カシャッ。
また独特の産声と共に、時間が新しく切り取られた。
それはテーブルクロスの端っこを指に巻きつけつつお姉さまと照れ照れと話す乃梨子ちゃんと、そのお姉さまである志摩子さんのツーショット。
蔦子コレクションの中では割と王道な二人の並びだが、やはりクリスマスということもあってか少し浮き足立った姿が非常に微笑ましい。
先ほど黄薔薇姉妹、紅薔薇姉妹と続けて”二人の世界”を披露してくれたが、白薔薇は白薔薇で十分”二人の世界”だ。
カメラを下ろした蔦子はくすりと笑った。
現在、薔薇の館は身内限定クリスマスパーティーの真っ最中。
本来は身内でない蔦子だが、去年の参加歴と日頃から懇意にさせて貰っている好でお誘いを受けたのは、もう一週間も前になる。
黄薔薇さま直々のお誘いに、蔦子は一も二もなく「是非」と即答した。
クリスマスあーんど終業式の日ということで写真部は他の生徒達の思い出作りに追われるから、当日は恐らく忙しくなる。
けれども、その中で無理をしてでも行く価値はある。あるに決まっている。
というか行きたい、去年参加して今年参加できないなんて切なすぎるから。
もし支倉令さまから誘って頂けなければ祐巳さんを脅迫するか、由乃さんの情に訴えなければならないところだった。渡りに船とは正にこのこと。
まぁ――それで実は一悶着あったりもするのだが。
『えーっ! そんなのってないですよっ!』
ふ、と。
不満を全開で表現するそんな声が耳の裏で蘇る。
写真部の部室で、夕焼けの中ふわふわ巻き毛の美少女はそう言って駄々を捏ねた。
内藤笙子ちゃん。
祐巳さんのおせっかいで良い出会い、正確には良い再会ができた相手だ。
その時の笙子ちゃんの膨れっ面を思い出して蔦子がくすくす忍び笑いを漏らしていると、突然ぽん、と頭を軽く叩かれた。
「カメラ抱えて思い出し笑いは感心しないなぁ。突っ込まれてもフォローできないわよ」
さすさすと頭を擦りながら(勿論全然痛くなんてないけれど)振り返ると、二つのカップを持った由乃さんが意地悪く笑っていた。
ほら、と言うように由乃さんは左手に持っていた方のカップを少し上げる。
カメラを首に下げて「ありがと」とカップを受け取ると、それで揺れた紅茶の表面からダージリンがくんと香った。
そのまま何となく連れ添って、二人は壁際まで歩く。
結露で少し曇った窓の向こうはどんよりと重い雲を湛えて、今にも雨か雪が振りそうだった。
そんな空を見上げながらカップを傾け、少し冷めた紅茶を口に含んで蔦子は思う。
雪が良いな。
今日はきっと雪の方が良い。それで喜ぶ人はきっと多いから。
自分らしからぬそんな乙女思考に苦笑して、蔦子が窓から視線を外して脇を見ると由乃さんは全くの逆、つまり室内の方を向いて壁に凭れ掛かっていた。
視線を追った先では、黄薔薇さまと紅薔薇さまに囲まれたこの場所で唯一の中等部生がコロコロと笑っている。
ひょんな事から由乃さんと知り合った(らしい)、菜々ちゃんと言っただろうか。苗字は聞き逃してしまった。
ただ知り合っただけの子をパーティーに誘うような事を由乃さんはしない。
そんな事をすれば薔薇の館はあっという間に人で埋まってしまうし、良くも悪くも交友関係は狭く深い由乃さんだから、特別視する相手は完全に別格だということになる。
別格の下級生、例え中等部とはいえ今は三年生。来年になれば晴れて高等部へ入学してくる筈だ。
そこで邪推するなという方が無理というもの。
「由乃さん、こんな所で私とツーショットしていて良いの? 彼女、実は待ってたりするんじゃないの?」
蔦子がそう言うと、由乃さんは掌を温めるようにカップを両手で持った体勢のまま、器用にがくーんと肩を落として見せた。
それでも紅茶の表面はばっちり水平、無駄に役に立つ技だと蔦子はこっそり感心する。
「ない。それはない。ないのよねー……哀しいことに」
「お湯、残り少なくなったけど沸かす?」
「空いたカップ回収して、その分に足りそうになければ沸かせば良いわ。乃梨子ちゃん、お願いできる?」
「あ、それくらいなら私が」
「良いって良いって。今日はお客様しててよ」
そんな由乃さんの愚痴を裏付けるように、件の菜々嬢は二人の薔薇さまと今尚歓談中。
