【1547】 紛らわしい天使に出会った  (翠 2006-05-28 14:10:42)


 オリキャラが出ます。
 【No:これ】→【No:1555】→【No:1569】




 雨の降り続く景色を眺めながら、瞳子は溜息を吐いた。
 いくら梅雨の時期だからといって、お姉さまである福沢祐巳さまと何かあったわけではない。
 それは、ほんの数日前のお話。
 お姉さまである祐巳さまに頼まれて、美術部に書類を持って行った時の事。瞳子はそこで、ちょっぴりおかしな天使と出会ったのだ。



 最近、祐巳さまの様子がおかしい。窓の外を眺めながらポーっとしていたかと思えば、「うーんうーん」と頭を抱えて唸っていたり、瞳子を見るなり「うふふふふ」と薄気味悪く微笑んだりする。
 何か悩み事でもあるのだろうか、と尋ねてみても、「別に何も悩んでいない」の一点張り。
 何かあるのは明らかに、何も教えてくれない。瞳子は、隠し事をされるのが嫌だった。特に、祐巳さまには隠し事なんてされたくなかった。
「ね、瞳子」
 名前を呼ばれたので視線を向ける。
 この学園で瞳子を呼び捨てにするのは二人しかいない。友人の乃梨子と、お姉さまである祐巳さまだけだ。現在の薔薇の館には瞳子と祐巳さましか残っていないので、瞳子を呼んだのは必然的に祐巳さまとなる。
 最近ちょっぴり情緒が不安定っぽい祐巳さまは、腕時計を何度も確認しながら、
「美術部に持って行ってくれない?」
 と数枚の書類を差し出してきた。
「それは構いませんが、これって一時間前には記入が終わっていたものですよね?」
「う、うん。それが?」
 動揺を隠せない祐巳さま。三年生となった今でも、感情が分かり易く顔に出る。
「その頃、私と乃梨子がクラブハウスに他の書類を持って行った記憶があるのですが、なぜその時一緒に――」
「……」
 涙目になっている祐巳さまに気付き、瞳子は言葉の途中で口を閉ざした。どうやら、触れてはならない所だったらしい。
「行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
 渡された書類を片手に部屋から出て行く瞳子を、やたらと嬉しそうに見送る祐巳さま。
 おそらく、最近の祐巳さまの様子に関係する何かが、美術室で待ち受けているのだろう。それが何であるのかまでは分からないが、それが問題であるのならば解決しておこうと思う。そしてご褒美として、瞳子とデートをしてもらうのだ。
(たしか、この間オープンしたばかりのあのお店に、お姉さまの好きな――)
 颯爽とクラブハウスへと向かう瞳子の頭の中では、既に祐巳さまとのデートの情景が浮かんでいた。



 扉をノック。開ける。中を見渡して不審者を発見。手を上げろ! ……できませんわ、そんな事。こんな馬鹿な事を考えてしまうのも、祐巳さまの「能天気」という名のご病気が自分にも伝染ったからに違いない。後で文句を言っておかなければ。
 そんな事を考えていたら、無事に美術室に到着した。普通にノックをして、普通に扉を開く。
「失礼します」
 言いながら部屋の中に不審者がいないかチェックしようとして、瞳子は動きを止めた。そこに、黒い翼を持つ天使を見付けたからだ。
「何かご用ですか?」
 瞳子に気付いた天使が尋ねてくる。
 よく見れば、それは天使などではなかった。瞳子が翼と見間違えたのは、一人の女性がこちらに振り返った時に広がった、長く美しい黒髪だった。
「もしもし?」
 瞳子の返事がない事に彼女が不思議そうに首を傾げるが、瞳子はそれでも何も返せなかった。彼女の黒曜石を嵌め込んだような瞳に貫かれ、固まってしまっていたからだ。
 整った眉、筋の通った鼻、薄い桃色の唇、彼女を形作るその一つ一つのパーツが、計算された美術品のように美しくあり、それでいてちっとも不自然ではない。一見、冷たいように見えるけれど、違う。その目はとても優しい温かみに満ちていた。まるで現在の白薔薇さま、藤堂志摩子さまを彷彿とさせるような優しげな瞳。
