春。三年生が卒業し、一時的に生徒が少なくなるのも、今日でおしまい。在校生はみんな一つ上の学年へと進み、可愛い後輩達を迎えての入学式が今終わったところだ。
今日は在校生はお休みなのだが、生徒の代表である山百合会のメンバーは在校生代表として、先ほどまで入学式に出席していた。
そして、式の後は晴れて紅薔薇さまとなった祐巳に新入生がこぞって挨拶をかけてくれて、祐巳はそれに対してぎこちない笑顔で答えていたのだ。
何人と挨拶したか数えるのを諦めた頃、ようやく解放された祐巳は、手提げをいつもよりひとつ多く携えて、みんなの揃うビスケット扉をくぐった。
「ごきげんよう、志摩子さん新入生歓迎の挨拶、ご苦労様」
「ごきげんよう。祐巳さん、なんだかとてもごきげんね」
一番の緊張感を味わったはずなのに、ふんわりいつもの笑顔を向けてくる志摩子さん。
「うん、こんなの貰ったんだ」
「ああっ、差し入れだ。ひょっとして新入生から?」
いつになくハイテンションな由乃さんが目敏く、祐巳の包みの正体に気付いた。
「うん! クッキーらしいから、みんなでお茶請けにしよう」
「入学式早々さっそく新入生の人気を掴むとは、さすがは祐巳さん。強敵だわ」
「強敵って……ひどいなあ」
「あら、強敵と書いて『とも』と読むのよ。祐巳さんは永遠に親友にしてライバルなんだから。それにしても、一番乗りを奪われるなんて、なんだか悔しいわね」
そういう由乃さんに流しで祐巳の分のお茶を用意してくれていた人影が振り返った。
「大丈夫です。お姉さまだってクラスでは凄い人気なんですから、すぐ貰えますよ」
まだ正式に山百合会の住民となって一日も経っていないのにも関わらず、以前からいるような風格で菜々ちゃんが由乃さんをフォローする。
由乃さんは先手必勝とばかり早朝からマリア像の前で仁王立ちで待ち受け、ご両親と一緒に来た菜々ちゃんにロザリオを渡したらしい。菜々ちゃんは驚きながらも楽しそうにロザリオを受け取り、晴れて由乃さんの妹に納まった。
「菜々……」
成り立ての妹の優しい言葉に感動したのか、由乃さんの声が詰まる。
「貰える数は永遠に祐巳さまに勝てないとは思いますけど……」
「菜々!!」
無情にもトドメを刺す菜々ちゃんに叫ぶ由乃さんだが、はたから見るとじゃれてるようにしか見えない。
そんな黄薔薇姉妹を眺めながら、祐巳は志摩子さんと差し入れの包みを開けた。
はしゃぐ祐巳さま達は気付かなかったが、その時、乃梨子が瞳子の肩をそっと叩いた。瞳子がこんな表情をするときは大抵祐巳さまがらみなのだ。
「どうしたの? 瞳子。祐巳さまが差し入れを貰うのなんていつものことでしょ?」
「え……ええ、そんなこと気にしてませんわ」
じゃあどうしたのと尋ねようとした乃梨子の機先を制するかのように、瞳子は急に立ち上がった。
「ごめんなさい、ちょっと用事を思い出したんでしばらく失礼するわ」
「え、ちょっと」
瞳子は祐巳さまの方を向くと、わざとらしいぐらい済まなそうな顔をして、頭を下げる。
「お姉さま。瞳子、演劇部で新入部員勧誘の打ち合わせがあるのをすっかり忘れてました。いつ戻れるのか判りませんのでお茶は結構ですわ」
「う、うん。頑張って」
乃梨子と同じく、瞳子の様子が何かおかしいと気付いたのか、祐巳さまは戸惑いながらも瞳子を送り出した。
「おかえり、瞳子」
ビスケット扉を開けると春のくすんだ夕日を背にして、祐巳さまが微笑んでいた。
「お姉さま。待っていて下さったんですか? こんな遅くまで」
「うん。瞳子、荷物持って行かなかったでしょう? リリアンとはいえなんとなく不用心じゃない?」
「祐巳さま? それはひょっとして以前乃梨子さんの数珠を取ったことを皮肉ってらっしゃるので?」
「ち、違うってば。ほんとのこというと、瞳子と一緒に帰りたかったんだってば」
そう言って、祐巳さまが立ちつくす瞳子の後ろに回り込み、腰に手を回して、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「もう、うっとうしいですわ。まとわりつかないでくださいませ」
ほんと我ながら素直じゃないと思うけど、ついいつものように文句を言ってしまう。それでいて、身体は祐巳さまの手をふりほどこうとできないのだから、祐巳さまにはきっと本気で嫌がってないってばれているだろう。
その推測を証明するかのように、うんうんと頷きながらも、抱くのを止めようとしない、それどころか、顔を肩に乗せる。ロールした髪が鼻に当たるのか、くすぐったいような仕草をした後、祐巳さまは明日の天気の話題でもするように瞳子に尋ねた。
「瞳子、さっき差し入れ見たとき、顔色変えたよね?」
「……」
「嫉妬してくれてるとか?」
「おめでたい。思い上がりも甚だしいです」
「ちぇっ、残念」
本当はちょっと嫉妬も入ってるけど、そんな単純な気持ちではない。
「それじゃ、どうして」
