【1421】 旅立ちの勇気を  (一体 2006-04-30 11:04:26)


 この作品は無駄に長い上に原作「未来の白地図」に後半に収録された「薔薇のダイアローグ」の劣化コピーのような作品{気がつけばそんな風になってました{汗}です。
 
 
 
 何事もなく、といいたいところだが、そうも行かないのが世の常。と、ちょっと捻くれた言い方をしたけど、結局のところこの目の前の状況は自分にとってまあいつものこと。 
 
 「ちょっと、令ちゃん! 何、笑っているのよ!」

 そう、目の前の誰かさんがぶんむくれているこの状況は。
 ため息はもう一生ぶんは出した。たぶん、自分ひとりで二人分ぐらいの地球温暖化に貢献したに違いない。なんて反エコな存在だろう。
 その甲斐あってってわけじゃないだろうけど、
 
 「ごめんごめん。でも由乃、ここではちゃんとお姉さまと呼びなさいといったでしょ」
 「う……はい、お姉さま……」

 最近は由乃のあつかいも少しは上手くなったような気がする。
 ちなみに令がいった『ここ』というのは、周りから絶え間なく聞こえてくる何かを長いものを振り回している音や、日常では出ることない咽から搾り出さている甲高い声。そしてなにより、そろそろ『馬子にも衣装』という看板を取り外してもいいかな、と思うようになるくらい新品の胴着が馴染んできた由乃が目の前にいるこの場所、といえばもうお分かりか。
 そう、『ここ』というのは剣道場のこと。
 さらに踏み込んで言えば、『ここ』というよりも令と由乃が所属している剣道部の活動中である『この時間』と言った方がより親切設定というものだ。

 で、この時間において由乃が令のことをお姉さまと呼ばせる理由だけど、ぶっちゃけていえば、公私のけじめ、ってやつ。
 いくら自分が由乃に甘いからって、ここでは由乃は特別でもなんでもなく他の部員と一緒で平等に扱わないといけない。あくまでここでの由乃は、令にとってただの一部員にすぎないのだ。
   
 まあ、しかし、だ。
 そこで令は先ほどから浴びせられる熱視線が一向に弱まってないのを確認して、はあ、とため息をつく。
 見ての分かるとおり、由乃はそんな令の保証なんて知ったことじゃないとばかりに、むー、とそのほっぺを膨らませて令を睨みつけていた。
 無論、由乃とてここで令に突っかかるは立場上まずいとわかっているのだろうけど。うちの由乃は無茶、無謀、無思慮の三三七拍子な爆弾娘。一度火がついたらそう簡単には止まらない。
 さて、こまった。
 ふくれてる由乃をちょっとだけかわいいと思わないでもなかったが、そんなことをいったら最後。むー、と膨れた顔が、がう! と噛み付きに変わるのは目に見えるので口にチャックを引いておく。
 ただ、口にチャックをしたはいいが、 
 
 「ちょっと、れ、お姉さま。なんか今、わたしのこと馬鹿にしませんでした?」
 
 心まではチャック出来なかったのか、こういう時だけやたらとカンのいい由乃が令の内心を見透かしたような発言をした。 
 令は、内心の焦りをおくびにも出さないように口を開く。

 「そんなことないよ」

 我ながらさらりといえたと思ったが、由乃が納得してないのはそのぷっくぷくに膨らんだほっぺを見れば一目瞭然。それはもう風船みたいにぷっくぷくで、今にも空に浮かびそうなぐらいに膨れていた。
 で、そんな熱気球が令を目の前にぷくーと浮いてるそのわけは、 
 
