日曜日、昼下がりのことだった。
少々忙しかったので、休日返上で仕事に励んでみたところ、思っていたよりも早く終わったので、早々に解散したのだが、一箇所間違いがあったのに気付いて、一人だけ残って直していた紅薔薇さま福沢祐巳。
皆に遅れること15分ほどで、薔薇の館を後にしたのだが、どこからともなく感じる視線があった。
一瞬、蔦子さんかな? と思ったけれど、考えてみれば、隠身に長けた写真部のエース武嶋蔦子が、そう簡単に気配を現すはずがない。
じゃぁ誰なんだと思いつつも正体を確かめようと、門を出ていつもとは反対方向に脚を向けた。
携帯電話を開いて、黒い部分に背後を映してみたところ、少なくとも祐巳の記憶にはないリリアン生が、後をつけてくる。
「参ったなぁ…」
頭を掻き掻き、あまり知らない狭い道を進み、小さな公園を通り抜け、思い出したように走り出しても、ピッタリ離れない追跡者。
比較的車が多い二車線の道路に出た祐巳は、車が途切れ、そして近場の信号が黄色になった途端、駆け出して渡り、ようやく追跡者を振りほどくことに成功した。
良くも悪くもリリアン生は、信号無視なんて出来ないし、しかも車が多いため、無理矢理渡ろうにも渡れない。
今の間に祐巳は、可能な限りの速さでその場を立ち去った。
「はぁ…、やっと撒くことができたかな?」
影に立ち止まって、汗を拭きつつ後を窺えば、追っ手の姿は見えなかった。
「さぁ、とんだ寄り道だったけど帰ろうかな…あれ?」
息が整って歩き出したその時、周りの景色に見覚えがあるのに気が付いた。
そこには、かなり立派な造りの木戸が、そそり立っているようだった。
「確かここは、加東さんの…」
そこまで言ったところで、木戸についた扉が開いたかと思えば。
「あら、祐巳さんごきげんよう。お久しぶりね」
「ご、ごきげんよう加東さん」
姿を現したのは、去年お世話になったリリアン大学の二年生、加東景だった。
「どうしたの? 日曜日だというのに制服で」
「いえ、ちょっと仕事が溜まってたものですから」
「そう。紅薔薇さまになって、頑張っているのね」
「ええ。まだまだ力不足ですが」
立ち話もなんだということで、景の部屋に案内された祐巳。
弓子に挨拶と思ったけれど、用事で出掛けているらしい。
「でも、どうしてこんな所まで? わざわざ私に会いに来てくれたわけじゃないんでしょ?」
「あはは…ご無沙汰して申し訳ありません。実は、ここまで来たのはたまたまでして」
「?」
不思議そうな顔をした景に、リリアンの現状と、今の状況を説明する。
「なるほど…。先代が卒業してから、こう言っては悪いけど、少々荒れているってわけね」
「ええまぁ。でも元凶は、先々代薔薇さまなのですが」
「聖さんと蓉子さんと江利子さん?」
「いえ、蓉子さまは常に鎮圧する側でして。事の起こりは江利子さまでした」
二代前の黄薔薇さま鳥居江利子による『黄巾の乱』、先代の白薔薇さま佐藤聖と当時の新聞部部長築山三奈子の二人による専横。
それを、中心になって解決するために奔走した、元紅薔薇さま水野蓉子。
先代紅薔薇さまと黄薔薇さま、そして去年も二年生ながら白薔薇さまを務めた藤堂志摩子の代には、特に問題は起きなかったが、祐巳たちが薔薇様になった途端、運動部連合・文化部同盟・山百合会の三国鼎立。
「現在の山百合会では、、権力があっても人数が少ないから、どうしても行動が制限されてしまうのです」
その言葉を聞いた景、フフっと小さく笑みを浮かべた。
「加東さん?」
「ああ、ごめんなさい。でも祐巳さん、それは間違っているわ」
「間違ってる?」
きょとんとした目で、景を見つめる祐巳。
「ええ。なぜ現在の山百合会が動けないのか、それは人材がいないからよ」
「それは違います。由乃さんも志摩子さんも、乃梨子ちゃんも瞳子も菜々ちゃんも、みんな私なんかよりずっと役に立ってます」
「あなたは優しいからかばうんでしょうけど、果たして、本当に祐巳さんが思っている通りなのかしら」
「………」
特に問題が無いリリアンであれば、今のメンバーで十分対応できるだろう。
だが、今の三国鼎立状態を乗り切れるだけの能力があるのだろうか…。
黙りこんだ祐巳の前に、そっとお茶を差し出す景。
「そうね。私なんかの提案で良ければ聞いてもらえるかしら?」
俯いていた祐巳が、はっと顔を上げた。
「『眠れる龍』か『鳳凰の雛』、どちらかを迎え入れれば、山百合会に大きなアドバンテージを得ることができるわ」
「『眠れる龍』と『鳳凰の雛』…、それは誰なんですか?」
「…今日は良い天気ね」
窓の外に目をやりながら、ぼそっと呟く景。
この話はこれまで、という意思表示と受け取らざるを得ない祐巳は、それ以上聞くことは出来なかった。
「突然お邪魔して、申し訳ありませんでした」
「いえいえ、いつでもいらっしゃい。私でよければ、いくらでも話し相手になるから」
「ありがとうございます。あ、見送りは結構ですので」
「そう? じゃぁ、気をつけて帰るのよ」
「はい、それではごきげんよう」
「ごきげんよう」
詳しくなかったけど今後の指針を教えられたし、また話も聞いてもらえたので、だいぶ気分はスッキリしていた。
池上家を出た祐巳、眩しい太陽に目を細めながら歩き出した。
「祐巳さま」
「可南子ちゃん?」
「ご無事でしたか」
電柱の影から姿を現したのは、いつもの制服姿ではなく、ジーンズを穿いたラフな格好の細川可南子だった。
「どうしてここに?」
「なにやら祐巳さまの後をつけている生徒を見かけたものですから、気になって探していたんです。そうしたら、こちらの家に入って行かれましたので、しばらく様子を見ていたのです」
「そうなんだ。ゴメンね、折角の日曜日なのに、迷惑をかけちゃったね」
「いえ、お気になさらず。念の為、駅までご一緒します」
そうして二人は、揃っていつもの道を辿るのだった。
制服姿の祐巳と、私服姿の可南子が連れ立って歩くその様を、物陰からこっそり撮影している『眠れる龍』がいたのだが、祐巳は言わずもがな、可南子すらそれに気付くことは出来なかった…。