【1422】 土砂降りの夢を見る  (沙貴 2006-04-30 15:27:51)


 あの時はまだ、雨はまばらに降っていただけだった。
 祥子の場合、その中を走ろうとは考えなかったけれど、実際には傘を差さずに走って帰る生徒もそれなりにいた。
 それくらいの雨。
 心をどこかに置き忘れたかように、ただ過ぎる時間を潰していた時のこと。何故だか良く覚えている。
 どんよりと重く空に横たわる雲の下で、瞳子ちゃんを待っていた。
 
 
 大好きだったお祖母さまの危篤。
 完全に我を失っていた祥子が、あの頃それでも日々を過ごせたのは彼女のお陰だ。
 小笠原の家庭事情にも明るく、確りとした生来の性格にどれだけ救われたかわからない。
 瞳子ちゃんが傍にいてくれなければ、祥子はもっともっと早くに決壊していただろう。
 傍にいてくれたからこそ、祐巳に事態を打ち明けられない心苦しさを紛らわせることができた。事実だ。
 不義であろうとそれはそれ、認めないわけにはいかない。
 
 優さんにも感謝している。悔しいけれど。
 特に何をしてくれた、のではなくて常に何かをしてくれていた。
 車の運転、ほんの少しの話し相手。
 優さん以外にも十分務まっただろう小さなそれらは、でも優さんだからこそ価値があったのだとも思う。
 人の気も知らないで、相変わらず良くも悪くも祥子を引っ掻き回す。
 本当に、憎らしい人。
 
 祥子には瞳子ちゃんがいた。優さんがいた。お母さまがいた。お姉さまたる水野蓉子さまがいた。
 祐巳にも由乃ちゃんがいた。聖さまがいた。祐麒さんがいただろうし、ご両親もおられたはずだ。
 だからお互い、大丈夫。愚痴を吐く相手も頼る相手も傍にいるのだから。そう思っていた。
 でもそれは違った。
 全く違ったのだ。
 
 確かに、より切羽詰っていたのは祥子の方だろう。死という人には決して抗えない別離を前に人は平静でいられない。
 だから先ず我を忘れた祥子であるし、結果的にわかりやすいSOSを辺りに発信して瞳子ちゃんや優さんの気を引いた。
 それで彼女らの肩を借り、支えてもらって、祥子は何とか倒れずに済んだ。
 ふらふらだったけれど。今にもやっぱり倒れてしまいそうだったけれど。
 でもなまじ瞳子ちゃんも優さんも良く気が効いたから、それで祥子は保ってしまった。
 
 対して、祐巳は理由もわからないまま徐々に追い込まれていったのだろう。
 瞳子ちゃんや優さんは事態を良く知っていたけれど、由乃ちゃんも聖さまも事態は何も知らなかったのだ。
 決して祥子と祐巳の立場は同じではなく、そして、それに気付いた時にはもう遅かった。
 祐巳の言葉はただのわがままにしか聞こえなくなっていたし、祥子の言葉は邪険な叱責にしかなれなかった。
 申し訳ない気持ちにせっつかれるようにして、中途半端に優しい言葉を掛けていたからこそ、祐巳のわがままに腹が立ったし祥子の叱責には理不尽さが篭った。
 
 理由を話すに話せなかったということもあるが、例えお祖母さまとの約束を反故にしてでも祥子はもっと早くに真相を教えてあげるべきだったのかも知れない。
 祐巳のことが大好きだったお祖母さまゆえに、それで安堵こそすれ怒ることはなかっただろうから。
 とはいえそれは結果論で、当時にそんなことを考える余裕があれば、あの雨の日は訪れなかったに違いないけれど。
 
 
 そういえば最近ゆっくりと話ができていないな、と。
 ひゅっと隙間風が吹くようにして、祥子はあの日あの時思いついた。
 ”思いついた”。今にしてみれば酷い言葉だと思う。
 可愛い妹のことを偶然、何の気なく、漠然と、”思いつく”なんて。それではまるで――いや。酷い。とにかく酷い。
 でも事実として、余裕はなかった。
 日毎悪化してゆくお祖母さまの容態、比例して近付いてくる最悪の日。
 いよいよ追い立てられるそんな日々の中で思いついたそれは、何らかの天啓のようにも虫の知らせのようにも、また、ただの偶然のようにも思えた。
 でも思いついた。そう、祐巳とあまり話ができていないと。
 時間が合えば、ちゃんと話をしよう。リリアンは広いが狭い、きっとすぐに会えるに決まっている。
 そう自分勝手に考えて空を見上げる視界の端に、丁度昇降口から出てきた祐巳が映り込む。
 何たる偶然。
 祥子は喜んでその名を呼んだ。
 
