【1076】 新しく生まれ変われこれが私の答え  (沙貴 2006-02-05 08:58:04)


 福沢祐巳はぬるま湯なのだ。
 
 可愛らしい笑顔、高い声、柔らかな手先、小さな体躯、そして何よりも寄る者全てを無意識に安堵させるその空気。
 そんな福沢祐巳を人間以外で例えた時に、真っ先に思いついたものがぬるま湯だった。
 ぬるま湯。
 体温よりは高いけれど、火傷を負う程もは高くない温度を持った水、いや、お湯。
 浸けた指先や足先を優しく包み込むそれは、全身を浸した時にこそ全てを温もりで満たしてくれる。
 緩やかに立つ湯気は露な身を覆い、たゆたう水面は肌を優しく撫でて。あらゆる不安を拭ってくれるだろう。
 身を浸せばきっと離れられなくなる。
 その心地良さから。
 その温もりから。
 
 それが良いことなのか、それとも悪いことなのかは判らない。
 人は一人で生きなければならないと言う法律は無いし、強く依存する間柄が不幸を呼ぶと決定付けられている訳でもないから。
 ただそれはきっと、自分の別の何かをも温めて溶かし切ってしまう温度を持った関係でもあるのだろう。
 それは、ある意味で自己の否定だ。
 馬鹿馬鹿しい意地と、無価値な誇りで守り通してきたちっぽけな心の壁。
 それがあってこその自分である、と言う自覚はある。
 でも福沢祐巳と言うぬるま湯は、その根底を揺るがす。溶かしてしまう。
 
 恐ろしい、という感情が適当だろうか。
 自己を否定されることが恐ろしい。
 否定された後の、未来の自分を見つけてしまうことが怖い。
 自分が変わってしまうことが、こんなにもおぞましい。
 
 福沢祐巳はぬるま湯なのだ。
 だから。
 きっと、身を浸してはならないのだ。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
 天高く舞い上がる火の粉を眺めながら、松平瞳子は重い、重い息を吐いた。
 グラウンドの中央でパチパチと音を立てて燃え上がる大きなかがり火、ファイアーストーム。
 リリアン学園祭の後夜祭も佳境に入っていた。
 
 今年の学園祭一度きりしか使わないと判っている展示物。
 または、お客の呼び込みに使われたポスターやチラシが継続的に炎に投げ込まれて、それがより一層にグラウンドを明るめている。
 ファイアーストームの周りでは、二人や三人くらいの小グループが幾つも輪になっていて、きゃあきゃあと歓声を上げながらはしゃいでいた。
 ある人達はしようもない追いかけっこに興じ、他のある人達はファイアーストームにくべられていた薪の一本を高々と掲げて、盛る炎を眺める。
 家から持ち込んだのか、それとも部活か何かで用意していたのか。
 赤、青、緑と、色をコロコロと変えてゆく手持ち花火を手に持った生徒達も居た。彼女らの振り回す手の先で、綺麗な光の輪が幾つも生まれて消える。
 にぎやかなブラスバンドの演奏がそれに華を添えた。
 
 
 瞳子はそれらから随分と離れた位置を一人歩いている。
 同じクラスの敦子さんや美幸さんからは炎に誘われたけれど、断った。今は一人が良かったから。
 ひゅるりと吹いた夜風が瞳子の足元から砂を攫ってゆく。
 二の腕を擦って寒さを堪えた瞳子は「あぁ」と漏らして、天を仰いだ。
「スクールコート……教室でしたわね」
 多少でも寒さを和らげてくれただろう、リリアン指定唯一の防寒着は鞄と一緒に一年椿組に置いたまま。
 炎の傍で過ごすことを予め決めていた敦子さんらが教室にコートを置いていこうとしたから、釣られて置いてきてしまったのだ。
 今頃瞳子のコートも、人気を失い暗く冷えた教室で寒さに震えていることだろう。
 ちらりと校舎の方角を見て、瞳子は首を横に振る。
 我慢出来ない寒さではない。それなら我慢しよう。
 