 でも、その身に纏っている雰囲気は、瞳子のお姉さまである祐巳さまと同じく、
「ひょっとして、入部希望の方ですか?」
「違います」
 天然ボケぽかった。



 瞳子の目の前で、その人が首を傾げている。膝の裏辺りまで伸ばされてある漆黒の髪が、さらりと揺れた。
「あ、もしかして見学希望?」
「それも違います」
「がっくし」
「……」
 目の前で肩を落とすその人を、瞳子は呆れ顔で見ていた。
(ここまで外見と中身で差がある方も珍しいですわね)
 ずっと見ていたいような気もするけれど、いつまでもこうしてはいられない。薔薇の館では、祐巳さまが瞳子の帰りを待っているのだ。
「書類を持って参りました」
 そう言って、瞳子は手に持っている書類を差し出した。
「お疲れ様です」
 彼女がそれを受け取る。こうやって並んでみると、思ったよりも彼女は背が高かった。瞳子よりも十センチくらいは高いだろう。
「ですが、あいにくと部長どころか皆さん留守でして」
「留守?」
「はい。本日は絵を描くには絶好のお天気で、皆さんは嬉々として外へと飛び出して行ったのです」
「雨が降っていますが?」
 二人して窓を見た。激しい雨が窓ガラスを叩き、もの凄い音を立てている――と、ポンッと彼女が手を叩いた。
「本日の活動は、雨のため急遽お休みとなったのでした」
「……それって、今思い付いたわけではないですよね?」
「がーん! 本当なのに信じてくれない……」
 大袈裟によろめく長身の女性。瞳子はそれを見て、面白い方ですわね、と思わず微笑んでしまっていた。それを目にした彼女が唇を尖らせる。
「笑うな」
「すみません」
 素直に謝っておく。このリリアン女学園で、年功序列の持つ意味は大きい。もっとも瞳子の場合、相手が従いたくない相手であれば、その限りではないのだが。
 天使の翼のような髪を持つ女性は瞳子が謝ると満足したらしく、「素直でよろしい」と頷いた。
 だが、
「それで、あなたはどちらさまでしょうか?」
 続けて言われたその言葉に、瞳子は衝撃を受けた。
(えっ? 私の事を知らない?)
 瞳子は生徒会の幹部だ。しかもそれだけではなく、昨年度の祐巳さまとの一連の騒動はあまりにも有名なので、現在の二、三年生で瞳子の名前を知らない人はいないだろう。となると、瞳子の事を知らないらしい目の前の彼女は――。
「失礼ですが、あなたは?」
 彼女は不思議そうに首を傾げた後、なぜか胸を張って答えた。
「一年ピンク組、出席番号三十七番、聖鳴綾乃(仮)」
(く、大きいからって見せ付けるように……じゃなくて、せいなるあやの? (仮)も気になりますが、やはり一年生でしたか。いえ、それよりも)
「ピンク組というのは、桃組の事ですか?」
「うん。あれ? そうだったかな?」
 何だか本気で考え込んでいる様子の綾乃さんに、瞳子は溜息を吐いた。それを見て、綾乃さんが言ってくる。
「溜息を吐くと幸せになれるんだって。良かったね、何とかさん」
「普通は逃げるんです」
「そうなんだ? 何とかさん」
「何ですか。さっきから、『何とかさん、何とかさん』って……」
 批難しかけた所で、自分からは名乗ってなかった事を思い出す。批難されるべきは、瞳子の方だったようだ。
「そういえば、名乗っていませんでしたね。二年松組、松平瞳子です」
「まっ平ら……。なるほど」
 言って鼻で笑う綾乃さん。なぜか彼女の視線は瞳子の胸に。何気に、自分の豊かな胸を張りながら言っている辺りに悪意を感じる。
「ま・つ・だ・い・ら、ですっ!」
「『えー?』、『嫌です』、『却下』、『ふふんっ』、『理解した』、どの返答がよろしいですか?」
「『理解した』、で」
「ええー? ツマンナイです」
 心底つまらなさそうに言う綾乃さん。「ちぇー」とか言いながら、足元の何もない空間を蹴る真似をする。
