【1447】 志摩子さまよう  (まつのめ 2006-05-05 16:56:57)


 続きというか、志摩子さんサイド。

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 どうしてなのか。

 早朝の空は良く晴れてお日様がリリアンのお庭を明るく照らしているというのに、志摩子の心は雨降り前の空のようにどんよりと曇っていた。
 先日、祐巳さんが白薔薇さまを見て元気を無くしているのを見かねて、志摩子は、白薔薇さまに一人で会ってみたら、と提案した。
 その時は、祐巳さんが元気になるための役に立てればと思ってのことだった。
 祐巳さんはすぐに実行したみたいで翌日には「ちゃんと話せたよ、志摩子さんありがとう」という言葉と共に元気いっぱいの笑顔を見せてくれた。
 それは「良いこと」のはずなのに、志摩子も「良かったわね」と笑顔で答えたはずなのに。
 今朝になって、どうしてこんなに心は沈んでいるのだろう。

 いつものように講堂の裏の一本だけ生えている桜の木のところへ来た。
 桜の木はもう当然花は無く緑の葉が風に揺れるばかりだった。
 なんとなく人に会いたくないと思い、まだ早朝で殆ど人も居ないのだけど、それでも人の余り来ない方へとフラフラと歩いて行った。
「温室……」
 志摩子は吸い寄せられるようにその古びたガラス張りの建物に近づき入り口の扉を開け、中に入った。
 そして、一歩進んでから奥に視線を向けて、志摩子ははっと息を呑んだ。
 それは誰も居ないと思った空間に思いもかけず人が居た、というだけの理由ではない。
 そこにいたのは紅薔薇のつぼみ、小笠原祥子さま。
 祥子さまは温室の硝子越しに降り注ぐ朝の陽射しを浴びながら植物達に囲まれて静かに本を読みふけっていた。その姿はあまりに幻想的で、志摩子はまるで一枚の絵画でも見ているかのような錯覚を覚えたのだ。
 しばらく、小鳥の囀りで我に返るまで志摩子はその光景に見とれていた。
 祥子さまは紅薔薇のつぼみとして生徒会の活動をされている方だ。次期紅薔薇さまとして周りの注目も集めている。だからこんな人気の無い早朝しか落ち着いて読書などをされる時間が無いのかもしれない。
 志摩子はなにか、踏み込んではいけない場所を侵してしまったような気がして、祥子さまに気付かれるまえに、温室を出て行こうとした。
 その時、
「志摩子」
 と、背後から凛とした通る声が響いた。
 志摩子は思わず息を飲み込み、立ち止まった。

「ごきげんよう。早いのね」
 見つかってしまった。というより祥子さまは志摩子が温室足を踏み入れた時から気付かれていたのだろう。
 こんな静かな早朝に温室という閉鎖した空間の中にいてその扉が開いたのに祥子さまが気付かないはずがない。
「ごきげんよう。 祥子さま……」
 挨拶だけしてまた温室を出て行くというわけにも行かず、志摩子は振り返って挨拶した後、そのまま進んで祥子さまの前まで行った。
 祥子さまはじっと志摩子を見つめていたが、志摩子はどう会話を続けていいかわからず、そのまま見詰め合いが続いた。
 瞬きを2、3回するくらいの間だろうか、しばらく見詰め合った後、祥子さまが言った。
「……どうしたの?」
 主語の無いその問いかけは、今ここに居る理由を問うものにも、それ以外の志摩子自身のなにかを問うものにも取れた。
 そして、志摩子にはそれが後者の意味、すなわち志摩子自身に問題があって祥子さまの口から『どうしたの』という言葉が発せられたように聞こえた。
 なぜなら、それが気遣うような優しい問いかけだったから。
「いえ、別に何も……」
「そう」
 祥子さまはそれだけ言うとまたさっきまで読まれていた本に視線を落とした。
 志摩子は立ち去ることもできず、しばらく祥子さまの前に立っていた。
 お使いで始めて訪問するお宅で玄関に通されてからで主が来るのを待っているような、それもただ訪問せよと言われてなんの用事なのか聞くまで判らないような、そんな不安を伴う居心地の悪さを志摩子は感じていた。
 そんな状態はちょうど祥子さまが1頁読み終えて、かさっ、と小さく紙をめくる音が聞こえるまで続いた。
「座りなさい」
「え?」
 祥子さまは視線は本に向けたまま言った。
「こんなに早く他に用事があるわけでもないのでしょう?」
「あ、はい」
 祥子さまは「立っていたら疲れてしまうわ」と付け加えた。
 立ち去る気配が無いので暇だと判断されたのか、それともなにかお話があるのだろうか?
 志摩子は祥子さまの隣のちょうど空いていた一人分の空間に腰を下ろした。
 並んで座ったものの二人の距離が近くなっただけで、しばらくシンと静まった古い温室には祥子さまが頁をめくる音とリリアンのお庭で戯れる小鳥達が時折訪れては響かせる囀りの声だけが聞こえていた。
 活字を追うことに集中していて殆ど動かない紅薔薇のつぼみ。その隣で志摩子もどうして良いか判らず、ただ置物のようにじっとしていた。

