【1024】 いいかげん慣れてきた空を見上げる  (沙貴 2006-01-10 00:06:49)


 それは聖が随分前に借りていたものの、結局昨夜に読んだ本の一節だ。
 ”いいかげん慣れてきた空を見上げる”。
 それがあったのは大した意味のある連ではなかったし、そもそもその本自体、読み切った後の寂寥感が空しいだけで面白いとは思えなかった。
 消極的に勧めてきたカトーさんの感性が良くわからない。
 そう首を捻る聖とは裏腹に、だけどその一節だけは今でもこうして心に残り、リリアンの学園祭並びに旧友との再会に浮かれる彼女の心を掴んでいる。
 
 SF小説だった。いや、ファンタジー小説だっただろうか。
 沈着冷静、常に冷めた目で世界を流し見ながらも少女趣味を隠し持つ女、加東景を象徴するような本だと言える。
 そう考えればあれは彼女の感性そのものだったのかも知れないが、生憎聖はその両極端とも言える特性のどちらも持ってはいなかった。
 冷めていたのは三年以上も前の話だ。
 少女趣味は人並み。可愛い制服を眺めるのは好きだが、別に執着があるほどでもない。
 だから強迫観念に囚われて空を見上げられない少年の物語などに、聖は感情移入なんてできなかった。
 
 ”いいかげん慣れてきた空を見上げる”。
 エピローグ辺りで、少年の独白に紛れ込んでいたこの一節。同じように聖も空を見上げた。
 生憎聖はその少年のような病的思考は持ち合わせないから、”いいかげん慣れてきた”どころか”とっくに見飽きた”空を見上げる、といったところ。
 今日の空は雲一つなく晴れ渡っていた。
 
 見飽きた空は、綺麗だった。
 それ以上でも以下でもなかった。でも聖は十分満足した。
 
 
 リリアン女学園の校門が見えてくる。
 暇そうに学内に視線を飛ばす旧友、水野蓉子の姿も一緒に。
 聖は知らず緩む頬を押さえられなかった。
 派手を嫌い地味を好む私服の趣味も、流石に半年くらいでは変わらないか。
 しかしリリアンに並んで足を運ぶ為には、学園祭のようなイベントが必要になってしまっているお互い私服の自分達に、時間の流れを感じる。
 胸をちくりと刺したそんな空しさが痛かった。
 
 振り払うように聖は歩を早める。
 時間は経っていくものだ。
 その中で色々失っていくものもあるけれど、もちろん得るものも沢山ある。
 失うものの中にも、それを無くさなければ自分を無くしてしまうようなものだってあっただろう。
 だから時間の流れは忌むべきものじゃないし、変わらないものだってきっとある。そう、例えば――
 
「お待たせ」
 
 久しぶりに見る、蓉子の釣り眉毛みたいにね。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
「ああ、あの電動ドリルか」
 
 この春の、と言うと随分昔の話に思えてしまうけれど、今年度の新入生。
 祥子の遠戚。祐巳ちゃんと親しい下級生。梅雨以来の、知り合い。
 そんなぶつ切りの情報が聖の脳裏を駆け巡った。
「そうか、まだ山百合会に繋がりがあるんだ」
 人の多い廊下を駆けてゆく、祐巳ちゃんの後姿を眺めながら聖が呟く。
「ちょっと、聖」
「あの、聖さま」
「祥子絡み?」
 咎めようとした蓉子と何かを言おうとした祥子を遮って聞いた。
 狙って核心を突いたから流石の祥子も言いよどむ。
 
 自分の言い方に棘があったことに、聖は言い終わってから気がついた。
 聖はドリルの彼女に悪意を持っている訳では決して無い。嫌えるほど触れ合ってもいない子だ。
 でも言葉は悪かった。それは完全に聖の落ち度だ。
 もしかしたら、忙しい合間を縫って祐巳ちゃんを演劇に駆け付けさせる程親しくしている(らしい)あの子に嫉妬したのかも知れない。
 もしかしたら、やっぱり、遠い日の記憶が要らないフィルターをかけているのかも知れない。
 判らない。ただ、悪気は本当になかった。
 でも訂正すると逆に泥沼になりそうだったので止めたのだ。
 
