オリキャラが出ます。
【No:1547】→【No:1555】→【No:これ】
放課後。一番に薔薇の館に来て、洗い物を片付けて、机を拭いて、お湯を沸かしてポットに入れる。
準備完了。これで祐巳さまたちがいつ来ても良い。すぐに仕事が始められる。
「ふぅ」
一息つこうと瞳子が椅子に座った時、元気のない「ごきげんよう」の声が聞こえてきた。そちらを見ると、長い黒髪を持つ少女が恐る恐るといった様子で扉を開けている所だった。瞳子と目が合った彼女は小さく顔を歪めた後、部屋には入らずに開いたばかりの扉をそのまま閉じようとする。
「入ってきたらどうです?」
「う……」
少女はチラチラと瞳子を見た後、肩を落としてがっくりと項垂れた。
閉じかけていた扉を再び開いて、気まずそうに入ってくるのは綾瀬さん。
もう彼女と綾乃さんを間違うような事はない。ぱっと見ただけで判断するのは未だに難しいけれど、綾乃さんと綾瀬さんは全然違うのだ。綾乃さんは雲のようにふわふわ(ふらふら?)していて、綾瀬さんは気の強そうな(敢えて生意気とは言わないでおく)雰囲気を持っている。
でも、今の綾瀬さんは少し弱気になっているようだった。
「何か飲みますか?」
「……」
返事がない。ついでに元気もない。瞳子が何か言えば、それに対して何かしら噛み付いてきていた綾瀬さんが、ちっとも喋らない。瞳子から離れた椅子に座って俯いているだけ。原因は、この間の事だろう。他に心当たりはないし、それしかないと思う。
(いつまでもこのままというわけにはいきませんし、そろそろお互いに向き合うべきなんでしょうね)
そう考えると、二人きりという今の状況は、ちょうど良い機会と言えた。元に戻ったら戻ったで、また色々と腹の立つ事を言われるのかもしれないけれど。
(それでも、元気な綾瀬さんの方がずっと良いわ)
嫌な子ね、と思った事は一度や二度どころではないが、瞳子を相手に物怖じする事なく自分の意見をはっきりと言える所は気に入っていたのだ。
「綾瀬さん」
「……」
名前を呼んでも返事はない。もっとも、返事をしてもらえるとは、最初から全く期待していなかったのだけれど。
「私は綾乃さんが好きです」
構わず続けた瞳子に、綾瀬さんは相変わらず俯いたままだったが、
「……それは前に聞きました」
ようやく口を開いてくれた。
「そうですね。でも私は、お姉さまの事も好きなんです」
勝手に勘違いして傷付けて、本来なら嫌っても良いはずの瞳子を受け止めてくれた人なのだ。祐巳さまがいたから、瞳子は今ここにいる。
「それから、乃梨子や白薔薇さま。黄薔薇さまと菜々ちゃんの事も好きです」
乃梨子は何があっても、瞳子の傍にいてくれた。ここにいる人たちは皆、瞳子を受け入れてくれた。
「随分と気が多いんですね」
俯かせていた顔を上げて、綾瀬さんが冷めた眼差しを向けてくる。瞳子はその視線を受けても全く動じず、それどころか微笑みながら頷いてみせた。
「ええ。だから、綾瀬さんの事も好きなんですよ」
「え?」
瞳子の言葉に虚を突かれた綾瀬さんが、キョトンとした顔になる。その反応に大いに満足しながら、瞳子は言った。
「今だから言いますけれど、あなたの事、嫌いでした」
「っ! だったら、どうして!」
綾瀬さんは僅かに肩を震わせたものの、それ以上の動揺は見せずに瞳子を強く睨み付けてくる。対して瞳子は、微笑んだまま綾瀬さんの疑問に答えた。
「あんな事を言われて、嫌う事なんてできるわけないじゃないですか」
「あんな事?」
「私の事を『良いなー』って、そう言ってくれたじゃないですか。あの一言で、私の綾瀬さんに対する嫌な気持ちは、全部どこかへ吹き飛んで行ってしまったんです」