 ざく、ざく、ざく。
 光の縁から遠い、グラウンドの隅を歩く瞳子の靴が砂を食む。
 生徒達の歓声が遠い。身を切る寒さが冬の到来を告げていた。
 ふと、瞳子は左手を持ち上げて、見る。
 冷たい風に晒されて温もりの消えた掌、”ぬるま湯”に浸されていたのはもう何時間も前の話だ。
 ぐっと拳を作る。
 ずき、と。
 頭の片隅が痛む。
「祐巳さま」
 呟いたその名前が脳裏で響いた。
 
『いっそ、このまま出かけない?』
 無意識に瞑った瞼の裏で、祐巳さまはそう仰った。
『ほら、約束したじゃない。瞳子ちゃんが一年椿組を案内してくれるって』
 さも名案を思いついた、と言わんばかりに輝いた笑顔。酷く幼稚に見えた事を覚えている。
 その時の言葉もはっきりと思い出せた。
 逆に、その時自分が何を言ったのかは殆ど覚えていなかったけれど。
『私、今しか時間無いんだわ。というわけで、よろしく』
 ぎゅっと両手で握られた左手。
 火が付いたように熱くなったのは、きっと祐巳さまの体温が高かった。
 だけでは、無いのだろう。
 
 意外に力強い祐巳さまに手を引かれて、更衣室を抜け出して。
 人垣をすり抜けながら一年椿組を目指す。お互いに時間は無いから駆け足だ。
 その中、エイミーの格好をしていた瞳子は、紅薔薇のつぼみたる祐巳さまと手を繋いでいた所為もあって随分な好奇の視線を感じた。
 注目を浴びることが何よりも大好きな瞳子だが、その時ばかりは流石に肩身が狭かった。
 向けられた視線が、全て色良いものだった――わけではなかったからだ。
 鈍感な祐巳さまはきっと気付いてはいなかっただろう。
 
 でも寧ろ、それはそれで良かったのだ。
 揶揄も邪推も、気付かないならそれに越したことはない。
 傷付くのは瞳子一人でも――
 
「瞳子」
 
 気落ちしかけていた、酷くベストなタイミングで。
 瞳子はそんな声を聞いた。
 振り返る。
 ファイアーストームの遠い光を逆光に背負って、泣きそうに笑う乃梨子さんがそこにいた。
「乃梨子さん」
 呼び返した瞳子の声は、何故だかとても小さく響いて風に消えた。
 
 
 ざく、ざく、ざく。
 グラウンドの隅をゆっくり、ゆっくり歩く瞳子らの靴が砂利を踏む。
 二人並んで歩いているのに、瞳子の耳には自分一人分の足音しか聞こえなかった。
 それだけ外界に向ける気力が無くなっているのか、はたまた乃梨子さんなんて本当はこの場に居ないのか。
 どちらでも良かった。
「驚きました。白薔薇さまとご一緒されていたのでは?」
 独り言を呟くような、それこそ風に吹かれて消えるだけの小声で瞳子は問う。
 幻覚かも知れなかった乃梨子さんは、でもそれをちゃんと聞き入れてくれた。
「うん、さっきまで一緒だったよ。でも別れてきた」
 無言で続きを促すと、ざく、ざく、と響く瞳子の足音の合間を縫って乃梨子さんは言う。
「また後で合流はするんだけどね。折角だから色んなところに行ってみましょうって」
「判りませんわね。それなら一緒に出かけられたら良いのに」
「それはそれで楽しいだろうけど、こうやって瞳子と一緒に歩くのも楽しいからさ」
 にっ、と降り注ぐ月光に乃梨子さんは笑った。
 いつの間にか辺りの明かりは薄明るいファイアーストームの端末から、薄暗い月明りに変わっている。
 
「楽しい?」
 瞳子は問う。
「うん」
 乃梨子さんは頷いた。
「私は……特には」
 瞳子は首を振った。
 ざく、ざ。
 足音が止まった。
 その時気付いた、瞳子が聞いていたのは自分の足音ではなくて乃梨子さんの足音だったんだと。
 そして同時に気付いた、ほとほと、今の自分には余裕がないことを。
 
