どうして、こんなことになってしまったのだろう。
いや、いつの間に、こんなことになってしまったのだろう。
椿組の扉から離れる祐巳さまや志摩子さんから逃げるようなタイミングで教室へ入った乃梨子は、歩き出すよりも先に溜息を吐いた。
薔薇の館で祐巳さまに反論したのは乃梨子の意志だ。
志摩子さんに叱られたこと――叱らせたことは、決して望んだものじゃなかったけれどでも、それも乃梨子の意志だ。
同じ場面になればきっと乃梨子は同じことを言う。
もっとも、次はもっと上手い立ち回りをして志摩子さんを怒らせないようにはするだろう。
そして更に、もっとも、次なんてある訳はないのだけれど。
どちらにしろそれらは乃梨子の責任だ。
祐巳さまに失礼なことを言ったことは無条件でいけないことだと思うけれど、反論した事実は取り消せないし取り消さない。
おせっかいだとわかっている。
何をやっても絶対に喜ばれることはない、それも確信している。
それでも、頑なに拒むだろう彼女に無理強いするような真似は出来なかった。
学園祭以来、目に見えて”凍り付いて”しまった彼女、瞳子を更に傷付けるようなことは。
ちらりと視線を教室前方の扉に向けると、既に席に戻ろうとしていた可南子さんを尻目に、廊下の向こうへ深々と頭を下げる瞳子の姿が見えた。
誰に向かってのお辞儀なのかはわからない。
でもそれは軽そうな見かけの性格以上に義理堅い瞳子にしても珍しい、心底からの謝礼だと思った。
相手は誰だろうか。去り往くお三方の誰かだとは思うけれど。
でもわからない。
ふと、祐巳さまじゃないかなとは思ったものの、何の根拠もないし多分に乃梨子の願望が交じっていることは間違いない。
それにお辞儀は謝礼だけではなくて謝罪の可能性だってある。
もし謝罪のお辞儀ならその相手は祐巳さまじゃない方が良いに決まっているのだから、どちらにしろ結局は乃梨子の願望。希望だ。
何の意味もない。
乃梨子は軽く首を横に振って席に戻った。
本当に、いつの間に、だ。
学園祭までの瞳子は明るくて騒がしくて世話焼きで、気が強くて我も強くて芯も強い。
確かに扱いにくくはあるものの、傍に居たら決して退屈はしない楽しい子だった。
お嬢様学園であるリリアンでは珍しい、恐るべきアクティブさは乃梨子も大いに見習わなければならない部分だと思う。
実践出来るかどうかは、まぁ、ともかくとして。キャラクターでもないし。
でも変わった。
瞳子は凍り付いてしまった。
持ち前の快活さがなくなった訳じゃない。
性格が豹変した訳でもない。
ただ心の奥底に、冷たい何かを持った。
どこかで拾ったのか自分で生成したのかはわからないけれど、今それは瞳子の胸の内で静かに静かに冷気を放っている。
そしてそれは不意に、ぞくりと背筋が冷えてしまうくらいに強い冷気を放ってくる。
乃梨子は机に片肘を付いた行儀の悪い姿勢で、席に着いた瞳子の背中を見つめていた。
瞳子は休み前の注意事項が書かれているプリントをぼうと眺めている。
プリントを流し読んでいるようにも、別の何かを考えているようにも見えた。わからない。
その小さな背中に言いたいことは一杯ある筈なのに、乃梨子はいざそれを考えようとすると、でも一切の言葉が浮かんでこない自分に気が付いた。
思わず俯いてしまう。
きっと何も考えずに前に立てば、何かしらを言うことは出来るのだと思う。
でもそれが出来ない。
怖いのだ。
今の瞳子の前に立つことが、怖い。とても。
不用意な事を言ってしまいそうで、それで瞳子を傷付けてしまいそうで――。
嘘。
瞳子に嫌われてしまいそうで、それが怖い。
ただ怖い。
「乃梨子さん、乃梨子さん」
不意にそう呼ばれて肩を叩かれた乃梨子は、はっとして顔を上げる。
そこには、困ったような顔をした敦子さんの三つ編みが揺れていた。
「少し前からお呼びしていたのだけれど、どうにも聞こえなかったようだから。ごめんなさいね」
頬に手を当てるおっとりした仕草も様になっている敦子さんは、言葉以上に申し訳なさそうな表情でそう言った。
「良いって」と無理矢理笑って手を振った乃梨子は、でも違和感に気付いてすぐに手を止める。
