それは不意に笙子を襲ってきた。
『眼鏡を忘れた蔦子さまが、おろおろしてドアにごっつんこ』
「ぶっふぅー!」
唐突に頭に浮かんだセンテンスとその情景に、思わず笙子は口元を押さえて吹き出していた。
「しょ、笙子さん!?」
一緒に昼食をとっていたクラスメートが、驚いたような目を向けてくる。
「な、なんでもないわ。ごめんなさい」
ふるふると震える口元を隠しながら、笙子は小さく首を振る。人の好いクラスメートは少し首を傾げたものの、再びお弁当に視線を戻した。
危なかった……と、笙子はこっそり汗を拭う。不意に浮かんだ言葉とイメージは、正直言って蔦子さまに隠れラブであるところの――少なくとも本人は隠れているつもりだった――笙子にとっては、かなり強烈なモノだったのだ。
いつだって凛々しくて、聡明で、同学年の誰よりも大人びている、写真部のエースにしてリリアン女学園で知らぬ者はいない有名人――武嶋蔦子さま。
その眼鏡の奥で輝く瞳の強さを思い浮かべると、笙子はそれだけで胸がドキドキしてしまうくらいなのだが。
(それが、よりによってドアにごっつんこ……)
不意に浮かんだイメージに、笙子は緩みそうになる頬を必死になって引き締める。お昼を食べながらにやにやなんて、ただの変態さんだ。
(あぁ……でも、そんな情けない蔦子さまも、ちょっぴり可愛いカモ……)
普段大人びている蔦子さまだからこそのこのギャップ。それがとても笙子の心をくすぐるのだ。
(――って、何を考えているのよ笙子)
憧れの人のそんな姿を思い浮かべるなんて不遜すぎる。
笙子は頭の中から魅惑のフレーズを追い出して、クラスメートの話に耳を傾けた。
『ぐしょ濡れの蔦子さま、半泣き』
「げっふぅ!」
「しょ、笙子さん!?」
話の途中で吹き出した笙子に、その場にいた全員が視線を向ける。
驚きと困惑と、それ以上の心配。
そんな視線に晒された笙子は、慌ててなんでもないの、と手を振った。
(な、ナニ……? 今の、頭に浮かんだイメージはナニ!?)
内心ではパニックだったが、笙子はどうにか平静を装うことに成功したらしい。クラスメートは再び、笙子を気遣う言葉をかけてからお喋りを再開する。
その様子に安堵して、笙子はもぐもぐとご飯を咀嚼しながら、先ほどの魅惑のフレーズを吟味してみた。
ぐしょ濡れの蔦子さまが、半泣き。
何があったのか頭から水を被ってしまった蔦子さまが、ぺたんと床に腰を落として、うるる〜と半泣きなのだ。
(く、くあー!)
笙子は悶えた。ぱくぱくご飯を口に運びながら、心の中で悶えた。悶えずにいられるものか。
長い睫毛の下で、常に知性的な光を宿している蔦子さまが、うるると半泣きなのだ。そんな姿、普通は見られるはずがない。
しかも蔦子さまのあの美しい黒髪は水を被り、毛先からひたひたと水滴が垂れているのだ。
そんな蔦子さまが床に座り込んで、こちらにうるうるのお目目を向けてくるのである。
(あり得ない! あり得ないけど、アリ!)
ここにガッテンボタンがあれば満点を押しているところだ。
(あぁ……たまにでいいの。たまにで良いから、笙子だけにそんなお姿も見せて欲しい……)
うっとりと頭をピンク色に染めてから、笙子はダメダメ、と首を振った。
なんて酷いことを考えたのだろう、自分は。蔦子さまがぐしょ濡れで半泣きなんて、可愛いけど願ってはいけない。
笙子は自分を戒めて、どうにかこうにかクラスメートの会話に復帰した。
『切った指を、蔦子さまが咥えて消毒』
「おっふぅ!!」
「笙子さん!?」
ビクン、と体を震わせた笙子に、ついにクラスメートたちも一大事とばかりに立ち上がる。
「わ、わたくし、保健の先生を呼んで参りますわっ!」
「どなたか、冷たいお水をっ!」
大慌ての友人たちに気付かず、笙子は三度頭に浮かんだフレーズを繰り返す。
蔦子さまが、私の指を咥えて消毒。
蔦子さまが、私の指を咥えて消毒。
蔦子さまが、私の指を咥えて消毒。
蔦子さまが、私の指を咥えて消毒。
蔦子さまが、私の指を咥えて消毒。
蔦子さまが、私の指を咥えて消毒。
蔦子さまが、私の指を咥えて消毒。
あぁ……そんなことになったら、私……。
いつだってシニカルな笑みを湛えた、蔦子さまの唇が。
きっと紙か何かで切ってしまった笙子の指先を、消毒のために咥えてくれるのだ!
(あぁ……なんなの。今日は一体、どうしたっていうの? どうしてこんな、素敵で魅惑で蠱惑的なイメージが、鮮明に浮かぶの? 私……ナニを受信してるの!?)
恐ろしい。自分が恐ろしい。こんなシーンを想像してしまう自分が。
けれど、笙子は幸せだった。特に最後のは笙子自身が体感するイメージだけに、生々しくて破壊的だった。
「笙子さん、とにかく一度、保健室に参りましょう?」
クラスメートに促されて、笙子はおとなしく、ふらふらと立ち上がるのだった。
保健室のベッドに横になった笙子は、それはもう真っ赤に顔を染めていた。
(あぁ……私、なんてことを考えてしまったのだろう……)
蔦子さまのことは大好きだ。大好きだけど、あんなことを想像してしまうなんて、自分は本当に変態じゃなかろうか、と反省する。
第一、あのクールな蔦子さまが、笙子にそんな姿を見せたり、指を咥えて消毒してくれる、なんて行動を取るはずがない。
(あぁ……笙子の馬鹿……)
笙子が溜息を吐いていると、不意にこんこんとノックが聞こえ、がらりと扉が開いた。
「――あ、起きてた?」
「つ、蔦子さま……!」
ひょい、と顔を覗かせたその人の顔をみて、笙子の頬が一気に燃え上がる。
「笙子ちゃんに用があったんだけど、保健室に行ったって聞いて」
「そ、そうですか……」
笙子は真っ赤になって視線を少し逸らす。さすがに今日は蔦子さまを直視できない。
「とりあえず、思ったより元気そうじゃない」
蔦子さまがベッド脇のパイプ椅子に腰をかける。笙子の心臓はもうどきどきだ。
(あぁ……ここでまた、変なフレーズを受信したら、私、きっと本当に倒れる……)
お願いだから変なフレーズを思い浮かべませんように、と笙子はお祈りする。
その祈りがマリア様に通じたのか、笙子の頭に変なフレーズは思い浮かばなかった。
思い浮かばなかった――のだけど。
「顔赤いけど、熱でもあるの?」
言って蔦子さまが笙子の前髪を掻きあげ。
ピタリ、と額に額をくっつける。
(……………………………………………………………………(きゅう))
実物は電波よりも強し。
笙子は午後の授業を目を回したまま、ベッドの上でお休みすることになったのだった。