 「で、お姉さま、今日は部活に出ない、というのはどういうことですか? そんなの一言も聞いてなかったんだけど」 

 とまあそういうこと。
 道場に顔を出したはいいが、今日は部活に出ない、とわたしが言ったもんだからうちの我侭娘はおかんむりだったりするのだ。
 
 別に令が由乃を直接指導しているわけではないので、由乃にはそれほど影響はないのだろうけど。自分だって由乃からそんなことを言われたら慌てふためくに決まっているので、令には由乃のぶんむくれる理由は分からないでもない。
 けど、それがわかっても令は前言撤回をする気にはなれなかった。
 だって、この、今日は、が、今日も、に変わる日もそう遠くないのを知っていたのだから。
 令たち三年は、もう実質引退したに等しい。いや、それはもう道場を見回して交流戦の前には結構いた同輩がめっきり減ったのを確認すれば、もう実質なんて言葉は油性マジックできゅきゅと塗り潰してもいいいだろう。
 三年生は実感しているのだ。ああ、もう自分の部活動は終わったんだな、って。
 悲しいけれど、もうわたしたち三年の出番じゃない。これからは後輩たちが頑張っていかないといけない。
 令もそれがわかっているから、いくら由乃がかわいい表情を浮かべてもこの鉄の意志が揺らぐことなどありえなか……。
 ここで、令は由乃をちらりと見た。
 由乃は、上目使いで令を真っ直ぐ見つめていた。
 
 (……ええと、今日ぐらいは出てもいいんじゃないかな……)
 
 鉄の意思とやらの構造がまったく鉄骨の足りていない欠陥設計なのをすっかり露呈したところで、由乃とっては厳しい部活の先輩、もとい令にとっては頼れる後輩のちさとちゃんが二人の間に入ってくる。

 「ちょっと、由乃さん! 何、そんなとこで油売ってんのよ!」
 「あ、油なんて!」

 由乃がそう言うと、ちさとさんはそれはもう嬉しそうに、でも目元は全然笑っていない微笑を由乃に向けてたりした。
 その笑顔は、なんとなくだけど江利子さまを彷彿させる。本家には及ばないかもしれないが、分家ぐらいの威力は優にありそうだ。
 そんな分家さんがにこやかに口を開く。
  
 「あら、それじゃあ練習前のノルマ『素振り五十回』は終わったということね。ふーん、わたしの知らないうちに由乃さんは随分と上達したみたいね。目にも止まらぬ、とはこのことかしら? これは私もうかうかしてられないわね」
  
 その分家さんの言葉が、また本家を彷彿とさせるものだったので令は思わず噴出しそうになる。
 そして分家さんのお言葉をいただいた本家本元青信号はというと、 

 「う、まだ……」
 「まだ? 何? 何がまだなのかなー? おねえさんとってもしりたいのだけどなー」
 「……終わってない」

 意外や意外、日ごろの青信号が嘘のように黄点滅で大人しくなっている。
 すわ! 天変地異の前触れか、などと驚くかもしれないが、実は実は今ではよく見られる光景だった。
 由乃が蚊の鳴くような声で答えた後、分家さんの声が一変した。

 「なら、何をぼけっとしているの! さっさとやりなさいっ!!」
 「はいっ!」 

 そして、答える返事も気持ちいいほどの声。
 この二人、出来たてなのになかなかにいい師弟ぶりを発揮していた。
 まあそれは今だからこそ言えるのであって、当初、ちさとさんにしごかれる由乃の光景を見て自分は思わず目を疑ったものだ。 
 正直、驚いた。ちさとちゃんにじゃない。由乃にだ。由乃に、上の指示には従う、という体育会計のノリは合わない。いや、適応できないと思っていた。

 リリアンは女子高だし、その校風上あんまり他の高校に比べたら厳しくないと思うかもしんない。けど、はっきり言おう。間違いなくそんじょそこらの学校よりはここの指導は厳しい。特に、目上の者に対する礼儀は一番なくらいだ。
 リリアンなのに、と思うかもしれないが、これはむしろ、リリアンだからと言った方がいいだろう。
 リリアンに通うものにとっては、スール制度もあいまってか自然と後輩を躾けようとする気持ちが生まれている。そしてそれは同時に、人を教える立場に立つことの責任により自らもそれに相応しいようにという気持ちも発生する。
 これは別に当たり前のことで、リリアンに限ったことじゃない。が、ここでその当たり前をさらに補足するリリアンならではのファクターが存在する。
 
