【1503】 心に刺さる棘  (若杉奈留美 2006-05-20 23:36:04)


「いばら咲く道」第3章。
【No:1490】→【No:1494】→そして現在へ。


その後、どこをどうやって帰ったのか、実はまったく思い出せない。
気がつくと、伯母さんと由紀子が待つ市営住宅の一室に着いていた。

「お帰りお姉ちゃん…どうしたの?具合でも悪い?」

別に体は問題ない。
でも心が…ちょっとばかり、いや、だいぶか…とにかく変だった。

「別に…ご飯はいらないから」

悠長に晩飯など食べてる気分じゃない。
頭の中でぐるぐると、先ほどのやりとりが渦を巻く。

『あなた、好きな人はいるのかしら?』

好きな人…そう、きっとそうなのかもしれない。
でも…みきさまは女の人じゃないか。
これを恋愛と呼ぶのは…どうなのか。
それならと、私はなおも考えてみる。

この気持ちを説明する、別の手ごろな言葉がないのかと。
しかしながら、私の頭は、その答えをまったく出してくれなかった。
その代わりに、自分の瞳から涙を流す指令を出したようで、頬が濡れていくのが
よくわかる。

「…っ、ううっ…」

悲しい涙じゃない。
悔しい涙じゃない。
切ない…どうしようもなく、切ないのだ。

誰か、教えてほしい。

この気持ちはなんという名前なのか、どういうものなのか。
誰にも言えない…きっと言ってはならない、この感情を、
誰か名づけてほしい。

…届くはずもない願いを、私は目に見えないマリア様に必死に届けようとしていた。


「また図書館?」

半ばあきれたような口調で、綾さんは聞いてくる。

「別にいいでしょ、何度も行っちゃいけないって決まりがあるわけじゃなし」
「いいんだけどね…少し忠告させてもらっていい?」

忠告?
なんのつもりだ。
私がこういうのを一番嫌うのを、この女は分かっていてやってくる。

「このところ、理都子さん様子が変よ…名前呼んでもろくに返事もしないし、
かと思えば妙にはしゃいじゃって、そうかと思えばふさぎこんで…」

綾さんはそこで一息入れると、いきなり核心を突いてきた。

「あの、みきさまとか言う人が気になるわけ?」

何が言いたいのか。
気になるどころの騒ぎではないことは、自分が一番よく知っているはずなのに。

「言っておくけど、もし一緒にいたいのなら、ちゃんと姉妹になったほうがいいよ…
そのほうが、周りに疑われなくてすむから」
「うるさいっ!!」

それまで思い思いの時間をすごしていたクラスメイトたちが、一斉にこっちを振り向く。
無理もない、自分でもこんな大きな声が出るなんて思わなかったから。

「そんな儀式がないと一緒にいられないのなら、いっそ心中してやるわよ!」
「いいかげんにしなさい!!」

乾いた音と同時に左頬に走る、衝撃と痛み。

「殴るなり蹴るなり、好きにすれば?しょせんあんたには何一つわかんないんだから」

もうこんなところにいたくない。
私は教室を飛び出した。
口の中から血が出ているようで、鉄みたいな味が広がった。

どのくらい走っただろう。
目の前にお聖堂が見えてきた。
ここなら…少しは冷静になれるかも。
遠くで3限目を知らせる鐘の音が鳴るけど、知るもんか。
私は肩を落し、静かに目を閉じた。


体はそれほどでもなかったが、心は狂おしいまでに休息を欲している。
ああもう、どうしてこうも人間というやつは…許しがたく受け入れがたい生き物なのか。
いっそ、神様の住む世界に、溶けてしまいたい。
溶けてなくなって、空気か何かになって、自由にさまよっていたい。

こんな耐え難い気持ちになるのなら…。
誰かを好きになることが、これほど苦しいのなら…。
私は目を閉じて、しばらく夢の世界に逃避することにした。


夢の中。
気がつくと私は何もない場所にいた。
真っ白な光だけがその空間を満たし、人の姿は私以外には見当たらない。

(こんな世界を、待っていたんだ…)

やっとたどりついた、人のいない楽園。
なのに、よく見ると、向こうの方に人影が。

(…誰だか知らないけど、邪魔しないで!来ないで!)

人影がなおも近づいてきたそのとき。
それは、はっきりとした形をとった。

(…みきさま…!)

みきさまは、初めてお会いしたときと変わらぬ姿で、私のもとに近づいてくる。
そして…何かを差し出すかのように、手を伸ばしてくる。
私は必死で手を伸ばす。
なのに…こんなに近くにいるのに、なぜか私の手は、みきさまに届かない。
そうしている間にも、みきさまは手を私の方に伸ばしたまま、遠ざかってしまう。

(…いや…行かないで、みきさま!もうあなたしかいらないの、お願い、いかないで…!)

「……」

どこかから私の名前を呼ぶ声がする。
その声に驚いてあたりを見回すと、そこは先ほどと変わらぬお聖堂の空間…のはずだった。

「…理都子さん、大丈夫?だいぶうなされてたわよ」

そこにいたのは、あの白い世界で出会った人そのもの。

「みき…さま…」

みきさまは柔らかく微笑んだ。

「言うのを忘れていたけれど、私にも一応苗字はあるわ…祝部っていうの」
「ほおりべ…」
「そう、ほおりべ。珍しい名前でしょう?」

それは確かに珍しいけれど、同時にこの人にこれ以上ふさわしい苗字もないと思った。

「もともとは森沢という苗字だったのだけれど…親が再婚してね。
この苗字、母の再婚相手の苗字なのよ」

内容的には深刻なのに、みきさまの表情には明るさが漂う。
それも現実から逃げるのではなく、現実を受け止め、突き抜けたときのような、
あの明るさだ。

「なんとなく、あなたには似たにおいを感じたのよ…親とか大人に対する、
言いがたい不信感のような何かをね」

似たにおい…やはり、心の奥底を見透かされていたのか。
でも不思議に、嫌な感じはなかった。
むしろこの人になら、すべてをさらけ出したかった。

「ここならあなたに会えると思ったの…ここに来れば、きっと会えると」
「私も…みきさまに、お会いしたいと思って…!」

私たちは、互いをむさぼるように抱きしめあった。


このとき初めて、私はマリア様の存在を信じる気になった。
そして…神様に感謝した。













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