【1362】 二人でなら生きられる君と2人でいる時間ただ声を聞いていたい  (若杉奈留美 2006-04-20 23:30:40)


それは、何の変哲もない、ある穏やかな春の午後。

瞳子は自らの気持ちのおもむくまま、お聖堂に足を伸ばした。
頭の中に、先日姉から言われた言葉がよみがえる。

「そろそろ瞳子も、妹が必要かもね」

それはあまりに急な話で、正直ついていけなかった。
確かに、お姉さまはあと1年で卒業してしまう。
そのあとは自分が薔薇さまとして、学校を引っ張っていかなければならない。
支えになる妹はどうしても必要だし、代々続いてきた紅薔薇の称号を、自分で終わらせたくはない。

分かっている。
分かっているけれど。

大好きな祐巳との別れなど、できることなら考えずにいたかった。
考えてしまえば、寂しさが表に立つだけだから。
今瞳子にできるのは、誰もいないお聖堂で、1人物思いにふけることだけであった。

(マリア様…どうか、この寂しさを何とかしてください)

そう祈った直後、瞳子は心のうちで苦く笑った。

(でも最後には、やはり自分でなんとかしなければね…)

ほっとため息をついて座り込む。
そのとき。
突然、お聖堂の中に歌声が響き渡った。
これは確かフォスターの、「金髪のジェニー」という曲ではないか。
フォスターが亡き妻ジェニーを思って作った、優しくも悲しい曲。
どこか懐かしいその旋律に、その声はこれ以上ないほどふさわしかった。

今までどうして気づかなかったのだろう。
栗色の髪。
明らかに自分より高い身長。
お聖堂を満たす、やわらかく美しい声。
その少女の背中に羽が生えていないか、思わず探す。
どうやら彼女は人間だったようだ。

「あ…ごきげんよう。ごめんなさい、お邪魔してしまって」

歌っているときと変わらない、優しい声。
彼女は微笑んで、そのままお聖堂を出てしまった。
あとに残された瞳子は、ただ立ち尽くすしかなかった。


午後の授業が、耳に入ってこない。
今まであんな声で話してくれる人など、会ったこともない。
すべてを許し受け入れるような、穏やかなたたずまい。
ひたすら暖かい微笑み。
聞く人の心をなごませる声。

(あの娘のそばで、あの声を聞いていられるなら…)

そう思わずにはいられなかった。



それからというもの、瞳子は毎日昼休みになるとお聖堂へと足を運んだ。
あの少女は毎日いるわけではなかったが、それでもよくマリア様に、いろんな歌を捧げていた。
どの歌もみな、どこかで聞いた懐かしく優しい歌。
それを聞いている時間は、瞳子にとってこの上ない幸せなときだった。

そして今日も、いつものように歌声を聞いていたとき。

「ごきげんよう、ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン」

心臓が、胸の皮膚を突き破って外へ飛び出しそうな感覚。
一瞬のうちに、喉がカラカラに渇き、出そうと思っていた言葉が引っ込んでしまう。

「ご…ごきげんよう。よく、私のこと…ご存知ね」

やっとのことで、それだけを喉から搾り出した。

「松平瞳子さまでしょう?ちゃんと存じ上げておりますよ」

(もしもマリア様が今生きていらっしゃるなら、きっとこんな感じかもしれない)

瞳子は思った。

「あなたは…ここでよく歌っているわね。えっと…」

そのとき初めて、瞳子は目の前にいるマリア様の名前を知らないことに気づいた。

「佐伯ちあき。1年李組です」
「そう…李組なの…」

それから少しの沈黙をはさんで、ちあきは話し始めた。

「少し前の話なんですけど…私の祖父が、亡くなりました。
85歳で…大往生なんて言いますけど、実際1か月も延命治療してたんですよ。
体中に管つけてね。
もう痛々しくて、見てられませんでしたよ。
…祖父は若い頃、歌手になりたかったって言ってました。
その夢はかなわなかったけれど、歌うことは好きで、私にもたくさんの歌を聞かせてくれました。
とりたてて信仰もなかった人ですけど、私が外部受験でリリアンに入ったあとに、
急激に弱り始めて…。
亡くなる直前、神父さんを呼んでもらって洗礼を受けて…今はマリア様のもとで、
穏やかに暮らしていると思います」
「じゃあ…あなたが歌っていたのは…」

ちあきは瞳子の目をまっすぐに見つめた。

「みんな祖父の大好きな歌です」

瞳子の目から、次々こぼれるものがある。
なんと幸せなおじいさまだろう。
これほどまでに、孫娘に愛されるとは。
なんと幸せな孫娘だろう。
これほど祖父を愛せるとは。

「まるで祖父と入れ替わるように、妹が生まれました…
祖父にそっくりの、かわいらしい妹です…
せめて一度でいいから、抱かせてあげたかった…」

ちあきの瞳が、うっすら濡れて光っている。

「どうしてでしょうね…瞳子さまになら、私、すべてを話してもいいと思ったんです。
なんだか、そばにいると落ち着くんですよね」

瞳子の答えは、決まった。

「それなら…今度はあなたが、妹になればいいわ」
「私が?」

瞳子は自分の首から、代々受け継がれたロザリオをはずした。

「おじいさまの代わりには、きっとなれないけれど…
このロザリオは、あなたにこそ似合うものだと思うから。
あなたの声を、今度は私にも聞かせてほしいの。
…私の、そばに、いてくれますか?佐伯ちあきさん」

ちあきは首を横に振った。
瞳子の腕が、空中で凍りつく。

しかし。
ちあきは瞳子の腕にそっと触れると、ロザリオを自分で首にかけた。

「ちあきと、呼んでください…お姉さま」
「…いいの?」

ゆっくりと、でも力強くうなずくちあき。

「はい。私は今日から、あなたの妹です、お姉さま」
「ちあき…」
「お姉さま…」

互いをこの上なく優しく抱きしめあう。
そんな2人を、マリア様だけが見ていた…。


(あとがきという名の言い訳)

ごきげんよう、若杉です。
瞳子ちゃんとちあきちゃんの、なれそめをちょこっと書いてみました。
のちの世話薔薇さまの、ちょっと初々しい姿です。
延命治療のくだりは、うちの父方の祖母が亡くなる直前の状況をもとに書きました。
さすがに洗礼までは受けなかったけど(汗


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