【1415】 ありがとう瞳ほほに一筋  (MK 2006-04-28 16:06:00)


「私はセーラのようないい子ではないんです。」
 そう演じて、私はその場を去った。


 私は、昔から演劇が大好きだった。
 いつから好きだったのかは覚えていない。ただ、初等部の学芸会の時にはもう自分から主役をやろうとしていたのは覚えている。
 自分を自由に変えられる、そんな演劇が大好きだった。演じるだけで、お姫様や魔法使い、先生や男の子、何にでもなれる。そんな演劇が大好きだった。
 日常生活でも、そんな演劇は役に立っていた。「いい子」「明るい子」「笑っている子」、そんな役を演じるだけで友達は増えていく。大人たちは微笑んでくれる。純粋にそういった相手の反応が嬉しかったから、私は演劇が大好きだった。
 そんな中、何度か家族で観に行った舞台で、女優という職業を知る。女優が表情を変えるだけで、言葉を紡ぐだけで、舞台の空気が、会場の空気が変わる。そんな女優に私は自然と惹かれていった。ますます演劇が大好きになっていった。

 両親から将来のことを聞かされるまでは。
 その時も私は微笑んで、両親に応えていたように思う。

 中等部に入っても、私は演劇を続けていた。自分を保つ唯一の手段として。そんな中、祥子お姉さまが紅薔薇のつぼみの妹になったと知った。勿論、私としても嬉しかったので、すぐにお祝いに駆けつけた。
「おめでとうございます。祥子お姉さま。」
「ありがとう。でも私は山百合会の幹部に名を連ねるのが嬉しいのではないわ。お姉さまの妹になれるのが嬉しいのよ。」
 そう言って、祥子お姉さまはいつもの凛とした笑顔でお迎えして下さった。
 そして私は、高等部に入ったら山百合会に入ろうと、薔薇さまになろうと決意した。その時の祥子お姉さまはとても輝いているように思えたから。
 その決意は一年半後、祐巳さまという妹を祥子お姉さまが迎えても変わることはなかった。私にも「薔薇さま」を演じることは出来る。そう愚かにも思っていたのだった。

 高等部でも、中等部と同じように演劇部に所属した。ただ、最初に演じることになったのは演劇部ではないけれど。
 最初は祥子お姉さまの妹である祐巳さまの姿を直に確かめたかった。そうして、素の自分をさらけ出して、あたふたしている祐巳さまをみっともないと感じた。稚拙だとさえ。

 なのに。

 その、素の自分をさらけ出している姿が輝いて見えるようになったのはいつからだろう。演じている訳ではないのに、惹かれていくのはどうしてだろう。
 反対に、祐巳さまに優しく声をかけられればかけられる程、気にかけてもらえればもらえる程、気持ちが沈んでいくのが分かった。
 誰にでも優しい祐巳さま。そう「誰にでも」。そう気づいたとき、とても醜い感情が私の中に渦巻いているのを感じた。

 誰でも大なり小なり、心に鎧を持っているものだ。そして、本当に信頼する人の前でだけ、その鎧を脱ぎ捨てる。ただ私の場合、どこまでが自分でどこまでが鎧かその境目が曖昧になってしまっていた。私の場合、その鎧は分厚く、身動きがとれなくなっていた。私の場合、渦巻く感情が棘として突き出していた。
 そして祐巳さまの場合、その鎧は無いに等しいもので、こちらの棘にも気づかず私に手を伸ばしていた。


 だから私は、その手を振り払うことにした。
 簡単なこと。私に貴女は必要ありませんよ、と演じればいい。
 そう演じて、私はその場を去った。
 私は傷ついているはずなのに、涙を流さずひたすらに歩を進める。
 私は傷ついているんだろうか、歩きながらそう自分に問いかける。
 答えは返って来なかった。それでも問いを繰り返す。
 それはとても滑稽なように感じられた。


 そんな喜劇の数日後、祥子さまより手紙が届いた。それは一通の招待状。当然、祐巳さまも行くだろう。
 祐巳さまにとっては嬉しい招待状。
 しかし、私にとっては道化を演じるという辞令にしか見えなかった。
 手紙は机の引き出しに仕舞っておいたのだけれど、正月が近づくにつれ気になってしょうがなかった。手紙を捨てるという気にもなれなかったのだけれど。
 そうして正月を迎えた。

 今、私はベッドの中にいる。今頃、祐巳さまたちは揃って同じ部屋で寝ていることだろう。
 ふと思う。新年会に行っていたら、祐巳さまの隣に寝ていたのだろうか。近くにいれば、きっとあの人を傷つける。それでもあの人は笑ってくれるのだろうか。
 そんなことを考えていると、いつの間にか意識は闇に溶けていた。


 ここはどこかしら。
 レールの上を走るトロッコの上に私はいた。枝分かれするレール。平行して走るトロッコに祐巳さまが乗っていた。
「こっちにおいでよ。一緒に行こう?」
 でもレールを切り替えるレバーが動かない。
 ああ、そうか。私は身の回りを確認して納得する。
 私の着ている鎧が重すぎて、レバーが動かないのか。それに脱ごうにも境目が分からない。私の体と一体化しているようだった。
「私は大丈夫ですから、祐巳さまはお気になさらずに。」
 そう伝えると、祐巳さまはかぶりを振る。
「貴女じゃないと私は駄目なの。」
 何が駄目なのか。そう聞く前に、祐巳さまはこっちのトロッコに乗り込んできた。
「駄目です。危ないですから。」
 そう、私の鎧には棘があった。それは乗り込んできた祐巳さまにも刺さったはずなのに、祐巳さまは平然として棘を抜き始めた。
「大丈夫。大丈夫だから。」
 そうして、私の鎧には棘が無くなった。でも棘が無くなったとて、分厚い重い鎧がある。それがある限り、レバーは替えられそうになかった。
 それでも。
「一緒に行こう?」
 そう言って祐巳さまは、どうやったのか私の体だけ鎧から出した。ただ、それだけではレバーが替えられないのは同じ。
 すると祐巳さまはにっこり笑って、
「乗り換えればいいんだよ。」
 と、言うと私を抱えたまま隣の、祐巳さまが乗っていたトロッコに乗り移った。
 気がつくと、元のトロッコは見えなくなっていた。
 ふと、祐巳さまを振り返る。祐巳さまはなぜか涙を流していた。
「私は、貴女が、いないと、駄目、だから。」
 祐巳さまに応える前に私の意識は再び闇に溶けた。


「ん…。」
 目が覚めると朝だった。夢を見ていたような気はするけど、全く覚えていなかった。
「あら…?」
 ふと頬に冷たい感触を覚え、手をやる。水滴がついていた。
「涙…?」
 言いようの無い感情が溢れ、もう一筋だけ頬を伝う。何味の涙か、自分にも分からなかった。
 着替えを終え部屋を出ると、ばあやが声をかけてきた。
「おはようございます、瞳子お嬢様。初夢はご覧になられましたか?」

「いいえ、今年は見られなかったみたいね。」
 私は少し残念そうな顔をすると微笑んだ。


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