「嘘っ……嘘だっ! だって私、本当に酷い事ばかり言ったのに……」
先ほどの勢いはどこへやら。一転して今にも泣き出してしまいそうな顔で、綾瀬さんは激しく頭を振った。
「私が綾乃さんに会うのを躊躇っていた時、あなたは私の背中を押してくれましたよね」
「別に、そういうつもりで言ったわけじゃ……」
綾瀬さんは否定したが、瞳子の背中を押すつもりでなければ、あんな言葉は出てこないはずだ。
この子は、本当はとても優しい。でも、生意気な口を利き、人を馬鹿にしたような態度を取る。弱い所を見せまいと、必要以上に強がる。それは、他人に対して臆病だからだ。臆病だから、他人との間に壁を作ろうとする。臆病だから、自分の気持ちを素直に口にする事ができない。
瞳子には、綾瀬さんの気持ちがよく分かった。
一人でも生きていける。信じて裏切られるくらいなら、最初から誰も信じない。そう思っていた頃より随分とマシになり、祐巳さまや乃梨子には本心を打ち明けられるようになったとはいえ、根本的には瞳子もまた他人に対して臆病だからだ。
「どうやら、あなたと私はよく似ているようですね」
苦笑いしながらの瞳子の言葉に、
「……不安だったんです」
綾瀬さんは、堰を切ったように話し始めた。
「こっちに来て、新しい学校になって、今までと全然違う所だから、どんな所か不安で。祐巳お姉ちゃんの家に遊びに行って話を聞いたんです。そうしたら――」
綾瀬さんは瞳子を見た。
「祐巳お姉ちゃんが、楽しそうにあなたの事を話してくれたんです。それで興味が湧いて、『もっと、もっと』ってたくさん話を聞きました。聞けば聞くほど、あなたは私に似ていて……。だから、あなたに会ってみたくなって、綾乃お姉ちゃんと一緒に祐巳お姉ちゃんに頼みこんで――」
綾瀬さんはあの日、瞳子に会いに来たのだった。
(なるほど。お姉さまが、私の事を話したわけですか)
祐巳さまが瞳子の事をどう話したのかは、後日祐巳さま本人に詳しく聞くとして、今は綾瀬さんの話に集中する。
「でも、瞳子さまは別人だと気付いてくれなかった。酷い八つ当たりだとは、自分でも分かっていたんです。初対面なのに、私たちが別人だって分かるはずがない。瞳子さまはちっとも悪くないって。私が勝手に期待して、勝手に裏切られたって思っただけなんです。だから、悪いのは全部私で…………私、最低だ……」
俯いて肩を震わせる綾瀬さんの膝の上に、涙が零れ落ちた。綾瀬さんは、激しい自己嫌悪に陥っているようだった。
確かに、あの時の事に関して瞳子は悪くない。悪くはないのだけれど、ここまでこの子を追い詰めてしまったのは、やっぱり瞳子なのだった。生意気で大人びてはいるけれど、綾瀬さんは瞳子よりも年下なのだ。
「私はどうして気が付かなかったんでしょうね。綾乃さんとあなたは、こんなに違うのに」
「――」
綾瀬さんが顔を上げた。赤くなった目も、濡れた頬も痛々しい。
「私に会って、失望しました?」
綾瀬さんは涙の跡をごしごしと袖で拭いながら、頭を左右に振って答えた。
「それなら私は、頑張らなければなりませんね」
「え?」
真っ赤な目を瞳子に向けて、綾瀬さんは不思議そうな顔をする。
「あなたに失望されないように」
そう言って笑いかけると、綾瀬さんはそっぽを向いた。
「そ、そうですか。どうぞご勝手に。せいぜい一人で頑張ってください」
ついでに、久しぶりに生意気な口を利いてくる。それなら瞳子だって負けてはいられない。
「ええ、頑張ります」
あっさりと頷いてやると、綾瀬さんが唇を噛んだ。
(ふふん、どうですか。私に張り合おうなんて十年早い――って、違います。何やっているんですか私は?)
