【150】 桜舞う  (春霞 2005-07-03 23:01:53)


◆◆◆ 注意 ◆◆◆ このSSは微妙にネタばれを含みます。気を付けてね。 (山百合会からのお願いでした)



桜舞う、爛漫の春に、私はあの人と出会いました。
驟雨の中、梅雨の終わりに、私はあの貴女(ひと)に気がつきました。

                       ◆

ガチャリ。
扉を開いた乃梨子は、室内に真美一人しか居ない事に戸惑った。
「ごきげんよう。白薔薇のつぼみ。 本日はご足労いただき感謝します。」
真美は編集机の向かいの椅子を示すと、傍らのコーヒーサーバから大きなマグカップにだぶだぶと注ぎすとんと置く。
「あ、あの」
尋ねあぐねている乃梨子の姿を誤解したのか、真美は苦笑して続けた。
「ああ、この椅子?  随分立派でしょう。  私のお姉さまが編集長をしていた時期にね  『編集長は偉いのよ。 だから偉い椅子に座って仕事をするの』とか言い出してね。 で、部費を散財して豪華なやつを1つだけ買ったのよ。 でもね、一人だけちがう椅子なのが居心地悪かったのかしらね。 すぐに使わなくなっちゃって、今は応接椅子と化しているの。
だから遠慮なく使って頂戴。」
「では。」
真美は、ちょこんと座った乃梨子に嬉しそうに微笑みかけた。
「どう? 良い座り心地でしょう。 多分このインタビューは長くなるでしょうから、リラックスしてね。 足を組んでも構わないわ。 ここにはシスターも見回りにこないし。 コーヒもねたっぷり作っておいたから、好きなように飲んで。 自分の部屋の積もりでくつろいでちょうだい。」
乃梨子は、出されたマグカップに口をつけて、小首をかしげた。 ブラックだが少し薄めに作ってあってそのままでもいける。  コーヒをを確認すると、今度はぐるりと部室を見回して、問いかけた。
「何故、お一人なのですか?」 机の上を確認する。
「レコーダのたぐいも無いようですし。」 祐巳さまから聞いていたのとは随分とちがう。
「ああ、その事。」 真美の顔が微笑とも苦笑ともつかないものに変わる。
「今回、乃梨子さんはインタビューに応じてくれたけど、多分記事にはさせてくれないでしょう?  内容が内容だし、関与する人間は少ないほうがいいと思ったのよ。」
「私は構いません。 ただ、この件を記事にする場合、白薔薇さまの許可を取って頂きたいとは思いますが。」
「うーん。そう来るだろうと思っていたのよ。 だから記事に出来ない方向で対応しているんだけどね。 何か普通に白薔薇さまの許可を取ろうと言うだけでも、蔦子さんと祐巳さんの強力な援護が要るし。 ましてこの件ではね。」

「…黒の御方、ですか?」 部屋に入って初めて乃梨子が微笑んだ。 裏の無い、本当に愛しい人の面影への笑みだった。
「今すぐには無理でしょうが、卒業するまでには許可も下りると思いますよ。」
「そう。そこなのよ。  気付いている私たちにとっては、あの黒い人は恐怖そのものよ。 私でさえ、報道の自由を守る。この気持ちがなければ対抗できないし。 あの蔦子さんでさえ一目も二目も置いている。 各部、各委員会の7割方はもう掌握されてしまった。 祐巳さんは天然だから気が付いては居ないけど。 そんな状況でも乃梨子さん、あなたは白薔薇さまを思い出すときに微笑みが浮かぶ。 その辺りをね、全部聞かせて欲しいの。」
「はい。」 乃梨子は切なそうに笑った。

                       ◆

桜舞う、爛漫の春に、私はあの人と出会いました。
驟雨の中、梅雨の終わりに、私はあの貴女(ひと)に気がつきました。

初めて出会ったとき、その人をマリア様だと思いました。
でも、笑って泣いて。慌てたりぼんやりしたり。 ああ、この人はこんなに奇麗だけど人間なんだ。嬉しいなー、と。 そう思って傍にいました。
実はとても臆病で、実はとても欲張りなところが愛しくて、ロザリオを受け取りました。