 それは、マリア様。
 リリアンは、いつもマリア様によって見守られている。少なくとも、リリアンに通っている大半のものはそう思っているだろう。むろん、自分もだ。
 マリア様はリリアンを見守られている、ただ言い換えればそれはこうともとれる。見張られている、と。
 勘違いしてほしくないのは、これは別に悪い意味で言ったわけじゃない。マリア様は私たちが悪い道に踏み込まないように哀れな子羊を見ていてくれるのだ。感謝すれこそ、非難するなどもってのほかってやつだ。
 その気持ちがあるからこそ、私たちはリリアンの生徒はマリア様の教えに背かぬよう己を律していこうとする心構えが出来上がるのだろう。ちなみにうちの由乃については、ちょっとノーコメント。
 と、話が少しずれてしまったが、そういう気風も相まって剣道部ではかなりガチガチセメントな体育会系。そりゃあもう、ビシバシってやつだ。あ、もちろんここでは私もね。……ホントだよ。
 
 でもって、うちの由乃は学年が2年生でも剣道歴一年も満たない一番のペーペー。たとえ同級生のちさとちゃんでも、その指導に逆らうのは許されない立場にいる。
 このことは部に入る前に口をすっぱくして言って由乃も頷いていたのだが、はたしてどうなるやら、と自分は疑っていたものだ。
 けど、それは見事なまでに裏切られた。それもいい方向に。
 多少の突っかかりはあるけれど、由乃はちゃんと指導をしてもらってるちさとちゃんを初め他の部員の指導にも素直に従っている。
 少なくとも、部室で令を頼ってくるようなことはない。何とか自分でなんとかしようと頑張っている。今もまた、ちさとさんの指示により素振りを令の目の前で頑張っている。
 うん、ここは素直に認めよう。令は由乃を見くびっていたのだ。

 (ほんとまあ、よく我慢している。あの由乃が)

 家に帰ると真っ直ぐに家に来て愚痴を言う時もあるがそれは愛嬌。いや、あの由乃がそれぐらいのガス抜きですむのなら安いもの。もってけ泥棒! てなもんだ。
 令は内心で温かみのある笑みを浮かべながら由乃の素振りを見つめていた。

 (うんうん)

 由乃の素振はそれは他の部員に比べて拙いものだったが、最初に比べて明らかに進歩のあとが見れた。それがなにより令にとっては喜ばしい。
 姉バカなのは百も二百も合点承知。けど、こやつに対してそういう気持ちを抱くチャンスがめったにないので許していただきたいのだ。
 
 (由乃、基本は何よりも大事なんだからしっかりやんなさいよ)

 さて、これ以上半分引退した三年がいても邪魔になるだけだ。
 素振りをやっている由乃を横目に、令はちさとちゃんに、由乃をお願いね、と目礼をした後、部室を去ることにした。 
 それを目ざとく見つけた由乃が、慌てような声を上げる。  

 「あっ、令ちゃん!」
   
 こらこら、お姉さま、でしょうが。まだちょっとツメが甘いぞ。
 令は、苦笑を浮かべながら出口に向かっていた足の向きをくるりと180度回転させた。

 「由乃、話があるなら家で聞いてあげるから、今はあんたがやるべきことをしっかりやりなさい」

 そういって、令は由乃の額をコツンと軽く突いた。突かれた由乃は、うー、と小さく唸り声を上げた後、

 「……わかったわよ」
 
 と小さく返事をする。
 明らかにその返事は渋々。けど、すぐに由乃は竹刀を握り締めて黙々と素振りを再開させていた。
 その姿を見て、令は自分が由乃を見くびっていたことを再確認した。嬉しさと、幾ばくかの寂しさとともに。 
 改めて、令はちさとちゃんや他のみんなに挨拶をして道場を後にした。
 
