「瞳子ちゃん、私の妹になりなさい」
いつものように優しく、しかしきっぱりと言う祐巳さまの瞳は、これまで見たことも無いような強い光を湛えていた。
2月のとある放課後、瞳子は帰りがけに祐巳さまに捕まり、そのまま古い温室まで手を曳かれてやって来ると、もう何度目かになる姉妹の申し出を受けていた。
「何度言われても瞳子の気持ちは変わりません。失礼します」
そう言ってきびすを返し出口に向かう瞳子の背中を、祐巳さまの声が追う。
「待ちなさい」
いつもと違う、強い意志の感じられる言葉に、背中を向けたまま思わず瞳子は立ち止まった。
「私ね、瞳子ちゃん。クリスマスイブのあの日以来、ずっとあなたのことを考えてきたの。瞳子ちゃんが何を考え、何を思っているのか理解してあげたい。瞳子ちゃんのために何かをしてあげたい。瞳子ちゃんの側にいてあげたい、ってね」
「施しなら結構ですと、あの時も言ったはずです。もう私に構わないでください!」
またこの繰り返しだ。
祐巳さまは誰にでも優しく、そして誰からも愛される。それは祐巳さまが持って生まれた資質と、多分ご家族によって育まれた賜物だろう。
泣いてすがれば祐巳さまはきっと瞳子を案じ、抱きしめ、そして守ってくれる。
でもそうじゃない。瞳子の欲しいものはそれではない。この渇望は、意識して望まなくても周りの人たちから愛されるのが当たり前のようになっている祐巳さまには、おそらく一生分からないだろう。
いつもと違う祐巳さまの様子に何かを期待してしまった自分を嘲笑(わら)い、その反動で瞳子は祐巳さまに背中を向けたまま、きつい言葉を語気強く投げつけてしまった。
だが今日の祐巳さまはやはりいつもと違っていた。
「いいから聞きなさい」
今までなら瞳子の拒絶に易々と引っ込めていた腕を、今日は決してひかない。そんな決意の籠もった声だった。
「瞳子ちゃんに何かしてあげたい、瞳子ちゃんのためなら何だってしてあげられる。ずっとそう思ってその気持ちをぶつけてきたんだけど、でも分かってもらえなかった」
分からないのはお互いさまです。きっと瞳子と祐巳さまはご縁がなかった、そういう星の下にあったということです。
そう言ってもうこれで終わりにしようとした瞳子だったが、瞳子が言うより先に祐巳さまが言葉を繋いだ。
「それでもうだめかも知れない、もう諦めるしか無いのかも知れない。そう思ったの。そうするとどうしようもないほど泣けて来ちゃってね」
その言葉に瞳子は身をこわばらせた。今まで自分で拒否しておきながら、改めて祐巳さまからそれを聞かされるとこんなにも辛いものなのか。でもそれは瞳子自身が決めて、覚悟していたこと。痛みなんかいつかは薄れていく。たとえ消えることがなかったとしても。
ただ、瞳子に関わったことで祐巳さまにまで悲しい思いをさせてしまったこと、それが切なかった。だって瞳子は祐巳さまを……。
「でもね、泣いて泣いて泣き続けてやっと泣きやんだ時、何でこんなに悲しいんだろうって、ふと思ったの」
本当に終わってしまった。祐巳さまと心から笑いあえる日はもう永遠にやって来ない。寂寥に満たされた心で立ちすくむ瞳子の耳を、祐巳さまの言葉がただ通り過ぎて行く。
「瞳子ちゃんのために泣いたの? ううん、違う。悲しいのは私自身。それでやっと気づいたの、瞳子ちゃんを妹にしたい理由(わけ)に。瞳子ちゃんのためじゃなくて、私が瞳子ちゃんでなくちゃだめなの。……あなたが好き。いつも側にいて欲しい。だから私の妹になって下さい」
「祐巳さま」
不意打ちのような言葉に驚いて振り向くと、祐巳さまは首から外したロザリオを胸の前で握り締めていた。
ゆっくりと歩み寄る祐巳さま。
動けない。拒絶の言葉を吐く口も、この場を逃げ出すための足も。いや、もう動く必要なんかなかった。