 泣き始めた空。
 苛立たしげに折り畳み傘と格闘する妹。
 胸に吹く隙間風。
 その時にはすっかりと忘れ去ていた、待ち合わせている瞳子ちゃんの存在。
 
 何もかもがいつもと違っていた。噛み合わない歯車のようにぎしぎしと軋んでいるのが明らかだった。
 先の思いつきが天啓であれば、それは間違いなく警告だったはずだ。
 それで尚、自分の予想通り簡単に出会えた祐巳に「会えるような気がしたわ」などと言えた自分に、祥子はほとほと嫌気が差す。
 あの時の祐巳の顔は今でも忘れられない。
 ぽかんと放心した顔は見慣れているけれど、「どうして」とただ訴える無表情はあの時だけだ。
 怖かった。
 まるで祐巳ではないようで、そして、自分の中での祐巳像が崩れた瞬間でもあった。
 祐巳はこんな表情もできるのだ、と。
 祥子の前進に合わせて後退したり、神名を謳うように恍惚と――即ち、まるでそれが最後の一言であるように「お姉さま」なんて言ってみたり。
 知らない祐巳がそこにいた。予想もできない祐巳がそこにいた。
 
 そして。
 
 凍り、怒り、走り去り。
 その背を追って駆け出した瞳子ちゃんの背中を呆然と目で追いながら、とことんまで祥子の想いを裏切ってくれた祐巳に言葉もなかった。
 今の一言二言の中で、何か悪いことを言っただろうか。
 今まで蔑ろにしたのは申し訳ないと思うけれど、あそこまでムキにならなくても良かったのではないか。
 ゆっくり、本当にゆっくりと傘を差して雨の中に足を踏み出した祥子はそんなことを思っていた。
 

 雨は力なく傘を叩いていた。
 祥子の傘を、瞳子ちゃんの傘を、そして祐巳が縋り寄った聖さまの傘を。
 大きな男物の傘の下から聞こえてくる嗚咽、祐巳の泣き声。胸がごっそりと抉られるような慟哭だった。
 祐巳の背中を擦る聖さまは、咎めるような悼むような微妙な視線を投げてくる。
 祥子は目を伏せてそれから逃げた。
 自分は悪くないと、その時は思っていたはずなのに。その視線に立ち向かうことはできなかった。
 顔を上げないまま祐巳を呼ぶ。
 返事はなく、でも拒絶された空気だけは伝わった。
 それがわかるくらいには、祐巳の姉を続けていたことが誇らしくも空しい。
 
 言う事を聞かない祐巳に、言う事を聞かせられない自分に、苛立って息が漏れた。
 上手くいかない。何もかもが上手くいかない。
 原因は色んなところにあった、祥子にも非はあったろうけれど祐巳にもそれはあった。
 同時に、祥子は無罪であったろうし祐巳を糾弾するのはお門違いも甚だしい。
 それでも、何の理由も無くとも。
 雨降りの午後は祥子にも祐巳にも優しくはなかった。
 
 雨に濡れ、泥を被った祐巳の折り畳み傘と学生鞄。
 拾い上げて胸が痛い、でも、それはただの同情だと知っていた。
「お世話おかけします」
 手を差し伸べてくださった聖さまにそれを預けて、頭を垂れる。
 もう迎えは着ているはずで、時間がなかった。
 それに、迎えがどうこうではなく祥子には時間が無かった。
 正確には、お祖母さまには時間が無かった。
 だからわがままな妹にいつまでも構っているわけにはいかなかったのだ。
 
 
 祥子の後ろに控えて一言も発しなかった瞳子ちゃんを目配せで呼び、その場を後にする。
 その時からだ、一歩歩くごとに雨脚が強まり始めたのは。
 聖さまの隣を過ぎ、校門を過ぎ、傘を差して待ち構える運転手の下へ向かう。
 祐巳を置いていく祥子を非難するように雨が一層降り注いで、傘の縁がさめざめと泣いた。
 天候までもが敵なのか、と。
 一度感じてしまえば、全くの無関係な周りの生徒達の視線や背後から突き刺さる瞳子ちゃんの視線も、何もかもが敵意に満ちている気がした。
 雨の中、祥子は独り。
 運転手は待っていてくれている。瞳子ちゃんはついてきてくれている。
 それでも、独り。
 そう、強く感じた。
 
