かつて黄薔薇革命が勃発した時に、続発する由乃さんごっこを評して「リリアンの生徒は総じて退屈を持て余している」みたいなことを、私は祐巳さんに言ったことがある。
つまり結論から言えば、今回の出来事も「リリアンの生徒が総じて退屈」だったからこそ、起こったことだったのかもしれない。
あの……悪夢のような、出来事は。
「ふんふんふん〜♪ 今日は晴天、絶好の写真日和ねー」
ある晴れた日の朝、私は上機嫌でリリアン女学園の門をくぐった。毎朝、マリア様像の前で祈る少女たちを写真に収めることを生きがいの一つにしている私は、お天道様が爽やかに輝いているだけで上機嫌になれる。美しい少女たちの背景に広がるのは、うす曇りの空よりも青く澄み切った晴天の空に限る。自然の陽光こそが、少女たちをもっとも輝かせる光源と言えるだろう。
「ふんふんふん〜……ん!?」
鼻歌交じりにいつもの定位置――マリア様像の脇の茂みに身を潜めようとした私は、そこで不意に殺気にも似た気配を感じて、パッと顔の前に手をかざす。
パシャリ。
その瞬間、聞きなれたシャッター音が茂みの中から聞こえ、私は呆れたようにため息を吐いた。
「こーら! 勝手に人の写真を撮るんじゃありません!」
私が茂みを掻き分けると、そこでちょこんと小さくなっていた少女が「えへへ」と照れたように笑った。
「さすがです、蔦子さま。せっかくご機嫌な蔦子さまを撮れると思ったのに」
「あのね、笙子ちゃん。イヤがる人を勝手に無理矢理、無許可で撮影しちゃダメじゃないの」
「えー。でも蔦子さまだって、してるじゃないですかぁ」
「私は良いのよ。みんな喜んでくれてるんだから」
ぶー、と口を尖らせる女の子――最近仲良くなった一年生の笙子ちゃんを一睨みして、私は茂みの中に分け入った。
「でも、祐巳さまだって嫌がってるじゃないですか? でも蔦子さまは遠慮なく撮りまくってます」
「祐巳さんは良いのよ、それが可愛いんだから」
笙子ちゃんの訴えを適当にかわしつつ、私はマリア像に向けてカメラを構え、露光やシャッタースピードを調節する。毎日同じ場所から写真を撮っているけれど、同じ設定で同じようにベストショットが狙える、なんてことはない。毎日の微調整が大切であり、また楽しくもあるのだ。
「むー、そんな蔦子さま理論に負ける笙子じゃありません!」
「はいはい。――ほら、黙って。来たわよ」
並木道を歩いて来る生徒の姿を認め、私は笙子ちゃんの口に軽く指を触れて、そのお喋りな口を封じた。笙子ちゃんは少し顔を赤くして黙りこくり、慌てて買ったばかりの一眼レフを構える。
「ふふふ、良い感じだわ。今日は湿気も絶妙、日差しも絶妙。良い写真が撮れること間違いなしね」
「蔦子さま、昨日も同じこと言ってましたけど、私も同意見です!」
力強く応じる笙子ちゃんと並んで、私はカメラを構える。こちらに歩いてくるのは、見たところ運動部の一年生だろうか。すらりと伸びた健康そうな足が魅力的である。これはローアングルから撮るに限ると判断し、私はぐっと姿勢を低くした。
その一年生は胸元に両手を揃え、ゆっくりと近付いてきた。
「はは〜ん、さてはロザリオでも見ているのね? くぅ、可愛いわね! さては昨日、ようやくお姉さまを持った陸上部の里谷かおるちゃんかしら!? OK、かおるちゃん、蔦子さんが記念すべき素敵な朝の一枚をゲットしてあげるわよ!」
ついつい興奮にあがりそうになる呼吸を抑えながら、私はかおるちゃん(仮)の接近を待つ。カメラのファインダー越しに綺麗な足が見え、スカートが見え、そして胸元が見え――
「――んぁ?」
私は思わず、みょ〜な声を漏らしていた。
「な、何事……?」
思わずカメラから目を離し、私は肉眼でかおるちゃん(仮)の姿を確認する。瞬きを繰り返し、ジーッとその胸元に視線を集中する。
――間違いなかった。
その子が胸元で大事そうに抱えていたのは、ロザリオなんかじゃなく。
カメラだった。
「……しかも写るんデスかよ」
げっそりと呟く私の眼前で、その子は「はうっ!」と小さく声を上げると、素早い身のこなしでマリア様へのお祈りも抜きに、いきなり傍らの茂みに飛び込んだ。
「えーーーー!?」
いきなりの展開に思わず立ち上がる私の目の前で、その少女は茂みの向こうにカメラを向けて、叫んだ。
「ぬっふっふ! 裕子さまの朝練風景ゲーット! ああ、飛び散る汗! 風にたなびくストレートヘアー! ステキです!」
「なんですとぉ!?」
その叫びを聞いた私は、とりあえず突然の少女の奇行に対する疑問を横に追いやって、茂みを飛び出してその少女の隣へと突っ走った!