「ごめんなさい、乃梨子さん。今、私――」
 歩くのを止めて、でも顔を見るのは申し訳なくて俯いたまま瞳子は詫びた。
 思わず漏らした本音は声を掛けてくれた乃梨子さんに対する酷い言葉だったし、それが本音であるということもまた酷過ぎたから。
 でも、それでも、取り繕って雑談に興じることはその時の瞳子に出来なかった。
 どんなに酷い人だと思われても、見っともなくても情けなくても、今は、今だけは誰にも邪魔されたくなかった。
 乃梨子さんにすらも。
「瞳子」
 呼ばれても、顔を上げることは出来ない。
 振り返ることもしないままじっと耐える。
 乃梨子さんは怒っているだろう、悲しんでいるだろう。
 でも、瞳子も今は頭痛すら伴った静かな激情と向き合っているのだと判って欲しかった。
 それがどんなに理不尽でも、何とか、判って欲しかった。
 
 背後で乃梨子さんが動く気配がする。
 退転して去ってしまうのだろうか。瞳子がそう思ってざくりと砂がずれる音がした瞬間。
 ふわりと羽が落ちてきたように、静かに二つの掌が瞳子の背中に当てられた。
 涙腺が激しく刺激される優しい暖かさが二つ、背中に灯る。
「判ったよ。私、ファイアーストームの方に行ってくる。椿組の皆も結構そこにいたからね」
 それは仄かな、そして過ぎるくらい頭の良い乃梨子さんの優しさだった。
 私はファイアーストームの辺りに居るから、気が向いたら来ると良いよ――と、瞳子には聞こえた。
「またね」
 
 背中の温もりが消える。
 静かな夜を振るわせる足音を立てて乃梨子さんが瞳子の後ろから去っていってしまった。
 瞳子は少し浮かんだ涙を拭って、でも、一度も振り返らなかった。
 
 
 ざく、ざく、ざく。
 歩き続ける瞳子の靴が土を踏み締める。やがて土の合間に背の低い雑草が混じるようになった。
 リリアンのグラウンドには周囲を堤のようにして取り囲む盛り土がある。
 体育の見学の時や、校庭清掃などの例外を除けば殆ど人の来ない場所だ。
 とは言え校庭の真中でファイアーストームをする後夜祭もその数少ない例外に当て嵌まり、長く校庭の端に横たわる土手にはリリアンの制服やスクールコートがちらほらと宵闇に紛れていた。
 瞳子もそして、それに加わる。
 土手を半分ほど上って校庭側に振り返ると、今は遠いかがり火とその周りではしゃぐ生徒達が一望出来た。
 いつかの、フォークダンスを遠巻きに眺めた時を思い出す。
 あの時はもっと近い場所からだったし、日の光が燦々と降り注ぐ時間帯だったし、何より隣には乃梨子さんがいた。
 こんな遠い場所から、月明りだけが静かに降り注ぐ時間帯で、たった一人で眺めている今とは大違い。
 
 スカートのポケットからハンカチを取り出して、傾いた地面に敷いた。
 その上に腰を降ろすと硬い土の感触でお尻が痛んだけれど、それ以上に痛んだのが脚だった。
 考えてみれば今日は演劇、山百合会の劇、それに学園最中の散策に加えて後夜祭の散策――徘徊。
 脚もそろそろに限界だったのだろうか。
 
「はぁ」
「ふぅ」
 
 吐いた溜息が、図らずも傍の生徒と重なった。
 無意識に声のした方向に顔を向けた瞳子は――同様に見返してきていたその生徒と顔を見合わせて絶句する。
 闇に紛れる黒髪と、既に異常な域に達しているだろう気配の無さ、それは。
「細川」
 可南子、さん、だった。
 余りの衝撃で、言葉が途中で途切れた瞳子とは反対にすぐ我を取り戻した可南子は、嘲笑だか微笑だか微妙な笑みを浮かべて。
 そのまま、何も言わずに顔を前に向けた。冷たさすら感じる無表情の横顔が、月光に妖しく浮かぶ。
 
 可南子さんが何も言わなかったのは挨拶をするまでも無いとの判断か、挨拶をしたくない気分だったのか、あるいは瞳子がそんな気分だと知っていたのか。
 そのどれでもない、もしかしたらそれらの全部の理由で何も言わなかった可南子さんの隣は、意外なほどに心地の良い場所だった。
 それは多分、瞳子らしからず静寂を求めている今の心境が、元々物静かな可南子さんの空間とマッチしていたからだろう。
 辺りに満ちる静かな沈黙が、遠くから聞こえる歓声に震える。
 瞳子はそっと眼を伏せた。
 