瞳子が頭を抱えようとしたその時、部屋の外からギシギシと音が聞こえた。それは、誰かが階段を上ってくる音だった。
瞳子は、はっ、と顔を上げた。それが誰の足音なのか、すぐに分かったからだ。
(お姉さまだわ)
お姉さまの立てる音は、他の人とは微妙に違うのだ。もしかしたら、瞳子にしか分からないのかもしれないけれど。
案の定「ごきげんよう」の声と共に姿を現したのは、祐巳さまだった。祐巳さまは部屋に入って来るなり、瞳子たちが並んでいるのを見て首を傾げた。
「珍しい組み合わせね」
「そうですか?」
平然と瞳子が答えると、益々不思議そうな顔になる。瞳子は椅子から立ち上がった。
「お茶をお淹れしますね」
「あ、うん。お願い」
釈然としないながらも頷く祐巳さま。瞳子はそのまま綾瀬さんにも尋ねた。
「綾瀬さんも何か飲みます?」
「いえ、私は……」
「遠慮しなくても良いですわよ?」
「……じゃあ、紅茶を」
「えっ!?」
瞳子に向かってそう答えた綾瀬さんを見て、祐巳さまが大口を開けて驚いている。おそらく、綾瀬さんが断ると思っていたのだろう。実際、今までに何度も尋ねては断られていた。
「どうしました?」
瞳子は、頬が緩みそうになるのを懸命に堪えながら尋ねた。祐巳さまは、瞳子と綾瀬さんを交互に見ながら言った。
「何だか二人とも仲良しに見えるんだけど……」
「私と綾瀬さんは仲良しですよ」
さも当然のように返す。
「そうなの?」
綾瀬さんを見て、尋ねる祐巳さま。尋ねられた綾瀬さんは、照れたような、困ったような、複雑な表情を浮かべながら答えた。
「ええっと、まぁ……多分……それなりに……」
「ふーん、そう」
祐巳さまは、あまり気にしていないような口振りでそう言った。けれど、視線はそうではなかった。祐巳さまは、『良かったね』と視線を瞳子に向けてきた。だから瞳子も、『はい』と微笑みながら視線を返した。
*
綾乃さんが来なくなって一週間。
ようやく絵が完成したらしい。お昼休みに会った時、「今日は行きます」と言っていた。
実は瞳子だけではなく、山百合会のメンバー全員が、綾乃さんが来るのを楽しみにしている。彼女は皆に愛されているのだ。数日前、新聞部が発行したかわら版に、綾乃さんとのツーショット写真が掲載されているのを見た時は、目の前が真っ暗になったのだけれど。瞳子は自身が色々と噂された事があったので、同じような目に綾乃さんが合わないかと心配したのだ。
でも、それは杞憂に終わった。心配で教室まで様子を見に行ったのだけれど、綾乃さんはいつも通りの綾乃さんだった。陰口を叩かれているとか、そういう事は一切なかった。むしろ、彼女は祝福されていた。というか、かわら版を見て、クラスメートと一緒にはしゃいでいた。何も考えていないだけなのか、肝が据わっているのか。できれば、後者である事を願いたい。
そんな風に綾乃さんの事を考えている瞳子の前で、祐巳さまが黄薔薇さまに話しかけた。
「遅いな。何かあったのかな」
「単に遅れているだけなんじゃないの?」
「だと思うんだけど、綾乃ちゃんだからね」
心配性な祐巳さま。綾乃さんは、「今日は行きます」とは言っていたけれど、「放課後になってすぐに」なんて言ってなかった。つまり、ここに来るのは一時間後かもしれないし、一分後かもしれないのだ。
瞳子がそんな事を考えていると、祐巳さまが思い出したように言った。
「そういえば、綾瀬ちゃんも遅いなぁ。来るって言ってたんだけど」
どうやら今日も来るらしい。初耳だ。
「今日も来るのですか?」
尋ねると、ぼーっ、と扉の方を眺めたまま祐巳さまが答えた。
「そりゃ、今日は間違いなく瞳子がいるって分かっているからね。あの子、いつも瞳子に会いに来ているんだし、来るに決まっているわよ」
「え?」
「……あ゛」
自分の失言に気付いた祐巳さまは、クルリと瞳子に振り返った。