何か。
何か足りないような。
「あれ? 美幸さんはどうしたの? 珍しいね、一人なんて」
そうなのだ。
現在乃梨子の席に来ているのは敦子さん一人だったのだ。
敦子さんは美幸さんと仲が良くて(しかも相当に)、乃梨子からしてみれば何をするにしてもいつも一緒、というイメージがあった。
とはいえ本当にいつも敦子さんと美幸さんが一緒な訳ではない。
体育の時間に別チームになることがあれば、お昼ごはんもたまに、極稀に、別々でとることもあった。
でも前者は一介の生徒である敦子さんらにはどうしようもないことだし、後者は限りない例外にも近い。
だから、やっぱり色んなところで敦子さんは美幸さんとセットで。
相方の居ない今は非常なレア・ケースではないかと思ったのだ。
でも敦子さんはくすくす笑ってそれを否定する。
「あらいやだ、私が一人だとそんなに珍しいかしら」
珍しいからそう言ってるんじゃん。
そう告げられたらどれだけ楽なことかと震える喉奥を懸命に堪える乃梨子に、敦子さんは言った。
「美幸さんとは確かに良く一緒には居ますけれど、私も美幸さんも一人の人間ですもの。別々のことをすることだって多いわ」
そうはっきりと正論を言われてしまっては、乃梨子は何も言えなくなる。ごもっともだ。
けれどアイデンティティを否定した事を謝った方が良いのか、それともここは軽くスルーした方が良いのか、と一瞬悩んだ乃梨子を置いて敦子さんは話を始める。
「それで、乃梨子さん。先程白薔薇さまとつぼみのお二方が来られたのだけれど、ご存知?」
「え、あ、ああ。うん。知ってるよ」
何てタイムリー。
意外な人物から意外なことを持ち出されたことに驚きを隠せないまま、乃梨子は二度頷いた。
「突然だったから驚きましたわ。紅薔薇のつぼみが来られることはこれまでも多くありましたけれど、黄薔薇のつぼみは珍しいですもの」
「あー、それは確かに。お姉さまも良く来られる訳じゃないけど、椿組に来る頻度は由乃さまが一番低そうね」
ええ、と頷いて敦子さんは続ける。
「でも今回もやっぱり紅薔薇のつぼみのご用件だったようね。瞳子さんと可南子さんが呼ばれていたから……ねぇ、」
「二人から直接聞きなよ。全く相変わらずミーハーなんだから」
話の矛先がどちらに向いているのかが何となくわかった乃梨子は苦笑交じりにそう答えた。
つまり、薔薇のお姉さま方が椿組に来た理由が気になって仕方がないけど、応対した当事者を質問攻めにするのは憚られる。
だからとりあえず、当事者ではないけれど事情には内通していそうな薔薇の関係者である乃梨子に聞いてみよう、と相成った訳だ。
すると敦子さんは再び困った風に眉を寄せる。
「ちょっと、今は聞けませんわ。勇気を出せば可南子さんに聞くことは出来るかもしれませんけれど」
――。
ああ。
ああ、そうなのか。
確かに可南子さんは、特に昔の可南子さんは、敦子さんらからしてみればとてつもなく苦手な部類の人種だろう。
水と油、犬と猿。性格云々ではなくて、考え方の根底部分が致命的に食い違っているから決して相容れないのだ。
だから話しかけるに相応の勇気が要るのはわかる。
対して瞳子は人懐っこい表情と性格、いざとなれば率先して動ける邁進力という、正しく可南子さんの対極に位置する特性を持つ。
敦子さんらには余程波長が合うだろう、進んで前に出るタイプではないから尚更、進んで前に出ようとする瞳子の後ろは落ち着くに違いない。
その敦子さんをして。
瞳子には聞けず、頑張って聞くなら可南子さん、と言わしめた。
事態はそこまで切迫しているのか。
呆然として言葉をなくした乃梨子に、畳み掛けるようにして敦子さんは言う。
「聞くだけなら良いです、きっと瞳子さんも可南子さんも教えてくださりますから。でも」
そうじゃない。
瞳子と敦子さんの関係は”薔薇さま方との関係者と薔薇さまに憧れる生徒”ではないのだから。
”友達”なのだ。ただ聞いて、終わりになんてする訳にはいかない。
そしてそれだけの会話をするには今の瞳子は冷た過ぎるのだろう。
瞳子の氷が発する冷気に当てられて言葉を無くすことは乃梨子だって多い。
