【1574】 ユキチ心のむこうに  (朝生行幸 2006-06-03 01:07:07)


 細川可南子は今、激烈に困っていた。



 日曜日の朝、ちょっとした買い物のためM駅までやって来たわけだが、朝食を摂ってこなかったため、まずは腹ごしらえと喫茶店に入り、モーニングを頼んで食べ始めたまでは良いのだが、母に渡された買い物メモを確認しようと、バッグを開けたその時。
 入って無かったのだ。
 いや、メモならまだ良い。
 メモ以上に、とても大事なもの。
 それは、財布だった。
 思わず目をパチクリさせて、コーヒーを一口すすり、深呼吸を一回。
 そして、もう一度バッグの中身を確認するも、やっぱり財布は入っていなかった。
 サーっと青ざめる可南子。
 普段は、自分でも呆れるほど冷静ではあったが、この日に限っては、血の気も失せた。

 ええい、落ち着け落ち着け。
 ひょっとしたら、小銭ぐらいはあるかも。

 携帯電話や定期入れ、ハンカチ、ティッシュ、その他もろもろは入っているけど、やっぱり財布だけは見当たらなかった。
 まだパンもコーヒーも半分以上残っているが、とても口にする気にはなれなかった。



「おや?」
「どーした小林」
 何かに気付いた小林正念に、訊ねるのは福沢祐麒。
 高田鉄も有栖川金太郎も、小林に目を向けている。
 花寺学院生徒会の四天王が勢揃いしていた。
「見てみろよ。えーと、細川…可南子だっけ?」
 小林が指差す方を見れば、喫茶店の窓際の席で、おそらく朝食を摂っているらしい可南子の姿があった。
「ほんとだ。一人だけかな?」
「みたいだな。前に人もカップもないみたいだし」
「なんだ、声でもかけようってか?」
「………俺、あの子苦手だな。取っ付き難いというか近寄り難いと言うか」
 リリアン生なら誰でも来いって、割と軽薄な小林だが、それでも可南子には苦手意識があるらしい。
「ああ、確か祐巳が言ってたな。他に類を見ない男嫌いだって」
「そんなところに、私たちがぞろぞろ顔を出したら、脱兎で逃げるか卒倒するかどちらかね」
「悪い子ではないんだろうがね」
「ま、そっとしておこうぜ。それよりも、さっさと行かないと間に合わないぜ」
 どんな目的なのかは知らないが、4人は慌しくその場を立ち去った。



 取りあえずは、落ち着いた可南子。
 この状況から脱出する算段は未だついていないが、冷静にならないことには、考えも浮かばない。
 バッグには、幸いにも一冊の文庫本があった。
 しばらくは、これを利用することで時間を稼げるだろう。
 誰かに電話をすることも考えたが、母は動けないから自分が買い物に来たわけだし、最も信頼している先輩の福沢祐巳には迷惑をかけられないし、友人の二条乃梨子も残念ながら姉と出掛けているため助けを求められない。
 もう一人、頭に浮かんだ人物はいるにはいるのだが、まさか財布を忘れたから助けてくれなんて、言えるわけがない。
 それは、部の先輩同僚後輩も一緒だ。
 粘っているうちに、知った人が通りかかるかもしれない。
 あまり期待は出来ないが、わずかな望みを託して、文庫本を開いた可南子だった。



「ん?」
「どーしたユキチ」
 用事が済んだ、花寺4。
 ユキチが指差す先には、およそ二時間前と同じ場所に、可南子の姿があった。
「何かあったのかな………?」
「ほっといてやれよ。誰かと待ち合わせでもしてるんじゃないのか? まだ来ていないようだけどな」
「いや、でもなぁ。らしくない気がするんだよ。彼女は無駄に時間を費やす人じゃないらしいし、もし待ち合わせだったとしても、それこそ二時間も待つようなタイプじゃない」
 祐麒が言うように、相手が家族や祐巳や乃梨子ならともかく、他の人なら待って30分が限度だろう。
 一見落ち着いているように見える可南子だが、時折探るように窓の外に目を向けているのを見れば、不信に思っても仕方がないだろう。
「なぁ、頼みがあるんだけど………」
 祐麒の頼みに、いやいやながらも頷く同僚たちだった。



 当然ながら、内容なんて全然頭に入ってこない。
 逆境には強いつもりでいたが、その考えが如何に甘かったか思い知らされる。
 既にモーニングセットは食べ尽くし、水も氷だけが残っているばかり。
 店員が近づいてくれば、気付いていないように本を凝視し、店員がいなければ、窓の外に誰かを探す。

 ああ、どうしよう。
 素直に申し出るべきか、それともこのまま粘り続けるべきか。

 しかし、二時間とはあまりにも時間をかけ過ぎた。
 どちらにしても、このまま更にズルズルとしていても、泥沼でしかない。
 意を決して、立ち上がりかけたその時。
「あれ?ひょっとして………細川さん?」
 隣の席から、小林正念が顔を出した。



