「ごきげんよう。おや、乃梨子さんだけですか?」
土曜日の午後、薔薇の館の二階、通称ビスケット扉を開けて瞳子がやって来た。
「ごきげんよう。お姉さまは環境整備委員会、由乃さまと菜々ちゃんは部活」
先に来て、ひとり書類整理をしていた乃梨子は応える。
「委員会も部活も参加せず、いつ来ても必ずいる薔薇の館の主(ぬし)みたいな方が、今日は珍しくいらっしゃいませんわね」
「あんた自分のお姉さまにそこまで言うか。祐巳さま、今日はちょっと来れないって」
「そうですか。何かご用でもあるんでしょうかね。でもそれなら乃梨子さんではなく、瞳子に一言おっしゃって下さればいいのに」
「それは無理よ。だって事情が事情だもん」
「どういう事ですの?」
真面目な顔をした乃梨子の言葉に、瞳子の表情に一瞬影がさす。祐巳さまのこととなると随分分かり易くなるもんだ。
「瞳子と顔合わせづらいんだって」
「瞳子と?」
「それがね」
乃梨子はさっき祐巳さまから話を聞かされた時の様子を思い浮かべ、微苦笑しながら話し始めた。
☆ ☆ ☆
「乃梨子ちゃーん!」
放課後の掃除を済ませ薔薇の館へ向かって歩いていた乃梨子の背中に、聞き慣れた声が掛けられた。ゆっくり振り返り、乃梨子も応える。
「ごきげんよう、紅薔薇さま」
「ごきげんよう。これから薔薇の館?」
「はい。祐巳さまも?」
「うーん、今日はパスさせてもらうわ。悪いけどみんなにそう言っておいて」
「分かりました。でも瞳子、きっとがっかりしますね。今日は部活が休みだから早く来れるって言ってましたから」
「うぅ、そうなの? でもそれじゃ、なおさら行けないよ」
「また何かやらかしたんですか、瞳子のヤツ」
「ううん、違うの。そうじゃなくて私の方に問題があって」
「……私でよろしければ間を取り持ちますが」
片や鈍感、片や意地っ張りで何かと行き違うことの多いこの姉妹の仲裁をするのは、最近ではすっかり乃梨子の役目になっていた。
「別に瞳子と何かあった訳じゃないの。ただね、昨夜(ゆうべ)変な夢を見ちゃって……」
「夢ですか」
何があったのかと思いきや、夢見が悪くて妹に会いたくないとはねえ。
徹頭徹尾現実主義者の乃梨子には、たかが夢見が悪いくらいで大好きな姉妹に会えないなんて考えられないことで、内心ガクッと脱力した。しかしそんな可愛らしいところもきっと祐巳さまの人気の秘密なのだろうな、とも思う。そこへ祐巳さまはとんでもない告白をし始めた。
「瞳子とね、その、キ、キスする夢見ちゃったの。ね、どう思う?」
「いえ、あの、どう思うと言われても」
訊いてもいないのに恥ずかしい夢の内容を聞かされ、自分の方が恥ずかしくなり思わず赤くなる乃梨子だった。
「それだけじゃないの。もっとスゴイ事もしちゃったの。こんなのってやっぱり変かな?」
(変だよ! 変に決まってるだろ! なんだよスゴイ事って!)