 令が部室から出て上履きに履き替えているその時、どうっ、と腹の底から響くような怒声が道場から響き渡る。
 知らないもの聞いたら怪獣の唸り声にも聞こえるそれが、何を意味しているのかを令は知っている。それはもうよく知っている。
 怪獣の声の正体。それは、始まりの挨拶、だ。剣道部の。
 それは、間違えようが無い、と確認することすら必要ないぐらい令とっては当たり前のことだった。
 しかし今、令にとって当然のことであることの一つが欠けている。
 その声の中に自分の声がはいっていない、そんなのこれまでの令にとってありえないことだ。
 だが、いくらありえないと思っても令は現実にここ(外)にいる。
 それを意味することは、
 
 「……終わりの始まりってやつ、かな」

 令は、これまでに使い古されて何度もリニューアルされたかわからない言葉を口にした。
 そしてその呟きは、なんてね、と心の中だけで続く。
 だけどそう呟いたものの、令の胸にひゅーひゅーと空虚な風が吹きこんでいた。
 じんわりと広がってくる喪失感が、それが確かなものだと自分に教えてくれる。
 ひょっとしたらそれは、アンニュイってやつかもしれない。
 柄にもなくそんなことを考えながら、令の足取りはすたすたとバス停に向かっていく。
 
 ひゅう、という自然の営みによって起こった大気の揺れが令の耳朶を軽く叩き、赤茶色の秋色に染められた葉っぱがころころと足元を転がっていくのが見える。
 その営みはそよぐというほどに優しくもなく吹き付けるというほどに乱暴でもなく、歩くという運動行為をしている令にとってはちょうどいいものだった。
 そんな気持ちいい秋風が、令の鼻腔を心地よくくすぐる。ただ、心なしかその風は昨日よりまるで薄皮一枚脱いだように微かに冷たく感じられた。
 その微かな風の悪戯によって冬の匂いを感じとった令は、冬の到来がすぐ傍に迫っているのだと悟った。
 そう、冬が。この制服を着て迎える最後の冬がすぐ傍に迫っている。
 
 (……この制服を着るのも今年で最後か)
 
 令は軽い感慨を持って、自分の着ている制服に目を向ける。
 手首まですらりと伸びた袖から分かるように、それは冬服ヴァージョン。約二ヶ月ほど前に押入れから引っ張り出したときは、その布の厚みが、ダイエットのお供にしかならないじゃないか、などとげんなりしたものだが、冷え込んだ今ではすっかり身体の一部といっていいほどに馴染んでいた。 
 ただ馴染んだがいいが、それに比例するかのようにいささかよけいな『おまけ』がついたりもした。

 令は最近出来たばっかりの『おまけ』に呆れたような目を向ける。
 そんな呆れビームな視線の先には、ぴょこっと恥ずかしげに糸が飛び出して令に挨拶しているのが見てとれる。
 むろん令とて挨拶は嫌いではないのだが、この挨拶だけはいただけない。こんな制服から飛び出ての挨拶なんて真っ平ごめんだ。
 変な言い方をしたけれど、まあ、あれだ。ぶっちゃけて言えば、解れがあったりするのだ、この制服。
 むろん、いかに良い布を使っていても衣服というものは消耗品。ほつれなんてあって当然(?)なのだが……。
  
 (これは、三日前にひっかかれたときのやつ、だね)

 いい布だろうが悪い布だろうが関係なしで、令の制服の解れにははっきりした外部要因が存在した。 
 して、その要因は、
 
 (なーんて、言うまでもない、か)

 ここで、令はぽりぽりと自分の頭をかいた。
 そう、この襟元のほつれも、右袖のほつれもぜーんぶあやつのせいだったりした。
 令は、げんなりしながら余計な仕事を増やしてくれたアレに対して恨み言をぶつける。
 