その冷気に当てられることとが怖くて聞けないのだ。
敦子さんも――乃梨子と同じか。
「それだけじゃないもんね。わかる」
乃梨子は硬い椅子の背凭れを使って、ぐっと上半身を逸らした。
言った。
「多分、パーティーに誘いに来たんだと思うよ。ミサが終わった後、薔薇の館でするんだ」
白々しくも”多分”なんて言ってしまった自分が情けない。
思わず乃梨子は敦子さんから顔を逸らした。
「まぁ。結構なことですわ。勿論乃梨子さんも参加されるのよね、羨ましい」
そう言って無垢に笑う敦子さんの純真さが胸に刺さる。
嘘は言っていないし事実その通りなのだが、純度100%の信頼は胸に疚しいことがあればあるだけ重く圧し掛かる。
乃梨子は頬をぽりぽり掻いてそれを振り払った。
「でも下っ端だもん。雑用係としてだって」
にししと笑って乃梨子は言ったが、敦子さんはいたって真顔で「雑用係としてでも」と呟く。
少し拗ねた風なところがあるのは、少なからず乃梨子や瞳子にやっかむ気持ちがあるからだ。
でもそれをはっきりと主張できる敦子さんは、やっぱり無垢なのだと思う。
乃梨子はそれが少し羨ましかった。
でも去り際に、髪を揺らして半分だけ振り返った敦子さんは言った。
「初めの話ですけれど」
「初めの話?」
そのまま復唱した乃梨子に頷いて、続ける。
「珍しくなくなりましたわ、乃梨子さんと瞳子さんが別々に居るのが」
哀しそうな。
寂しそうな横顔を向けて敦子さんは言った。
乃梨子は答えられない。
「瞳子さんのお隣は私と美幸さんだと思っていましたけれど、そうではないと気付きました。私がこんなことを言うのもおかしいのかも知れませんが」
一呼吸の間。
「瞳子さんを、お願いします」
敦子さんはもう振り返らなかった。
席に戻るその背中をただ見つめていた乃梨子は、最後の言葉を胸の中で噛み締める。
何度も、何度も噛み締める。
敦子さんはそれが言いたかったのだ。
ミーハーだなんて――いや。多少はその理由もあっただろうけれど。
とにかく、敦子さんは乃梨子に瞳子を託した。
勿論瞳子は敦子さんのものでも乃梨子のものでもないのだけれど、そういうことなのだと思う。
でも。
「お願いします、か」
それはきっと、別の人に言わなければならないんじゃないだろうか。
乃梨子でも、可南子さんでもない別の人に。
軽く握った自分の拳を見つめて――やがて、乃梨子は「うん」と頷いた。
〜〜〜
「乃梨子、こっちよ」
多分居るだろうと思って、お聖堂の前の方を歩いているとどんぴしゃり。
乃梨子を呼び止める、小さいけれど決して聞き逃すことはない耳馴染みの声が聞こえた。
「お姉さま」
振り返ると、丁度通り過ぎたばかりだった長椅子の端っこにちょこんと座って、小さく手招きする志摩子さんがそこに居た。
取って返して、その隣に腰を下ろす。
すると志摩子さんは小さく笑って、小声で「さ、お祈りなさい」と言ってくれた。
乃梨子が隣に座ったことが少なからず嬉しくて笑ってくれたのだろうと思うと、乃梨子も嬉しい。
館での事をまだ志摩子さんが怒っているとは思っていなかったけれど、実際に志摩子さんの笑顔を前にするとやっぱり気持ちが落ち着いた。
早口で(心の中でだけど)お祈りを済ませて、目を開けた乃梨子は言った「おね――」。
でも当然と、いうべきか。
志摩子さんは両手を組んで頭を垂れて、お祈りを奉げていた。
今日はクリスマスイヴ、リリアンでのクリスマスミサ。
大切な日だ。きっと、乃梨子が想像する以上に。
溜息一つ。
身を僅かにでも乗り出して話しかけようとしていた自分を恥じ入って、乃梨子はもう一度前を向く。
邪魔をしちゃいけない。
話す機会はまだまだ一杯あるから。
でも、そうやって乃梨子が折角自戒したのに、先に小さく口を開いたのは志摩子さんの方だった。
「今朝はごめんなさい。少し言葉が過ぎたわね」
驚いて横を向くと、志摩子さんはばつが悪そうに眉根を寄せている。
慌てて乃梨子は首を横に振った。
「ううん、お姉さまは悪くないよ。正しいことを言ったんだもん」