表情を変えずに、しかし心の中では盛大にツッコンだ後、気を取り直して乃梨子は言った。
「もしかするとそれは、祐巳さまの隠された願望かも知れませんね」
「ええっ? やっぱりそうなのかな? どうしよう。こんなこと瞳子に知られたら軽蔑されちゃうよ」
やっぱりって祐巳さま。考えていたんですね、ほんとにそんなこと……。
鎌を掛けたつもりだったのだが、目の前の子ダヌキはまんまと引っ掛かって見るも哀れに狼狽えている。
「ねえ、私どうすればいい? 乃梨子ちゃん」
そんなすがるような目をしないでください。どうすればいいのか訊きたいのはこっちです。
こんなしょーもない厄介事からは早々に手を引きたい乃梨子は自慢の脳細胞をフル回転させて、そして尤もらしく言ってみた。
「祥子さまにご相談されたら如何ですか。祥子さまなら何かいい知恵を授けてくれるかも知れませんよ。それにしばらく会っていらっしゃらないのでしょう? ちょうどいい機会じゃありませんか」
「そうか! そうだよね。お姉さまならきっと邪な欲望も受け止めてくれて、そうすれば瞳子に変な妄想することもなくなるよね。じゃあこれから早速お姉さまのおうちに行ってくる。あっ、その前に一度うちに帰ってお泊まりの用意しなくちゃ。ありがとう、乃梨子ちゃん。ごきげんよう」
「ごきげんよう」
輝く笑顔で去っていく祐巳さまを、乃梨子も笑顔で見送った。
祐巳さま自分で言っちゃったよ、邪って。
それにしても、お泊まりでどうやって邪な欲望を受け止めてもらうつもりなんだろう。そんな疑問がふっと脳裏をよぎったが、上手い具合に厄介払いも出来た事だし、これ以上関わらないと決めた乃梨子は頭を振って邪推を振り払った。
☆ ☆ ☆
「とまあ、そんなわけでね。祐巳さま、あんたとキスしたいんだってさ。うれしい?」
からかうように言った乃梨子だったが、瞳子から返ってきた反応は意外にもツンデレではなく真正の怒りだった。真っ赤になって瞳子はまくしたてる。
「何て事をしてくれたんですか、乃梨子さん! 祥子お姉さまの処へ行かせてしまっては瞳子の努力が水の泡じゃありませんか!」
「えっ? ご、ごめん。って、努力って何のこと?」
余りの剣幕に思わず謝った乃梨子だが、それでも瞳子の不審な言葉を聞き逃すことはなかった。
「仕込みが上手くいったのに仕上げを祥子お姉さまに持っていかれるなんて、トンビに油揚げさらわれるようなものですわ!」
地団駄を踏んで瞳子は悔しがっている。
「あのー、言ってることがよく分からないんだけど。何なの、仕込みって」
「ンもう、乃梨子さんともあろう人が鈍いですわね。だから祐巳さまの夢は自発的に見たものではなく、瞳子が見させたものなのです」
「まだよく分かんないんだけど、要するにキスしたいのは祐巳さまじゃなくて瞳子なの?」
「悪いですか?」
うわ、開き直ってるよ、こいつ。
ツンッとすまして全く悪びれる様子のない瞳子に、乃梨子はあきれて言い返す。
「そんな胸張られてもねぇ。そりゃ確かにリリアンの姉妹制度はちょっと特殊だけど、普通そこまでしないでしょう」
「では訊きますが、乃梨子さんは白薔薇さまとキスしたくないんですか?」
「さすがにそこまではね」
乃梨子は普段のポーカーフェイスで応えるが、人の表情を読むことに長けた瞳子は一瞬の動揺を見逃さず、尚も追求してくる。
「白薔薇さまがしたいとおっしゃっても乃梨子さんはしたくないと言い切れるんですか?」
「いや志摩子さんそんなこと言わないし」
次第にしどろもどろになる乃梨子。
「もし仮に言われたとしたら、本当に拒みきれるんですか?」
「あ、当たり前よ」
「 本 当 に そ う で す か !? 」
「ごめんやっぱり無理かも」
乃梨子、スキよ。乃梨子と一つになりたいの。ね、いいでしょ。
うっかりそんな志摩子さんのビジョンを脳裏に描いてしまった乃梨子は、いともたやすく陥落したのだった。そんな乃梨子に瞳子は自信満々で言い切った。
「そうでしょう。それが正しい姉妹というものです」
「正しいのかよ」
「乃梨子さんのように、姉に対して邪な欲望を抱いているけど切っ掛けが掴めなくて悶々としている、そんな哀れな子羊のために瞳子は一肌脱ぎましたの」
「邪な欲望はあんただろ」
「で、他ならぬ親友の乃梨子さんには瞳子から耳寄りな福音がありますのよ。これから瞳子の家へ参りましょう」
何だよ、耳寄りな福音って。新興宗教がスポンサーの深夜のテレビショッピングかよ。
