【1621】 またみんなで一緒に木漏れ日のなか  (臣潟 2006-06-19 00:49:15)


 梅雨が明けた。

 先日まで灰色の雲が大きな顔をしていた空は、今ではすっかり太陽と青空の独壇場だった。
 からりと乾いた風が髪を梳く。
「湿度20% 、降水確率0% と言ったところかしら」
 ごろりと横になってつぶやくは島津由乃。
 髪が乱れるのも気にせず、マリア様の庭で寝転ぶ。
「朝の天気予報?」
「ううん、何となく思っただけ。今日の空なら、天気予報なんて見るまでもないもの」
 言葉を交わし、空を見上げるは藤堂志摩子。
 腰をおろし、太い木の幹に背をあずける。
「――そうね」
 木漏れ日に目を細める。
 ざあ、と揺れる葉たちの合間を縫って届く陽の光が、制服の上をゆらゆらと踊った。



 お昼寝をしよう、と言い出したのは由乃で、返事をする間も無く引っ張ってこられたのが志摩子だった。



「晴れの日はそんなに好きじゃなかったの」
 独り言のように、あるいは独り言そのものだったか、由乃が声を宙に放った。
 返事を待っている様子ではなかったが、どうして、と志摩子は尋ねた。
「空を知らなかったから」
「空を?」
「そう」
 遠くから低く響く音が耳に届いた。
 高い、高いところを、飛行機がゆったりと行く。
 轟音にあらゆる音が塗りつぶされ、自然二人の会話は途切れた。
 きっととても速いスピードで飛んでいるのだろうが、これだけの距離があると、まるで模型飛行機が風に乗っているようだった。
 やがて米粒のように小さくなり、ごおという音と共に遠い旅路へ去っていった。
「遠いな」
 また、由乃が呟く。
 志摩子は今度は声に出さずに視線だけを向けたが、こちらを見ているのかいないのか、遠く空の向こうに目をやったまま声を続けた。
「空って、窓から見るものだと思ってた」
「それって――」
「うん。からだ、弱かったから」
 志摩子の方を見て、もう大丈夫だけどと笑う。
 だが目をやれば、やはりその肢体は細く、白く、小さかった。
「前にね、祐巳さんと話したことがあったの」
 そう言って由乃は目を閉じた。



「ずっと出口のない部屋の中に住んでたとき、窓から空が見えたら、外に出たいと思う?」
 そう問うたのは学園祭の準備期間だったろうか。
 まださほど親交が深くなかった祐巳に話しかけた理由は、そのときは思い至らなかった。
「出口のない部屋?」
「うん。扉に鍵がかかってて出れない、って言った方がいいかな」
 よくわからない例えだと、自分でも思った。
 そうでなくても、突然こんな話をされては困るだろう。
 だが、祐巳は首を少し傾げて考え込んだ。
「うーん……そりゃ、出たいと思うんじゃないかな」
「でも、外を知らなかったら、わざわざ出ようと思わないんじゃない?」
「そうかな。窓から空が見えたら、きっと出たくなると思うよ」
 こんなに綺麗なんだもん、と気持ち良さそうに空を見上げた。
 高い秋の空を、名前の知らない鳥が数羽、横切っていった。
「……でも出れないのよ?」
 自分がどんな答えを望んでいるかも分からず、そう口にした。
 どうしようもないのだと、言って欲しかったのか。ただ外を眺めるだけで満足しろと、言って欲しかったのか。
 だが、そんな由乃の心の内など知る由もなく、祐巳はただ笑って答えた。

「そんなの。窓から出ればいいじゃない」



「祐巳さんは空なの」
 私にとっては、と言葉を続けた。
「きっとそこはとても楽しいんだろうと思っても、窓越しに見てるだけだった。そこからは出れないと思ってた」



 出れないなんて嘘だ。
 すぐそこから出れるのに、出ちゃいけないなんて誤魔化して恐怖を押し殺してただけだった。
 でも、もう迷いはない。
 恐怖は消えないけど、それに立ち向かう勇気は持った。
 2階だろうと3階だろうとかまうものか。
 あの空の下へ――



「でも結局、空は遠くて届かないのかな」
 ぽつりとこぼした言葉は、少し寂しげだった。
 だからだろうか。少し間をおいて志摩子の口から出た声は、相手を元気付けるかのように、少しだけ明るかった。
「由乃さん、空ってどこから始まるのか、知ってる?」
 ううん、と首を左右に振る。
「色々な考え方があるみたいだけど、地面より少しでも上なら、空って呼ぶこともあるそうよ」
「へえ、じゃあ、もうここは空なんだ」
 両手を高く伸ばし、手のひらを上に向ける。
 木の葉からこぼれた光が、さらに指の間からこぼれ落ちてくる。
「私たちは、いつも空と一緒にいるのかもしれないわね」
 そう言って志摩子は微笑んだ。
「そうね。うん、きっとそう」
 由乃もつられて笑う。



「あれ、志摩子さん?由乃さんも」
 校舎の陰から声がしたかと思うと、見慣れたツインテールが二人の目に入った。
 ととと、と小走りで近づいてくる。
「こんなところで。お昼寝?」
「そんなところかな。あと、空について」
「そら?」
 首を傾げてから、ぐるりと回して天を仰ぐ。
「空がどうかしたの?」
 再び由乃たちの方へ視線を戻し、祐巳が尋ねた。
「私たち、空の中にいるらしいわよ」
「へ?」
 目を丸くし、きょとんとする。
 そんな様子を見て小さく笑いながら、志摩子が言葉を付け足した。
「地面より上の空間を、そら、と呼ぶことがあるの」
 それを聞いて、へえ、と驚きながらも楽しげに、表情がころころと変わる。

「あ、それじゃあ」
 と言うや否や、えい、と掛け声とともにその場でジャンプをした。
 それほど高く跳ねたわけでもなく、スカートを揺らして地面に降り立つ。
 どうしたの、と尋ねる二人に、祐巳はとても嬉しそうに微笑んで言った。
「うん、空を飛んでみたの」



 しばらく三人で笑った。
 三人で空を飛んでみたりもした。
 そうだ、今度令ちゃんにも教えてあげよう。
 ううん、乃梨子ちゃんや祥子さま、みんなに教えてあげよう。

 そして、またみんなで一緒に木漏れ日のなか、空を飛ぼう。


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