 瞳子は胸の奥で燃え滾る熱いマグマのような感情を何とか押し留め、自己紹介の続きをした。
「紅薔薇のつぼみ、と呼ばれていますわ」
「紅薔薇の坪井さま?」
「誰が坪井さんですかっ! つぼみです! つ・ぼ・み!」
 瞳子が訂正すると、綾乃さんがポムっと手を叩いた。
(ようやく分かってもらえましたか)
「つぼみさま?」
「さま、はいりません」
「瞳子」
「怒りますよ」
「がっくし」
 どうやら先ほどから何度か出ている「がっくし」は口癖のようだ。
「何だか疲れましたわ」
「私も疲れました」
 なぜあなたが疲れるんですか? と思いながら綾乃さんを見る。すると、「疲れた時には美術鑑賞」と一枚の絵を見せてくれた。
 それは、リリアンでの日常の風景。部活をしている生徒達を描いた絵。けれど、単にそれだけのものではなかった。今にも動き出しそうなほど、皆が活き活きと力強く描かれている。まるで、命そのものを吹き込んだような絵だった。そして、その絵の中に込めれらている優しげな雰囲気。その優しさは、これを描いた人がそういう目で彼女たちを見て、そういう気持ちで描いたからだろう。
「私が描いたの。どう?」
 感想を求められたけれど、瞳子は何も言えなかった。その絵に完全に惹き込まれていた。
「おーい。返事は?」
 顔を覗き込んでくる綾乃さん。視界を遮られて、瞳子はようやく我に返った。
「これは、綾乃さんが?」
「絵だけは得意なの。全ては小学生の頃、授業中に教科書に落書きしていた事から始まります。パラパラ漫画も得意」
 ああ、そうですか、と感動していた自分が馬鹿に思えてきた。
「そういえば、綾乃さんは外部受験の方ですか?」
 一度目にしていれば強烈に記憶に焼き付くだろう彼女の長過ぎるとも言える長い長い黒髪を、ずっとリリアンに通ってきた自分が目にした覚えがないという事は、きっとそういう事なのだろう。案の上、「うん、今年から」と返ってきたのだが、彼女はついでとばかりに「ここは変な事が多くて困る」と付け加えた。
 瞳子はムッとした。ずっと通ってきた場所を変と言われたのだから、仕方がない。言われたのが瞳子でなくても、ここに通っている生徒であれば誰だって同じような反応をするだろう。
「何が変なのですか」
 冷静に、冷静に、と自分を抑えながら尋ねる。胸の内は、真っ赤な炎で燃え上がっているけれど。
 綾乃さんは、腕を組みながら言った。
「まずは挨拶。どうして『ごきげんよう』なの?」
「『おはよう』とか『こんにちは』に比べると、確かに使用される頻度は低いと思いますが普通だと思います」
「普通は、『オイッス!』とか『おはー』とか」
「使いません」
「がーん! じゃあ、じゃあ、上級生に『さま』付けとか」
「伝統です」
「えっと、えっと、古い温室で女同士なのに抱き合ってた」
「友情を確かめ合っていたのでしょう」
「キスしてたけど?」
「……愛情を確かめ合っていたのでしょう。言っておきますが、他人の恋愛に口出しする権利は、あなたには勿論私にもありません」
 瞳子だって、祐巳さまが相手ならキスどころかその先まで――ゲフンゲフン。
「他に、『ロザリオを受け取って』って色んな人に言われた。受け取らなかったけど、あれは何? 友達になるための儀式?」
「そういうわけではありませんが……」
 近いものはある。
「実は、売ったら高いとか?」
「物にもよります」
 綾乃さんの目が輝いた。しまった、つい余計な事を、と瞳子は後悔したが、もう既に手遅れ。それに、今更言い訳するよりも、リリアンの慣例やら何やらについて色々と説明しておく方が先だろう。けれど、今すぐは無理だ。祐巳さまを一人で待たせている。早く館に戻らなければならない。
「綾乃さんは、放課後はいつもここに?」
「ふわふわ〜って雲のようにどこかに行く事あるので、ここにいるとは限りません」
「……」
 掴み所のない子ですわね、と思った。
(でも、もし、この子を妹にしたら?)