 祥子さまの頁をめくる音がようやく二桁にさしかかろうかという頃、一定間隔だった頁をめくる音がしばし途切れた。
 そして、祥子さまはまた同じ問いかけを繰り返した。
「どうしたの?」
「え?」
「なにか話があるのではなくて?」
 今度は会話をする気で話しかけられたようだった。
「い、いえ」
「何かあったって顔をしていたけど?」
「そう、見えますか?」
「見えるわよ」
 祥子さまは志摩子の目をしっかり見つめてそう断言した。
「……」
 志摩子は俯いて押し黙った。
「言いにくい話? ここには私と志摩子しかいないわよ?」
「……はい」
「そう」
 祥子さまは二人しか居ないことに同意したのか言いにくいのに同意したのかを聞き返さなかった。
 それはどちらでもかまわないのか、返事を期待していなかったのか。
 でもそれは、そのどちらでもなかった。
 祥子さま続けた。
「それは私だから言えないのかしら?」
 志摩子の肩がびくっと震えた。
 祥子さまは問いとその答えから的確にそれを読み取っていたのだ。
「そうなのね」
 その反応は図星だと告白しているようなもの。
 確かに祥子さまは志摩子が今、心を悩ませている事柄の主要な登場人物の一人だった。
「言えないのなら言わなくてもいいわ」
 言えないし言わない。
 志摩子にとって祥子さまは心の悩みを吐露するような近い間柄でもないし。いや、志摩子はそんな相手を欲したことも無いし、これからも作るつもりは無いのだが。
 祥子さまとこうして話をするのは以前に一度呼び出されてからまだたったの2回目だった。
「すみません」
 志摩子がそう謝ると、少しの間があってから、祥子さまは言った。
「聞いているかどうか判らないけれど、これから忙しくなるから、毎日来てもらうことになると思うのだけど」
 志摩子は話題が変わったのでほっとした。
「はい、それなら、紅薔薇さまから……」
 お手伝いの件は前回の時に紅薔薇さまに同じことを言われていた。
 でも、志摩子がほっとするのはまだ早かった。
「あなた、来るわよね?」
 まただ。
 祥子さまの言葉に志摩子はまた同じ反応をしてしまった。
「どうして……」
「どうして? なにが『どうして』なの?」
「……いえ」
 どうして『来るのか』を問うのか。
 思わずそう聞き返そうとしたが、怖くなって続けられなかった。
 でも祥子さまはそれを先取りしたように続けられた。
「そうね、今の言葉の理由を聞きたいのなら、あなたがやめてしまいそうだと思ったからよ」
 やめてしまいそう。
 どうしてこのお方は志摩子にとっての的確なキーワードを突いてくるのだろう?
 いつかここを離れる時が来る。
 志摩子はいつもそう考えて他人との深いかかわりを避けてきた。
 祥子さまの言葉はお手伝いのことを言っているのだと思うのだけど、志摩子にはそれがそれだけに思えなかった。
 ――祥子さまと話すのが怖い。
 それは恐怖だった。
 祥子さまは淡々と話しているだけなのに、一言一言が志摩子の心にグサリと突き刺さる。
 ここに居てはいけない。 志摩子はそう思った。
 逃げ出すのは簡単だ。
 立ち上がって「私はこれで」といって去ればいい。
 さあ、今すぐに――。
「一つだけ覚えておきなさい」
「え?」
「逃げることは決して問題の解決にはならないわ」
 とどめを刺された。
 そう感じた。
 先手を打たれた志摩子はもはや身動きが取れなかった。

 ここから。
 山百合会から。
 そしてリリアンから。

「さ……」
 動けないながらも搾り出すようにして志摩子は言葉を口にした。
「祥子さまは、ご存知なのですか?」
 その問いに対する答えは帰ってこなかった。
 祥子さまはただこう言った。
「答えは、あなたの中にある筈よ」



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