「裕子さまと言えば陸上部のエース! そのカモシカのごときおみ足は、正にリリアン一の美脚! そして走る時に舞う黒髪は、正に天使の翼が如し! ああ、ステキ! 素晴らしい一枚をありがとう!!」
素早くシャッターを切った私は、ふー、と一仕事終えて汗を拭い、それから思い出した。隣で写るんデスを構えていた少女のことを。
「ああ、そうだったわ。あなた、一体……」
振り向いた時、件の少女の姿は既になかった。
朝一に遭遇した奇行少女は、それ単発だったなら「リリアンにも変わった子がいるのね〜」という、笑い話で終わったのだろうけど。
その日の変事はそれだけに留まらなかった。
「こ、これは一体……」
朝の勝手に撮影会を終え――とりあえず二人目以降はまともな写真が撮れた――教室に赴いた私は、そこで繰り広げられている光景に目を疑った。
「うふふ、さつきさんの間抜け顔、頂き♪」
「わ、酷いよ、冴子さん!」
「んー、その憂い顔が中々良いわね。どれ、一枚……」
「そうねぇ、今の一枚はさしずめ『日直当番のため息』といったところかしら?」
「私は知っている! 友子さんが密かに生徒手帳の中に令さまの写真を入れていることを!」
「いや〜、麻衣子さんはイイ! 凄くイイ!」
そこかしこでカメラを構えては、パシャパシャとシャッターを切るクラスメートたち。
それだけならまだしも。
「な、なんでしかもみんなメガネ!?」
カメラを構えたクラスメート――実にその数、クラスの半数を超えている――は、何故か皆、揃ってどこかで見たような丸眼鏡をかけていた。
「な、何事!? ぅあ、大きな目が可愛い小夜さんまで、眼鏡を!? あ、今日子さん眼鏡似合う可愛い一枚頂き! い、一体何が起こっているの!?」
とりあえず驚きながら眼鏡の似合う子の写真を撮り、私は狼狽して周囲を見渡した。こんな時、頼りになるのはやはり真美さんである。
「ごきげんよう、蔦子さん」
「! 真美さ――」
パシャ。
振り向きかけた私の眼前にカメラが付き出され、シャッターが切られる。
「ふむ……今のは『写真部のエース・狼狽の図』ってところかしら?」
満足げに頷く真美さんの手には、本格的な一眼レフカメラが握られ。
もちろん、眼鏡もしっかりかけていた。
「ま、真美さんまで!?」
驚きながらもとりあえず眼鏡真美さんを撮影し、私は真美さんの手を引っ張って廊下に出た。
「真美さん、これって一体、何? 何が起こってるの?」
「何って、蔦子さんブーム」
「――は?」
私の問いに対する真美さんの答えに、私の思考が一瞬停止する。
「だから、蔦子さんブームよ。リリアンのカリスマカメラマン、武嶋蔦子が今、最高にクールという評判が話題を呼び、リリアン女学園は今、空前の蔦子さんブームに沸きあがってるのよ」
当然のように言う真美さんに、私はちょっと頭痛を覚えた。
蔦子さん、ブーム? なによ、それ?
「必須アイテムはカメラと眼鏡。そして蔦子さんらしい行動――つまりは、シャッターチャンスを逃さない、その情熱的行動を模倣する。それが蔦子さんブームなのよ」
えい、とばかりに呆然自失の私を写真に収め、真美さんは普段の真美さんらしい、ちょっと苦笑に近い笑みを浮かべた。
「ま、大丈夫よ。きっとみんな、すぐに飽きるから」
真美さんの予言通り、蔦子さんブームはあっという間に廃れることになった。
やはりフィルム代が、女子高生の懐には痛かったのだろう。ブームはその日一日で終了することとなる。
だがその間、私の受けたダメージは計り知れなかった。
隙あらば、カメラを構えて一斉にシャッターを切るクラスメートたち。
迂闊に欠伸でもすれば、瞬時にカメラに取り囲まれる。
お昼を食べれば、口を開けた瞬間に皆が素早く箸をカメラに持ち変える。
しかも体育の時間には、ギラギラと迸るような歪んだ情熱が、着替え中のクラスメートを狙っているのだ。
「あー……さすがに頭痛い……」
ようやくブームも下火になりつつあった放課後。私は祐巳さんに頼み込んで薔薇の館に避難させてもらって、ズキズキ痛む頭を抱え込んだ。
「あはは、大変だね、蔦子さん」
祐巳さんが笑いながらぐったりしている私を写真に収める。なんかもう、写真に写るのは苦手だから止めて、と言う気力もない。
「災難でしたわね、蔦子さま。とりあえずお茶をどうぞ」
瞳子ちゃんが紅茶を勧めてくれ、さぁお飲み下さいとカメラを構えている。
なんと言うか……薔薇の館も、十分汚染されていた。
「あぁ……もう。ねぇ、祐巳さん。私ってば、いつもあんな感じなわけ……?」
ずず、と紅茶をすすって、私は祐巳さんに尋ねた。
いつでもどこでもカメラを構え、迫ってくるクラスメートや後輩、先輩たち。
そのレンズの光――カメラと眼鏡の――を思い出して、私はぶるっと身震いした。
「うーん、そんなことないよ、蔦子さん。大丈夫!」
ぐったりした私を元気付けるように、祐巳さんが明るく励ましてくれた。
「蔦子さんの方が、もっと強引で抜け目なくて、凄いから!」
この時ばかりは。
さすがの武嶋蔦子さんも、ちょっとばかり日頃の行いを反省したのだった。
「――まぁ、だからといって、止めるつもりはないけど」
茂みに身を潜めて呟きながら、私はカメラを構える。
「おお! あの二人は先日姉妹になったばかりのホヤホヤ姉妹! OK、この武嶋蔦子さんが、思い出に残る一枚を撮って差し上げましょう!」
素敵な一枚の予感に、興奮するのを抑えながら、私は素早くシャッターを切る。
写真部エース・武嶋蔦子。
どんなに日頃の行いを反省しようとも、誰も私の写真にかける情熱は、止められないのだ。