机の上の原稿用紙。
『全てを失い、ただ一つを手に入れましょう』
了 っと。
【No:1118】←瞳子の書いた脚本の全文はこちら
「ふう」 瞳子は軽く息をついて、額に薄くにじんだ汗を拭った。
何かをやり遂げたような爽やかな笑顔。
「流石わたくしですわ。 昼休みのたった30分で、これだけの物を書き上げるとは」
「うん、さすがだ」
「そうでしょう、そうでしょう。 もっと誉めてくださっても一向に、、、 ……え?」 汗を拭う左手がぴたりと止まり、ギリギリとブリキが立てるような音をさせて、瞳子の首がゆっくりと後ろを向く。
机に向かう青ざめた瞳子を、静かな表情で見下ろす乃梨子。
瞳子の額を、先ほどまでの爽やかさなどかけらも無い、嫌な汗が滝のように流れ始めた。
「えーーむぎゅ、ぐふん」 そして、鍛えられた咽がフルに活用されようとした瞬間、既に予想済みの乃梨子の手によって口元を遮断され、瞳子は逆流する空気にむせた。
「しー」 乃梨子はチラリと周囲を見回す。
間髪いれず対処したつもりだが、少しだけ漏れた叫び声に非難の視線が突き刺さる。 それはそうだろう。 ここは図書館の閲覧室なんだし。 いくら子羊の園と言っても、図書館の無頼漢は排除されて当然。
乃梨子は脳みその1/3をつかって冷静に状況を分析するや、右手でフリーズしたままの瞳子の腕を取り、左手で最前まで瞳子が向き合っていた大学ノートを取り上げた。 そのまま有無を言わせず、人気の無さそうな書架の奥へと引きずっていく。 ちなみに、脳みその残り2/3でナニを考えていたかは、その後の言動ですぐに明らかになる。
「のののの乃梨子さん。 みみみみ見ましたか?」 辛うじて再起動した瞳子は周囲の状況を理解したのか、ひきずられながらこそこそと問い質してくる。
乃梨子は、黙ったまま引きずりつづけ、書架の並びの一番奥までたどり着くと、整然と並び立つ本の隙間から見渡して、近くに人気の無い事を確認した。
「うん、見た」 簡潔に、ずばりと答える。
「どどどど、どこから」
「ほとんど初めっから」
口をぽっかりとあけて立ち尽くす瞳子。 いつも自身の影のように身に纏わせている演技の薄衣がすっかり剥がれ落ちている。
瞳子の素顔って、初めて見たかもしれない。 胸の内を表にあらわさないまま、乃梨子は読み損ねていたノートの冒頭の部分を開く。
3度、読み直した。 その間瞳子はまだ呆然としたままである。
読み終わった乃梨子は、表情を変えないままじっと瞳子の目を見つめる。
あうあう。
声にならないままパクパクと口を動かす瞳子の顔は、絶体絶命の状況に徐々にピンクに染まっていった。
「ちちち、ちがいます。 これはあくまで脚本で、フィクションで、非現実であり、ただの虚構ですなのですわ。 だから、わたくしが決して祐巳さまに興味があるとか、関わり合いになりたいとか、欲しいとか好きとかそういうことは無くてつまり。恐怖も苦痛も与えるつもりは無くてその、むしろ喜びがどうとか言うのはやっぱり嘘で。私無しでは生きられないとかいうのもいわゆる一つの言葉の綾あやで。つまりむしろ祐巳さまのにぎやかな表情が演劇の役に立つから近くで観察すると瞳子にとっても決して無益ではないと言うか有益であると言えなくも無いかなと言うことが、つまりそれはあくまで演劇のためであって。スールがどうとか、好きとか嫌いとか瑣末さまつな問題はこの際どうでも良くて。要するに私が祐巳さまを好きだと言う事などありえないのです!!!」
(お見苦しくて申し訳ないが、この間、一息(ワンブレス)である。 読者諸氏にはお許し願いたい。 瞳子、君は今人類の限界を超えた。)
いっそ艶やかに、うなじまで桃色に染まって目には涙を浮かべ、ぜいはあ、と息の荒い瞳子。
全く対照的なのが乃梨子である。 表情筋の一筋も動かさぬままに、瞳子の狂態を見つめる眼差しは冴え冴えとして、顔色はむしろ青白く見えるほどである。 黒々とした鴉の濡れ羽色のおかっぱ髪にふちどられたさまはとても凄烈だ。
息を整えなおした瞳子が、再び弁明の連射を始めようとした瞬間、機先を制した乃梨子の唇がひらいた。
艶やかに熟れたグミのような愛らしい唇からこぼれた言葉。