しかし普段の乃梨子ならこんな事で仕事を放り出すようなことはないのだが、あわよくば志摩子さんとスゴイ事が出来るかも、という欲望に幻惑されて、うっかり瞳子の口車に載せられてしまった。後にして思えばこれが乃梨子の敗因だった。
☆ ☆ ☆
初めて訪れた瞳子の家は、やはりハンパじゃなく大きかった。しかし祐巳さまから祥子さまのお邸の非常識なまでの大きさを聞いていたので、それについては概ね想定の範囲内だったといえる。
それより驚いたのは瞳子の部屋に入り、さらにその奥の扉を開けた時だった。
「何これ。どこの宇宙戦艦?」
教室ほどの広さの暗い部屋は、四方を囲む壁の内の一つに大型のディスプレイがいくつもはめ込まれている。その前には5人分の無人の座席と色々な操作盤があり、さらにその後方にキャプテンシートと、それを三方から取り囲むコンソールが色とりどりに光っている。
「ここがお姉さまに素敵な夢を見て頂くためのオペレーションルームですの」
そう言ってキャプテンシートに収まると、瞳子はコンソールを操作してディスプレイ群を起動させる。
突然のまばゆい光に目が馴染んでくると、ディスプレイにはよく見知った人の寝間着姿が映し出されているのが見えた。
「これは昨夜、お休み前のお姉さまの様子です。可愛らしいパジャマでしょう。瞳子がプレゼントしましたの」
うれしそうに瞳子が指さすディスプレイの中の祐巳さまは、タヌキ柄のパジャマを着ている。
「ああ、お風呂上がりに髪を下ろしたお姉さまもステキ。シャンプーの香りがしてきそうですわ」
「ステキはいいけど、あんたこれ覗きじゃない。犯罪だよ」
「大丈夫ですわ。バレるようなヘマはしませんから」
「問題そこかよ。いくら祐巳さまがスキだっていってもやり過ぎだって」
「ホホホ、そんなこともあろうかと、乃梨子さんのためにも、ほら」
瞳子がコンソールを操作して映像を切り替えると、そこに映し出されたのは乃梨子にとって見間違うはずのない、その人の部屋だった。
「し、志摩子さん! ああ、お風呂上がりの志摩子さんステキ! ってそうじゃねぇ! あんた志摩子さんまで! 許さん、絶対許さーーん!」
瞳子の斜め後ろに立っていた乃梨子は、間髪入れずに裸締めで瞳子の首を極めにかかった。
「く、苦しい。落ち着いて、乃梨子さん!」
「いいから消せ、今すぐ消せ! さもないとお前を消す!」
「落ち着いてください、乃梨子さん! 瞳子は別に白薔薇さまには興味ありませんわ!」
「何だとぉー! 志摩子さんに興味がないとはどういう事だっ!」
「どっちなんですか! いいから落ち着いてください!」
タップする瞳子にお構いなく、乃梨子はすごい力で締め上げる。だが落ちる寸前の瞳子が最後の力を振り絞ってコンソールの『ド』ボタンを押したのが見えた。するとその時。
ゴイ〜ン!
☆ ☆ ☆
「乃梨子さん乃梨子さん、しっかりしてください」
「……あれ、私、どうしたの?」
「いきなり気を失ってびっくりしましたわ」
なんだかズキズキする頭頂部を押さえて、床に倒れていた乃梨子は瞳子に助けられて半身を起こした。その時視界の片隅に、宇宙戦艦の艦橋に似つかわしくないものが転がっているのを認めた。
「何あれ」
「何って見ての通りですわ」
そうだ、思い出した。確か瞳子の首を極めている時にいきなり頭に衝撃を受けて、それで意識を失ったんだ。
「意外に効きますわね、金だらいって」
「他人事みたいに言うなーー!」
再び瞳子に掴みかかろうとした乃梨子だが、ふと天井を見上げると乃梨子のちょうど頭上に一斗缶がスタンバイしていたのでやめておいた。
「白薔薇さまの件ですが、あれは乃梨子さんを親友と思っての事ですのよ。乃梨子さんには特別に、白薔薇さまの映像に限っていつでもご自分のパソコンからアクセスできるように、IDとパスワードを付与しますわ。いつでも見放題ですわよ♪」
「私は覗きなんかしない!」
きっぱりと言い放つ乃梨子に、しかし瞳子は冷静に語りかける。
「分かってませんわね。いいですか、これは覗きではなく視姦、いえ監視ですわ。いついかなる時も大切なお姉さまをお守りするのは、妹としての当然の責務ですのよ。乃梨子さんがお守りしなくて誰が白薔薇さまをお守りするというのですか」
「なるほど。確かにあんたの言う通りだ」
志摩子さんは私が守る! 24時間いかなる時も! お部屋でもお風呂場でも! 着替え中にも入浴中にも!