「正しいことを言うことが、いつだって良いことだとは限らないわ」
志摩子さんの言葉にも一理あるけれど、ここは譲れない。
頑として乃梨子は言い切った。
「でも。今朝は私が悪かったから」
そんな乃梨子の断定に、志摩子さんは一瞬驚いたように固まってしまったけれど。
「そう、わかったわ」と優しく微笑んで頭を一度撫でてくれた。
小鳥が小さく囀るお聖堂は厳かで。
時折足元を掬う冬の冷気が気持ちをぐっと引き締めさせる。
教会や寺院といった、何か大きなものと正対する場の粛とした雰囲気が乃梨子は好きだった。
信仰を持てばまた違うのだろうけれど、信仰がなくとも感じられる空気だから。
これまでのこと、今朝のこと、これからのこと。
全くの無音という訳ではなくとも、考え事をするには十分な静かさがそこにはあった。
持ち慣れた聖書の表紙を撫でながら、乃梨子は今朝の出来事を回想する。
薔薇の館から椿組にいたるまでの一連の会話。
その時見た風景。
感じていたこと。
ゆっくり、静かに、思い返した。
ふと気付く。
今朝、乃梨子が祐巳さまのお願いを断ったのは、偏に瞳子の為だ。
本人がそれを願う願わないはともかくとして、乃梨子が話を受けることは瞳子の為にならないと思ったから断った。
でも以前にも似たようなことはなかっただろうか、瞳子の為を思って何かをしようとしたことは。
あった。
そう遠くない過去、妹オーディション改め茶話会の頃のことだ。
結局あの時乃梨子は、おせっかいをするのはやめて瞳子の好きなようにさせようと思った。
素直になれないのは瞳子の悪癖だけど、それも含めて瞳子だから。
松平瞳子そのものを受け入れられなければ意味がないし、瞳子に何かを我慢させての大団円はない。
だと言うのに、またしても乃梨子はおせっかいをしている。
迷惑がられることを承知で、どうにか暗躍して瞳子と祐巳さまの間を取り成そうとしている。
自分はほとほと世話焼き気質なのだなと思うのと同時に、ほとほと瞳子が好きなんだなと思った。
瞳子が幸せになってくれれば良い。
ただ、そう願っている。
「それもおせっかいかな」
呟いて、乃梨子は自嘲気味に苦笑した。
敦子さんに託されもしたし、一番の友人を自負する乃梨子だからある程度のおせっかいは許されると思うけど。
でもそれは誰が許してくれるのだろうか。瞳子はきっと許してくれないだろう。
本当に祈るだけなら許してくれるかも知れないけれど、乃梨子はそれだけでは我慢ならない性質だから。
「おせっかいは、悪いことではないわ」
独り言のつもりだった言葉に声が返ってくる。
なんとなく予想していた乃梨子は驚かなかった。
「もちろん、度が過ぎなければという条件はあるけれど。誰かの為を思って動けることは美徳よ」
きっと志摩子さんは乃梨子の方を向いていないなと思ったので、乃梨子も正面を向いて答える。
聖書を撫でるのを止めた。
「その度が、難しいんだよね。相手の気持ちは……想像しかできないから」
瞳子が今何を考えているのか、乃梨子にはわからない。
昔の瞳子はまだ喜怒哀楽がはっきりしていて、頭の中身まではともかく感情の上下はすぐにわかった。
でも今は、笑っていても怒っていても。
どこか冷めた瞳子がこちらをじっと見てきている気がしてならないのだ。
だからわからないし、怖いと思う。
それは瞳子の為を思って、と言っておきながらの矛盾に乃梨子は気付いているけれど、事実だから。
結局おせっかいなんてものは、ただの自己満足に過ぎないんだろう。
相手のことはわからないまま、自分で相手のことを想像して、想像した相手の為に動く。
何もかもが自分本位だ。
「そうね。自分が思う相手の気持ちは、相手の気持ちそのものじゃないわね」
「うん」
静かに、悼むように囁く志摩子さん。
続けた。
「でもだからこそ、人は相手を知ろうと努力できるのだと思うわ。わからないから、労われる。初めから何もかもわかっていたら、相手を思いやることなんてきっとできないでしょう」
「……うん」
わからないから、労われる。
わからないけど、労わろうとする。
その二つは同じことなのだと、乃梨子は数秒経ってから気付いた。