「わたし、しんゆう?」
「へ? 」
瞳子の目の前でじわじわと表情を変えてゆく乃梨子。 普段が冷静で無表情に近いだけに、僅かに口元を緩め、少し目が細められただけで劇的なまでに愛らしい微笑が生まれる。
瞳子自身もあまり見たことの無い乃梨子の心からの微笑に麻痺しかけた意識が、それでもかろうじて頭脳の後ろの方でからからと勝手に回した演算装置から分析結果を引っ張り出す。
結論。 わたくしが自分でノートに書いてます。 > 親友。
「そそそ、、、、っ」 そこに喰い付きやがりますかーーー! 声にならない絶叫を上げる瞳子。 薄桃色に染まっていた顔が、ドカンという勢いで見る見る赤味を増す。
顔が火がついたように熱い。 それを自覚した瞳子は、これ以上見つめられないようにくるりと後ろを向く。
「そんなことはありません。 わたくしに親友など居りません。 あれは脚本の中の演出です。 わたくしが目指すのは極北にて煌々と輝く演劇界の孤高の薔薇。 孤独こそ我が伴侶。 周囲の羨望こそが我が力。 他人の嫉妬こそ我が命。 誰であろうとわたくしの親友などなりえません。」
この口は誰の口だろう。 条件反射のように強がりと暴言を吐き出しつづけるこの口。 止めようにも一度動き出したら自分自身にも止められない。 己の無様さを恥かしく、切なく思いながらうつむく瞳子をそっと後ろから抱締める ふたつの腕(かいな)。
やさしい声がする。
「わたし、しんゆう!?」
「ううう」
抱締められた背中が、泣きたいほど温かくて。
「私は親友など要りません。 袖触れ合うだけで、プレゼントを贈りあうだけで、ただ毎日言葉を交わすだけで。 成り立ってしまう親友など、全くこれっぽっちも必要ありません。」 それでも我を張る自分は、一体何が言いたいのか。
熱い声が耳元にかかる。
「わたし、しんゆう!!」
「だから!!!」
「友達になろうよ。 瞳子。 真実を分かち合う友達、真友になろう。」 反論しようとした瞳子の台詞を遮って、乃梨子の心からの言葉が瞳子の胸をつく。
ぐうう。 瞳子の顔は最早トマトもかくやと言うほどに真っ赤である。 もちろん怒りからではない。
「乃梨子さん」 いままで無意識に両脇で固く握り締めていたこぶしをゆっくりとほどき、瞳子は自分を後ろから抱締めている乃梨子の両腕の上に、胸元に抱き込むように自分のそれをそっと添えた。
「はい。真友になりましょう」
うつむいていた視線を上げ、潤んだ目許のままゆっくりと乃梨子に向き直ろうとする瞳子。 っと。
「ややや、っぱり駄目ですわ。 嘘ですわ。 これは劇の練習なのですわw」 と、またぞろ抵抗を始める。
やれやれ、本当に素直じゃない、と思ったが、今度は乃梨子に向かって言っているのではないような?
瞳子の視線の先を追うと、、、
書架|_・) じーーーーー
書架|))ササッ
「あああああ、お待ちになって。 白薔薇さま。 誤解、誤解ですわwww」
追いかけようとする瞳子を、もう一度、ホキュっと抱締めなおす乃梨子。
「で? 返事は?」
「それどころでは無いでしょう! 今、白薔薇さまが。 白薔薇さまに見られて」
「ああ、うん。 あっちは放っておいていい。 後でフォローしとく。 それより今は瞳子のほうが大事。 ねえ、ちゃんと返事を聞かせて?」
「わたしの方が……?」 大事? ぽぽっ
人生最大級の殺し文句に、ついに観念したか。 瞳子が逃げるそぶりを止めたので、乃梨子はゆっくりと腕を緩める。
恥かしさに死にたくなりながらもなんとかかんとか振り向いて、体だけは乃梨子に向き直ったものの、何をどう言えばいいものか。 視線を合わせられないままに、あちこちをふらふらと見渡しながら。なんとなく名残惜しげに、乃梨子の腕のあたっていたところを、つと、なでてしまう瞳子。
自分の行為に ひゃん とばかりに我に返り、両手で顔を覆ってしまう。 乃梨子に抱締められた感触が、体中に残っている。
そうして両手の指の隙間から、なにやら恨めしげな眼差しで上目遣いに見つめてしまう。
「ちゃんと顔を見せて。 わたしの目を見て言って?」 普段の無表情とは落差の激しい、暖かい笑みを向ける乃梨子。
