【1570】 フェルマータフェルマータ  (臣潟 2006-06-02 01:15:45)


 秋の陽はつるべ落としとはよく言ったもので、先ほどまで部屋の中を唐紅に染め上げていた西日も、既に山の向こうである。
 あまり着易いとは言えない冬服もこのところひしとありがたみを感じるようになったが、もう一月もすればコートを出さねばならないかもしれない。
 そういえばあの味気ないコートはどこにしまったか、などと頭をよぎったところで、目を通すノートが頭の中に入っていないことに祐巳は気付いた。
 ふう、と一息ついて顔を上げると、テーブルの向こう側にある窓に映る自分と目が合う。
 最近になってようやく見慣れた場所の中で、その姿はやはり見慣れなくて、落ち込んだりしてみた。


 かたり、とペンを置く音が響いてそちらに目を移すと、一人残っていた紅薔薇さまである蓉子さまが微笑っていた。
「頑張るわね、祐巳ちゃん」
 その姿がまるで絵画のように美しくて、自らにかけられた言葉だと気付くのに数瞬を要した。
「あ、いえ、まだ右も左もわからないので、せめてお手伝いだけでもできるようにと……」
「そう。けど、遅くまで無理することはないのよ」
「でも、その、早く帰ってもすることがあるわけでもないので」
 ただ、家の用事でお姉さまたる小笠原祥子さまが来なかったことで、帰るタイミングを逸したのは確かだったが。
 そんなことはお見通しなのか、紅薔薇さまはくすりと笑って片付けを始めた。
 やわらかい笑みがとても絵になる人だな、と思った。
「もう暗くなってきたし、一緒に帰りましょうか」
「あ、はい」


「さっきも言ったけど」
 落ち葉を転がして風が通り過ぎた後、乱れた髪を直しながら紅薔薇さまは口を開いた。
 街灯に照らされたバスの停留所は、暗い壁で囲まれているようでどこか閉塞間を感じさせた。
「あまり無理しなくてもいいのよ。学園祭の準備はたくさん手伝ってもらったし、他のことは少しずつでいいのだから」
 紅薔薇さまはそう仰るけれども
「でも、なったばかりとは言ってもつぼみの妹ですし、祥子さまの妹として恥ずかしいことはできませんから」
「そんなに気負わなくてもいいわ。貴女らしい貴女を祥子は妹に選んだのだし、周りの声なんて気にしなくていいの」
 そう言って頭をなでてくれたけれども
「それでも……やっぱり今できることは全力でやりたいので」


「ねえ、祐巳ちゃん」
 その声はとても温かにふわりと響き、全身が真白い羽で抱かれた気がした。


「祐巳ちゃんは、こうやってバスで登下校するのは悪いことだと思う?」
「へ?」
 続いて放たれた言葉は思いがけないもので、思わず空気の抜けたような声が出てしまった。
「いえ、思いませんけど……」
「そうよね。バスに乗ったり電車に乗ったり……どこかに行こうと思ったら当然のことよね」
 相変わらず微笑んで話す紅薔薇さまに、頷くことで返事を返す。
「だからね、自分の足で走り続けるだけじゃだめなの」
「それは――」
「人は自分の両足で立ち続けなければいけないけど、全力で走るだけが生きることじゃない。
こうやって立ち止まってバスを待って、ゆっくり座って揺られるのだって、立派に歩みを進めてるのよ」


 そう言って遠く目をやった紅薔薇さまに釣られて振り返ると、バスがゆっくりと速度を落として近づいてきていた。



あとがき
 数日後に青信号が爆走するわけですが。
 過去に学び未来を与える。
 おばあちゃんの役目ですね。


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