【1030】 パーティは終わった  (林 茉莉 2006-01-12 21:01:22)


 その時、菜々はまるで突然見も知らない異世界に迷い込んでしまったような感覚に陥っていた。

 菜々は今日、客として山百合会のクリスマスパーティに招かれていたのだった。しかし最年少の自分がお客さま然としてもてなしを受けているだけというわけにはいかない。だから宴のはねた後、高等部の先輩方と一緒にみんなでパーティの後片づけをしていたのだ。ついさっき、そう、あの方の泣き声が外から聞こえるまでは。


  ☆ ☆ ☆


「菜々さん、床のお掃除をお願いできるかしら」
「分かりました」
 白薔薇のつぼみ、二条乃梨子さまからほうきを渡された菜々は、おそらくパーティが始まる前に十分掃き清められていたであろう床を、それでももう一度丁寧に隅々まで掃き清め、あるかないかのゴミをちり取りで集めていた。

 それにしても今日は楽しかったなあ。
 正直クラスメイトたちが騒ぐほどには薔薇の館にあまり興味の無い菜々だったが、そこに生息する人々、すなわち山百合会幹部とその妹や関係者はユニークな面々ばかりだった。
 中でも菜々的にユニーク筆頭は黄薔薇さまこと支倉令さま。剣道の交流試合で二年続けて菜々の二人の姉を破ったリリアン女学園の剣豪は、実際に会ってお話をするとボーイッシュな外見とは裏腹に家事万端をそつなくこなす、少女趣味の可憐な(?)お姉さまだった。
 姉さんたちが令さまの正体を知ったらきっと凹むよなあ。詐欺だ!って。
 そんな訳でいつかは姉たちの仇討ちを、なんて内心密かに闘志を燃やしていた菜々もすっかり毒気を抜かれてしまった。
 それにしても令さまと島田さま、もとい島津さまとは中身と入れ物を取り替えっこした方がしっくり来るんじゃないんだろうか。

 そんなことを考えてクスッと忍び笑いをしながら掃除をしていると、窓の外から何やら人の声が聞こえてくるのに気がついた。どうやら泣き声のようだ。
 なんだろう。幼稚舎や初等部の子供たちにしては、もうすっかり日も暮れたこんな時間に不自然だし、第一ここは高等部の敷地なのだから子供たちがいるとは思えない。まさかとは思うけど、高等部の生徒?
(ふっ、あり得ませんわね)
 パーティを途中で退席していった盾ロールの先輩の口調をまねて、心の中で呟いてみる。自分の日常生活ではそれこそあり得ないこの口調を、菜々は何気に気に入っていた。だからその口調と、それを口にする、これまたあり得ないヘアスタイルの先輩を、今日のパーティの収穫物として心のメモ帳に銘記していたのだった。

 そんな思案投げ首の菜々を余所に先輩方は互いに顔を見合わせ、思い当たる節でもあるのだろう、微かな困惑をその表情に浮かべている。
 そこで最初に動いたのは島田、もとい島津由乃さまだった。
 テーブルを拭いていた由乃さまは手に持った布巾を放り出して通称ビスケット扉へ突進し、ノブを回すのももどかし気に出て行こうとしていた。由乃さま、相変わらずですねぇ。
 だがその背中を令さまが呼び止める。
「待ちな、由乃」
「だって祐巳さんが!」
 振り向いた由乃さまの叫び声を聞いて、顔には出さなかったが菜々は内心のけ反っていた。
(何とまあ、高等部も高等部、福沢祐巳さまだったのか)
 紅薔薇のつぼみこと福沢祐巳さま。
 両側で束ねた髪をリボンで結んでニコニコと優しそうな、由乃さまとは随分タイプの違う人で、でも由乃さまからは一番の親友だと聞かされていた。じゃあ白薔薇さまは?とツッコもうと思ったがやめておいた記憶がある。

「そっとしておいてあげな」
「何でよ。きっと瞳子ちゃんと何かあったのよ。だとしたら私の責任だわ」
「いいから」
「でも!」
「祐巳ちゃんには祥子が付いてるから」
「……うん」
 短い押し問答の末、最後に由乃さまは小さくに俯いた。
 どうやら令さまは由乃さまを思い留まらせることに成功したようだ。
 なるほど、姉妹制度というものには、青色LED使用で球切れ知らずのいつもイケイケ青信号・由乃さまをも納得させるほどの威力があるということか。よし覚えた。(だがこれは稀に見る快挙だったことが後に判明する)