「いいえ」
 祥子はやがてきっぱりと言い切った。
 その潔さ、正しく大輪の紅薔薇。聖は「だろうね」と苦笑する。
「流石に秋にもなって、親戚繋がりだけで薔薇の館に居座るような子を祥子が放っておくとも思えないし」
「全く、何言ってるの」
 蓉子が呆れて息を吐いた。
「一体今、何を見てたのよ。祐巳ちゃん絡みに決まってるじゃない」
 祐巳ちゃん絡み。
 祐巳ちゃんが彼女を館に引き込んだか、祐巳ちゃんに惹かれて館に足を運んでいるか、だ。
 恐らくは前者なんだろう。背後霊ちゃんのこともある、祐巳ちゃんの反応を見るに後者はちょっと考えにくい。
 
「はー、だぁねぇだぁねぇ。私も歳を取る訳だわ」
 (個人的な)マスコットだと思っていた祐巳ちゃんの下に新入生が居て。
 それで館に引き込み、部の発表にも駆け込むような相手を見つけた、と。
 つまりがまぁ、売約札を貼っている相手。妹候補。
 祐巳ちゃんが姉になるのだ。言い方は悪いが、あの、祐巳ちゃんが。
「それはそうよ。けれどその言い方はどうにかならないのかしら、仮にもリリアンのOGでしょ?」
「仮にもは余計だー」
 だーっ、と年甲斐もなく追いかけると蓉子もきゃあきゃあ言って逃げ始めた。
 通り行く人を障害物にした、ほんの数秒だけの追いかけっこ。何だか嬉しくて、高いテンションが心地良かった。
 
 一瞬の隙を突いて聖の背後に回り込んだ蓉子が、その両肩を押さえて不毛なじゃれあいを停止させる。
「良いんじゃあない? 私達が歳を取り。祥子達が歳を取り。祐巳ちゃん達が歳を取る。そんなものでしょ」
 耳元で囁かれたそんな言葉がくすぐったくて、聖は体をぶるっと震わせた。
「切ないねぇ」
「自然の摂理よ」
 蓉子の体を振り払って、再び祥子を交えた三人での円陣を組む。どうでも良いけど、保健室の前と言う人通りの少ない場所以外でやるとこれって凄い邪魔なんだろうなぁ。
 
「でもさ、私はともかく蓉子は歳以外のことも気になるんじゃない。系譜的にもさ」
 もしドリルちゃんが祐巳ちゃんの妹になれば、それは紅薔薇のつぼみの妹と言うことだ。
 それは一年経てば紅薔薇のつぼみと言うことで、更に一年経てば紅薔薇となる。流石に遠い話だけれど、まぁ、それでも殆ど確定的なルートではある。
 祐巳ちゃんの妹の曾お祖母ちゃんに当たる蓉子なら、思うところもあるだろう。
 けれども蓉子は首を横に振った。
「さて、ね。気にならないと言えば嘘になるけれど、それは系譜よりも祐巳ちゃんの個人的な先輩としての方が大きいわ」
「ありゃ意外。気にならない? ロザリオの行方とか」
「新しく買うかも知れないでしょう」
 突っ込んでみてもクールにさらりと流す。
 ふむ、世話焼き蓉子にしては珍しい。
 そりゃあ、縁で言えば随分細いものかも知れないけど。
 
 蓉子は薄く笑って言った。
「例えば私があなたなら、話は別でしょうけど。私は遠い異国の身だもの」
 リリアン女子大に進んだ――ここに残った、聖。
 他所の大学に進んだ――”異国”に旅立った、蓉子。
 確かに、後輩を気にかけるには立場が違いすぎる。
「でも聖、あなたこそよ。祐巳ちゃんは良く可愛がっていたし、彼女も懐いていたじゃない」
 蓉子が言った。
 その気持ちは判らないでもないけれど、でも誤解だ。
「私は祥子じゃないし、祐巳ちゃんは志摩子じゃない。それに私は、もう卒業したのだよん」
「奇遇ね。実は私も卒業しているのよ」
 
