志摩子さんだった。
「これ」
 志摩子さんは私の鞄を差し出した。
 持ってきてくれたんだ。
 鞄を差し出したままの姿勢の志摩子さん。
「もう、終わったの?」
「ええ、このまま帰れるわ」
 志摩子さんは鞄を私の足下に置いて隣に腰を下ろした。
 話の続きをしに来たのだろうか?
 でも志摩子さんはしばらく、もう花がすっかり散って青葉の茂り始めている桜の木を見上げていた。
 私は訊いた。
「志摩子さんは……」
 志摩子さんは表情を変えず、桜の枝を眺めたままだった。
「……もくずと付き合うのは反対なの?」
「ええ」
 そう答えて少しだけ考えるように間をあけて続けた。
「どちらかと聞かれたらそう答えるわ」
「そう……」
 私は志摩子さんが足下に置いた私の鞄を持って立ち上がった。
 志摩子さんが動く気配は無かった。
 私は、そのまま振り返らずにその場を立ち去った。


 志摩子さんは追ってこなかった。




(続)

 > う〜乃梨子が切ない・・・。 (No.12168 2006-08-06 21:08:06)
ROM人 > ……助けてください佐藤さん。 子猫ちゃんのピンチにはどんなことをしてでも駆けつける。 卒業後の原作登場率ナンバーワンのOBの名にかけて!  うう、乃梨子ともくずには幸せになって欲しい……。 (No.12195 2006-08-06 23:50:12)
砂森 月 > うわぁ。。これは。。動けるのは祐巳と聖さまくらいかなぁ? もくずの事情が凄く気になりますよぅ (No.12207 2006-08-07 01:44:02)
くま一号 > なんか、痛い話に、なりそう? (No.12215 2006-08-07 07:28:15)
まつのめ > おっと、失礼。指摘感謝。 (No.12230 2006-08-08 19:54:37)

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