ゆっくりとゆっくりと顔を覆う手を下げてゆく瞳子。 下ろした手のやり場が無いのか、胸元で組み合わせてもじもじとさせている。 いつもの自信に溢れた姿とは違う、女優の仮面を被っていない、生(き)のままの松平瞳子だった。
「わたくしも」 眉を八の字に下げて、今にも泣きそうな。 「わたくしも、あなたと真友になりたい。 貴女でなくては嫌です。 お願いします。 わたくしと真友になって下さい。 乃梨子さん。 」
満面の笑みで応える乃梨子。
「うん、百点満点」 もう一度ゆっくりと抱擁する。 赤く染まった瞳子の顔を、自分の肩口に押し付ける。 制服のカラーの影から、瞳子のくぐもった声がする。
「わたくしに、こんな恥かしい台詞を言わせたのは、乃梨子さん。 貴女が初めてですわ」 がうがう。
「なによ。 舞台の上ではもっと恥かしい台詞でも平気で使ってるくせに」 くすくす。
「わたくしが、わたくしの意思で言った。 人生で最も恥かしい台詞、ということです!」 ぐりぐり。
「へー。 じゃあ、わたしが瞳子の初めての人になるんだ 」 それは光栄。
腕の中で瞳子の動きが激しくなる。 それを牽制するように。
「あんた、このさき祐巳さまにもっと激しく、もっと恥かしい台詞を言うんでしょう? このくらいで悶えててどうするの」
「祐巳さまは、関係ありません!!!」
「あー、はいはい。 わかったわかった。 」
更に激しく暴れ始める瞳子。 その姿はジェットモグラーか轟天号か。 自分の顔がどうなっているか判っているのだろう。 これ以上はびた一文。 顔も、耳の先さえ乃梨子さんに見せてなるものかと、ぐりぐりと乃梨子の胸元に突入する瞳子。
そうやってじゃれているふたりの頭上で予鈴が響く。
「あっと。 もうこんな時間。 」 瞳子を抱締めたまま頭上を振り仰ぐ乃梨子。
「じゃあ、先行ってるよ。 瞳子は顔を冷やしてから追っ駆けてきな」 ぽん。 一つ瞳子の頭を叩いて、乃梨子はあっさりと書架の谷間から出てゆく。
最後に瞳子の顔を覗き込まなかったのは、乃梨子なりの最低限のやさしさだろう。
「ほんっとーに、最低限しかやさしくないんですから。」 乃梨子を見送る瞳子の顔はやっぱり真っ赤なままだった。 嬉しいんだか悔しいんだか自分でもよく判らなくなった顔に、ふと手を当てる。
手のひらの感触が冷たくて気持ちいい。
「これでは、なかなか火照りが収まりそうにありません。 まあ大変、授業に遅れてしまいますわね。 どうしましょう」
幸せなため息をつきながら、瞳子は、生まれて始めてのドキドキを実はかなり楽しんでいた。
-----------------------------------◆◆◆-----------------------------------
お、ま、け。
「一つ積んでは父のため〜♪」 しょり
「二つ積んでは母のため〜♪」 しょりしょり
「三つ積んでは国のため〜♪」 しょりしょりしょり
「四つ積んでは何のため〜♪」 しょしょり しょり
「昼は一人で遊べども〜♪」 しょり
「日も入りあいのその頃に〜♪」 しょりり
「地獄の鬼が現れて〜♪」 しょりりりん りん
「積みたる塔をおしくずす〜♪」
「……志摩子さん。 なに、やってんの?」 乃梨子は、脱力のあまり台厨の入り口に寄りかかるようにして、頭をガシガシとかいた。
「あら、乃梨子。 早かったのね。 せっかく乃梨子がお泊りに来てくれるのだから、今夜はお刺身にしましょうかと思って。 」 でも、朝の約束どおりに来てくれるとは思わなかったわ。
という声は、小さすぎて乃梨子には届かない。
「それで、包丁を砥いでいる、と?」 耳に届く言葉にそのまま合いの手を入れる乃梨子。
「そうよ? なかなかいい切れ味になって来たわ。」 勤めて、いつものように会話を成り立たせる志摩子。
ふう。 二人ともが同じように、密(ひそ)かに一つ息をつく。
「包丁を砥ぐのは兎も角。 そういう歌を口ずさみながら、そういうかおをされてもね。」
「まあ、この唄、包丁砥ぎに良く合うのよ? 顔のほうは、生まれたときからこの顔ですもの、仕方が無いわ」 乃梨子はわたしの顔、きらい?
