【100】 可南子、覚醒  (ますだのぶあつ 2005-06-25 12:24:36)


 そろそろ部活に行こうと、ことさらゆっくりと鞄を閉じた。掃除日誌を出すにはちょっと遅くなってしまった。
 茶話会の記事がリリアン瓦版に掲載されて以来、瞳子が廊下を歩くとあっちでこそこそこっちでこそこそ囁く人が多くなった。今更、気にはしないが、人の多いときにうろうろして、わざわざ後ろ指さされてあげる必要もないだろう。
 そのため、授業が終わるとすぐ飛び出て、演劇部の部室に行くか、人波が一段落してから出ることにしている。今日は掃除に手間取ってしまい、結局意味もなく時間を潰すことになってしまった。
「まったくいらいらする。これというのも……」
 そこで言葉を切る。いちいち風評を気にするつもりはないが、場所柄はわきまえるべきだ。学びの庭である教室で、先輩を非難する言葉を言うものではないだろう。
 と、誰もいないはずの目の前の視界を遮るものがあった。
 こんなにうすらでかい人物など見なくても判る。いるだけで不愉快な天敵、細川可南子だ。
 しかし彼女は最近、心を開き徐々に変わりつつあった。クラスでも以前のようなとげとげしさは感じさせず、口数は少ないのは相変わらずだし特に親しい友人がいる様子もないが、普通にクラスメートと談笑しているのも珍しくない。
 認めたくないが、文化祭以来、彼女は成長したのだ。その陰に祐巳さまや祥子さま、蓉子さまや聖さまがいたことも乃梨子さんが教えてくれた。劣等感と悔しさを感じて、心に淀みができるのを意識する。
 私は不愉快さを態度にたっぷり混ぜながら、その女を見上げた。ジャージ姿の彼女。確かつい先日バスケ部に入部したのだっけか。
「何かご用?」
 その女、細川可南子は薄く唇に笑みを乗せ、短く言った。
「そうよ。でなきゃ、休憩時間に教室まで来たりしないわ。このところ休憩時間ぐらいしかまとまった時間がないの」
「で?」
 何を言われるのか知らないが、少なくとも愉快な話じゃないだろう。なるべく早く話を終わらせるため、もっとも短い言葉で先を促した。
「後ろの席、座るわ」
「……どうぞ、ご自由に」
 真後ろの席に着く。まさか由乃さまでもあるまいし、背後から攻撃されることは無いだろうが何となく不愉快だ。でも、顔を見ずに話せるのは良いことだと思い直す。
「あなた、私のこと嫌いでしょ」
「もちろんですわ」
「ま、そうよね」
 そこで言葉を切り、一瞬の間。なぜか背後であの女がにやっと笑ったのが判った。そして信じられないような言葉を吐く。
「私は好きだけど」
 がたたっ。
「あなた、人を馬鹿にするのもたいがいにしてくださらない?!」
「あら、決めつけるの? 私は松平瞳子が好き。ホントよ」
「私は、あ、あなたのことなんか嫌いよ!!」
「それでこその松平瞳子ね」
 ふふんと笑う。
 ば、馬鹿にして!
 かっと頭に血が上るが、それこそこの女の思うつぼだろう。鉄の自制心を奮い起こし、気持ちを抑え、椅子に腰を下ろす。
「で? 貴重な休憩時間を使って、そんな戯言を言いに来たの?」
「私は祐巳さまのことが好き。大好き。人として、先輩として。憧れの天使様では無かったけれど、今思えば好きになれて良かったと思う」
 はあ? 何を今更言い出すんだ? それこそ笑える話だ。
「あんなに酷いこと言ったくせに?」
「そうね。酷いよね」
 目に見えて表情が翳った。まるで泣きそうな顔。
 私はその表情に動揺した。細川可南子を傷つけてしまったからではない。だがなぜか自分も痛みを感じていた。
 混乱している頭の中で、さっきの好きだという台詞と、気に障る薄ら笑いとが、交互に現れる。
「あ……」
「許されることだとは思ってないわよ。うん、私は取り返しのつかないことをした」
 それから細川可南子がいかに祐巳さまを誤解し、盲信し、失望し、そして再び好きになったかを語った。そして可南子の口から『好き』という言葉が発せられるたびに、ずくんと鈍い音を立てた。
「ふん、そんなのろけ話どうでもいいことですわ。くだらない」
「そうね。私の話だから、そりゃそうでしょ」
「じゃあ、何なんですの。今までの話は。瞳子のことを好きだと言ってからかってみたり、祐巳さまののろけを聞かせてみたり、まったく意味がわかりませんわ」
「確かに今の話は、私の祐巳さまを好きになったいきさつ。私以外にはくだらない話」
「よく判ってるじゃない。それで?」
「あなたにもあるんでしょ? あなただけの、祐巳さまを好きになったいきさつが」
「……」
「別にいいわよ。答えなくて。あなたのいきさつなんて、くだらない話だわ」
「く、くだらないって……」