「でも」
「ええ。わからないから、失敗するかも知れない。謝って済むならそれで良いけれど、済まない場合もあるわね」
乃梨子は志摩子さんの方を見る。
志摩子さんはやっぱり正面を向いたままだった。
「済まなかったら、哀しいね」
習って、乃梨子も再び前を向く。
「おせっかいをして、でもそれが独り善がりで。それで嫌われたら目も当てられないよ」
前を向いた。のに、台詞の最中から自然と視線が落ちてゆく。
正面に掲げられた祭壇上の大十字架から祭壇へ、そして前に座る人の頭、椅子の背もたれを経て膝の上に。
短い乃梨子の横髪がさらりと落ちた。
「瞳子ちゃんのこと?」
志摩子さんが今更のように聞いてきたので、乃梨子はこくりと頷いて答える。
小さく、「うん」と言った。
「そう……厳しい子だから、おせっかいに失敗したらと思うと怖いわね」
厳しい子。
志摩子さんは独特の言い方で瞳子を評した。
でもそれはとても的確だと思う、確かに瞳子は厳しい。
他人に対しても自分に対しても、厳しい。甘えを絶対に許さない子だ。
だから怖い、と思う。
「瞳子は許してくれない。失敗したら、きっとそれで終わっちゃうと思う」
踏み込みすぎたり、不用意な事をいって琴線に触れたりしたらそれでジ・エンドだ。
瞳子は振り返りもせずに去ってしまうだろう。
膝の上に置かれている聖書の上で、自分の拳が震えているのが視界に入った。
「でも放っておけないんだよ。私は、瞳子に」
幸せになって欲しいだけなんだ。
好きな人の隣に居ること。
シンプルでささやかで、でも掛け替えのないそんな幸せに浸って欲しいだけなんだ。
声にならなかった、そんな言葉を代弁するように拳がぶるぶる震える。腕が震える。全身が震えているんだと、気付いた時には。
聖書の上で志摩子さんのひやりとした手に包まれていた。
絹みたいに滑らかな肌がじわりじわりと志摩子さんの体温を伝えてくる。
驚くほど急速に自分が落ち着いていくのがわかった。
徐々に、徐々に身体の震えも収まって、やがて止まる。
「大丈夫よ、マリア様がみてくださっているわ。それに」
顔を上げた乃梨子を正面から見据えて、志摩子さんはにっこりと微笑んだ。
「こんなに親身になって心配できる乃梨子が居るもの。瞳子ちゃんはきっと大丈夫」
きゅっ、て。
手を握ってくれた。
言葉以上にその仕草が「大丈夫」と諭してくるようで、心の中が温かくなる。
それで、今までの不安が嘘みたいに消えていく。
志摩子さんが「大丈夫」だと言うのなら、盲目的に大丈夫なのだと信じてしまいそうになる。
本当はそんなこと、きっとないのだけれど。
でも大丈夫。これほどまでに力強い「大丈夫」は聞いたことがなかった。
「うん」
だから乃梨子は強く頷く。
自分をもう一度信じて、頑張る決意を込めて。
瞳子の為に頑張ろう、勿論慎重にはならないといけないけれど。
それでも頑張ろう。頑張りたい。
そう思ったから。
ぎゅっ、て。
手を握り返して、乃梨子は言った。
「ありがとう、志摩子さん」
一言。
でも志摩子さんは本当に嬉しそうに、「どういたしまして」と言って反対側の手でもう一度頭を撫でてくれる。
その感触がくすぐったくて乃梨子がむずがるように笑うと、志摩子はくすくす笑って姿勢を正した。
乃梨子も合わせて前を向く。
「――ね」
最後に、志摩子さんが呟いた。
「え?」
乃梨子は即座に聞き返したけれど、志摩子さんは「何でもないわ」と軽く首を横に振った。
「お姉さま、何か言った?」
「いいえ、何も。ほら、もう静かにしていなさい」
しつこい乃梨子を優しく咎めてくる志摩子さんの顔が心なし赤いのは、人が沢山集まってきて聖堂の気温が上がったせいだろうか。
どこか慌てているのは、聖なる御堂で私語をしていた負い目からだろうか。
いいや、違う。
乃梨子は実はしっかり聞いてしまったから知っている。
だからあんまり嬉しくて、もう一度言ってもらおうと聞き返したのだが流石にそうガードは甘くないか。
「はあい」
諦めて、乃梨子は言われるままに前を向いた。
『でも、妬けてしまうわね』
なんて、嬉し過ぎる言葉を胸に秘めて。