しかし三歳も年上の祥子さまや令さまと真っ向から話せるというのは大した肝の持ち主である。
いや、それを言えば高等部生徒会のイベントにやってくる、しかも全く物怖じしないでという時点で相当なものか。
流石由乃さんが目を付けるだけはあって、そこらの一年生のようなか弱さはない。
とはいえそうなると、
「うー」
隣でふて腐れる子が一人溢れる訳だね、と。
蔦子は再び苦笑した。
パーティー用にか、インスタントとは一味違う渋みのある紅茶を味わいつつ、蔦子は再び窓に向き直る。
「一応誘ったのは私だけど、菜々の目的はお姉さまだから。寧ろ私は踏み台なのよね」
由乃さんが自虐的に漏らしたその言葉に驚いたけれど、すぐに「ま、今日のところは」と続いたところをみると本気で拗ねている訳ではないらしい。
ちょっとだけ安心した。
山百合会幹部関係者と報道(?)関係者という微妙な立ち位置とはいえ、約二年間連れ添ってきた蔦子だから由乃さんの性格も少しはわかっている。
基本的に内には溜め込まないという自虐・自省からは縁遠いタイプの人間だから、踏み台なんて自称するのは余りにもらしくなかったから。
「なら良いけど」
こっそり横目で盗み見た、決意に満ちた視線を投げる由乃さんの真面目な横顔をカメラに収めたかった。
「あ、残っているポットのお湯も少し冷めてしまっています。再沸騰させた方が良いでしょうか?」
「待って、お姉さま。紅茶は確か100℃でしたけど緑茶の温度が75℃とか85℃だから、日本茶には多少温いくらいが良いんですよ。日本茶淹れましょうか?」
「この席で日本茶は少し合わないと思うけれど?」
「うーん、和洋折衷なパーティーも日本らしいですよ」
過ぎない程度の喧騒の中、聞こえてきた白薔薇姉妹の会話が遠い。
まるで蔦子達だけが薔薇の館にいないようだ。
「ああそうそう、違うって。私は別に愚痴りたくて蔦子さんを誘ったんじゃないの」
不意に言った由乃さんの一言で、やっぱり自分は誘われたんだと蔦子は今更ながらに思った。
直接呼び出しを受けたのではなかったけれど、”何となく”由乃さんと場所を変えたのは正解だった訳か。
「何、菜々ちゃんとのツーショットでも欲しいの? それなら――」
しかし先んじた蔦子のそんな台詞を、由乃さんは首を横に振って否定する。
長い二本の編み込みおさげが、少し重たげにふるふると揺れた。
「お礼が言いたかったの。初めの時、助けてくれたじゃない? ほら、集合写真がどうこうって」
初め。集合写真。
ああ。
言われてみれば、そんなことがもあったような気がする。
しかしあれは由乃さんを助けたというより、単に蔦子自身があの空気に耐えられなかっただけなのだが。
「んー、でもそんなに取り立てて言うことでもないでしょ。確かに開始時点での集合写真ってのは違和感があったかも知れないけどね」
普通集合写真といえば、イベントの最後を締めるタイミングで撮る。
それをパーティーの開始と同時に撮ったのは、途中で抜ける人の事を考えてということもない訳ではないが、やはりそれ以上に場の空気が悪すぎたからだ。
瞳子ちゃんと可南子ちゃんのデコボココンビがいつにも増してチグハグで、顔見知りである筈の祐巳さんや祥子さますら停滞してしまっていて。
後れて入ってきた由乃さんの脇には見知らぬ少女が一人。
令さまもどこか普通ではなかったし、こうなると意志が弱い訳ではないけれども仕切り屋ではない白薔薇姉妹にはどうすることも出来ず。
結局音を上げる形で蔦子がしゃしゃり出てしまったのだ。
由乃さんは再び首を横に振った。
「違和感なんて、どうでも良いわ。勿論? 本当なら私が少しは格好良いところを見せたかったけど、そうもいかなかったし」
ちびちびと紅茶のカップを傾けながら由乃さんは続ける。
ずっと前、即ち室内の方を向いたままの姿勢が何とも”らしい”。
こういう部分、会話をしながらも窓の外を見上げ続けている蔦子と似ていた。
「ま、タイミングの良し悪しはあるわよ。ああいう場は部外者が適当に纏めちゃうのが一番なの」
「そうね。だから改めて言いたかったの」
そして、由乃さんは蔦子の方に身体ごと振り向く。