 車に乗り込み、瞳子ちゃんがそれに続いてドアを閉める。
 その時にはもう窓の外はバケツを引っ繰り返したような本降りで、雨霞に辺りの風景がぼやけていた。
 車の屋根を激しく叩く雨音が密閉された車内で篭っり、それが陰惨な雰囲気を助長する。
 除湿されている車内の空気がひたすらに重かった。
 瞳子ちゃんが何かを言おうとして、でも押し黙ったのがわかる。
 祥子も敢えて何も言わなかった。
 
 土砂降りの夢。
 祥子にとってのそれは、車の窓越しに見る街並みだ。
 
 
 〜〜〜
 
 
「もう、半年も前のことなのにね」
 
 呟いて、祥子はベッドで薄ら目を開いた。
 夢の残滓か、胸と頭がずしりと重く、吐き出した溜息もその重圧に引き摺られてか酷く重い。
 穏やかな冬の朝日が窓から差し込んでいた。
 今日も良い天気のようで、雨の気配は微かにもない。
 
 寝起き特有の気だるさに負けて、毛布のぬくもりに身を委ねる。
 目覚めるにはまだ早い時間帯だった、あの夢を見ればいつも早くに目が覚めたから。
 もう一度眠りに入っても良いけれど、それは少し怖い。だから眠らないように気をつけて目を閉じた。
 そうすれば蘇ってくる、騒がしいまでの雨音。車の窓にぶつかっては吹き飛ばされてゆく水滴そして、真摯に耐え忍ぶ雨濡れた家々。
 色とりどりの傘の脇を、減速した車が忙しなく行き交う様――そして、その中の一つからぼんやりと外を眺めたあの時の視界が。
 
 あの後、祐巳は紆余曲折を経て聖さまとそのご友人の方のお世話になったそうだ。
 そこで何があったのか、誰に何を言われたのか、詳しい事を祥子は知らない。
 でもそこでお二方が祐巳を救って下さった。
 それはきっと間違いのない事実で、本意ではなかったとはいえ祥子のつけた傷をケアしてくださったことに関して祥子は頭が上がらない。
 特に祥子は聖さまに対して在学中からお世話になりっぱなし、借りを作るばかりで返せる当てが全くないのが困りもの。
 聖さまはそんなことお気になさる方ではないけれど、だからこそどうにかしてお礼したいと心から思う。
 
 聖さまのご友人宅をお暇する時には雨はもう上がっていて、夕日が綺麗でしたと祐巳は笑っていた。
 でも。
 祥子はその頃病室にいた。
 綺麗な夕日なんて見ておらず、そも雨が上がったことすら夜も更けた帰り際に知ったのだ。
 正確には。
 全てが終わって回想して、そういえばあの日の帰路では雨が上がっていたなと思い出したので、雨が止んだ事を知ったのは何週間も後の話だったりするのだが。
 
 祥子はあの時何も見ていなかった。
 愛する人の死に瀕し、それ以外の全てを忘却していた。
 お母さまのこともお父さまのことも、お姉さまのことも妹のことも、何もかも。
 それを自分勝手というのなら、祥子は甘んじてその汚名を受けよう。
 愛する身内よりも率先できるものを、祥子は持ちたくないから。
 
 結局、そういうことなのだろうと思う。
 祐巳は他人だったのだ。
 愛する身内と同率にはならない、他人だった。

 祐巳は、可愛い妹だ。
 しかし”妹(プティ・スール)”といってもそれは血の繋がりのある”妹(いもうと)”という意味ではない。
 仲の良い後輩、という意味でもまたないが、家族ではない。それは間違いない。
 だから祐巳の優先順位が目に見えて落ちた。
 同時に下がったとはいえ身内、親類である瞳子ちゃんや柏木さんの優先度よりも大きく大きく、それを下げた。
 身内ではなかったから、そのただ一つの理由で。
 
「身内」
 無意識に呟いたその言葉が意味するのは、特別な相手だ。
 なろうとしてなれるものではないし、欲しいから作るものでもない。
 言い換えれば、妹だから祐巳は身内だと直結はしないし、身内にしたくて祐巳を妹にしたのではない。
 だからあの時の対応、優先度の低下は非常に理の適ったことで何の問題もないことだった。
 必然に近い。
 同じことが起きればきっと、祥子は同じ選択をする。
 
