祐巳さまが遂に壊れた。
祥子さまと令さまの卒業式を数日後に控えたある日のお昼休み、ぽかぽかとした春の日差しで温かい、教室の窓際の席でお弁当を食べていた乃梨子は、ふと目にとまった中庭の様子に一瞬眉をひそめて、一緒にお昼を食べていた瞳子に話しかけた。
「瞳子、アレ、ちょっとどうにかしなよ」
「何のことですの?」
「だから、アレ」
乃梨子の言葉に訝しげな顔で応える瞳子に、乃梨子は窓の外を指差して言う。そこには祐巳さまが一年生とおぼしき生徒を相手に、何事か話している光景があった。
「……何をおっしゃりたいのか、よく分かりませんが」
その様子を見た瞳子は、さっきまで楽しくおしゃべりをしていた態度から一転、あからさまに不服そうな表情を浮かべて乃梨子を睨みつけてくる。だが乃梨子にとってそんな脅しは、最早痛くも痒くもなかった。
「瞳子も噂くらい聞いてるでしょ。祐巳さま最近、暇さえあれば一年生を誰かれ構わず呼び止めて、ロザリオ差し出してるって」
「いいことじゃありませんか。おめでたいあの方も生徒会選挙に当選して、やっとご自分の立場を自覚なさったんじゃないんですか。薔薇さまに妹がいないなんて許されませんもの。それより何で瞳子が祐巳さまを何とかしなければいけないのです」
平静を装う瞳子だが、もうかれこれ一年近くになる付き合いの乃梨子には、それが瞳子の本心ではないことはお見通しだった。
「誰か他の子が祐巳さまの妹になってもいいの?」
「乃梨子さんもいい加減しつこいですわね。それに祐巳さまだって最近では瞳子のこと、諦めたみたいですし……」
そう言って俯く瞳子の面に僅かに影が差す。
やれやれ、このごろでは随分感情を表に出すようになったけど、意地っ張りは相変わらずだね。本当は気になってしょうがないくせに。
瞳子の様子に内心、微苦笑を禁じ得ない乃梨子だった。
「そうかなぁ。私は全然諦めてないと思うけど。むしろ以前にも増して執着してるっていうか。それよりほら、アレ」
「え?」
乃梨子は目でもう一度外の様子を見るように促す。
祐巳さまに話しかけられている生徒は遠目に見てもとてもうれしそうで、祐巳さまが何かを言うたびに大きく頷いていた。祐巳さまが未だ自分の首に掛かっているロザリオを弄んでいる時のさまは、さながら尻尾をちぎれんばかりに振りたくっている子犬のようだった。
しかし祐巳さまはすぐにはロザリオを渡さず、代わりに手提げバッグから何かを取り出して、それを手渡そうとした。すると相手の女の子の態度が急変。ヒクヒクと引きつったような笑いを浮かべ、一年椿組の教室、つまり乃梨子と瞳子が今見ている方を一瞥するや、祐巳さまに深々とお辞儀をしてすぐさま走り去ってしまった。そしてその場に残された祐巳さまは、受け取ってもらえなかった何かを手にしたまま、がっくりとうなだれていた。
その一部始終を見ていた瞳子が小さく、本当に小さく笑ったのを乃梨子は見逃さなかった。
「このごろずっとあの調子なのよ。片っ端からコナかけて、ことごとく振られてるの。この間なんか薔薇の館で私にも言うのよ、妹にならないかって。なるわけ無いっつの」
「何をやっているんですか、あの方は全く」
人差し指でこめかみを押さえて盛大に溜息をつく瞳子に、乃梨子は真顔で言う。
「だからね、何とか出来るのはもう瞳子しかいないのよ」
「でも祐巳さま、誰でもいいみたいじゃないですか」
「まぁ聞きなって。さっき祐巳さまが渡そうとしたモノ、何だと思う?」
「は?」
「あれ、実はね」
ロザリオの前に祐巳さまが必ず渡そうとして、結果相手が必ず退くモノ。そのなぞの物体を説明すると、瞳子の顔はみるみる真っ赤に染まっていった。
おぉ、喜んでる喜んでる。
「な、どういうつもりなんですか、一体!」
バンッと机を叩き、教室中に響き渡る声で瞳子は叫んだ。
ありゃ、怒ってたのか。なるほど、ツンデレ的にはそこは怒るところか。
「だからやっぱり瞳子がどうにかするしかないでしょ」
笑いをかみ殺して言う乃梨子に、瞳子は決然という。
