【1265】 そして時は動き出す  (まつのめ 2006-03-16 21:41:02)


「時計の針は元に戻らない。だが自らの力で進めることはできる」
 逆行が流行りだした。
 ネタが消費し尽くされる前になんとかしなくてはならない――。

 …【No:935】―┬――→【No:958】→【No:992】→【No:1000】→【No:1003】→
           └【No:993】┘





「祐巳さん、どうなっているの?」
 ある朝、桂さんが祐巳のところに寄ってきて言った。
「え? どうって」
「祐巳さんが白薔薇さまの妹候補だって噂」
「は?」
 いきなりだった。
「ほら、最近、祐巳さんと志摩子さんって山百合会に出入りしてるでしょ」
「あ、あのね、それは今人手不足だからってお手伝いを頼まれただけで……」
「でもこの間、志摩子さん、紅薔薇のつぼみと一緒にどこか行っちゃったじゃない。 あれって妹にならないかってアプローチされたんだってもっぱらの噂なのよ」
 ちょっと話がかみあっていない気がする。
 いや、桂さんの中ではきっと確固としたつながりのある話題なのだろうけど、この話がいったいどうやって最初の「白薔薇さまの妹候補」に繋がるのか祐巳にはいまいち判らなかった。
「それで、山百合会で妹が居ないのって紅薔薇のつぼみとあとは白薔薇さまじゃない」
「う、うん。 それで?」
「もう、祐巳さんまだ判らない?」
「えーっと……ごめん」
 判らない物は判らない。
 志摩子さんが祥子さまの、っていう噂なら判らないでもないのだけど。
 祐巳が謝ると、「しょうがないなあ」って感じで桂さんは続けた。
「紅薔薇のつぼみの妹候補が志摩子さんなら、白薔薇さまのは祐巳さんじゃないかってことよ」
「ああ、そういうこと……」
 そこまで聞いてやっとわかった。
 つまり、志摩子さんと二人して山百合会に出入りするようになったことから二人を妹候補に当てはめて、祥子さまが志摩子さんにアプローチしたから、祥子さまと志摩子さん、残りは白薔薇さまと祐巳という風に勝手に結びつけたってわけだ。
 なんというか事実を全く確認してない無責任な話である。
 まあ噂話なんてそういうものなのだろうけど。
「で、どうなの?」
 桂さんは身を乗り出して興味津々に目を輝かせている。
「どうって、だから、ただのお手伝いよ」
 薔薇さま方になにか思惑があるのかどうかは判らないけど、少なくとも嘘は言っていない。
「そうよね、祐巳さんだものね。 そっちの方が信憑性があるわ」
 桂さんがカラカラと笑いながらそう話を結ぼうとした時、横から話に割り込む人がいた。
「祐巳さん、私たちにも話を聞かせてくれません?」
 祐巳が振り返ると天使の笑顔の集団が「ごきげんよう、祐巳さん」と口にしながら集まってきた。
 そうなのだ。
 祐巳は志摩子さんのように近寄り難い雰囲気をもっているわけではないので噂の真偽を確かめようとするような人はみんな祐巳の方に流れてくる。
 興味津々が増殖してしまった。
 しかも、彼女たちは桂さんと違って高校に上がって初めて同じクラスになったかそれに近い、つまりは面識のあまり無い人たちだ。
 前回、祥子さまの時は時期が学園祭の直前で、祐巳が平凡な生徒だという印象をクラスに満遍なく行き渡らせるに十分な期間があったのだけど、今回は期間がまだ短い上に、祐巳は志摩子さんに近づいた分、『平凡な生徒』から遠ざかっていた。
 要するに彼女らは噂に対する反応を、桂さんみたいに割り引いてくれないってことだ。
「最近、薔薇の館によく行ってらっしゃるようですけど?」
「志摩子さんが紅薔薇のつぼみの妹候補になったって噂ですけどなにかご存知?」
 なるほど彼女たちの噂の中心は志摩子さんなのか。
 でも、志摩子さんのことを本人じゃなくて祐巳に聞いてくるあたり、ちょっと好感が持てなかった。
(こういうときはアレかな)
 背筋を伸ばして気を引き締めて、あくまで優雅に、そしてにっこり笑って。
「皆さま、お騒がせして申し訳ありません。 訳あって、わたくし達、山百合会のお手伝いをさせて頂くことになりました。 最近薔薇の館によく赴くのはそういうわけなんです」
 下腹に力を入れて張りのある声で話すのがコツ。
 やっぱり優雅には程遠いが85点くらいの良い出来だったと思う。
 こうして当事者からハッキリ話せば引き下がってくれることは前回で経験済みだ。
 本当は志摩子さんが言ってくれた方が効果があったと思うのだけど。
「では、妹候補の件は?」
 彼女たちの一人が言った。
「祐巳さんも白薔薇さまの妹候補って話を聞いたわ」
「それとも祐巳さんも祥子さま?」
「祐巳さん、どの姉さまがお好きなの?」
 それに連動するように他の子たちも口々に聞いてきた。
 やっぱり、興味があるのはこっち。
 でも、たかだか数回薔薇の館に行ったくらいで祐巳が白薔薇さまの妹候補なんて笑っちゃう。
 おそらく一応根拠がある志摩子さんの話とセットでついでに広まったのだろう。
 とにかくここは、お姉さまに教わった決め台詞だ。
「ご、ご想像にお任せしますわ」
 ちょっとどもっちゃったけど、それに笑顔も引きつってしまったけど、祐巳を囲んでいた人たちは大人しく引いてくれた。
 考えてみれば、こうしてちゃんと使ったのははじめてだ。