 (あーあ、ここなんかこの前直したばっかりなのに……由乃のばか) 

 はあ、たぶん、自分はこんなことを思いながらほつれを直すのだろう。
 これは、由乃によって、これも由乃によって、ああ、結局全部由乃のせいじゃない、などといってふて腐れながら。
 そして、同時に心のどこかで苦笑しながら。

 (……はは、ほんとうに由乃は馬鹿なんだから)

 そうこうするうちに、令の目の先に目的地であるバス停の停留所が目に入ってきた。
 令は座りなれたバス停のベンチに腰を下ろし、大きく息を吐いた。
 そんな白に塗りたくられた自分の吐いた大気が四散するのを見つめながら、令はこのごろすっかり帰るのが早くなった真っ赤な太陽、もとい夕日に目を向けた。

 二年と半年ちょっと、か。
 令は、夕日を見つめながらそんなことを頭に浮かべる。
 二年と半年ちょっと、そんななんでもない年月の羅列が令にとって大切なことを意味していた。
 月日がたつのははやいもの。令がリリアンに入ってからもうそれだけの月日がたっていた。
 それは決して短いものではないはずなのに、気がつくとあっという間に過ぎていたような気がする。あるいはその原因は、リリアンでの生活によって私と由乃の距離がこれまでの人生で一番近くなっていたからなんだろうか。 
 むろん、由乃は自分にとってこれまでも特別な存在だった。だけど由乃を妹にすることによって、それまでのより強固な関係が結ばれたような気がしたのも確かだ。
 ……ん? なんか一回妹を解消振させられたような気もしないでもないけど、それはもう時効ということにしておこう。
 などと都合のいい考えを浮かべながら、
 
 (……いもうと、か)
 
 令は自分の思考の中に通り過ぎようとした単語をひょいと捕まえてみる。
 妹、ここでいう妹は血の繋がった姉妹を指すわけじゃなくて(って、まあ本物の姉妹みたいなもんだけど)、言うまでもなくリリアンでの妹(プティ・スール)を指している。
 リリアンで令と由乃のような姉妹(スール)関係はあまり見られない。いや、今のはちょっと控えめがすぎた。
 訂正。はっきりいって自分たちのような姉妹は、唯一無二といっていい。こんなにも刺激的、もとい特殊な姉妹はこれまでも。そして、おそらくはこれからも。
 まあ、これはちょっとばかし私と由乃のお家の事情が少々絡んでくるので目をつぶってもらおう。それに、特殊だからって人さまに後ろ指を刺されるようなことはしてないし……たぶん。
 ただ、最近こんなことが令の頭によく浮かぶ。

 (もしもだけど、由乃と姉妹の契りを結ばなかったらわたしはどうしたのかな?) と。

 なんで3年生の半分も過ぎたこの時期に今更こんなことを、と思わいでもない。
 別に、由乃と姉妹の契りを結んだことがいやなんじゃない。それについては、絶対に違う、と声を大にして言えるし、令は由乃がリリアンにいるなら絶対に由乃を妹にしただろう。それは間違いない。
 ただ最近、すっかり逞しくなった由乃を見ていると令の頭にシグナルが点灯してきたりしてくるのだ。
 まあ点灯といっても、ピカッ、という光るようなレベルではなく、チカッチカッ、とまるで壊れた電灯が時々光るようなもの。
 例えるなら、ぴかっ、ぴかっ、ちかっ、ちかっ、とこんな感じか。
 
 そう、今もまた。 
 ぴかっ、ぴかっ。ちかっ、ちかっ、と……て、あれ?
 その今の目の前に光っている点滅を認識した令は、慌てて意識を現実に引っ張り込んだ。

 「あっ!」

 その点滅の正体。それは令がいつも乗り慣れている時間より一時間は早い回送バスのハザードだった。
 心なしかバスの規則正しく点滅するハザードが令に、乗るの? 乗らないの? と決断を迫っているように感じられる。
 令はこんなところで座りっぱなしで『怪奇! バス停で佇む謎の(美)少女』などというリリアン七不思議の一つにでも数えられるのは真っ平ごめんだった。
 そんな意地悪ハザードに答えは行動で示すと言わんばかりに、令は慌ててカバンを持って立ち上がりバスに乗り込む。
 