「とりあえず、この席な。あとはタイミングを見計らって、声をかけるぞ」
「うん、その辺はお前に任すよ」
 小林と高田の二人が、出来るだけ静かに店内に入り、可南子が座っているボックスの隣に陣取った。
「どうせユキチの奢りだ。パフェでも………」
「おいおい、俺たちはすぐに出るんだぞ。もっと簡単に済ませるものをだな」
「分かってるよ。で、細川さんの様子はどうだ?」
 高田の目には、小林の背中越しに、文庫本に目を落す可南子の姿が映っていた。
「うーん、何と言うか、顔色が悪いな。文化祭の時よりも、悲壮な顔付きに見える」
「ユキチの読みが当たっていたわけか?」
 アイスコーヒーを頼み、一気に飲み干した小林は、さり気なく振り向いたフリをしながら、
「あれ?ひょっとして………細川さん?」
 顔を出して声をかければ、彼女は立ち上がろうとしていたところだった。



 突然声をかけられて、思わず座りなおす可南子。
 目の前には、花寺学院生徒会の見知った二人。
 一瞬助かった、と思ったが、その考えはコナゴナに砕け散った。
 プライドにかけても、男なんかに助けを求めるわけには行かない。
「久しぶりだね可南子さん。ご機嫌いかが?」
「何か御用ですか? それに、馴れ馴れしく名前で呼ばないで下さい」
 相手が相手だけに、声が尖るのが自分でもわかる。
「あ、いや、申し訳ない。特に用ってわけでもないんだけど、知った顔があったから、挨拶でもと思ってね」
「そうですか。どうぞお構いなく」
「ちょっとぐらいお話してもいいでしょ? 誰かと待ち合わせ?」
「いいえ」
「何処かに行くの?」
「あなたには関係の無いことです」
 にべも無く返す可南子。
「じゃぁさ………」
「しつこいですね、放っておいて下さい。これ以上口出しされるなら、正式に抗議することになりますよ」
「わかったよ。失礼したね」
 もう一人と共に店を出る小林を、刺のある目付きで見送った後、小さく溜息を吐いたのだった。



「細川さん」
 顔を上げた可南子の前には、祐巳に良く似てはいるが雰囲気が違う人物と、見た目は可愛い女の子風の人物が立っていた。
 いつの間にか、多くの人に溢れた喫茶店内。
 時計を見れば、既にお昼時だった。
 本と窓の外にしか意識が向いていなかった可南子には、まったく気付かなかった。
「相席いいかな? 他の席は埋まっているんだ」
 この状況でさえなければ、とっとと店を去っているところだが、それが出来ないから始末に終えない。
「どうぞ」
 只でさえ長居している上、追加注文もしていない手前、断ってしまえば店から追い出されてしまいかねない。
 仕方なく、頷く可南子だった。
「良かった。じゃぁ、失礼するよ」
 有栖川と二人して、並んで可南子の前に座った。
「久しぶりだね」
 飲み物を注文し、可南子に話しかける祐麒。
「ええ」
「誰かと待ち合わせ?」
「いいえ」
 本日二度目の質問に、本日二度目の答え。
「じゃぁお出かけなんだね。ま、休みの日なら当たり前かな。でも………」
「………」
「随分、長くここにいるようだけど?」
「………」
 返事できない。
 いくら相手が祐巳の実の弟でも、いや弟だからこそ、こんな恥ずかしい目に会っていることを知られたくないという気持ちが強い。
 祐麒も、大体の事情は察していた。
 小林からは待ち合わせではないと聞いていたし、ましてや知った相手であっても男に声をかけられたなら、可南子が大人しくしているはずがない。
 すぐにでもその場から立ち去ろうとするだろうが、それさえもしなかった。
 となれば、店から出られない理由があるということだ。
 もっともベタなパターンとしては、財布を忘れたといったところか。
 お互いそれ以上、特に話すこともなく、多少気まずいながらも時間はゆったりと進んでいった。
 無言で注文したドリンクを平らげた祐麒と有栖川は、
「それじゃ、お先に失礼するよ」
 さり気なく伝票を手に取り、可南子が止める前にさっさとレジまで行くと、予想通り自分たちの分も書き込まれているのを確認した上で、支払いを済ませ店を出た。
 可南子も慌てて店を後にしたのだが、既に二人の姿は見当たらなかった。



「ただいま」
「お帰り祐麒」
 月曜日、学校から帰ってきた祐麒を、祐巳が出迎えた。
「ねぇねぇ、聞いたわよ」
「え? 何を?」
 無言で、祐麒に封筒を渡した祐巳。
 ちゃりんと、聞きなれた音がした。
「いい子いい子♪」
「っておい、何するんだよ」
 いつになく機嫌が良さそうな祐巳に頭を撫でられた祐麒は、照れ臭そうにその手を払いのけた。
「お姉ちゃんは、祐麒の育て方を間違っていなくて嬉しいよ」
「育てられた記憶はないんだけどな」
 そう言いながら祐麒、自室に戻った。
 封筒を開ければ、立て替えた金額とピッタリの貨幣と、『福沢祐麒さんへ 細川可南子』と書かれた手紙が入っている。
 無言で、手紙に目を通す祐麒。
 そこには、非常に簡潔なお礼と謝罪の文章が、達筆かつ読み易く書かれていた。
 ワープロではなく、手書きであるところに、可南子の心情が表れているようだった。



 その日以来、他の男に対する可南子の態度は相変らずだったものの、祐麒に対してだけは、小さく微笑みながら会釈するのだった。


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