「あの時なら……かしら」
 それではっきり目が覚めた。
 祥子がゆっくりと上半身を起こすと、弱めた空調では打ち消せないびしっとした寒さが肌を刺す。
 梅雨の重苦しい空気とは全く違う、冬の空気だ。
 
 そう、あの頃の祥子に、同じことが起きれば同じ選択をするだろう。
 でも今の祥子にあの時と同じことが起きても、同じ選択はしない。あの轍は決して踏まない。
 それは祐巳を慮る心の余裕ができている――というわけではなく。
 祐巳に。
 親しい人に見限られるかも知れないという恐怖を知ってしまったからだ。
 見限られたくないからだ。
 それこそ自分勝手であろうが、自分勝手ゆえに責任感や使命感より信頼できる制約に違いない。
 
 お姉さま、蓉子さまは決して祥子をお見捨てにならないと知っている。
 だから甘えても良いという意味ではないけれど、でも、無条件で縋って良い相手だと祥子は知っている。
 でも祐巳は違う。当然だ。
 お祖母さまが逝ってしまって、全てが終わって。
 傍に祐巳がいないという事実に血が凍った。
 蓉子さまはいて下さった、さも当然の如くにいて下さった。今では勿論、それが”当然”などでは決してないことを祥子は知っているけれど。
 でも祐巳はいなかった。
 いるはずもなかった、祐巳はその時点で何も知らなかったのだから。
 呼べるはずもなかった、祐巳との約束を延々反故にして不条理に叱咤し、今更どの面を下げて助けを請えよう。しかも姉である祥子が、だ。
 
 あの時の絶望は忘れられない。
 人生のトラウマだ、と祥子は高校三年生の今でして断言できる。
 
 だからだろうか。
 祥子はその絶望、ベッドに伏して闇に抱かれていた頃を夢に見ない。
 代わりに、あの土砂降りの夢を見る。
 窓を叩く雨粒と雨霞に遠い街の風景をアンニュイに眺めていたあの時を。
 
 あの事件が祥子の中で尾を引いているわけではない、少なくともその自覚はない。
 得たものは大きく尊く、学んだことは多く限りない。
 例えば、祐巳。その存在の大きさ、大切さ。
 身内でないからどうこうなどとは言っていられない、全てに率先して大切にするのが身内ならば祐巳は間違いなく身内だ。
 血縁も何も関係ない。
 祐巳は身内だ、その事実に理由など必要でない。
 そして例えば己の惰弱性。
 受けた衝撃が如何に甚大だったとしても、前後不覚になるまで忘我するなど情けない。
 紅薔薇さまが聞いて呆れる、教訓として努々肝に命じなければならない。
 それらを再確認する意味でもあの夢を見ることは決して悪いことではないのだが――
 
「はぁ」
 朝も早よから気が重い。目覚めのいい夢では決してない。
 期末試験も近いというのに、過去に囚われて無意味に気落ちしていては世話が焼けるというもの。
 どうにかしたいけれど、どうにかできるものか。
 ぬくもりの残るベッドからするりと抜けて、祥子は重い溜息を吐いた。
 
 
 〜〜〜
 
 
 放課後の薔薇の館は怠惰な空気に満ちていた。
 定期試験が近くなると生徒よりも先生方がお忙しくなるために、基本的に山百合会の活動も大きなものはなくなる。
 それに学業を疎かにするわけにもいかない山百合会幹部、期日が押し迫る前に定例の集会は打ち切られるのが常だった。
 だから今回の二学期期末試験前も同様。
 最後の集会故に多少は連絡事項も多いけれど、それが済んだら薔薇の館ともしばしのお別れ。
 名残惜しむかのように館での雑談が始まった。
 
 その中、それまで令と話していた由乃ちゃんが不意に皆に言った。
「もう期末試験かー。二学期の期末は範囲が広くて憂鬱よね」
 何となく眺めていた各部の二学期総括報告書をばさりと放り、一緒に言い放ったそれ。
 館の住人多くの心境を代弁してくれただろうその一言には、同学年の祐巳や志摩子のみならず下級生の乃梨子ちゃんも首を縦に振った。
 賛同しなかったのは、範囲の広さが憂鬱に直結しない祥子。
 それに、愚痴る由乃ちゃんの実情を良く知る令という上級生二人組み。
「由乃はちょっと判らないとすぐに諦めるからね。苦手だからってサボっちゃダメよ」
 令が呵呵と笑っていうと、由乃ちゃんがぎんと睨む。
 けれど図星だったのか、反論はしないでそのままぷいっと顔を背けた。
 でも「わかってるわよ」、なんて小声で抵抗する辺りが愛らしい。
 