『あ、これ可愛い!』
 瞼の裏で広がった、昼の一年椿組で祐巳さまがはしゃぐ。
 手にしているのは椿組生徒特製アクセサリー、数珠リオ。紅・白・黄の順番でビーズを並べたそれは瞳子の自信作だ。
 同系色のグラデーションをつけたシンプルなものや、それでなくても全体的に淡色系の多い数珠リオラインナップの中で一際浮いている。
 が、目立つべくして目立っているそれが、またどことなく瞳子らしいとは乃梨子さんの弁。
 失礼な方ですわね、とは返したものの内心とても嬉しかった。
 別の何かに例えるくらいには、乃梨子さんも瞳子の事を考えていると言うことだから。
 
 でもそれが祐巳さまの手に握られていると、何だか瞳子自身が祐巳さまの手に取られているようでヘンな気分だった。
 思わず眉間に皺が刻まれる。
『え、あっと……あ、これなんかも良いね。ピンクだし、私、好きな色だなー……なんて』
 だからってそれを元の場所に置かれるのも嫌だ。
 それはつまり、瞳子自身が要らないと。瞳子ではない別のものが良いと言われたようなものだから。
 つまりが、祐巳さまがその数珠リオに関して何をやっても気に食わないのだ。瞳子的には。
 ずきりと。
 頭が痛む。
 
 はぁ、と溜息を吐いて眼を逸らした次の瞬間。
『やっぱり私はこれにするよ。良いよね、瞳子ちゃん?』
 祐巳さまは瞳子の数珠リオを握り締めてそう仰った。
 見ると、少し不安げな色を残した丸い瞳が瞳子を覗き込んでいた。
『どうして私に聞く必要があるんですか。ご自分でお決めになってください』
 殆ど条件反射的に瞳子はそう減らず口を聞いたけど、祐巳さまは結局それに決めた。
 それが嬉しかった事を瞳子は決して否定しない。
 でも、祐巳さまが別の数珠リオを選んだとしても、それはそれで嬉しかったのだろう。瞳子的には。
 そう思う。
 
 眼を開ける。
 後夜祭の歓喜から少し外れたグラウンドの土手に、冷たい風が吹いた。
 身を裂くような寒さが薄いワンピースを通じて瞳子の肌を刺す。
 幻想の中で垣間見た、暖かな椿組が恋しかった。
 暖かな――
 祐巳さまの隣が懐かしかった。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
 福沢祐巳はぬるま湯なのだ。
 
 優しく、温かく、心地良く全身を包み込んでくれるぬるま湯。
 全身を浸せば、きっと離れられなくなるぬるま湯。
 
 それでも尚、無理矢理にでも身を離せば。
 一度近付いてしまってから、距離を取るなら。
 
 ぬるま湯だからこそ、中途半端に温まってしまった身と心が寒さに震え上がる。
 温まってしまったから。
 安らいでしまったから。
 だから、寒さに耐えられない。
 胸を抉る孤独が心を奥底まで切り裂いてゆく。
 
 祥子さまのような方なら、こんなことは決してない。
 あの方は熱湯のような情熱と、氷水のような冷徹さを持った方だから。
 優しくされればそれだけで明日を生きる活力になる。それくらいは十分に温めてくれる。
 冷たくされればそれはとても辛いけれど、辛過ぎる分諦めもつく。今度こそは優しくされようと頑張れる。
 
 祐巳さまは駄目だ。
 あの方の無条件で無為な優しさは余りにも心地良すぎる。
 瞳子の奥の、更に奥まで踏み込んで、過剰なまでに癒して、温めて。
 そして、するりと手の中から抜ける蜘蛛の糸のように、何も残さず去ってしまわれる。
 一人残された瞳子は寒さに震えるだけなのに。
 