 自分と祐巳さまの関係を汚されたような気がして、思わず反駁しようとする。しかし、それはさっき可南子の話を否定した言葉と同じなのだ。くやしさと後悔のためにぎゅっと下唇を噛んだ。
 可南子は気にしてないかのようにぱたぱたと手を振ると、瞳子の瞳を見つめる。
「なんて言うかさ。あの笑顔、卑怯だと思わない?」
 唐突に話を変える。主語は無いが祐巳さまのことを言ってるのは明白だ。
「勝てないって言うか、勝ってるつもりで実は味方にされてしまっているというか。あの人が入った途端ゲームはめちゃくちゃになって勝ちも負けも無くなっちゃうけど、でもなんか頑張れるし暖かいんだよね」
 言い得て妙だ。あまりに的確な評価に思わず苦笑してしまった。
「だから、私は妹になれないって思った。敵味方も無くしてしまう、そんなはっきりしないのは私はお断り。せめて、敵、味方、どちらでもない、の区別ぐらいついてた方が私は楽だわ」
 細川可南子の気持ちも判る。敵も味方も同列というのは、その人を味方と思ってる人にとって、なんて切ないことなんだろう。そんな祐巳さまだからこそ好きになれた。そうでなければ祐巳さまじゃない。それは頭では判っているが、それがとても恨めしい。
「それに私の場合、あの笑顔に甘えると甘えたままになって駄目になってしまう弱い人間だから」
 少し遠い目になる。祐巳さまを通してまた別の誰かを思い浮かべてるのかも知れない。
「祐巳さまのこと今でも好きだけど、憧れてるけど、あんな人になってみたいけど、あの人の妹になるのは我ながらしっくり来ない」
「勝手にすればいいわ。どうせ私には関係ないこと」
 瞳子はぷいっとそっぽを向いた。祐巳さまの名前を出さないという暗黙のルールを破った以上、これ以上、この話につきあう必要は無い。
「そう? 私が祐巳さまに直接『妹にならない』って宣言してきたことも関係ない?」
「え……」
「ということで、あなたと私の祐巳さまを巡るライバル関係はおしまい。ライバル関係を抜きにしたら、結構あなたのこと気に入ってたのよ」
「じょ、冗談でしょ。信じられない」
「そう? でもあなたの良いところ把握してるつもりよ。上辺だけで、いい顔しいで、素直じゃなくて、臆病で、壊れやすそうで、計算高くて、ヒステリック」
 意地の悪い笑顔で並べ上げていく。
「やっぱり馬鹿にしてるじゃない」
「いいえ、だって、そういう子ってなんとなく可愛いじゃない? 手がかかりそうだけど、たぶんあなたが下級生なら妹にしてるわ」
「……ぞっとしないわね」
「そうね。私もそう思う。でもだからこそあなたの、松平瞳子の姉となる人は、祐巳さま以上の人じゃなきゃ不満なの」
 『祐巳さまの妹』ではなく、『瞳子の姉』と言った。これまでこの話題を口にする人は、きまって祐巳さまの妹という言葉から始まった。乃梨子さんでさえ。
 私の存在は、祐巳さまの妹候補。松平瞳子個人の興味ではなく、祐巳さまに近しい人に対する興味だった。松平瞳子はどうでもいいのか? 松平瞳子の価値は祐巳さまの妹候補というだけなのか。
 自分でも気付かなかった、自分自信の存在がだんだんくだらないものになっていく感覚。その感覚に不快感を募らせていたのだ。
 でも、乃梨子さんも祥子お姉様も言葉に出してくれなかった一番大事なことを、細川可南子は言ってくれた。
 ――私が祐巳さまの妹候補なのではない。祐巳さまが私の姉候補なのだ。私の存在を敵であった昔も、そうでなくなった今も認めてくれている。
「言いたいことはそれだけ。さてそろそろ戻るか」
 彼女にすれば、自分の気持ちを整理するため、いまだ敵意を向ける自分に、私は敵ではないとはっきりさせに来ただけなのかもしれない。でもそこには頼るべき言葉と優しい気持ちがあった。
 乃梨子さんの好意も祥子お姉様の好意も自分は拒絶してしまった。それはきっと甘えだったのだ。例え拒絶しても二人は松平瞳子を認めてくれるから。
 でもこの女は認めてくれないだろう。彼女が認めるのは、ちゃんと行動を取れる味方なのだ。由乃さま風に言えば、背中を預けられる友なのだろう。しかも強敵と書いて“とも”と呼ぶ類の。
 細川可南子は立ち上がった。部活の休憩時間がどれだけのものかは知らないが、新入部員に許されるとは思えない時間だ。私の横をすり抜ける瞬間、私は思わずジャージの裾をぎゅっと掴んでしまった。
「ん?」
 言葉も発せず、うつむいたまま、ただ単に引き留めるおかしな自分に、細川可南子は祐巳さまがよくやるちょっと困ったような嬉しいようなそんな笑顔をすると、黙って隣の席に座ってくれた。


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