「祐巳さんには来年も祥子さまがいるのに、何で令ちゃんは……」
 静かにそう言うと、由乃さまはオデコを令さまの肩にコツンと預けた。
 おぉっと由乃さま、祐巳さまにかこつけてまたその話を蒸し返しますか。
「ごめん」
 菜々の内心ツッコミも知らぬ気に、令さまも右手で小さく肩を震わす由乃さまの髪を優しく撫でる。
 もしもーし、お二人ともー。それさっき一度やりましたよー。
 再び「二人の世界」へ旅立った令さまと由乃さまがこちら側の世界へ戻ってくるのに少しばかり時間が掛かることは、二度目だから分かっていた。だから菜々はやれやれと小さく肩をすくめ、由乃さまの分担だったテーブルふきをしようとテーブルの上に放り出された布巾を取ろうとした。ところがその時テーブルの反対側にいた白薔薇姉妹が、テーブルのこちら側の黄薔薇姉妹よろしく抱き合っているのが目に入った。これにはあまりものに動じない菜々もさすがにひいた。
 どさくさ紛れに何をやっているんだ、この人たちは。

「乃梨子、大丈夫?」
「ごめん、志摩子さん。瞳子のことが気になって」
 見れば二条乃梨子さまが涙とともに由乃さまのように肩を震わせ、それを白薔薇さまが抱き留めている。
「ええ、分かるわ。でもきっと上手くいくわ。だってここはマリア様が見守るお庭ですもの」
「うん、きっとそうだね」
 白薔薇さまは幼子をあやすように乃梨子さまの背中をポンポンッと優しく叩いている。
 いや、その論理で上手く行くんなら、そもそも揉め事自体、起こらないでしょう。菜々は声を大にしてツッコみたかった。

 それにしても、二組の姉妹がまるで日常茶飯のごとく抱き合っているとは。恐るべし、薔薇の館。
 しかし菜々が本当に恐ろしく思ったのはそこではない。それは菜々の他にもう一人居残っていた、パーティの客にして記録カメラマンでもある武嶋蔦子さまだ。
 心なしか桜色に頬を染めた蔦子さまは抱擁する二組の姉妹を、嬉々としてしかし無遠慮にカメラに納めている。何この人。怖(こわ)。
 一方撮られる側も全く意に介していない。っていうか体とは別に意識が二人の世界へ行ったままだ。
 菜々は軽いめまいを覚えた。

 何なのここは一体。私、いつの間にか知らない世界へ迷い込んじゃったの?
 アドベンチャー好きの菜々をも驚愕させるここは、ある意味確かに菜々の知らない世界だった。

 不味い。このまま百合百合しい空気にまみれたこの部屋にいてはとても不味いような気がする。
 菜々の中のどこかがエマージェンシーを告げている。
 でもどうすればいい? この魔窟を出ていこうにも薔薇の館の玄関にはラスボス・紅薔薇姉妹が待ちかまえていることは必定だ。前門の虎、後門の狼ならぬ室内も百合、屋外も百合だ。

 どうする。どうする。
 落ち着け。先ず落ち着くんだ。でも一体どうやって落ち着けというんだ。
 そうだ。私にはあれがあるじゃないか。幼い頃から慣れ親しんだあれが。
 それを思い出した菜々は鞄やコートをまとめて置いてある、部屋の片隅に向かった。


  ☆ ☆ ☆


「……何してるの、あなたたち」
 いつまで待っても現れない勇者に痺れを切らしたのか、あるいはただ単に寒かったのか、ラスボス・紅薔薇姉妹は自ら薔薇の館二階のパーティ会場に赴いた。しかしてそこで見た光景とは。

 抱擁する白と黄の薔薇姉妹。
 その二組をうれしそうに撮影する写真部のエース。
 そして。

 部屋の一角で何かに取り憑かれたかのように一心不乱に竹刀を素振りする、勇者菜々の姿であった。


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