それに気付くのが数秒遅れた蔦子が「何」と向き直ると同時に。
「ありがとう。菜々がああやって笑っていられるのは少なからず蔦子さんのお陰よ」
微笑んで。
蔦子の目を真っ直ぐに見据えて。
はっきりと。
由乃さんはそう言った。
別に由乃さんが頭を深く下げた訳ではない。
フレンドリーな握手をした訳でもなければ、お金や物や品物を譲渡された訳でも勿論ない。
でも、それは最大級の謝辞だった。
蔦子は立場上良く人からお礼を言われるけれども、ここまで歴然とした礼はなかった。
清々しい、胸のすくような「ありがとう」だ。きっと、リリアンをどれだけ探しても由乃さんしか口には出来ないだろう。
蔦子は素直に、それが自分に向けられた事を光栄に思った。
だから蔦子は由乃さんと同様に身体全部を向け、笑って頷く。
「どういたしまして」
本当なら謙遜して「そんなことはない」と言うのが礼儀というものなのかも知れない。
けれども蔦子は敢えて、少しおこがましいと思いながらも否定しなかった。
きっとそれが由乃さんに対する礼儀だと、直感したからだ。
由乃さんはにこりと笑った。
「そういえば、大学受験って受験科目の選択が出来るって聞いたことがありますが本当ですか?」
「ええ。例えば中等部でいう”社会”なら”日本史・世界史・地理”のうちどれか、とかね。本当はもっと種類があるんだけど」
「まあ、もう大学のことを考えているの? 偉いわね、祐巳にも見習わせたいわ」
「いえ、そんな。でも良いですね、何だか自由があるというか……面白そうです」
菜々嬢は相変わらずに絶好調。
一年前、祐巳さん絡みで当時の薔薇さま方と交流を持つことが出来た蔦子だが、ああまで親しげには出来なかった。
勿論ある程度はキャラクターの違いということもあるだろうけれど、やはりあの頃の蔦子にとって薔薇の館及び山百合会幹部は別格だったからだ。
例え中等部とはいえ、一応その辺りは刷り込まれているはずなのだが。
「しかし菜々ちゃん、本当にリリアン生っぽくないわよね……ああ、気を悪くしないで。悪い意味じゃないの」
思わず口を突いて出たそんな感想に誰よりも蔦子が驚いたが、由乃さんは軽く笑って流す。
寧ろはっきりと頷いて答えた。
「私もそう思うわ。剣道やってることもあって、基本的に体育会系なのね。だから先輩の私に対してはそれなりに礼儀を払うけど……そこまで。リリアンっ子の”お姉さま”とかとは全然違うわ。私と同じように、本当に中等部で穢れなく育ってきたのか怪しいところよ」
「台詞の後半は置いておいて……独特であるのは間違いないわねぇ。令さまの件の時でも平然としてるんだもの、流石に驚いたわ」
再び由乃さんは部屋の内部、蔦子は空の向こうに身体と視線の向きを戻して軽口を言い合う。
「何ていうのかな、その……達観? 超越者的? わかんないや、そーゆー辺り。一番気に食わなくて、一番気になるところよ」
一番気に食わなくて、一番気になる、か。
なるほど。
由乃さんの場合、恐らく気に食わないだけだと切り捨てるだけだろうし、気になるだけだとやがて飽きてしまうのだろう。
だから気に食わなくて気になる菜々嬢が今、由乃さんの中心を占めている。
「まぁ先は長いんだから、気楽にやれば良いんじゃないの。尤も、黄薔薇さまともあろう方が一人身なんてことは許されないから、来年はそれこそ形振り構えなくなるんだろうけどね」
そうは言いながらも、蔦子は何となく将来のビジョンが観えていた。
これまでの紅薔薇とも白薔薇とも違う、酷く独特な”二人の世界”を作り出してくれるだろう黄薔薇姉妹の姿。
その姿は見たいと思ったし、きっと見られると信じている。
「判ってるわよ」
由乃さんが静かに、宣言するように呟いたその言葉には揺るぎない意志があった。
それがきっと大丈夫だと、思えるくらいには。
「ところで」
来た。
二人で並んでいつの頃からか、薄々予感はしていた話題がいよいよ振りかかろうとしている事を蔦子は確信した。
もう殆ど残っていなかった紅茶を一口で飲み干す。気合充填完了。
「笙子ちゃんとは――」
「仲良くやってるわよ」
そして一言で切り捨てた。それ以上のことは言えないし、正直なところ、言うべきことが起きていないことも事実なのだ。