呟(つぶや)くような問いかけに、乃梨子は大きく頷いた。
「そんなかおの志摩子さんは嫌い。」
あらまあ。乃梨子に嫌われちゃったわね。 と、静かに微笑む志摩子。
「瞳子とのことが気になるなら、ちゃんとわたしに聞けばいいんだよ。」
「まあ、気になるなんて事はなにも無いわ。 あれは美しい友情の発露、だったのでしょう? 」 判っているわ。 と微笑を深める志摩子。
しかし、志摩子が微笑めば微笑むほど、乃梨子の胸が痛む。
「なんで、志摩子さんはそんなに物分りがいいふりをするの? そんな歪んで今にも壊れそうな微笑で。 そんな表情(かお)の志摩子さんは嫌いだよ。 まるで、泣いてるみたいに見えるもの。」
ひくう。
ひとつ、図星をさされた志摩子の咽がなる。
それでも、作り笑いを押し通そうと言う志摩子。 ---だって、解っているんですもの。 乃梨子と瞳子ちゃんの確かな絆が生まれて。 互いの信頼を確かめ合っているんだって。 美しい友愛だって。
「だったら、なんでそんな泣きそうな目で見るの?」
柔かくさえぎる乃梨子。
でも、だって。 苦しいの。 判っていても胸が苦しいの。 どうすればいいの? 乃梨子が瞳子ちゃんを見つめるやさしい眼差しを思い返すたびに、わたしの心にどす黒いものが湧き上がってゆく。 こんなの。 こんなことでグラン・スールなんて。
こんな情けない姉では、乃梨子に嫌われてしまうわ。 駄目よ。 それだけは。 嫌! 乃梨子に嫌われたら生きていけないもの。
あなたに嫌われないために。 ちゃんと、せめてお姉さまらしくしてなくっちゃ。 泣いたら駄目。 微笑んでなきゃ。 励ましてあげなきゃ。 友情を喜んであげなきゃ。
泣いたら駄目、なのに。
ぼろぼろと、心に反して目からこぼれ落ちる、熱いもの。
ひいいいいん。 ひいいいいん。
堰を切ったように声を上げ。 子供のように泣きじゃくる志摩子の脇にひざまずき、乃梨子はその手に握ったままの包丁をそっと取り上げる。
乃梨子の顔に浮かぶのは、やっと本音を言わせることができたという安堵と、大事な人を泣かせてしまったという悔恨と。
すっぽりと腕の中に治まる華奢な少女。
「ねえ、志摩子さん」 腕の中で泣き止まない少女を、ゆっくりとあやしながら、乃梨子は志摩子の心をほぐしてゆく。
「わたしは、志摩子さんの奇麗なところに一目ぼれしたけど。 でもね。 志摩子さんの泣いているところが好きだよ。 怒っているところが好きだよ。 拗ねているところが好きだよ。 落ち込んでいるところが好きだよ。 」
「どんなにか無様な姿を見せられたからって、わたしが志摩子さんを嫌いになることは無いの。 だから、もっとね、自分を出して良いんだよ。 感情を出してもいいの。 そうしたら、わたしはもっと嬉しいから」
ふえ。
泣きはらし、ぐじゃぐじゃの顔のまま乃梨子を見上げる。 つい今しがたまで顔に張り付かせていた、氷のようなこわばった微笑みは片鱗も無い。
それは乃梨子が本当に見たかったもの。 あらゆる感情を、その真っ直ぐな視線にのせて自分を見つめてくれる、いとおしい人。
「乃梨子が好き。」 「うん、志摩子さんが好き。」
「乃梨子が大好き。」 「志摩子さんが大好きだよ。」
「「貴女が、世界中で一番一番、大好きよ」」
ゆっくりと満面の笑みを浮かべ、今度は自分から抱きついてくる志摩子。
乃梨子は胸の中に優しく抱き込みながら、もう大丈夫。 と、思った。
「で? 瞳子ちゃんとは二股なの?」
「え?」 胸元を覗き込むと、そこには一気に吹っ切れた、志摩子さんの悪戯な微笑み。
えーと、志摩子さんは大丈夫。 うん。きっと。
でも、自分は大丈夫じゃないかも。 多分かなり。
一晩中、寝かせて貰えないんだろうな、と思いながらも、それが幸せな乃梨子だった。
それにしても志摩子さん。 切り替えはやすぎだよw
==============
v0.1: 沙貴さまの誤字指摘に対応
v1.0: 下から2行目を、ちょっぴり言い回しを変更
v1.1: 読み仮名を廃止。 一部の漢字を平仮名にほどく。 言い回しを変更 2006/02/14