「臆病? でも最近の志摩子さんを見ていると、大胆とは言え、とても臆病とは…」

ええ、周りから見るとそうかも知れません。
私は知りませんが、もしかすると幼少期に何か切っ掛けが有るのかも知れません。
ご実家はああですし、お父さまもお兄さまも随分と個性的なようですし。 色即是空をご家庭でも実践してらっしゃるのなら、幼い時分には色々有った事でしょう。

「それは幼少期のトラウマ、と言う事?」

わかりません。 ただ、志摩子さんは随分と欲張りです。 それなのに、欲しい物を手に入れる事を拒否していました。

「それは、信心深いからではないの? 禁欲的というか。」

いいえ。
ご存知の通り、私の趣味は、この世代の少女のものとしてはちょっと変わっています。 今まで全国の多くの有名な仏を鑑賞して巡りました。 その折には、真に信仰の発露として各地を巡礼されている方達とも交流しました。

志摩子さんは、そういう人たちとは違います。

真美様は、ちっちゃな子供の頃。 空に浮かぶあの月が欲しいと駄々をこねて、親を困らせた事は有りませんか?

「え? …月はないけど。タンカーをねだったことは有ったらしいわ。 いまだに親戚中からからかわれるもの。」

ふふ。随分可愛いかったのでしょうね。皆さん覚えているなんて。  私も月をねだった事は有りませんが、様々な物を欲しい欲しいといって泣いた記憶はあります。 子供ってそう言うものでしょう? そうしている内に、やがて自分の欲望と折り合いを付ける術を覚えていくんです。  欲しいけど、絶対にって訳じゃないから我慢しよう、とか。

これは、推測でしか有りませんが。
仏教では欲望、即ち貪欲は三毒に数えられるほど。 志摩子さんが幼い頃ならば、お父上も若かったでしょうし、若しかすると、幼い志摩子さんの可愛いおねだりを、頭ごなしに厳しく叱責したかもしれません。

少なくとも、志摩子さんの中では。  欲望=罪悪 の図式が確固として存在していました。
折り合いを付ける前の段階で、欲しいと思う事=悪い子だ=悪い子は嫌われる という、強迫観念が出来てしまったら?

志摩子さんのマリア様に対する信仰の強さは、そのまま人間としての欲望のすり替えだったんです。
怒る事、泣く事、喜ぶ事。 その多くは、突き詰めれば何かに対する執着、欲望が根底にあります。 それら全てに箍をはめる為に、志摩子さんは欲という欲をすべてマリア様に向けたんだと思います。

「さっきから過去形を使っているのね。 すると今は、手に入れる事を躊躇しないのかしら。」

はい。
切っ掛けは、祐巳さまでした。
噂に疎く、天然の祐巳さまは、当時既に近寄りがたい雰囲気だった志摩子さんと、ほよほよした、普通の女学生の友情を築いて下さいました。
切っ掛けは、由乃さまでした。
直裁に、友を思って真正面から切り込んでくる率直さは、当時既に遠巻きにされがちだった志摩子さんには、とても貴重なものだったでしょう。
そして、わたし。
唯の普通の少女としての志摩子さんを見つめる私、です。

「つまり、マリア様に預ける事のできない欲望に気が付いた、と?」

私、ロザリオを受け取るときに、志摩子さんに言ってしまいました。
                 『手放したくない物を、捨てる必要は無い』 と。

「ええと、それは。 欲しいものは手に入れていいんだよ、と言う事かしら。」

イコールとでは有りませんが。 イコールと曲解する事も出来ますね。
初めにも申し上げましたが、志摩子さんは臆病で、そして欲が深い。 さらに、自分の欲望を御した事が無い。
出来上がるのは何でしょう。 強欲で無邪気で、その分残忍な、無垢な子供です。

「なるほど。  それが黒い人、というわけ。」

はい。 あの人はこの学園を宝石箱のように大切に思っています。 祐巳さまや、由乃さま。 蔦子さまや、もちろん真美さまも。 綺羅綺羅しい宝石のように愛しく思っている人たちが詰まった宝石箱。  なのに、もしその愛しい人から嫌われたら と恐れ、