 「ご想像に任せる」ってことはどっちに思われてもい良いってこと。
 前回、同じようなシチュエーションでそう言おうとして、泣いてしまったことがあった。
 あの時は、祥子さまがたまたまあそこにいた祐巳を妹にしようとしていたから、それが悲しくて、どう思われてもいいなんて思えなかったから。
 でも今は違う。
 公言できないけど、どう思われようとも祐巳は祥子さまの妹だ。

(つ、疲れた……)
 慣れないことをするものではない。
 彼女らが去って思わず祐巳は机に突っ伏した。
 なんだか一日分の気力を使い果たした気分だ。
「祐巳さん」
 肩を突つかれた。
「え?」
「先生来てるわよ」
 実は興味津々な皆さんが引いてくれたのは、もうHRの時間で先生が教室に入ってきたからなのだった。



「祐巳さん、祐巳さん」
 昼休みになってすぐ、今度は武嶋蔦子さんが祐巳に話しかけてきた。
 蔦子さんといえば、特に親しくなったのは一年の学園祭前の祥子さまのタイ直し以降の話で、この時期はまだ、ただのクラスメイトといった感じだった。
「えっと、なに? 蔦子さん」
「昼休みは教室に居ない方がいいかも」
「どうして?」
 というかいつも教室にはいないのだけど。
「新聞部が取材に来るという情報をキャッチしたからよ。 今日は急いで出て行くことをお勧めするわ。 そして、授業ぎりぎりに帰ってくること。 新聞部ってしつこいわよ。 芸能レポーター並の人材がゴロゴロ居るんだから」
「わ、判った。 ありがとね」
 そう言って急いでお弁当の包みを持って席を立った。
 まだ大して親しくないのにわざわざ情報を教えてくれるのは、何かしら下心があると思うのだけど、蔦子さんのことだから写真を公開する許可とかそのへんであろう。 せっかく教えてもらったんだから、情報はありがたく活かすことにする。
 いつも志摩子さんは祐巳が席を立つのを見てから席を立ち、タイミングよくドアのところで合流するので祐巳は直接ドアに向かった。
 志摩子さんと廊下に出たとき、まだ新聞部らしき人はいなかった。
「なんか新聞部が取材にくるらしいよ」
「あら、そうなの?」
 志摩子さんにも噂話は伝わっているらしく、ちょっと不安そうな顔をした。
 一応、周りに注意しながら、二人で足早にいつもの場所に向かった。
 まあ、新聞部に見つかったとしても記事に出来るような事実はないのだから、正直に答えればよさそうなのだけど。
 でも、今の編集長はあの三奈子さまだから油断は出来ないのだ。 下手に答えて変に拡大解釈されてあることないこと書きたてられるくらいなら答えない方がいいに決まってる。



 結局、放課後まで新聞部には遭わずに済んだ。
 正直、朝の一件で気力を削がれていたから、取材なんて更に疲れるようなことは避けられてよかったと言える。
 そう。 それはよかったのだけど……。
「はぁ」
 放課後、志摩子さんと一緒に校舎を出たところで祐巳は気のないため息をついた。
「どうしたの、祐巳さん」
「うん、ちょっとね」
 疲れた、というより祐巳は沈んでいた。
「昼間のことかしら?」
「え? うん……」
 『昼間のこと』とは噂話のことでも取材のことでもない。
 実は今日、午後の教室移動の途中で祐巳は偶然白薔薇さまに会ったのだ。
 その時は複数のクラスメイトが一緒に「ごきげんよう、白薔薇さま」と挨拶した。
 祐巳はその中の一人だったのだけど、白薔薇さまは挨拶を返した後、一番近くにいた子の頭をなでて廊下を騒然とさせたのだ。
 そのとき、聖さまがそんなことをする前に、祐巳のことを見つけてすぐに目を逸らしたのに祐巳は気付いていた。
 だから、その行動が祐巳を意識してのことだって判ってしまったのだ。
(そんなにあからさまに『嫌い』ってアピールしてくれなくてもいいのに……)
 暗くなる祐巳に志摩子さんは言った。
「……声をかけてみたらどうかしら?」
「え?」
「気になるのでしょう?」
「う、うん。でも……」
 祐巳は先のシミュレーション(妄想?)のことを思い出した。
 あれは結局『どうなるか予想がつかない』という結論だったのだ。
「多分私が居なければ普通にお話できると思うわ」
「志摩子さんが居なければ?」
「ええ」
 よくわからないのだけど、志摩子さんがいうのなら、そうなのかもしれない。
 でも、普通にと言われても何を話したらいいのか。
 ストレートに「なんで嫌ってるの?」なんて聞くのは想像の中だからこそ出来たことで、本物の聖さまにそれを言う勇気は祐巳には無かった。