瞳子を必要とする祐巳さま自身のお気持ち。本当に欲しかったその言葉を聞くことが出来たのだから。
「本当によろしいのですか。こんなに我が儘で、扱いにくい子で」
「言ったでしょ。あなたでなきゃだめなの」
瞳子を見つめる祐巳さまの瞳には、温かい優しさが満ちていた。
もういいんだ、この人の前では素顔を晒しても。この人ならどんな私でもきっと受け止めてくれる。
そう思うと我知らず、瞳子の頬を熱いものが伝っていた。
「お受けします」
頭を少し下げた瞳子に、祐巳さまは両手でロザリオの鎖を輪の形に広げてそっと掛けてくれた。そして盾ロールの乱れを直し、頬の涙を指で拭うと言った。
「ありがとう。それと……ごめんね、こんなに待たせちゃって」
気がつけば祐巳さまの頬も濡れている。
「私こそごめんなさい。私、祐巳さまに今までずっとひどい事を」
「ううん、瞳子ちゃんにひどい事されたなんて思ったことないよ」
「祐巳さま」
「瞳子ちゃん」
どちらからともなく手を伸ばすと、二人は抱き合って静かに泣き続けた。
「そうだ、もう一つ受け取ってもらいたいものがあるんだ」
二人で一しきり泣いた後、えへへっと笑って瞳子の背中に回していた腕をほどくと、祐巳さまはバッグの置いてあるところへ行き、何かを取り出した。そして背中に隠したまま瞳子の所まで戻ると「はいっ」と言って、きれいな包装紙に包まれ、リボンで飾られた小さな箱を差し出す。
「開けてみて」
祐巳さまに促されて開けた箱の中には、小さな手作りのチョコレートが入っていた。
「祐巳さま……」
「1日遅れでごめんね。ほんとは昨日渡したかったんだけど、バレンタインイベントの間に瞳子ちゃん帰っちゃったみたいだから。でも多分上手に出来てると思うんだ。よかったら食べてみて」
瞳子は一つ摘むと口の中に入れてみる。
「どう?」
「とっても美味しいです、お姉さま」
「よかった」
うれしそうに笑う祐巳さまのお顔が、また少し滲んでくる。
口の中のチョコレートはほどよい甘さと微かな苦味、そして涙でほんの少ししょっぱかった。
(終)
☆ ☆ ☆
「ど、どうかな?」
「ボツ」
「えぇ! またなの? どこがいけなかったの?」
放課後の一年椿組の教室には、短編小説を持ち込んだ少女と、その原稿を読む強面の編集の二人がいた。
編集(瞳子)に容赦ないダメ出しを食らった持ち込み少女(祐巳さま)は落胆の色を隠せなかった。
年明け早々に再び姉妹の契りを申し込んできた祐巳さまに瞳子が出した条件、それは瞳子が納得するシチュエーションならロザリオを受けるというものだった。そのため祐巳さまは脚本を書いて、こうして瞳子の下に足繁く通うようになっていた。
「細かいことを言い出せばキリがありませんが、全体的に祐巳さまに都合が良すぎますわね。そんなことだから『福沢時空』と言われるのです」
「ふくざわじくう? 言われるって誰に?」
瞳子は目を丸くして尋ねる祐巳さまを無視して続ける。
「第一手を曳かれて易々と温室について行くような瞳子ではありません」
「でも来てもらわないと話が始まらないし」
「それは古い温室にこだわるからですわ」
「ロマンチックな場所ってリクエストしたの、瞳子ちゃんだよ」
「何も古い温室だけがロマンチックという訳ではないでしょう。それにあの温室も、もうワンパターンですわ」
「じゃあどうすればいいの?」
「それを考えるのが祐巳さまのお役目でしょう」
「そんなぁ」
食い下がる祐巳さまを瞳子はバッサリと切って捨てる。
もはや涙目の祐巳さまに瞳子は尚も追い打ちをかける。
「それともう一つ。誤字には注意してくださいと、この間から口を酸っぱくして言ってるのに相変わらずですわね。なんですの、『盾ロール』って。失礼にも程がありますわ」
「……ごめんなさい」