 自分が苦労する事は目に見えている。けれど、それはそれで楽しいような気がした。
「できれば、明日くらいは、ここにいて欲しいのですが」
 紅薔薇のつぼみである瞳子が全くの私用で訪ねたとなれば、きっと蜂の巣を突付いたような騒ぎになるだろう。それでも瞳子は、この子に会いたい、また話をしたい、と強く思ってしまったのだ。
「分かりました。明日まで覚えていればここで待ってます」
「それくらい覚えておいてください」
 片眉をヒクつかせながら、瞳子はそう言っておいた。



 薔薇の館に戻ってきて、ふと気付く。ここに戻るまで、何だか妙に足取りが軽かった気がする。これも綾乃さんのお陰でしょうか? と綾乃さんに感謝して、そこである事を思い出した。
(そういえば、お姉さまの悩みの事をすっかり忘れていましたわ)
 これも綾乃さんに会ったせいでしょうか? と、先ほどとは逆に、今度は綾乃さんのせいにする。
(まあ良いです。お姉さまの事は、また今度何とかしましょう)
 それにしても、本当に不思議な子でしたわね、と思いながら瞳子は会議室の扉を開けた。祐巳さまの姿を探そうとしたが、探すまでもなく祐巳さまは机の前に立っている。
「遅かったわね、瞳子」
 咎めるような口調だったけれど、怒ってはいないようだ。それでも遅くなった事に変わりないので、瞳子は頭を下げた。
「遅くなって申し訳ありません」
「別に頭まで下げなくても良いって。それよりも、その様子だとちゃんと会えたみたいね」
「は?」
 何の事でしょう? と思いながら頭を上げて祐巳さまを見る。
 その瞬間、
「くすっ」
 と笑い声が上がった。
 その、どこかで耳にした事があるような不快な笑い声は、祐巳さまの発したものではない。祐巳さまの後ろから聞こえてきたものだった。
 誰かいるのかしら? と瞳子が疑問に思うと、まるでタイミングを計っていたかのように祐巳さまが一歩横に動く。その行動によって露わとなった瞳子の死角となっていた場所には、椅子に腰掛けている少女の姿があった。
「――」
 その少女を見て、瞳子は絶句した。だってその少女は、瞳子の帰りが遅くなった原因となった少女だったから。
(なぜ綾乃さんがここに……?)
 綾乃さんは音を立てずに椅子から立ち上がると、
「初めまして瞳子さま」
 と、驚いている瞳子に向かって挨拶をした。膝の裏辺りまで伸ばされている漆黒の髪が、綾乃さんの動きに合わせてさらさらと揺れる。
 まるで初めて会ったかのようなその挨拶に、瞳子は顔を顰めた。
「初めまして何も、さっき会ったばかりじゃないですか」
「……ふーん、そっか」
 綾乃さんはなぜか悔しそうに唇を噛んだ後、見ていてとても不快になる笑みを浮かべた。
「やっぱり分からないか。まあ、期待はしてなかったけど」
 綾乃さんはそう言って、意味深にクスクスと笑う。以前に、どこかでこういう場面を見た事があるような気がした。
「その不快な笑い方はやめてください」
 眉根を寄せて瞳子が言うと、綾乃さんは意地悪そうに唇の端を吊り上げた。
「私が笑っているのは、あなたが鈍いから。笑われたくなかったら、さっさと気付いたらー?」
 なんて言って、更に笑みを深める。そんな綾乃さんを、さすがに見かねた祐巳さまが窘めようとした。
「ちょっと、綾――」
「分かってるって。あんまり苛めちゃかわいそうだし、これからちゃんと自己紹介するから」
 祐巳さまを手で制した綾乃さんは、視線を瞳子の胸の辺りに固定した。
「祝部綾瀬です。よろしくお願いしますね、まっ平ら瞳子サマ」
「誰がまっ平らですかっ!? って、え? 綾瀬?」
(双子? でも祝部って、名字が違うのですが……)
「人違いに気付くの遅ーい。あなた、それで本当に紅薔薇のつぼみサマなの?」
 馬鹿にしたような態度で瞳子に言ってくる綾瀬と名乗った少女に、瞳子は唇を噛んだ。
「く、仕方ないじゃない! 綾乃さんと外見はそっくりじゃないですか!」
「雰囲気で分かりなさいよ、まっ平ら。全くの同一人物ってわけじゃないんだし、見れば分かるでしょ?」
(そう返してくるという事は、やはり綾乃さんの事を知っているようですね。まあ、見た目は本当にそっくりですし、多分双子の姉妹だと思いますが。それにしても『まっ平らまっ平ら』と、何度も何度も腹が立ちますわね)
 だいたい、「見れば分かるでしょ」と言われても無理があると思う。彼女と綾乃さんには、殆ど外見に違いがないのだから。肌の色だって鼻の形だって桜色の唇だって、瞳の色も髪の色も一緒。他の人間とだったら一目で見分けの付く髪の長さだって、二人とも同じくらいに伸ばしてある。
 一番分かり易い違いは、目の形だろう。綾乃さんはクセのない真っ直ぐな目だったが、綾瀬さんは少しツリ目。そのせいか、微妙に綾乃さんよりも気が強そうに見える。後は、背の高さが少し違ったような気がするくらいだ。綾乃さんの方が、綾瀬さんよりも高かったような気がする。
(それを綾瀬さんは、それだけの違いで別人だと気付けと?)