  〜 〜 〜 



 志摩子さんとそんな会話のあった翌日のこと。
 早朝、古い温室に向かう途中、校舎の方から騒がしいカラスの鳴き声が聞こえてきた。
 祐巳はこんな時間に珍しいな、と思ったが、普段だったらそれだけで別に無視したであろう。
 でも、今日に限ってなにか胸騒ぎのようなもの感じ、そちらに向かった。
 近づくにつれて、カラスの鳴き声の合間に何か別の音が、いや、祐巳はこの音を知っていた。
 フーッというかシャーというか、猫が敵を威嚇する時に発する声だった。
 野良猫とカラスの縄張り争いなんて放っておけば良いものなのだけど、祐巳は最初に感じた胸騒ぎに従ってそこに近づいていった。
「あーっ!」
 遠くからでは判らなかったのだけど、数羽のカラスに囲まれていたのは一匹の小さな仔猫だったのだ。
「や、止めなさいっ!」
 と、言って判ってくれるとは思わないけど、思わず叫んでいた。
 祐巳は突付かれることを覚悟してカバンを盾にカラスを追い払うために駆け出した。

 遊んでいたかからかっていたのか、カラスたちは別に仔猫を殺して食べようとか思っていたわけではなかったようだ。
 祐巳が走ってくるのに気づいたカラス達は、すぐに逃げるように飛び立って仔猫から数メートル離れた地面に着地し、しばらくこちらを伺うようにうろうろした後、仔猫を襲うことを諦めたのかはたまた興味を無くしたのか、何処かへ飛び去ってしまった。
 さっきまでカラスに向かって威嚇するように毛を逆立てていた仔猫は祐巳が敵でないことが判ったらしく、祐巳が手を伸ばしても大人しくしていた。
 仔猫はカラスに突付かれたらしく怪我をしていた。

「どうしよう」
 猫を抱き上げて祐巳は校舎を見上げた。
「……保健室?」
 こんな時間ではまだ校医の先生は来ていないかもしれない。
 そもそも学校の保健室で動物の怪我の手当てをしてもらえるものなのか?
 迷いつつも、他に思い浮かばなかったので、祐巳は保健室のある方へ向かった。
 手の中の仔猫は暖かくて柔らかくて、そして非力な祐巳でも簡単に潰せてしまいそうなくらい小さく感じた。
 仔猫を大事に抱えながら、足早に校舎裏を抜けて中庭に出たところで祐巳は見知った顔に出会った。
 その見知った顔は祐巳を認めると、目を逸らしてそのまま歩き去ろうとした。
 祐巳は思わず声を上げた。
「聖さま!」
 見知った顔とは聖さまだった。
 挨拶ぐらいはしようと思い直したのか、聖さまは立ち止まりもう一度祐巳の方に振り返った。
 そして、祐巳を見て表情を変えた。
「どうしたの?」
「この子が……」
 祐巳は怪我をした仔猫を抱き、縋るような目で聖さまを見つめた。
 聖さまは頼りになる先輩という認識が祐巳の中にはあった。
 それは『戻った』後、どこか儚げな聖さまを見たあとも変わっていなかったのだ。
 そのあとの聖さまの行動は的確だった。
「来て!」
「は、はい」
 まず、祐巳を連れて職員室まで行って、既に出勤していた先生を捕まえて事情を説明し、保健室を開けてもらって、聖さま自身が仔猫の傷を消毒した。
 幸い、カラスにつつかれた傷は深くなく、化膿しないように消毒だけすればよさそうとのことだった。
 仔猫の手当てをしながら聖さまは言った。
「動物は舐めて治すから、本当は消毒もしなくて良かったんだけどね」
 そして「この子野良だし」と、付け加えた。
「でもそれじゃあ……」
「そうね、怪我してたら手当てしたくなっちゃうものね」
 手当てすることが良いことなのか悪いことなのか。
 聖さまからその答えは聞くことが出来なかった。

 手当てが終わってから、中庭まで来てそこで仔猫を放した。
「ここならカラスも来ないから」
「大丈夫でしょうか?」
「大丈夫よ。 休むところくらい自分で見つけるから」
 聖さまは野良猫なんだから甘やかしたら生きていけなくなると言った。
(あれ?)
 そのとき、祐巳はこの仔猫に奇妙な既視感を覚えた。
(猫、中庭、聖さま?)
 三つのお題、じゃないけど、そこから連想されるものは?
 そう、この猫は中庭に住み着いてて、聖さまが可愛がっていて、学年ごとに呼び名が違ったあの猫。
(ゴロンタだっ!)
 生まれて間もないのだろうか、まだ小さく瘠せてて在りし日の貫禄にはまだまだだけど、その猫には確かにゴロンタの面影があった。
(またやっっちゃった)
 そう思った。
 今度は聖さまとゴロンタの出会いに割り込んでしまったのだ。
「でも、元気なるまでえさをあげた方がいいかしらね。 おまえ痩せすぎだもの」
 そう言って仔猫を撫でる聖さまだった。


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