「あ、でも、私も日本史とか勉強してるとかなり憂鬱に――」
 そんな由乃ちゃんと思ってか、祐巳がフォローに回った。
 けれど、憂鬱になるから勉強をサボってますなんてことを黙認できない祥子のこと、由乃ちゃんの三倍増しで祐巳を睨みつける。
 直接視線が合ったわけではないのに、びくりと祐巳の体がそれで強張った。
「――なるけど、頑張らないとね。うん」
 そして彼我の戦力差から戦略的撤退。良くってよ。
 祥子は満足げにぎっと背凭れへ身体を預けた。
 
 すると、意外なところから別のフォローが入る。乃梨子ちゃんだ。
「私なんか、試験が終わったらこれをしよう、ってものを用意しておきますよ。すると不思議とがんばれるので」
 それは由乃ちゃんへのフォローというよりも、苦手な勉強は憂鬱になってサボり勝ちな祐巳達へのアドバイスか。
 全く、下級生に気を使わせるなんてしようのない子達だこと。
 祥子はぺらぺらと資料を指で弄びながら苦笑した。
「ふーん……頑張った自分へのご褒美ってやつね。ご褒美か。そうよ、自分にご褒美を作ればいいんだわ」
 何度か頷きながら、由乃ちゃんが同調する。
 乃梨子ちゃんの提案なのに、さも自分が名案を思いついたかのように目をキラキラさせて。
 それが嫌味に感じられないのは、由乃ちゃんのキャラクターが為せる技だろう。
 
 しかし、ご褒美を作るというのは妙案だと思った。
 それを目標に何かしらを頑張る、というのはいわば目の前に下げられたニンジンを追う馬のようなものだけれど、シンプルでも効果は高い。
 祐巳もただ走るのは憂鬱だと先ほど愚痴を漏らしていたことだし、ニンジンを準備するのは良いことだ。
 頑張ればできる子だからぜひ頑張って、祐巳には次代紅薔薇さまを立派に務めて欲しい。
 
 ニンジン。ご褒美。
 祐巳は果たしてどんなことを設定するだろうか。
 興味を引かれ、祥子は勉強が憂鬱だの辺りから完全に蚊帳の外だった会話に耳を欹てる。
 いつの間にかご褒美の話は随分具体的な試験休みの計画に移行していた。
「冬休みまで行っちゃうとクリスマスとかと被って人も多いだろうし、遊びに行くなら試験休みなんて絶好のチャンスよね」
 とはいっても、由乃ちゃんが大張り切りで熱弁を振るっているだけといえばそうなのだが。
「いいえ、チャンスなんてものじゃないわ。むしろ行かなきゃ損よ、ねえ?」
 ほとほと由乃ちゃんは人を扇動するのが好きだ。
 でもその殆どは自分でやるのが嫌だから誰かにやって貰いたいとか、独りでやるのが寂しいから仲間が欲しいとか、そういう思惑での扇動ではない。
 単に楽しいことは大勢がいい、という信条なのだろう。本当に気に食わないことや決めたことは一人で勝手にやってしまう子だ。
 
 ニンジン。ご褒美。遊びに行く。
 祐巳は果たしてどこに行きたがるだろうか。
 興味を引かれ、祥子は聞き耳を立てる――と同時に。
 
 
 土砂降りの夢がフラッシュバックした。
 
 
 丁度今朝あの夢を見たからか、それとも「遊びに行く」というキーワードが心の琴線に触れたか。
 陰鬱な車内から眺めた土砂降りの雨、梅雨のすれ違い、あの頃常時の懸念だったお祖母さまの容態そして。
 遊園地の、約束。
 何度も繰り返した、そして結局守りきれなかった約束。
 
「それじゃあ」
 
 そう思い出したときには、唇が勝手に言葉を紡いでいた。
 会話に割って入る形となったことも、流れを完全に分断してしまったことも申し訳なかったけれど。
 でも、言わずにはいられなかった。
 罪滅ぼしでも何でもなくて。ただきっと、祥子が言いたくて。
 二人きりで遊園地に行きたい。
 それもまた自分勝手、だからこそ偽らない祥子の本音だから。

 祐巳を見て、言った。


「試験休みに、遊園地へ行きましょうか」


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