由乃さんはくっくと笑って大仰に溜息を吐いた。
「色気がないわねぇ」
あなたには言われたくないわね、とでも返そうかとも思ったが、まぁ、由乃さんは確かに現在進行形で色気づいている。そう指摘する資格はあるのかも知れない。
そう思った蔦子は軽く肩を竦めて、「ないわね」と告げるだけに止めた。
「でもどうして? 妹にしろとは言わないけど、その気は全くないの? ゼロ?」
蔦子と並んで空に目をやる位置に移動した由乃さんが言う。
意外にがっつりと食いついてきた由乃さんにちょっと驚きつつも、蔦子は落ち着いて軽く首を横に振った。
「未知数……としか言えないわ。妹にしない理由は確かにないからね。例えば私の写真部活動を妨げたり不満に思ったりするような娘だと、そりゃ、流石に願い下げだけど」
「笙子ちゃんも今や写真部だし?」
「そう。流石に驚いた」
絶妙なタイミングで飛んできた合いの手に蔦子は頷く。
写真に写ることがとことんまで嫌いな笙子ちゃんが写真部へ入部。
撮られる側と撮る側で違いはあるとはいえ、本当なら間違っても入るような部ではなかっただろう。
でも入部した。
その理由が知れないほどに、蔦子は馬鹿じゃない。
「でも逆に、妹にする理由も……ないわ。笙子ちゃんが妹にしてください、って言って来たなら兎も角」
「あのね、蔦子さん。判ってると思うけどそれ、思い切りイレギュラーだから」
そのイレギュラー張本人は苦笑して首を横に振ったけれど、でも実際にそうなのだ。
蔦子は笙子ちゃんを妹にしなければならない理由がわからない。見出せないでいる。
親しい部活の後輩イコール妹、というのは違うと思うのだ。
勿論そういった姉妹を否定する訳ではないが、少なくとも蔦子のカラーではない。
真美さんも、日出美ちゃんを妹にした理由は親しい部活の後輩だからという理由だけではないと漏らしたことがある。
あの二人はあらゆる距離でとても近く、そしてその上でちょっとずつ違う。
それなら寄り添っても激しく衝突することはないだろうし、気も楽だろう。更に些細な違いが微妙な刺激になってくれる、ある意味では究極の姿だ。
逆のサンプルとしては、やはり稀代のシンデレラストーリーを演じた紅薔薇姉妹。
あの二人は思い切りに離れた位置から、協力してその間を詰めた。詰め切った。性格も立場も全く異なったままで、だ。
相思相愛という言葉がこれほどまで似合う二人を蔦子は知らない。
彼女らは姉妹になって良かった、いや、然るべきだった。これもまた究極の姉妹だろう。
「私と笙子ちゃんは確かに話が合うし、お互い写真に写るのが嫌いって共通点はあるけど。それだけと言えばそれだけね」
言って、蔦子の胸がしくりと痛む。
そう。
それだけと言えばそれだけなのだ。
「私が言うと本当軽く聞こえるかも知れないけど、姉妹の契りは結婚と同じ。やっぱり相応しい理由がないとロザリオは渡せない?」
曇った窓を拳できゅきゅと拭い、少しだけクリアになった空を見上げて由乃さんは言う。
しかし軽く聞こえるなんて、とんでもない。
あの事件の根底には由乃さんの心臓、即ち命が絡んでいたのだ。
結局はそこまでのことがないと破局なんて有り得なかったということ。
由乃さんの言葉には勿論ずっしりとした重みがあった。
「理由……そうね。そうかも」
あと一つ。何でも良い理由があれば、きっと色々変わってくる。
姉妹に関する考え方も、それによって蔦子と笙子ちゃんの関係も。
姉妹になるかも知れない。
姉妹にはならないと決めるかも知れない。
今では、どちらになるかはわからないけれども。
蔦子は空から視線を落として下を見た。
斜陽が雲に遮られて届かない辺りは、もう随分薄暗い。冬の日の夕方だ。
「そんなに深く考えることでもないと思うけどなぁ」
由乃さんは努めて軽く言った。
「私は割と直感を信じるタイプだし、菜々を気にしてるのもそんなに大層な理由があるとは自分でも思ってないし。そもそも令ちゃん目当てなんて、普段の私なら門前払いの筈なんだけど」
そしてたはは、と笑う。
気にしてる。好きだ、とは言わなかった辺りに微妙な心理が隠れている気がした。
蔦子は頷く。
