【1494】 物語が始まる  (若杉奈留美 2006-05-19 18:12:41)


聖さまのお母さんの物語、「いばら咲く道」第2章。
【No:1490】の続きです。


その人の横顔から、私はどうにも眼が離せなかった。
瞳を閉じて一心に祈る姿は、まるでいつか見た聖誕劇のマリア様。
目の前に、あの日あのとき生まれたキリストがいるかのような顔。

(世の中にはこんな人もいるんだ…)

大人たちのエゴに振り回されていた私にとって、
それは久しく忘れていた感慨だった。
やがてその人が立ち上がると、私もあわてて立ち上がった。
別段深い理由はない。
ただ、その雰囲気に合わせないといけないような気がしたから。

「ごきげんよう」
「あ…えっと…ごきげんよう」

見る人すべてを包み込むみたいな、穏やかな笑顔。
もし視線のみで人を抱きしめることができるなら、この人はいったい何人抱いてきただろう。

「急がないと、予鈴が鳴ってしまうわよ?」

あわてて時計を見ると、もう8時15分。
うちのクラスのシスターは厳しいから、放送朝拝に遅れると大変だ。

「あ、ありがとうございました!ごきげんよう!」
「ごきげんよう」

教室へと急ぐ私の耳に、誰かがその人の名前を呼ぶ声がした。

「みきさん、早く!」

(そうか…みきさんというのか。覚えておこう)

思えば、すべてはこのとき始まっていたのかもしれない。


「へえ〜、珍しいこともあるもんだね。他人にはまったく興味なしのあなたが」
「別にそんな大した話じゃないわ」

クラスでも数少ない友人の一人、黒崎綾さんが笑っている。
彼女の言うとおり、私は他人のことにはあまり興味がない。
むしろ、トイレまで一緒に行くほかの女の子たちのことを、内心軽蔑していた。
1人では何もできない腰抜けと。
そして…そんな連中と性別が一緒の私自身のことも。
はたから見れば、これほどやっかいな人間はいないだろうが、綾さんはそんな私と知って、なお友人でいてくれるのだから、
ありがたくもあり、うっとうしくもあり。

「ただ、みきさんという人と偶然マリア像で一緒になった。それだけの話よ」

あのとき「みきさん」と呼ばれていたのは、いったい先輩なのか、同級生なのか。
いったいどこに住んで、どんな暮らしを送ってきたのか。
あのたたずまいの理由は…何なのか。
生まれて初めて、こんなにも他人のことが知りたいと思った。
彼女の苗字も含めて、私はすべてを知りたくなってしまった。

「あなたは知らないでしょうけどね…1年藤組の倉橋理都子といえば、リリアンで10年に1人出るか出ないかの美人って評判なのよ」

綾さんがさも愉快そうに言うのを、私はどこか別次元で聞いていた。


5時間目の、古文の授業が終わる間際のことだった。

「あなたの好きな百人一首を選んで、その意味を調べてきなさい」

そんな宿題が出た。

(やれやれ、百人一首かあ…)

一つでいいのなら、放課後に図書館で調べれば間に合うだろう。
今日は珍しく、それ以外には宿題も出てないことだし、さっさと済ませて帰ろう。
こんなとき、帰宅部であるわが身が嬉しくなってしまう。
私は図書館へと急いだ。

図書館には、どうやら先客がいるみたいだった。

(あの人も調べ物かな?)

少なくとも、何か課題を抱えている人間にとって、他の人が同じように努力している姿は心強い。
もちろん、ただ読書しているだけかもしれないが、今はちょっとだけうぬぼれを許してもらいたい気分。
私は心持ち浮かれるような感じで、資料を探すふりをして、その人の開いている本の表紙だけでもちらっと見ようとした。

【高校2年・数学】

数学の参考書か問題集をここで広げて、一生懸命勉強している。
ずいぶん勉強熱心な先輩もいるものだ。
心なしかどこかで見たような気がするが…

(まさか、あのときの…!)

その可能性を認識した瞬間、今までbpm60でリズムを奏でていたはずの私の心臓が、
いきなりbpm100くらいまで跳ね上がってしまった。
呼吸もそれに合わせて速くなる。

(ちょっと待て、落ち着け、落ち着くんだ、理都子)

なんとか理性をとりもどしたいところだが、目と鼻の先にあのときのマリア様がいるのだから、どうにもならない。
顔の表面温度まで上がってきてしまった。
これはまずい。
私は資料を手にして、とにかく一刻も早くその場を立ち去ろうとした。

「あら、もう帰ってしまうの?倉橋理都子さん」

いきなりその人が名前を呼んできた。

「えっ、あ、あの…」
「どうして名前を知っているのかって?リリアン一の美女、恋人にしたい生徒No.1のあなたを知らなければモグリよ」

ちょっと待ってくれ。
鼻持ちならない言い方で申し訳ないが、見た目それほど悪くないのは自分でも知っていた。
でも私は、今目の前にいるこの人のことを何も知らない。
名前が「みき」であること、私より1学年上であること以外、詳しいことは何も。
それなのに、彼女どころか学校中で知れ渡っているなんて…!
このとき私は初めて、綾さんが言っていた言葉の真の意味を知ることになったのだ。
もうどうしたらいいのやら。

「何か調べ物をしにきたんじゃないの?」
「え、はい、でも大丈夫ですから!」

何が大丈夫なんだか、自分でも分からなかった。

「そう…何かあったらいつでも言ってね」
「分かりました。ありがとうございます」

そう答えるのが精一杯。
背を向けて、図書館の出入り口へ向かおうとしたとき。

「あなた…好きな人はいるのかしら?」

ああ…なんという質問をなさるのですか、みきさま!
私は…私は…

「…いいえ…」

その瞬間、胸に妙な何かが刺さった気がした。
世界がかすみ始めるのを、この人には知られたくない。
泣き顔なんて…誰にも見せたくない。
好きになってしまったなんて…あなたを好きだなんて…言えないです、みきさま…。


【忍ぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで】

(隠していたのに、とうとう自分の恋心がばれてしまった。
「何か物思いをしているのか」と、他人に聞かれてしまうほどに)

我ながら、とんでもない一首を選んでしまったものだ。




すみません、もう少しだけ続きます。






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