 
「あの!」
 と。
 それまで会話に全く参加していなかった祥子が突然挙手をして叫んだ。
「私にはお二人が何の話をしているのか、さっぱり判らないのですけれど……」
 おずおずとそう切り出す祥子に、蓉子と顔を見合わせて。
『ドリルちゃんの話だけど?』
 図らずも声をハモらせて向き直る。
 祥子はそれでもまだ、首を傾げていた。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
『山百合版・とりかえばや物語』は、腹違いの姉弟が容姿・性格的な理由から入れ替わり、時代背景・当事者らの成長から再度元に戻る、と言う物語を、元々本当にそっくりな祐巳ちゃんと祐麒君の姉弟を使って演じるのだが、信頼の置ける情報ソース(令を基点とした江利子情報)によると祥子の機転と言うか思いつきで、更に男女そっくり入れ替えた配役で行われた。
 つまり誰が誰を演じ、役に置ける本当の性別はどちらで、役上でキャラクターが現在演じている性別はどちらなのか。それらが曖昧なのだ。
 話を聞いているだけでもかなり混乱してしまいそうな構成だが、意外にも、実際に目にするとその疑問も混乱も殆ど生まれなかったことに、聖は素直に驚いた。
 ただそれは祥子や令など、劇の主導を担っただろう上層部の手腕が素晴らしかった、と言うことでは残念ながら無い。
 それは。
 
『あっはははははっ!』
 
 混乱する間が殆ど無いほど、舞台は爆笑で埋め尽くされていたからだ。
 
 
 昨年度の山百合会からの出し物は同じく演劇だった、リリアン女学園の名に恥じないその名も高き”シンデレラ”。
 花寺からの助っ人は、いけ好かないがスペックだけは聖の知るあらゆる男性の中で最高値を叩き出した男、柏木優。生まれながらの王子様。
 彼の後を追うことになった今年度の花寺生徒会長はさぞかし肩の荷が重かったことだろう。
 花寺が如何にお坊ちゃま学校とは言え、本物の王子様がごろごろしている訳でもない。
 リリアンにあらゆる意味で祥子レベルの存在は一人しか居ないことと同じだ。
 比較対象が悪過ぎる。
 
 だから実は、今年のリリアン学園祭は別の意味でも期待していた。
 男嫌いの祥子のこと、花寺に援助を頼むことこそ止めはしないだろうがどうせ呼ぶのは生徒会長一人だけになるだろうから、その唯一選ばれた贄がどんな頑張りを見せてくれるのか。
 敵わないと判っておきながらどこまで足掻いてあの気障ったらしい王子様に近付くか、と。
 或いは、彼を上回るような逸材が居ないとも限らない。もちろんその可能性は絶望的に低くとも。
 
 しかしそんな聖の暗い(黒い?)期待と予想を大きく裏切り、今年度の花寺助っ人は随分な大所帯だった。
 それを祥子が容認したというだけでも驚きだが、その面子の濃さを言えばもう尋常ではない。
 ある意味超えた。あの王子様のインパクトを遥かに。
 

 開演のブザーが鳴り。良くも悪くも高校の演劇らしい、場内アナウンスを用いたナレーションが緩々フェードアウトすると同時にするすると緞帳が上がった。
 さぁ劇の始まりだ。どんな舞台から始まるのだろう?
 そんな観衆の期待が一斉に注がれる舞台上で、スポットライトに照らされやがて浮かび上がったシルエットは――
 
 両端で陣取る、恐ろしく体格の良い一対の仏像。阿吽像と言ったか。
 信じられないぐらいに体が大きかった。プロレスラーもかくや、である。
 そんな巨大な物体が、舞台の両脇とは言え一対で存在しているのだからその威圧感たるや並々ならぬものがあった。
 にも拘らず。
 にも拘らず、彼らの顔面はおしろいで真っ白に塗りたくられ、頬と唇だけが真っ赤に浮かび上がっていた。
 彼らが纏うは上等だが女物の着物。
 急造なのか狙ってなのか、女官特有の長髪カツラはサイズが微妙に小さく浮いている。
 