「ねぇ瞳子。私は何も喋らなかった。あなたは何も聞かなかった。良いわね?」
瞳子の肩に手を置くと、素敵な笑顔を浮かべて詰め寄ってくる。
「は、はい! お姉さまは何も喋っていませんし、私は何も聞いていません!」
妙な迫力に圧されて、思わず頷いてしまう。紅薔薇さまとなった祐巳さまは、時々妙な迫力を発揮するようになったのだ。
(それにしても、そうだったのですか。『いつも』だったのですか……)
初対面の時だけかと思っていた。それ以外は、祐巳さまに会いに来ているのだと思っていた。なるほど、言われてみればそうだ。祐巳さまがいなくても、館に来ている時があった。彼女は、瞳子が館に来る日には、高確率でここにいたような気がする。
(これは参りましたわね)
それならば、益々失望させないように頑張らなければならない。
でも、中等部の生徒が高等部の敷地内に頻繁に出入りしているってのは、あんまり好ましくないのではないだろうか。今度、やんわりと注意しておこう。勿論、瞳子が綾瀬さんの事を嫌いになった、なんて妙な勘違いをされないように気を付けて。嫌味の一つくらいは言われるかもしれないが、そういう大切な所は弁えている子なので従ってくれるだろう。基本的に、話を聞いてくれる子ではあるのだ。
「そろそろ始めないと帰れなくなるわね」
「そうですね。先に始めますか」
白薔薇さまと乃梨子が、机の上に積み上げられている書類に手を伸ばした。確かに、ぼんやりと待っているより、少しでも仕事を進めていた方が良い。
「菜々、私たちも始めるわよ」
「はい」
黄薔薇さまたちも、白薔薇さまたちに倣って仕事を始めだした。そんな四人を見て、祐巳さまが尋ねてくる。
「瞳子はどうする? 探しに行く?」
「いえ。まさか迷子になっていたりはしないと思いますし」
「あの子、言動はあんなだけど、頭は結構良いからね」
実は一年生の時の祐巳さまより頭が良いらしい。それを知ってショックを受けている祐巳さまを、綾乃さんが慰めているのを見た事がある。
「でも変な所もあるから、来る途中で何か珍しいものでも見付けて、ずっと観察しているのかもしれないわね」
「……」
有り得そうだ、とは思ったのだけれど、いくら何でもそれは失礼では? とも思ったので、瞳子は黙っておく事にした。
「ごきげんよう」
「ごっきげんよー」
積み重なっていた書類があらかた片付いた頃、綾瀬さんに連れられて、ようやく綾乃さんがやって来た。
「重い……」
綾乃さんは、布で包まれた、おそらくキャンバスだと思われるものを抱えている。
「遅かったですね」
床に荷物を下ろしている綾乃さんに話しかけると、彼女は振り返って遅くなった理由を話し始めた。
「放課後になって、すぐに行かなきゃ! って教室を飛び出したけど」
「けど?」
「ここに来る途中で寝心地の良さそうなベンチを見かけたので」
「……」
「ぐっすりくーくー寝てました」
呆れ果てた瞳子が何も言えないでいると、綾瀬さんが綾乃さんの話に補足を入れた。
「そこを通りがかったので、起こして連れてきました」
「綾瀬がいて助かったわ」
綾瀬さんの頭を撫でる綾乃さん。綾瀬さんはくすぐったそうに目を閉じて、されるがままにしていた。この姉妹、本当に仲が良いのだ。
瞳子が少し羨ましく思いながら二人を眺めていると、
「あ、そうだ」
綾乃さんが思い出したように瞳子へと顔を向けた。
「何です?」
「瞳子さまにプレゼント」
綾乃さんはそう言って、床に置いてある荷物の中から布に包まれているそれを持ち上げると、両手でしっかりと支えながら瞳子に差し出してきた。
「私にですか?」
「うん」
「ありがとうございます」
受け取ると、見た目より結構重い。
「あ、重いから気を付けて。落としたら割れるよ」
割れる? キャンバスではない?