 だいたい瞳子は、二人には今日初めて会ったのだ。一番目立つあの長い髪を見て、綾瀬さんを綾乃さんだと思い込んでしまっても仕方のない事なのではないだろうか。それに、いくら別人だと気付かなかったからといっても、もっと別の言い方があると思う。特に、「まっ平ら」なんて悪意しか感じられなかった。
 思い出すと腹が立ってきたので、瞳子は綾瀬さんと同じように言い返した。
「そっちこそ、何が、ほーりべ、ですか。頭の中までおめでたそうな」「瞳子……」「何でしょう?」
 瞳子が言い返していると、祐巳さまが横から口を挟んできた。
「祝部って、私のお母さんの旧姓なの」
「……」
「それからこの子、私の従妹だったりするんだけど」
「祝部とはまた縁起の良さそうな素敵な苗字ですね。綾瀬さんも素直で元気の良い、でも腹の立つ、とても可愛らしい方で……」
「いや、無理に褒めようとしなくて良いから」
 呆れ顔の祐巳さま。
「あはは、バッカみたーい」
 隣では綾瀬さんがケラケラと笑っている。
(もうそろそろ引っ叩いても良いでしょうか?)
 しかし、堪忍袋の緒が切れかかっている瞳子よりも先に祐巳さまが動いた。
「綾瀬ちゃん、ちゃんと自己紹介して」
 祐巳さまがそう言うと、綾瀬さんが「仕方ないなー」と言いながら瞳子に挨拶してきた。
「じゃ、改めて。中等部三年、祝部綾瀬。祐巳お姉ちゃんの従妹で、綾乃お姉ちゃんの妹。好きなものは祐巳お姉ちゃんと綾乃お姉ちゃんで、嫌いなものはあなた」
 綾瀬さんの、あんまりな自己紹介に祐巳さまが頭を抱えている。瞳子の事を嫌いと言った事に対しては、瞳子本人としては別段何も思わなかったのだが、その自己紹介の中に一つだけ瞳子を驚かせた事があった。
「中等部!?」
「本当に大丈夫ー? 制服見れば分かるでしょ?」
 言われて気が付いたけれど、確かにそうだ。彼女の制服のタイは、蝶結びにされた黒くて細いリボン。高等部のものは、アイボリーのセーラーカラーを結ぶようになっているのだ。
(中等部……。これで中等部……)
 瞳子は更に衝撃を受けていた。その視線は、ある一点に注がれている。中等部なのに、それにしては許し難いものがある彼女の胸である。一言で言い表すと、大きい。胸という単語の前に、たわわに実った、と付けて表現しても良い。
(ですが、胸が全てではありません!)
 でもなぜか、負けた、って心の中で叫んでいる自分がいたりする。そんな、ちょぴりショックを受けている瞳子を放っておいて、祐巳さまと綾瀬さんが話をしていた。
「合唱部には入らないの? ずっとやってたんでしょ?」
「どうせすぐに引退する事になるから、高等部になってから入ろうかなって。練習は家でもできるし」
「綾瀬ちゃん、三年生だものね」
「うん。ねぇねぇ、祐巳お姉ちゃん。あの人やめて、ウチのお姉ちゃんを妹にしたら?」
 チラリ、と瞳子に視線を飛ばして綾瀬さん。
(何、勝手な事を言ってますか!)