瞳子がその質問に答えられず黙っていると、祐巳さまは瞳子に考える時間を与えるつもりなのかゆっくりと促した。
「胸の内にため込んじゃうのは紅薔薇一家の遺伝らしいけど、何かあるのはバレバレなんだから言っちゃおうよ」
背中から優しい気持ちが伝わってくる。そして、その柔らかな口調以上に真剣だ。祐巳さまはいつも本気で瞳子のことを考えてくれる。
その気持ちが今日一日瞳子の心に刺さったちくちくとした棘の痛みを和らげてくれた。瞳子はぎゅっと唇をかみしめ、自分の心の痛みを祐巳さまにさらけ出す。
「その包みに書いてある名前です」
「え、知り合いなの?」
「ええ、半日ほど前からですが」
「今日会ったわけなんだ」
「はい。突然呼び出されて、『つぼみともあろう方が、紅薔薇さまに意見するなんてどういうことですか?』と言われましたわ」
祐巳さまはちょっとびっくりして硬直した。そして、そうと呟く。でも言われた言葉はそれだけじゃない。
「……それから、『姉を姉とも思わぬその行為、あのお優しい紅薔薇さまにふさわしくありません』って」
それは以前、祐巳さまに対して思っていた気持ち。こういうのをきっと因果応報というのだ。
「リリアンの常識からすれば、瞳子は姉を姉とも思わぬ態度だもんね」
「です……よね」
そんなこと判ってる。祐巳さまに自分が釣り合わないことぐらい。同情で妹にしてくれたわけじゃないことは判っているけど、弱い自分はともすれば本当に祐巳さまの妹になって良かったのか不安になってしまう。
そんな瞳子に祐巳さまは慌てふためいたのか、両手をわたわたさせながら言った。
「ああ、違うって、私はそんな瞳子ちゃんが好きなんだもん。それに瞳子ちゃんは私のこと好きだから言ってるって判るから、すごく嬉しいよ」
抱いていた手を離してくれたので、振り返って祐巳さまの慌てる姿を見つめた。
祐巳さまはわたわたと振っていた手を止め、はにかんだ笑顔で頭をかく。そして瞳子に素敵な言葉をくれた。
「そうだねえ、瞳子ちゃんの優しさは判りにくいから。私は瞳子のこと、こんなに素敵な妹で幸せだよ〜って自慢したいぐらいなのに」
どうして祐巳さまはこんな胸をときめかせる言葉をくれるんだろう。
「そうだ! 明日からは中庭でお昼ごはん食べない?」
瞳子が感動したのもつかの間、祐巳さまはまたあらぬ方向に暴走し始めた。
「お姉さま。どこをどうしたらそういう話になるんですか?」
「それで、いちゃいちゃしてるのをみんなに見せつけるの」
そりゃ嬉しいけど、二人きりの所でならともかく、みんなが見てる所ではいくらなんでも恥ずかしい。
「な、ななな、何を言ってるんです! そういうのを世間ではバカップルって言うんです!!」
「あははは、言い得て妙だねえ。なでなでとかにぎにぎとかふにふにとか、いっぱいしてあげるよ」
「な、なんですか?! その怪しい擬音は?」
「よくわからないけど、乃梨子ちゃんが喜ぶぐらいだから瞳子ちゃんもきっと喜ぶって志摩子さんが言ってた。具体的なやり方は明日にでも聞いてみるつもり」
「せめて、電話で聞いて下さい!!」
ふにふにとかされたらどうなっちゃうんだろうとかパニック気味の瞳子の気持ちを知ってか知らずか、祐巳さまは脱線した話を元に戻した。
「それで、その子はどうするつもりなの?」
「え……」
「瞳子はその子に言われっぱなしにはしておきたくないんだよね?」
「はい……たぶん、そうなんだと思います」
なんで判っちゃうんだろう。瞳子もはっきりしていなかった気持ちなのに、祐巳さまに言われてみると、それは瞳子が心の奥でずっと考えていたことなんだと気付かされた。
「じゃあ、頑張れ。私はいつでも応援してる。瞳子ちゃん親衛隊第一号は乃梨子ちゃんに第二号は可南子ちゃんに譲るけど、親衛隊長は私なんだから」
「また訳のわからないことを……」
そのあまりな表現に頭を抱える。
「でも、そうですね、ちゃんと話をして、……お姉さまを見習って、薔薇の館に連れてくるかもしれません」
自分とそして可南子さんがして貰ったこと。それを伝える機会なのかもしれない。
祐巳さまは瞳子をからかうように手をわきわきさせた。
「その時は聖さまみたいに抱きついたりしちゃおうかなあ」
「だ、駄目です!! えーと、そう。そんな山百合会の恥を晒すようなことをしないでください。痩せても枯れてもお姉さまは生徒の代表なんですよ?!」
「うん、いつもの瞳子に戻った。その調子で納得するまでぶつかって来てごらん。もしだめだったら、私の所に戻っておいで。私は両手を広げて待ってる」
そう言って、瞳子の手を優しく取り包んでくれる。ここで抱きしめないのが祐巳さまの優しさであり強さなのだろう。頑張れという気持ちと共に送り出してくれるそんな温もりだった。
「お姉さま……」
「上手くいったら、さっきの瞳子の抱きついちゃ駄目というのも検討しておくね」
「お姉さま!!」
瞳子の叫びはいつものように薔薇の館を揺るがしたのだった。