あっさり前言を撤回して、拳をグッと握り締めて乃梨子は言った。怜悧な乃梨子の頭脳も、志摩子さんのことに関しては都合良くできていることを本人は気づいていなかった。
「さて、ちょっと遠回りしましたがここからが本題ですわ」
改めてキャプテンシートに座り直して瞳子は言う。
「我が松平電機産業(注1)が総力を結集して作り上げたシステムを、今こそ見せて差し上げますわ!」
高らかに宣言した瞳子はシートの足下に置いてあったバッグからサブノートサイズのパソコンを取り出すと、やおら起動させ始めた。
しかしそのままPCが起動するのを待っている瞳子を不審に思った乃梨子は、覗き込んで訊いてみる。
「ちょっと瞳子、何それ?」
「何ってドリソニック(注2)のGet's noteというPCですわ。ご存じありませんか?」
「いやそれは知ってるけど、何で今出すのかってこと」
「だから今アプリを立ち上げてるんじゃないですか。聞いてなかったんですの?」
「は? そのPCで? じゃあこの部屋は一体何よ」
「瞳子は女優ですから何事も形から入りますの」
「うわ、意味ねぇ」
「あ、立ち上がりましたわ。見ててください。先ずここにお姉さまの名前を入力します。ふ、く、さ、゛、わ、ゆ、み、っと」
「一本指打法でしかも平仮名入力かよ」
「そうするとプリセットされたデータがロードされます。あら、お姉さまったらもうすぐ女の子の日なんですわね」
「どんなデータだよ」
「で、次に瞳子の名前を入力して、それからお姉さまに見てもらいたい夢のシチュをチェックボックスメニューから選んで、と。今日は祥子お姉さまのお家にお泊まりに行ってらっしゃるから『冬眠』っと」
「どうぶつ扱いかよ」
「ふう、これで今夜は朝まで前後不覚で眠り続けますわ。あとはタイマーをセットしたら最後に電波発信ボタンをポチッとな、ですわ」
「電波? 可南子さんかよ」
「電波は可南子さんの専売特許ではありません。大出力の電波なら誰でも受信可能なのですわ」
「よくそんなもの電波監理局が認可したな」
「電波監理局? 何ですの、それは。可南子さんですか?」
「可南子さんはもういいっちゅーの。つまり違法電波かよ」
「違法かどうか存じませんが、ご近所からテレビに有料チャンネルのようなスゴイ映像が混信すると苦情とお礼が殺到しましたから」
「おいおいおい!」
「今は静止衛星から超指向性レーザーで祐巳さまにピンポイント送信に切り替えましたわ」
「もう何でも有りだな」
「とまあ、こんな具合に夢を利用して、深層心理からお姉さまを意のままに操るというわけです」
「守るんじゃなかったのかよ」
「乃梨子さんもこれをご自分のPCにインストールして下さい。白薔薇さまと乃梨子さんのデータも入ってますからすぐに使えますわ」
「ありがとう、と言いたいところだけど、志摩子さんに妙な設定送信したらどうなるか分かってるでしょうね」
「もちろんですわ。瞳子はお姉さまを弄る、もとい守るのに忙しくて白薔薇さままで手が回りませんもの」
「じゃあありがたく使わせてもらうわ。お姉さまを守るために!」
「そうですわ。お姉さまを守るために!」
そのシステム、守るためと違うだろ! とツッコむ良識ある第三者は、生憎その場にいなかった。
☆ ☆ ☆
月曜日の朝、あからさまに憔悴した乃梨子は朝拝前に瞳子の教室を訪ねていった。
「……ごきげんよう」
「ごきげんよう、って感じじゃありませんわね。どうかしましたか」
「あのソフトだけどさぁ、なんかバグってない?」
「バグ? そんなはずありませんが」
「志摩子さんに送信する前にちょっと自分で試してみたんだけど、送信したはずの設定とは随分違う夢見ちゃったんだけど」
「え? 自分に送信したんですか」
「不味かった?」
「いえ、別に不味くはないですが」
「何よ、その奥歯に物の挟まったような言い方は。何かあるのね。怒らないから言ってみなさい」
「実はちょっとしたサービスと思いまして、乃梨子さんに向けて送信したんですの、瞳子も」
「……それってもしかして、祐巳さまとあんたの?」
頬を赤く染めて恥じらいながら、瞳子は無言でコックリと頷いた。
「いらん事するなぁっ! おかげで紅白姉妹入り乱れてスゴイ事しちゃったじゃない! 私は志摩子さんと二人っきりがよかったのに!」
涙目でマジギレする乃梨子をしり目に、腕組みした瞳子は神妙な面持ちで言った。
「それにしても自分に送るというのは盲点でしたわね。瞳子も今晩早速やってみます。さすが乃梨子さん、斬新な使い方、グッジョブですわ」
「ほっとけぇーーー!」
☆ ☆ ☆
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