「悪いけど、それはできないの」
 迷う事なく答えた祐巳さまに、瞳子は後光を見た。さすがは瞳子の愛するお姉さまである。
「えー? 何でー?」
「瞳子の事が好きだから」
 瞳子に向かって祐巳さまが微笑み、私もお姉さまの事が好きです、と瞳子も祐巳さまに向かって微笑んだ。
「むー」
 そんな二人を見てむくれる綾瀬さん。
(ふふん、どうですか? 私とお姉さまの絆は何よりも強く結ばれているのです)
 綾瀬さんは納得できないらしく、瞳子をキツイ目で睨んでくる――とそんな時、扉がコンコンと二回ノックされた。
「ごきげんよう? それとも、失礼します?」
 そう言いながら扉の隙間から顔を覗かせたのは、今度こそ間違いなく本物の綾乃さん。
 綾乃さんは祐巳さまを見付けると、嬉しそうに微笑んだ。
「ごきげんよう、祐巳っち」
「祐巳っち?」
 聞き慣れない単語に祐巳さまを見ると、ちょうど祐巳さまが机に両手を突いた所だった。
「お願いだから、その呼び方はやめて……」
 そのままの格好で、何やらブツブツと呟いている。
「どうしたの祐巳っち。私に挨拶してくれないの?」
「ごきげんよう、綾乃ちゃん。とりあえず、いつまでもそうしてないで入ってきたら?」
「お構いなく。このままの方が落ち着くから」
 扉の隙間から顔だけ入れて、部屋を覗き込んでいる綾乃さん。本当にそれで落ち着くのだろうか。
「こっちが良くないから。ね?」
「仕方ないわね」
 祐巳さまに言われて、ようやく綾乃さんが普通に扉を開けて入ってきた。部屋に入ってすぐの所で瞳子の姿を見付けた彼女は、満面の笑顔となる。その笑顔を見て、瞳子は胸が高鳴るのを感じた。
「さっき会った人!」
「あなたはもう私の名前を忘れているんですか」
「いいえ、ちゃんと覚えています。坪井さま」
「つぼみです! それから、瞳子です」
「……あ、そうだった。瞳子さまだった」
 思い出したようにポンッと手を叩く。本気なのか冗談なのか、いまいち判断できない。瞳子が小さく溜息を吐いていると、綾乃さんは既に瞳子から興味を失ったようで、祐巳さまをじっと見ていた。
「祐巳っち。会えて嬉しい」
「この間会ったばかりじゃない。それに、私はあんまり嬉しくない……」
「そんなっ!? あんなにも激しく愛し合ったのに」
(ええっ!?)
 瞳子は驚いて祐巳さまを見た。
「苛められていた記憶しかないんだけど」
 そう言う祐巳さまの顔色は土気色。つまり、悪い。
「愛情表現でした」
「知らなかったよ。随分と遠回しだったのね」
 何かを思い出して、それに耐えるかのような顔をしながら祐巳さま。何があったのか気になるが、聞かない方が良さそうだ、と瞳子は判断した。
「祐巳っち」
「何?」
「私はなぜここにいるの?」
 自分で分からないんですか? と瞳子は呆れた。祐巳さまも同じように呆れ顔になった。
「私の妹を紹介してって言ったのは、綾乃ちゃんでしょう?」
 その言葉で、瞳子はようやく、ここ最近祐巳さまの様子がおかしかった理由を理解した。祐巳さまは、彼女たちと示し合わせて瞳子を驚かせようとしていたのだ。今日に限って皆がここにいないという事は、乃梨子たちも加担していたのだろう。そしておそらく、美術部の人たちも一緒になって。
 自分だけ知らなかった事はとても悔しいのだけれど、それよりも瞳子はずっと気になっている事があったので、まずはそれを解決しようと「あのー」とおずおず手を上げた。
「瞳子ちゃん、どうぞ」
 なぜか綾乃さんが先生の真似をして言う。もう一つ言いたい事が増えた。
「『瞳子さま』と呼んでもらえませんか。私はあなたよりも年上です」
「年功序列はんたーい!」
「伝統です」
「伝統なんて、そんな腐ってカビの生えたようなものは、捨て去れば良いのよ」
 肩にかかった髪を、手で後ろに流しながら綾乃さん。その仕草が物凄く似合っているのは、どうしてだろう。
「今後、『瞳子さま』と呼ばなければ返事はしません」
「分かりました、瞳子さま。それで、何か言いたい事があるようでしたけれど?」
「綾乃さんは、『聖鳴』と名乗っていませんでしたか?」
 確かにそう名乗っていた記憶がある。ずっと気になっていた。綾瀬さんと姉妹なら、なぜ苗字が違うのだろう? と。
 その質問に、綾乃さんは説明を始めた。
「『祝部』→『ほーりべ』→『ホーリー』→『聖なる』→『聖鳴』。どうです?」
「難度が高過ぎます」
