沙貴さんの【No:1163】『見上げる狂い咲き』のラストをちょっといじってみた【No:1233】『桜の木の下で花は幻想のままに絡み合う』のさらに裏バージョン(裏話にあらず)
風が、吹いた。
「え?」
呟くような若菜の声に気付いて、紫苑は振り返った。
「若ちゃん?」
今日の彼女はどこか様子がヘンだった。そして今は、殊更におかしかった。呆然としたように、一切の動きを止めてしまっている。
「若ちゃんってばっ!!!」
「え?」
あまりにも呆としている若菜の目の前までとってかえす。
「もう、ホントにっ……」
どうしちゃったのよと言いかけて、紫苑は絶句した。若菜が涙を流していることに気がついて。
「ここに居たんだね。今まで気付かなくて、ごめんね」
「若……ちゃん? 何言ってるの?」
流れる涙を拭いもせずに呟く若菜は、目の前にいる紫苑を見てはいなかった。それどころか、その存在に気付いてすらいないかのようにただ桜の木を見て、ふらりと足を踏み出す。
「若ちゃん!?」
奇妙な不安感におそわれて、紫苑は咄嗟に若菜の腕をつかむ。
「……ちょっと待って」
今初めて紫苑の存在に気が付いたとでもいうように、若菜は掴まれた腕に目をやった。
「でも、桜が………」
「落ち付いてよ!」
ぐっ、と握った手に力が入った瞬間。
「離して!」
「あっ!!」
どこにそんな力が秘められていたのか、若菜は掴まれていた腕を強引に振り払った。バランスをくずして倒れた紫苑は、『若菜に突き飛ばされた』という認識にショックを受けていた。
だから、若菜が桜の木にふらふらと歩み寄ってその幹にに触れるまで、ただ呆けたように見ているだけだった。
若菜は愛おしそうに桜の木に手を伸ばす。その手が、ずぶり、と木の幹に沈みこんだ。
「っ!!!」
声にならない紫苑の声。身が震えた。
これまで聞いたことのある桜にまつわるいくつかの伝説が、紫苑の脳裏をよぎった。
曰く、人に望む幻影を見せ、人を取り込む妖の桜の話。
曰く、魅入られた者は生命力を奪われ、衰弱していく怪の桜の話。
曰く、人を喰らう魔性の桜の話。
紫苑の恐怖とは裏腹に、そのままずぶずぶと木の幹に沈み込んでいく若菜の表情に恐怖の色はなく、穏やかな笑みさえ浮かべていた。
その表情を見た瞬間、紫苑は弾かれたように立ち上がった。
「若ちゃんっ!!」
伸ばしたその手は、若菜には届かなかった。紫苑が桜の木に取り付いた時には、すでに若菜の姿は完全に消えていた。
「若ちゃんっ! 若ちゃんっ! 若ちゃああああああああああんっ!!!」
木の幹を激しく叩く音と紫苑の絶叫が響く中。
若菜を呑みこんだ桜の木は。
何事も無かったかのように、ただ静かに。
静かに、佇んでいた。