「今、見てみても良いのですか?」
「良いよ」
綾乃さんが許可してくれたので、机の上に置いて包んでいる布を開く。皆も興味津々にそれを覗き込んできた。少し開くと額縁が見えた。なるほど、これなら確かに落としたら割れてしまうだろう。
布を完全に開くと、中からは丁寧に額装された絵が出てきた。
「あ……」
「私が見たものをそのまま描いてみた」
瞳子には、一瞬その絵が輝いて見えた。そこに描かれていたのは、瞳子だった。明るい色を使って鮮やかに描かれている、柔らかな微笑を浮かべた瞳子だった。その微笑は、瞳子自身でさえ見た事のないようなものだった。
綾乃さんは、自分が見たものをそのまま描いたと言っていた。それならこれは、無意識のうちに綾乃さんに向けていた瞳子の笑顔なのだろう。それが明るく、温かく、とても優しく描かれている。
(素晴らしい絵です。ですが、これはちょっと……)
少し思う所があって悩んでいると、
「下書きせずに、大急ぎ。でも、なかなかの出来」
綾乃さんが頬を掻きながら言った。
「え? 下書きをせずに直接ですか? それって難しいのでは?」
思わず尋ねると、「早く完成させたかったから」と返してきた。
それを聞いて、もしや、と思った。
(それって、私に早く会いたかったからですか?)
思わず綾乃さんを見ると、瞳子が何を言いたいのか察したらしい彼女は、こくりと頷いた。
「本当は油絵を描いてたけど、そっちは途中で止めて水彩画にした。あのまま描いてたら、時間がかかるから。それに、瞳子さまに早く会いたかった」
その言葉にドキリとした。「でも」と綾乃さんは続ける。
「次はあれを完成させる。勿論、瞳子さまの絵」
それは、今からとても楽しみである。
(ですが……。その、ええっとですね)
どうしても言いたい事がある。それをどう切り出そうか悩んでいると、黄薔薇さまが絵を眺めながら言った。
「綾乃ちゃんが凄いのは分かったけど、この絵はちょっと美化し過ぎじゃない?」
(そう! それです!)
実は瞳子も黄薔薇さまと同じように思っていた。でも、綾乃さんは平然と返す。
「私には瞳子さまがそう見える」
「ふーん。なるほど」
頷きながら、由乃さまがチラリと瞳子を見てきた。
(何ですか、その目は?)
今のは良くない目だ。あれはまるで、面白い玩具でも見付けたかのような目だった。警戒している瞳子を尻目に、由乃さまが続けて綾乃さんに尋ねる。
「これって、どうやって描いたの?」
「?」
質問の意味が分からなかったらしく、綾乃さんが首を傾げた。
「ほら、ここでは瞳子ちゃんのスケッチとか、してなかったでしょ? 写真も持ってなかったと思うし。いったい何を見て描いたの?」
そう言われて、ようやく分かったらしい。ポンッと手を叩いた。
「頭に入ってる」
「え?」
綾乃さんは目を瞑った。
「瞳子さまの色んな表情、全部私の頭に入ってる」
今まさに思い浮かべているのだろう。綾乃さんは目を瞑ったまま微笑んだ。
まずい、と思った。瞳子以外なら、凄いな、くらいにしか思わないような綾乃さんの言葉が凄く嬉しくて、思わず涙が零れそうになったからだ。
「瞳子ちゃんの事、好きなのね」
綾乃さんは目を開けて、由乃さまの言葉に頷く。
「大好き」
恥ずかしそうに、でもそれ以上に誇らしげに言った。
その瞬間、瞳子は自分の目が潤んだのを感じた。慌ててハンカチを取り出そうとすると、いつの間にか瞳子の隣にいた乃梨子が、小声で「良かったね」と言いながらハンカチを差し出してくる。
瞳子はそのハンカチを受け取りながら、綾乃さんと同じように、誇らしげに頷いたのだった。
帰宅の準備をしている時に、瞳子は綾乃さんに話しかけた。
「少し良いですか?」
「?」
綾乃さんが首を傾げたので、瞳子は言い直した。
「この後、少しの間だけ私に付き合ってもらえませんか?」