侃々諤々と議論を戦わす二人は、既に本来の姉妹制度を完全に忘れていた。
「ねえ瞳子ちゃん、こんなに頑張ってるんだからこの辺でそろそろ手を打たない?」
気を取り直した祐巳さまは、えへへっと愛想笑いを浮かべて瞳子に言う。しかし瞳子は妥協を許さない。
「何をおっしゃいます。表現者たるもの、努力に評価を求めてどうするのですか。評価は作品のみが受けるべきものですわ」
「……はい」
「次こそはいいモノを期待していますわよ」
「……」
がっくりと肩を落とし、トレードマークのツインテールも萎(しお)れて去って行く祐巳さまの後ろ姿を見送りながら、瞳子はニシシッと忍び笑いを漏らすのだった。
☆ ☆ ☆
「ごきげんよう」
朝、乃梨子が教室に入ると、ニマニマしながら瞳子が何かを読んでいるのが目に入った。
「ごきげんよう。見てください乃梨子さん。昨日また一つ素敵なお話をゲットしましたわ!」
乃梨子に気づいた瞳子は席までやって来て、何か書かれているレポート用紙を乃梨子に渡した。それはたしか通算5本目だっただろうか、祐巳さま脚本、瞳子主演の茶番劇の台本のようだ。
受け取った乃梨子はしばらく黙って読んでいた。読み終わった頃を見計らって瞳子が言う。
「どうですか。なかなか素敵でしょう」
「そうだね」
冷静に応える乃梨子の反応も知らぬ気に、一人テンションの高い瞳子は続ける。
「書く度に瞳子に対する愛が深まってきてたまりませんわ。もうこれは祐巳さまからのラブレターですわね」
「まあそうだね。で、これでOKにしたの?」
「いいえ。祐巳さまには悪いですがもう少し頑張って頂きます。だってラブレターと姉妹の主導権の両方が手に入りますから、こたえられませんわ!」
そんな浮かれまくる瞳子に、乃梨子は言った。
「ああ、それでか。瞳子それちょっとヤバイよ。昨日祐巳さま、薔薇の館であんまり凹んでたから、どうなさったんですかって訊いてみたの。そしたら、『もう瞳子ちゃんと姉妹になるのは諦めるかも知れない』って力なく言うの」
「えっ! そんな……」
一瞬にして顔色を失う瞳子。
「あんたちょっとやり過ぎだって。祐巳さま本当に諦めちゃったらどうするの」
「ど、どうしましょう、乃梨子さん」
「知ーらないっと」
その日一日、瞳子は自慢の縦ロールもほどけて、フッと息を吹きかければサラサラと崩れ落ちそうなほど真っ白に燃え尽きていた。
☆ ☆ ☆
放課後、乃梨子が薔薇の館に行くと祐巳さまが先に来ていて、何か書類を書いていた。
「ごきげんよう、祐巳さま」
「ごきげんよう。ねえねえ、どうだった?」
挨拶もそこそこに、祐巳さまは急かすように訊いてくる。
「それはもうビビりまくってました。かわいそうなほどに」
実は今朝のことは、祐巳さまに頼まれたブラフだったのだ。本当は昨日の祐巳さまといえば、「あはは、またダメだったよー」なんてあっけらかんとしたものだった。
だから本来なら瞳子の味方をする乃梨子だが、しかし「一日も早く瞳子ちゃんと姉妹になりたいの。ねっ、お願い」なんて痛いところを突かれたら、断れるものではない。
乃梨子は祐巳さまに今日一日の瞳子の様子、朝の会話から始まって放課後に至るまでを、こと細かに報告した。
「あはは、そうなんだ。じゃあ次こそは採用されるかな」
「だといいですね」
「よしっ! 頑張ろうっと!」
そう言って祐巳さまは書きかけの6本目の脚本に取り掛かった。
私にあんな仕掛けを頼んだのに、瞳子が頭を下げてくるのを待つんじゃなくて、ちゃんと脚本は書くんだ。律儀ですね、祐巳さま。
祐巳さまのそんなところが嫌いではない乃梨子は、二人が早く姉妹になれたらいいね、と思って小さく笑った。
(つーか二人して下らねぇ事に私を巻き込むんじゃねぇーーー!!)
来年度が思いやられる乃梨子の、魂の叫びだった。