 所謂、出オチだ。
 彼らはそこに存在するだけで、ライトで照らし出されるだけで、場内の気温が三度は上がった。
 その上、劇が始まると野太い声で女言葉を話し始めるのだから堪らない。
 もう大爆笑である。
 台詞が入れば笑いが起きる、のっしのっしと歩くだけでもくすくす笑いが生まれる。と言うか、女官の歩く効果音がのっしのっしの時点で大いに間違えている。
 
 それ以外でも、男性演じる女性キャラクターの半分くらいは出オチに近かった。
 やはり照れが隠せないのか自棄が入っているのか、上擦った声は良く空滑りしたし、濃過ぎる化粧はそれだけでコントの領域だ。
 最近はめっきり数も減ったが、昔は良くあった某有名芸人の時代劇バラエティを髣髴とさせる。
 単純だし露骨だけど、その分老若男女問わずコンスタントに笑いのツボを刺激してくれていた。
 
 
 ハプニングも多かった。
 盛大に由乃ちゃんと祐麒君がすっ転んだり。
 舞台のセットが一部ひっそりと壊れていったり。
 誰かが台詞をすこーんと忘れたんだろう、微妙な沈黙が五秒ほど続いたシーンもあった。
 
 台詞回しもまた面白いのなんの。
 冒頭の『私は何て幸せ者なんだ。二人の妻に、娘と息子が生まれた。愛しい子らは、どちらも妻に似て美しい』なんて台詞はどこから突っ込んで良いのやら困るくらいに突っ込みどころが満載だ。
 かなりの棒読み指数で幸せが伝わってこないし、二人の子ら(祐巳ちゃんら)は妻(阿吽像)にさっぱり似てない。と言うか、二人の妻、どっちも美しくないぞ!
 その台詞を口にした背後霊ちゃんの素なのか演技なのか、投げやりっぷりがまた良い味を出していて最高だった。
 大臣の両親は一人称がおかしくて『ママは良いと思うぞ』『パパも賛成じゃ』なんてことを堂々と言ってのけるし。
 正直、あの脚本を書いた人間は物凄いセンスがあると思う。
 
 
 聖は劇中殆ど馬鹿笑いし続けていたし、蓉子は蓉子で体を折って笑っていた。
 昨年度山百合会の出し物、聖らの演じた”シンデレラ”とは180度方向の違う今年度山百合会の”山百合版・とりかえばや物語”。
 色んな意味で面白かったし、同じ舞台に立てなかったことを聖は純粋に悔しく思った。
 江利子が傍に居たならこの思いに心から同調してくれただろう、そして蓉子に叱られるのだ。
 そんな思い、有り得ない幻想、全部纏めてカーテンコールを受けている当代の薔薇さま達へ拍手で送る。
 
 舞台の上で深々と頭を下げる彼女らは、本当に輝いていた。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
 ”いいかげん慣れてきた空を見上げる”。
 夕暮れの迫るリリアン校門を後にして、のんびりバス停までの道程を蓉子と歩く中で不意にそのフレーズが聖の頭に蘇った。
 無意識に見上げた空は茜色に染まっている。
 風に流れる鰯雲が絶妙なコントラストを高い空に描いていた。
 
「なあに、センチな気分?」
 茶化すように隣の蓉子が言った。
 上向きながら歩いている聖に対する一言目が「危ないから止めなさい」でない辺り、蓉子もセンチな気分なのかそれとも聖に気を使ってくれたのか。
 多分、両方の理由で無粋な忠告を止めてくれた彼女に向き直って聖は頷いた。
「ええ。らしくないけどね」
 今日一日で祐巳ちゃんや志摩子の姿を随分と見た気がする。本当にしっかりしてきていた、聖の知る一年生の彼女らはもう居ない。
 祥子や令も同様だ。心配していたというと嘘になるだろうが、立派に薔薇さまを務めている姿には自然と目が細まった。
 