「良いよ」
答える綾乃さんから少し離れた所で、祐巳さまたちがこちらを見ていた。
祐巳さまと瞳子の目が合う。瞳子が祐巳さまに向かって頷くと、祐巳さまも頷き返した。祐巳さまは何も言っていないはずなのに、瞳子には「頑張れ瞳子」と聞こえたような気がした。
「じゃあ、私たちは先に帰るから」
祐巳さまに続いて「ごきげんよう」と瞳子たちに声をかけながら、皆は次々と部屋を出て行く。
「私たちも出ましょうか」
瞳子は鞄を持つと、綾乃さんにもらった絵を脇に抱えた。
暗くなった道を二人で会話しながら進んで、毎朝手を合わせている白いマリア像の前までやって来た。
マリア様を見上げる。彼女は慈愛の表情を浮かべて、そこに立っていた。
彼女はこの場所で、何度ロザリオの授受を見てきたのだろう。いったい何組の姉妹が誕生するのを見てきたのだろう。
瞳子は首にかかっているロザリオに手を伸ばした。ほんの半年ほど前に、瞳子はこの場所で祐巳さまからこのロザリオを受け取ったのだ。
視線を隣に向けると、綾乃さんが不思議そうに瞳子を見つめていた。これから何が起こるのか、まだ分かっていないらしい。
瞳子は首からロザリオを外した。お姉さまである祐巳さまにかけていただいたこのロザリオは、かけていた期間こそ数ヶ月と短かったけれど、間違いなく自分の半身であったと言える。
名残惜しいかと問われれば、当然「惜しい」と答える。けれど、この子に出会ってしまったのだから仕方がない。
「綾乃さん」
「何?」
「私の妹になりませんか?」
輪の形に持ったロザリオを、綾乃さんによく見えるようにして尋ねた。
「良いの?」
「私は、あなたを妹にしたいと思ったから尋ねたんです」
綾乃さんの表情が輝いた。
「うんっ!」
綾乃さんは頷き、瞳子がロザリオをかけやすいように体を傾けた。長い黒髪がさらさらと零れる光景に、一瞬見惚れてしまう。
瞳子は、輪の形に持ったロザリオを綾乃さんの首にかけた。
綾乃さんは傾けていた体を元に戻すと、かけられたばかりのロザリオに手で触れながら、
「紅薔薇のつぼみのロザリオ、ようやくゲットです。売ったら高いですか?」
真面目な顔してそう尋ねてきた。
「売らないでください」
「がっくし」
「あなたって子は……」
意図してなのか天然なのか。姉妹となった感動に浸る間もなく、色々と台無しにくれた綾乃さんに頭痛を感じた瞳子は、「は――――っ」と長い溜息を吐きながら額に手をやった。
「瞳子さま」
「今度は何です?」
見ると、綾乃さんは首にかかっているロザリオを、まるで大切な宝物を扱うように両手で包み込んでいる。
「妹にしてくれてありがとう」
「……お礼を言うのは私の方です」
瞳子は、ここに来た時と同じようにマリア像を見上げた。彼女は変わらず、優しい微笑を浮かべていた。
「で、いつまでそこに隠れているつもりです?」
「ばっ、バレてるよ祐巳お姉ちゃん」
「あらら、瞳子は鋭いなぁ」
瞳子に言われて、近くの茂みをガサガサ揺らしながら出てきたのは、祐巳さまと綾瀬さんの二人だった。
「よくこの場所が分かりましたね」
「瞳子に渡したのがこの場所だったからね。綾乃ちゃんにロザリオを渡すならきっとここだろうって、隠れて待っていたの。まあ、それはともかく、おめでとう瞳子」
祐巳さまは、まるで自分の事のように喜んでいる。
「はい」
私は幸せ者ですね、と瞳子は目を瞑った。実の両親は失ってしまったが、今はそれ以上に愛する父と母がいる。祐巳さまという姉がいて、綾乃さんという妹もできた。血は繋がっていないけれど、自分にはこんなにも素敵な家族がいる。
「良かったね、お姉ちゃん」
綾瀬さんの声に、そちらに目を向ける。そこでは、綾瀬さんが綾乃さんを祝福していた。
「うん。ようやく堕とせた」