 フォン!
 令が乗り込むと同時に扉が閉まりバス特有の高い警笛が令の耳を打ち、お、と思うような力強いエンジンの振動が令の足裏から伝わってきた。
 その力強さが少しずつ大人しくなるにつれて、外の景色が早く流れていく。
 何で早くなるのに力強さが軽くなるのかは言うまでもない。ゼロからの発進が一番にパワーが必要だからだ。
 車も。そして、それは人もだ。
 
 さて、と。 
 彼女が立ち去った後、令はカバンを漁りある一冊の本を取り出した。
 いつもであれば令の手には○○文庫とか握られてたりするのだが、その大きさは明らかに文庫とは一回りも二周りも違っていた。
 例えるなら大人と子供。これがどっちなのかは、言わずもがな、というやつか。
 
 で、その大人の正体とは? 
 それは、基本的には受験生の味方。でも切羽詰ったときは、もう見たくもない、という意味で潜在的な敵にも華麗に変身する参考書だったりした。
 でもまあ、どちらにしても受験生には必要不可欠ということでは間違っていない。
 令は、そんな自分の考えに苦笑を浮かべながらさっそく参考書を開いた。
 こんな揺れるバスの中まで、なんて聞こえてきそうだが、時間というやつは有限だ。それこそ一秒たりとも無駄にはしたくはない。
 それに、

 「こんな姿、由乃に見られたら何言われるかわかったもんじゃないしね」

 と、そのようなことをぼそりと口にする。
 そう、こんな千載一遇のチャンスは逃すわけには行かない。わたしが由乃に見られないように行動するのは、中々に骨が折れることなのだ。
 由乃あの性格はひょっとしたらわたし限定で『スッポンの江利子』(まったくもってお似合いだと思う)という、仮にも女子高生に付けられるのはあんまり相応しくない異名をもった江利子さまの性質が受け継がれたのかもしれない。
 そこで令は開いていた参考書をパタンと閉じ苦笑を一つ入れ、 

 (……いや、どちらかというと由乃は子犬かな? ぎゃんぎゃん吠えるし)
 
 それこそ本人に聞こえてらぎゃんぎゃん吠えられるであろうことを頭に浮かべた。
 しかし、 

 (でも、それもそれでかわいいといえばかわいんだけどね)  

 同時にそんな由乃を好ましく思っていることもまた事実。やっぱり、そんだけ親しい仲っていえることなんだから。
 ただ、時として見られたくもない時もあったりする。いや、正しくは、まだ知られたくない、と言ったほうがいいか。
 で、そのまだ知られたくないものが、今、自分が目を食い入るように参考書を見つめてる、というこの事実。
 
 なんでそれを知られたくないのかってのは、今、自分の心に燻っているものを話す必要があるだろう。
 今更だが、リリアンではいわゆるエレベーター制の一貫教育を掲げている。
 つまり、『ここを真っ直ぐ! あなたのリリアン女子大学』としっかり太字で書かれている道が令の目の前に示されている。
 そしてそれは、由乃を初めまわりも自分がその道に進むことを疑ってない。そういう、自分ですらそう思って……。
 そこで令の首は、まるで人形のように規則正しく左右に動いた。
 そう思ってた、じゃない。単に、それ以外の選択肢を考慮にしなかっただけ、だ。
 
(……リリアンを離れる、か)