 楽隠居も終わったOGの聖らには手の届かない場所だ。きっと。彼女らの居る場所は。
 もちろん、聖も蓉子も今の立場を望んで手に入れた。それに関して後悔は無い。
 聖に至っては自分の口で祐巳ちゃんに「頼ってくれるな」と釘まで刺しているのだから。
 でも、そうは言っても。
「らしくない? そんなこと無いわ、あなたらしい。それに江利子くらいじゃないの、こんな時に変わらず居られるのは」
 蓉子はそう言ってくすりと微笑む。
 少しでも気が滅入っている人間にとってそれは無条件で安心させる、麻薬のような微笑だ。
 溺れれば楽になるけど、抜け出せなくなる。聖はもう、それに甘える訳にはいかない。
 聖は一度大きく頷いた。
「あのでこちんは確かに、何があってもセンチなんかにはならないわねぇ。ま、今はアキレス腱がありそうだけど」
「実際の所どうなの? 順調なのかしら」
「私も詳しく知ってるわけじゃないわ……相手が相手だから道程は平坦ではなさそうだけど」

 熊男こと山辺氏はバツイチだ。しかも蓉子は知っているかどうか判らないが、子持ちでもある。
 彼とお付き合いをする、と言うことは恐らく世間一般的な高校生若しくは大学生間の男女間交際とは少し違う。
 彼は大人だ。それは社会人だと言う意味ではなく、家庭を持っている。家庭を持った事のある親だ。結婚と言う単語は常に付き纏ってくる。
 寧ろ江利子は自分からそれを望んでいたが(何しろ生徒指導室でプロポーズだ)、以前会った時の話からしてみるとやはり大いに悩んだらしい。
 人生の一大事。
 悩み、苦しみ、考え、妹に頼り孫に頼り、遂には通り縋った聖にすら愚痴をぶちまけた。
 ”腑抜け江利子”とも少し違うその姿は新鮮だったが、それでも「彼が好きだ」と断言出来たのだから大丈夫だとは思う。
 平坦でないからこそ江利子は俄然張り切るはずだ。
 
「それなら大丈夫ね。一も二もなく順調、なんて言われることの方が余程不安を煽るわ」
 蓉子も考えは同じようで、そう言って人懐っこく笑った。
 今日の蓉子は良く笑う。
 やはり蓉子は蓉子で思うところがあるのだろう。
 問い質そうかとも思ったけれど、何となく想像はつくので止めた。
 何となく想像出来るならそれで良い。そう思う。
 
 
 蓉子を乗せたバスが去っていく。
 ぶろろろ、と前時代的な排気音を響かせて夕暮れの街を往くバス。自分の車があるからそれには乗らない自分を再認識、胸が少し疼く。
 バス停に背を向けて歩き出す。
 そう言えば、今日散々に胸を直撃したこの切なさ。空しさ。初めてじゃなかった。
 半年くらい前、式の前日に何だかせっつかれるようにして思い出の場所を歩き回っていた時の感傷と同じだ。
 聖はもう一度、リリアンを卒業しようとしているのだろうか。
 そんな思い付きが馬鹿らしく、うーん! と腕を伸ばして聖は上を向いた。
 
 鰯雲に写り込んだ鮮やかな朱色が視界一杯を埋め尽くす。
 秋の空だった。女心だ。
 ”いいかげん慣れてきた空を見上げる”。
 思えば、果たして空を見上げ出したのはいつからだろう。
 少なくとも、繋いだ両手だけを見詰めていた頃は上なんて見上げたことはなかった。
 下か、彼女だけを見ていた。
 
 そんな聖も、変化し続ける空を見飽きるくらいには見上げるようになった。
 時間の流れ、自然の摂理、「そんなものでしょ」。
 口元が緩む。
 
 顔の向きを前に戻して、聖は遠い某下宿の方向を眺めた。
 徒歩換算でバス停約二個分。車を置いてある場所からは反対方向だが、構わない。
 借りた本のケチをつけて、コーヒー三杯分くらい居座って、のんびりしよう。
 カトーさんは呆れるだろうけど、やっぱり構わない。
 
 ”いいかげん慣れてきた空を見上げる”。
 だってこんなに綺麗な茜色。
 つまりが秋の空。女心だ。
 気紛れに文句を言われる筋合いもないだろう。
 
 そう思って聖は、にっと笑った。


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