そんな二人を一緒になって眺めていた祐巳さまが、ポツリと呟いた。
「来年、瞳子は苦労するわね」
「どういう意味ですか?」
「綾乃ちゃんが妹って事は、来年には間違いなく綾瀬ちゃんが瞳子の孫になるもの」
「……そうでしょうね。でも、それはそれで楽しみです」
色々と波乱はありそうだけれど、きっと何もかも上手くいく。そんな予感めいたものを、瞳子は感じていた。
「何だか楽しそう。どうしたの?」
祐巳さまと話をしていると、綾乃さんが近寄ってきた。
祐巳さまとの会話の内容は、ほとんど確定しているけれどまだ決まっていない未来の事なので、そのまま話すのは気が引けた。だから、少しだけ違う事を言ってみる。
「綾乃さんは綾瀬さんの事が本当に好きなんですね、って話していたんです」
「綾瀬の事は好きですよ。瞳子さまの次に」
すぐに返ってきた言葉を聞いて、嬉しい事を言ってくれますね、と思わず顔を綻ばせた。
「でも、瞳子さまよりも祐巳っちの方が好きかも」
……何ですって? 瞳子の顔が引き攣る。
「嘘です。多分、冗談です」
「どっちなんですか」
瞳子はジト目で綾乃さんを見た。
「瞳子。私は綾乃ちゃんの事なんて何とも思ってないから。それと、この子の言う事をいちいち真に受けていると身が持たないよ?」
「がーん!」
祐巳さまの言葉に、ショックを受けたようによろめく綾乃さん。
「そうですね」
「またまた、がーん!」
瞳子が頷くと、更にショックを受けたような顔になる。
「綾乃ちゃんって、いちいち大げさだよね」
「祐巳っちの一言でピュアなハートを傷付けられた綾乃は、一人寂しく去っていくのであった」
俯き加減にブツブツ言って、一人で歩き始める綾乃さん。
「とぼとぼ、とぼとぼ」
言葉通り、とぼとぼと寂しそうに歩いている。
残された三人でその様子を眺めていると、五メートルほど離れた所で彼女は立ち止まった。後ろに振り返って瞳子たちが付いて来ていない事に気が付くと、その場で俯いて「ぽつーん……」と呟く。
どうやら、一人ぼっちなのを表現しているらしい。実際、もの凄く寂しそうに見える。
(多芸ですわ。演劇部だったとしても活躍してくれそうですね)
瞳子は妙な所で感心した。
いつかの時みたいにしゃがみ込んでいじけださないうちに、早歩きで綾乃さんの所まで行く。三人が辿り着くと、綾乃さんは元気良く立ち上がった。
「暗くなったし、早く帰ろっ」
「ええ。すっかり遅くなってしまいましたね」
見上げた空に、月と幾つかの星が見える。視線を地上に戻すと、なぜか綾乃さんが荷物を持ち直していた。不審に思いながら見ていると、瞳子たちに言ってくる。
「バス停まで競争。よーい……」
「え? ちょっと」
「お姉ちゃん?」
「綾乃ちゃん、ちょっと待っ――」
瞳子たちは止めようとしたけれど、綾乃さんが叫ぶ方が先だった。
「どんっ!」
掛け声と共に、綾乃さんが駆け出す。残された三人で顔を見合わせた後、祐巳さまと綾瀬さんが彼女の後を追った。こうなると、なし崩し的に瞳子も三人の後を追う事となる。
「瞳子さまっ、もっと早くー!」
先頭から綾乃さんが呼びかけてくる。
「私は荷物が多いんです! これ以上は無理ですわっ!」
絵を抱えている瞳子は、自分の不利を叫びながら綾乃さんを見た。
「あ――」
彼女の背中で、滑らかな黒髪が翼のように広がっていた。
(まるで天使……ですね)
セーラーカラーは翻りっ放し。スカートの襞も自慢の縦ロールも乱れ放題。荷物は重くて手が怠い。おまけに呼吸まで苦しい。でも、瞳子は笑っていた。
彼女が傍にいるなら、楽しくて幸せな毎日が続くに違いない。
なにしろ彼女は、
「瞳子さまーっ! だーい好きーっ!」
「こっ、こんな所で叫ばないでくださいっ!」
性格に色々と問題はあるけれど、瞳子の大切な妹で、瞳子が見付けた天使なのだから。