「ならばいっそ、覇権を握り、宝石箱そのものを完全に自分のものとして支配してしまえ、と。」

それが、黒い御方の真の姿です。

「そう。 これで一番聞きたかった、黒い人の正体は聞けた訳だけれども。
 では最後に一つだけ。  …あなたは、この先どうするの?」

昔は、仏師に成りたいと言ってた時期もありました。 でも、仏師というのは、技術だけではダメなんです。 一刀、一刀に仏への尊崇を込めて彫るからこそ、魂の宿る仏像になるんです。
私は無神論者だから。 無理ですね。
ああ、でも。志摩子さんへの愛を込めて塑像を彫ると言うのは出来るかもしれません。  彫刻家になるというのも選択肢ですね。

「そういう意味では無かったのだけれど、言いたくない事まで聞こうとは思わないから。  今日はどうもありがとう。」

                       ◆

「どういたしまして。」 乃梨子は、何か吹っ切れたような、さわやかな笑顔で立ち上がった。
「もうお腹がタポタポです。 コーヒ飲み過ぎました。」
「ご免なさいね。長々と。 では、ごきげんよう」
「はい。 ごきげんよう」 乃梨子は扉のほうに一歩踏み出して、首をかしげた。

「そう言えば」 振り返って真美の目を見つめる。
「なぜ、このインタビューを受けようと思ったか。 お話していませんでした。」
「そう言えば、聞いていなかったわね。 どうして?」

「そのままで居て欲しいからです。」
「え?」
「真美さまと、蔦子さまにはそのままで居て欲しいからです。  私は…。

 私は、志摩子さんの完全なる味方である事を選びました。 それは、あの人を攻撃してはいけないと言う事を意味します。
まだ幼い心の黒の御方が誤解するような事は出来ないのです。 幼い心が壊れてしまうから。
いさめる事は出来るでしょう。 掣肘することも出来るでしょう。 でも決定的に対立する事は、もう出来ないんです。
人は何かとぶつかったり、転んだり、汚れたりしながら成長します。
私は、支えたり、引き起こしたり、寄り添ったりする事は出来ますが、もう真実ぶつかる事は出来ません。
…将来はわかりませんが。

だからです。
志摩子さんは、あなた方のことが好きです。 対立している、或いは意のままにならない貴女方を愛しているんです。 それは希望です。
幼いあの人の心が成長する重要なファクターです。
だからこそ全てをお話しました。
全てわかった上で、それでも。
これからも、これまで同様、決然としてあの黒い御方の前に屹立して欲しいから。」

 …言いたい事を全て言い終えた満足感だろうか、頬を上気させて去っていく乃梨子さん。

                       ◆

「あなた方、だって。」 ふと、何所からとも無く蔦子が現れた。
「やっぱり気付かれていたなあ。 珍しく目線の来て無い写真を撮らせてくれたのは、報酬の前渡しのつもりかな?
 白の絶対防衛圏は、臆病さゆえ。 あの子の場合は、多分雛を守る母鳥の緊張感ゆえ、か。」
「それにしても、これは瓦版には出来ないわね。 あまりにプライベートすぎて。」
「でも、書きたいんじゃないの?」
「そりゃあそうよ。 こんなに素晴らしい素材。 是非とも紙の上に活字で残したいものよ。」
「乃梨子ちゃんの言葉を信ずれば、そう遠く無いうちに、きっと書ける時期がくるのでしょう。
 そうしたら、志摩子さん本人の分。乃梨子ちゃんの分。私の分。真美さんの分。 それと他何部か。 極少数に配ればいいじゃない。
 私の写真とはまた別の意味で、きっと、少女という時代の 良い思い出として残るわ。」
「詩人ね。 どうしたの?蔦子さん。 笙子ちゃんと言うものが有りながら、乃梨子ちゃんに浮気?」
「そっちこそ。 日出美ちゃんには内緒にするんでしょ?」
「まあね。 うちの日出美は まだ練れてないから。 こういうのはちょっと早いかな。」


「なんかハイテンションですねえ、私たち。」
「うん。柄にも無く我を忘れてるかな。」
「乃梨子ちゃんが可愛いからいけないんですけどね。」
「同感。」

「帰りましょうか。」
「そうしましょう。現像は明日、気持ちを落ち着けてからにする。」


では、ごきげんよう。
   …そうして、誰も居なくなった。


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