 だから傍に。
 傍に居続けて欲しいのに。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
「はぁっ」
 
 涙が溢れた。
 知ってしまった、瞳子は気付いてしまった。
 祐巳さまが好きだと。
 福沢祐巳さまが好きだと、瞳子は思い知らされた。
 
「ぅぁっ」
 両の手で顔を覆う、嗚咽が止まらない。
 胸の奥から湧き出る寂寞が、辺りの寒さで助長された。
 一人で居る今が。
 一人で遠いかがり火を眺める今が。
 余りにも空しい。
 どこまでも切ない。
 
 赦される筈が無いのに。
 瞳子自身が赦す筈が無いのに。
 
 瞳子の祥子さまを奪った祐巳さまが好きだなんて。
 祥子さまが妹になさった祐巳さまが好きだなんて。
 瞳子が常日頃憎まれ口を叩いている祐巳さまが好きだなんて。
 本気で最低だと罵った、祐巳さまが好きだなんて。
 
 赦されない。
 絶対に赦さない。
 
「ああっ」
 涙が後から後から零れ出す。
 祐巳さまに溶かされた瞳子の何かが流れ出すように。
 決して手を伸ばしてはならない祐巳さまの温もりがただ恋しくて。
 涙が止まらなかった。
 
 赦されないのに、誰より瞳子が赦さないのに、こんなにも恋しい。
 触れ合う時間が、触れ合う温もりが、こんなにも愛しい。
 手には入らない恋しさ。
 手に入れてはならない愛しさ。
 感情が爆発する。
 
 
 嫌だ。
 嫌だ、もう嫌だ。
 こんなに空しくなるだけの恋しさなんて要らない。
 こんなに切なくなるだけの愛しさなんて要らない。
 こんな寒さには耐えられない。我慢なんて出来ない。
 哀しいのも、寂しいのも嫌だ。
 だから。
 だからぬるま湯の温もりなんて要らない。
 要らない。
 要らない――っ!!
 
 
 ふぁさっ、と。
 
 
 突然、瞳子の視界が真っ暗に染まった。
 眼を瞑っていたしそもそも辺りは月明りしかない土手だったのだけれど、それよりも更に辺りが暗くなる。
 何か――布のようなものが被せられたのだ、と数秒ほどしてから瞳子は気付いた。
 けれどそれがスクールコート、人の温もりの残ったコートだと知るには僅か一秒ほど。
「声を殺していなさい。あなたの泣き声なんて聞きたくないわ」
 脇から飛んだそんな声。
 酷く冷たい、でも今の瞳子には温か過ぎる可南子さんの声。
 泣くな、とは言わなかった。
 喉の奥が震える。
 ぞっとするくらいに絶望していた。
 
 声と、姿を隠してくれるコートの下で。
 瞳子は思い切りに腕を噛んで泣いた。
 きっと、きっと泣くのはこれで最後にする為に。
 だから今は泣こうと思った。
 冷たい風を遮る可南子さんのコートに包まれて、仄かな温もりと共に背中を押してくれた乃梨子さんの掌を思い出して。
 胸の内だけに残る祐巳さまの温かさに浸って。
 
「ぅぁぅっ、ふくっ、ぅ、ぅぅく――」
 
 今は泣こうと思った。
 溶かされた何かをもう一度作り上げる為に。
 二度と溶かされないように冷たく、硬く、凍りつかせる為に。
 出会った頃のような、もしかすればあの頃よりももっと強固な壁を作る為に。
 二度と祐巳さまの為、そして自分の為に泣かない為に。
 今は泣こうと思った。
 
 祐巳さま。
 祐巳さま。
 好きです。
 好きです。
 
 好き、でした。
 
 次に会う時には、もう瞳子は変わってしまっているでしょうけれど――
 どうか、祐巳さまは変わらないで居てくださいませ。
 瞳子の好きだった祐巳さまで、居てくださいませ。
 
 さようなら、祐巳さま。
 
 
「うぅぅっ、ぅぅ、くぅぅ――っ!!」
 
 コートに隠された、小さな小さな世界の中で瞳子は泣いた。
 独り。
 寒さに震えながらもそっぽを向いてくれている可南子さんの隣で。
 思うままに泣いた。
 
 
 月と、マリア様だけがそんな瞳子を見ていた。


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