「由乃さんはそれで良いと思うのよ。寧ろぐだぐだ考えれば考えるだけ墓穴掘るタイプでしょ」
「るっさいわね」
真っ向から肯定した言葉にぶぅ、と由乃さんが膨れる。
『えーっ! そんなのってないですよっ!』
そして、また。
そんな声が聞こえた。
「笙子ちゃんは」
気付けば、蔦子はその名前を口にしていた。
「家族みんなでクリスマスパーティーだって。本当は違う予定を考えてたらしいんだけど」
はあ、と吐いた息が窓を白く曇らせる。
そのぼやけた視界の先にふわふわ巻き毛が踊っているような気がした。
「蔦子さんと?」
有り得ないそんな幻視に囚われた数秒の間を繋ぐように、由乃さんが小さく問う。
蔦子は眼鏡の縁を弄びながらゆっくり、頷いた。
『えーっ! そんなのってないですよっ!』
『だって薔薇の館と蔦子さまってそんな、関係ないじゃないですか!』
『う、そ、そりゃ……そうですけど』
『でも何も……えー? 本当ですかー?』
『え? いえ、あの。世間一般的にクリスマスとはいえ、別に恋人がいる訳でもない私としては暇になりそうなので』
『なので、どこか。遊びに行けたらなーって』
『ええ、そうですよ! 蔦子さまと! でももう良いです! も・う・良・い・で・す!』
その時の笙子ちゃんの台詞は概ねそんなものだった。
割と冗談風味に「何、私と?」なんて聞いてしまったことが結果的に逆鱗に触れたのか。
それから本格的に拗ねた笙子ちゃんを宥めるのは割と時間が掛かったが、そこは態々由乃さんに告げるまでもない。
思い出して再び顔がにやけてくるのを誤魔化すように、蔦子はシリアスに目を伏せた。
「好かれてるのね」
少しだけ。
ほんの少しだけ棘が交じったような言葉が、そんな蔦子に飛んできた。
理由は推して知るべし、か。
今も由乃さん無くして完全に場へ溶け込んだ菜々嬢のことがある。
蔦子は肯定も否定もしなかった。
「好かれているうちが華だ、とまでは言わないけど。笙子ちゃんの気が変わる前にロザリオの鎖で捕まえておくのも手だと思うわよ」
ロザリオの鎖で捕まえる。
言い得て妙だと思ったが、少し殺伐としすぎてはいないだろうか。
少し笑って否定しようとした蔦子の顔を、由乃さんは大真面目に覗き込んでいた。
続ける。
「形になった感情だって、状況によっては揺らいでしまうものよ。蔦子さんだってそのことは知っているでしょう?」
それは。
幾つかの事象が蔦子の脳裏を過ぎった、でも由乃さんが具体的にそのどれを指したのかは判らなかった。
でも、判らなくても言いことだとも思った。
「形にならないものはもっと不安定。見失った時に後悔しても遅いわ」
ほと、好いた惚れたに関する由乃さんの言葉は重い。
三秒ほど、その言葉をじっくり噛み締めた蔦子はふぅっ、と息を吐き出し「そう、ね」と頷いた。
見失うかも知れないものを見つけていない今ではその言葉の真意を知ることは出来ないだろう。
でも、きっといつかは知る時が来る。
部外者としてや報道関係者としてではなく、当事者としてだ。
色々ドラマチックな出来事が起こるかも知れない。
色んな人に助けられたり、色んな人に迷惑を掛けたりするかも知れない。
そしてその結果蔦子達はどうなるのか――
は、兎も角として。
「さぁて、そろそろ再開しましょうかね!」
とうに空になっていたカップを指で弾いて、蔦子はくるりと振り返る。
途端にワイワイガヤガヤ、分断されていた蔦子達の空間にも再び喧騒が流れ込んできた。
現在の並びはふむふむ、紅薔薇姉妹グループに志摩子さん、瞳子ちゃん、菜々ちゃんのグループ。それに令さま乃梨子ちゃんのグループ。
フリー時間も随分経って、レアな組み合わせも出来やすくなっているようだ。逃す手はない。
キラリと眼鏡を光らせる蔦子の背中に、由乃さんは苦笑交じりに告げた。
「色気がないわねぇ」
「ないわね」
ちょっと前に交わしたやり取りをお互いに笑いながらなぞる。
由乃さんも「やれやれ」と言わんばかりにぞんざいに壁から背を離した。
”いつか”はいつか来る。
でもそれは少なくとも今じゃない。
妹に関して問題山積の二人は、そんな言い訳地味た言葉を胸に再びパーティーへと戻る。
非常にネガティブだが。
そんな二人はまぁ、何だかイイ関係だ。