「がっくし……」
 膝に手を突いて、ショックを受けている様子の綾乃さん。
「ショックが大きいので帰ります」
「は?」
 よろよろと、わざとらしくよろけながら扉に向かっていく綾乃さん。
「凄い瞳子! あの綾乃ちゃんを撃退した!」
 何やら感極まったらしい祐巳さまが、瞳子の肩をポンポンと叩いてくる。
「ごきげんしました」
 綾乃さんは、別の挨拶と合体しているような挨拶をして部屋から出て行った。
「あーあ、お姉ちゃん帰っちゃった。私もそろそろ帰ろうかなー」
 その一部始終を瞳子たちと一緒になって眺めていた綾瀬さんが呟く。
「用がないのでしたら、早く帰ったらどうです?」
 瞳子が帰宅を促すと、綾瀬さんは目を細めた。
「煩いドリルね」
「誰がドリルですかっ!」
「あんたよ、あんた。松平瞳子」
 わざわざフルネームで名前を言うとは、悪意があるとしか思えない。カッとなって瞳子は叫んだ。
「あなたは礼儀がなっていません!」
「尊敬できる人になら礼儀も尽くすけど、あなたにだけは絶対に嫌」
 つーん、と澄まし顔で綾瀬さん。
「なっ!?」
 瞳子にそう言った後、祐巳さまの方を向いて、
「祐巳お姉ちゃん、私も帰るね」
「うん、気を付けて。ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 祐巳さまに笑顔で挨拶をしてから、瞳子に視線を向けた。
「何です?」
 瞳子は不機嫌丸出しで綾瀬さんを見た。綾瀬さんは唇の下に指先を当てて少し考える素振りを見せた後、「ごきげんよう」と普通に挨拶して部屋から出て行った。
(何だったんですの?)
 瞳子はそんな綾瀬さんの後姿を、挨拶を返せないまま見送ってしまったのだった。



「悪い子たちじゃないんだけどね」
 嵐のような祝部姉妹が去った後、祐巳さまがポツリと洩らした。
「そうですか?」
 綾乃さんはともかく、綾瀬さんのあの態度は許せないと思う。
「そっか。自分では気付かないものなのね」
 瞳子を見て、しみじみと言う祐巳さま。どういう事なのか分からなかったので尋ねてみる。
「何がですか?」
「内緒」
「何ですか、それは」
「だから、内緒だってば」
 そう言って笑う祐巳さま。
「……もういいです」
 祐巳さまが笑顔を見せるという事は、きっと悪い事ではないのだろう。瞳子はそう思う事にした。



 雨の降り続く景色を眺めながら、瞳子は溜息を吐いた。
 いくら梅雨の時期だからといって、お姉さまである福沢祐巳さまと何かあったわけではない。
 それは、ほんの数日前のお話。
 お姉さまである祐巳さまに頼まれて、美術部に書類を持って行った時の事。瞳子はそこで、ちょっぴりおかしな天使と出会ったのだ。

 その時の事を思い出していると、「どうしました?」と背後から声をかけられる。館に来てからずっと、瞳子は内心で頭を抱えていた。それは、たった今声をかけてきた、
「あなたはどうしてここにいるんです?」
「暇だからでしょうか?」
 瞳子の後ろに立っている綾乃さんが原因だ。
「私に聞かないでください」
「えー」
「『えー』じゃありません」
「ねゃー」
「何ですかそれは? 発音し辛いですわね」
 本日、薔薇の館に来た瞳子を最初に迎えたのは、綾乃さんだった。どうやら瞳子に会いに来たらしい。祐巳さまは、我関せず、とずっと書類と格闘中。手伝おうとすると、「綾乃ちゃんの相手をしていてね」とやんわり断られた。
 瞳子が本日何度目かの溜息を吐いていると、綾乃さんが話しかけてくる。
「瞳子さま。私は絵を描きたいです」
「部室で描けば良いじゃないですか」
「そうじゃなくて、瞳子さまの絵を描きたいんです」
「え――」
 思わず振り向くと、にやり、と嫌〜な笑顔の綾乃さん。
「今のシャレは十点」
「……」
 瞳子は、綾乃さんに向けていた視線を再び窓の外へと戻した。
「わぁっ、ごめんなさい。実は私、瞳子さまに夢中なのです」
「からかうのなら、祐巳さまにしたらどうですか?」
 これ以上は付き合っていられない、と無視しようとすると、
「本気ですよ?」
 囁くような綾乃さんの声が瞳子の耳に届いた。
「っ!?」
 振り向いた瞳子が見たのは、桜色の笑顔。それは、綾乃さんの笑顔だった。
「私は本気で、瞳子さまに夢中なのです」
 綾乃さんはそこで、頬を桜色に染めて笑っていた。


一つ戻る   一つ進む