 その言葉は令の心にとても新鮮に響いた。だって、それは由乃と離れると同義なのだから。 
 でも、このことは由乃にはまだ言えない。
 その理由はまだ完全に決めてないというのもあるのだけど、それ以上に、来年はリリアン大学に行かない、なんて令がいったら由乃は反対すると思ったからだ。
 おそらくは反対する。すくなくとも素直には頷いてくれないだろう。それは理性じゃなくて、感情で、だ。それは付き合いの長い自分にはわかる。例えそれが正しいと分かっていてもとりあえず反発せずにはいられない。それが由乃の性格だ。

 そして困ったことに、自分はそれを心のどこかで期待しているのだと思う。
 自分は由乃が反対してくれることを期待しながらそれを告げ、由乃に反対されることによって由乃に必要とされているという愉悦を味わいながら、じゃあ残るよ、なんて由乃に答えてしまいそうになる。
 
 それじゃあダメなのに、それじゃあ今までとなんにも変わらないってわかっているのに、安易な道を選んでしまいそうな自分がいる。
 そこまで考えて、令は深いため息をつく。そのため息はただのため息と呼ぶにはあまりにも深く、苦いものが含まれていた。
 
 (……まったく、由乃が馬鹿なら、自分は大馬鹿じゃない)
 
 令は何をするにしても、由乃のため、というものがあった。
 なんにするにしても、自分の行動は常に由乃が引用された。それがいいことであれ、悪いことであれ。由乃を引き合いに出そうとした。
 常に、由乃との繋がりを求めようとした。
何で、と聞かれても答えようがない。これはもう、支倉令にとっては当たり前のことなのだから。  
 
 親が子供を愛するのに理由が必要なのだろうか? いいや、悲しい例外も世の中にはあるのだろうけど、大半の親が自分の子供に対して愛情を注いでいることは間違いない。そして、そのことに理由なんて必要ないと思う。
 それと自分の由乃に対する気持ちを同列にするのは間違っているのかもしれないけど、たぶん自分の由乃に対する気持ちはそれと同種なのだと思う。
 
 ただし、だ。この自称保護者は一つ大きな問題があった。いつまでたっても子離れができないのだ。
 普通なら子供の成長を見届けたらそっと草葉の陰を離れないといけないのに、いつまでたってもこの保護者は同じそっとでも、由乃の後をそっとストーキングをやっているダメ保護者だ。

 むろん、由乃が成長することはむろん嬉しい。それは嘘じゃない。
 けど心のどこかで、なんで由乃はわたしを置いていってしまうの、などと思っている自分がいた。 
 はあ、どうやら支倉令という心のキャパシティは自分で思っているよりも相当に狭いらしい。例えるなら、その広さは由乃一人しか入れない1LDKといったところか。
 この狭量な心は由乃の成長そのものは嬉しく思ってはいても、いざ由乃が成長して自分の手から飛び出そうとするのを見て慌てふためいている。
 ひょっとしたら自分は元気に成長した由乃を見つめながらも、昔の令を頼ってくれるひ弱だった由乃を心のどこかで求めているのかもしれない。
 ああ、まったくもって先生の言ったとおりだ。令はそのようなことをぼんやりと考えた。

 『支倉さんさ、島津さんがいないとだめなわけ』 

 それを令の耳が先生に言われたのは一年以上も昔のこと。しかし、いまでも耳について離れていない。
 何故なら、これほどまでに令にとっての由乃との関係を表している言葉だったからだ。
 結局、由乃が世話を焼かすのではない。構図的にそう見えるかもしれないが、事実はまるっきりの逆だ。
 自分が、世話を焼きたい、のだ。
 由乃の世話を焼きたいのだ。
 これはもう依存といっていい。
 でも、それぐらいに自分は由乃に囚われている。
 それがどれだけ愚劣と言われようとも、自分は由乃の傍にいたいのだ。必要とされたいのだ。
 