「いいですわ。今日の放課後、祐巳さまにハッキリ申し上げます。迷惑ですからやめて下さいと!」
☆ ☆ ☆
その日の放課後、掃除を終えると瞳子は早速マリア像の前へ向かった。ここ最近、そこは祐巳さまの下校時刻におけるナンパスポットになっていたのだ。
乃梨子も少し離れて瞳子の後をついて行く。
(一体どうなるかな。クククッ)
既に乃梨子は直接関わることを放棄していたのだった。
乃梨子たちがやって来た時、祐巳さまはちょうど振られたところだったようだ。自称元気が取り柄の祐巳さまの、トレードマークの二つにまとめた髪が萎れて見えた。そんな弱り目の祐巳さまの背中に、瞳子は語気強く言った。
「祐巳さま、何をなさってるんですか!」
「あれ、ごきげんよう、瞳子ちゃん。何だか久しぶりだね」
振り向いた祐巳さまは頑張って取り繕っているのか、いつもと変わらない笑顔で応える。
「ごきげんようじゃありません。何恥ずかしい事なさってるんですか!」
「恥ずかしい事って?」
祐巳さまは瞳子の剣幕も、柳に風と受け流す。いや、まさかとは思うが瞳子が何を怒っているのか、本当に分かってないのかも。あり得る、祐巳さまなら……。
後にリリアン史上に恥ずかしくも燦然と輝く、紅薔薇姉妹の罵り合いはこうして幕を開けたのだった。
「分からないんですか! 一年生に手当たり次第声を掛けて、妹にしようとしてることです!」
「だって誰かさんがロザリオ受け取ってくれないんだもん」
「くっ、だからって薔薇さまともあろう方がすることではありませんわ!」
「まだ薔薇さまじゃないもん」
「屁理屈禁止ですわ! それと、そのバッグの中身は一体何なんです!」
「ああ、これ?」
そう言って祐巳さまはバッグの中からズルゥッと例の物体を取り出した。
「可愛いと思うんだけど、なぜかみんな受け取ってくれないんだよね。どうしてかなぁ」
「どうしてかなぁ、じゃありません! それは瞳子に対する当てつけですか!」
「何で?」
「そんなの見れば、誰だって瞳子を思い浮かべるじゃないですか!」
「あれぇ、瞳子ちゃんったら意外に自意識過剰?」
クスッと笑いを漏らして祐巳さまが瞳子を挑発する。瞳子はそれに易々と乗ってしまう。
「なっ、そんなんじゃありません! でもそれは瞳子を特徴づける、いわば瞳子のアイデンティティそのものですわ!」
「だってこれがスキなんだもん」
「祐巳さまが誰を妹にしようと構いません。ですがそれだけはやめて下さい!」
「でもこういうのを妹にしたかったんだもん」
「こういうのって何ですか! 失礼しちゃいますわ!」
「妹でもない瞳子ちゃんに、私の趣味にまで口出しされたくないもん」
「だもんだもんって、大概にして下さい! 分かりました、瞳子の負けですわ。妹になります。だからアホなマネはよして下さい。恥ずかしくていたたまれませんわ!」
「別に今更妹になって欲しくないもん」
「だぁーっ、もう! 我が儘もいい加減にして、下手に出てる内にさっさとロザリオよこしやがれですわ!」
「うぅ、絶対渡さないもん」
頭から湯気を立ち上らせる瞳子と、涙目の祐巳さま。
二人は完全に意地になっていた。
「ストーップ。お二人とも、落ち着いて周りをよく見て下さい」
ここらが潮時と思い、乃梨子は祐巳さまと瞳子の間に割って入った。白熱した二人の周りにはすっかり黒山の人だかりが出来ていたのだ。この中には新聞部、写真部がいることも間違いないだろう。
乃梨子は真面目な顔を取り繕い、祐巳さまに言った。
「僭越ながら祐巳さま、色々思うところもありましょうが、妹は瞳子にしておいては如何でしょう。失礼ですが事ここに至って、祐巳さまの妹になろうという剛の者は、最早瞳子以外にいないと思います」
「へ? 何で?」
あくまでそらっとぼける祐巳さま。
「分かっててやってるのに、とぼけるのも程々にして下さいまし! そんなモノ差し出されたら誰だって退きますわ! そんな
盾 ロ ー ル ヅ ラ な ん て !! 」