 由乃にこんなにも依存してる自分が情けないということはわかっている。けど、令の心は由乃が他の人と仲良くしているのを見ると心は軋んでいた。  
 それは由乃の親友である祐巳ちゃんにでさえそうだ。
 そう、自分は祐巳ちゃんに嫉妬している。
 それが筋違いなのはむろん承知だけど。ずっと自分に目的を与えてくれた由乃が令の手から離れていって、自分はこれからなにをすればいいかわからなくて由乃の傍にいるすべての人に対して暗い情念を抱きそうになる。
 それじゃだめだと頭ではわかっていても、心はまだそれに追いついていない。
 
 (……ふふ、我ながら最低だな)
  
 今日一番の深いため息をつこうとしたそのとき『ぴんぽーん!』と甲高い電子音が令の耳に飛び込んでくる。
 はっ、として沈んでいた顔をあげた令の目に飛び込んできたものは『つぎ止まります』と大きく写っている電光掲示板。
 窓から外の景色からちらほらと見慣れた建物や看板が目に入ってくるのを見て、気がつけばバスがかなり進んでいることがわかった。
 その気分は、まるで軽い三年寝太郎、じゃなくて浦島太郎。玉手箱ならぬこの大きな鋼鉄の箱は、そんなプチなタイムスリップ気分を令に味あわさせてくれた。
 
 令は参考書にしおりを挟んだ後、ぱたん、と閉じる。その眉が少し上を向いてるのは、いまいち手ごたえを感じなかったからではない。
 たった数十分、しかもかるく揺られながらなんだから頭に入らないのも仕方がない。しかし、これは必要なことなのだ。
 これは受験勉強というより、踏ん切り、もしくは乗り物とかと一緒で最初の試運転といえばいいのか。
 もう少ししたら、令はリリアンというバスから降りなければならない。けれど、それは『つぎ止まります』じゃなくて『つぎに進みます』に自分でしなきゃならない。これはそのための試運転だ。 
 
 バスのタラップを降りたとたん、びゅおおと強い風が令に吹き付けた。それはまるでこれからの自分がやろうしていることがいかに困難なのかを暗示しているかのように強く、そして冷たかった。
 令はそんな風に負けじと風上のほうに向かって歩く。 
 そうだ、どんな風が吹こうとも負けるものか。 
 そうじゃないと冷たく令を置いて一人でさっさと先に進んでしまったあの我侭で、お転婆で、体力もないのによく暴れて、令のいうことなんか全然聞かない、でも令にとっては世界で一番大好きな由乃に負けてしまう。

 昔はいつも「令ちゃん、令ちゃん」と声を上げながらずっと令の後をついてきた由乃。
 でも、今では令を呼ぶ声だったのが祐巳ちゃんや志摩子、そしてちさとちゃんに代わってる。
 泣き虫だった由乃。昔だったら自分にしか弱みを見せることしかなかったのに、祐巳ちゃんという悩みを受け止めてくれる親友がいる。
 ひょっとしたら、もう由乃のとなりにわたしの居場所はないのかもしれない。
 いや、本当はそんなわけはないのだけど。でも、もうあのころのように二人だけの関係には戻れない。
 もう、令ちゃんの由乃、ではない。
 何時の間にか、これまでずっと握られていた由乃の手は気がつけば令から離れていた。
 お互いがお互いを必要としていたはずなのに、由乃は自分一人で新しい居場所をつくっていた。
   
 いつも、令は由乃ばかり見ていた。そして、今もそうだろう。
 けど、このままじゃいられない。
 令は、向かい風に向かって歩きながらぼそっと呟く。
 
 「……ないよ、由乃」 
 
 その口の動きと同時に微かに白い吐息が漏れ、それはあっという間に大気にかき消された。でも、その一緒に出た言葉はそう簡単にかき消しされることはない。かき消すわけにはいかない。 
 その先になにがあるのかはわかんないけど、少しでも踏み込んでいきたい。
 令は先ほどと同じ言葉を口にした。
 
 「負けないよ、由乃!」

 今度の声は、強く吹き付ける風にかき消されることなく夕暮れの空に大きく響き渡っていた。
 


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